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佐藤栄作とは?

日本政治家
佐藤 栄作
さとう えいさく

内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真

【生年月日】
1901年3月27日
【出生地】
日本 山口県熊毛郡田布施町
【没年月日】
(1975-06-03) 1975年6月3日(74歳没)
【死没地】
日本 東京都港区
【出身校】
東京帝国大学法学部
【前職】
運輸省官僚
【所属政党】
(民主自由党→)
(自由党→)
(無所属→)
自由民主党
【称号】
従一位
大勲位菊花章頸飾
法学士(東京帝国大学・1924年)
【配偶者】
佐藤寛子
【親族】
佐藤信寛(曾祖父)
佐藤信彦(祖父)
佐藤市郎(長兄)
岸信介(次兄)
佐藤信二(次男)
松岡洋右(義伯父)
安倍晋太郎(義甥)
安倍晋三(大甥)
岸信夫(大甥)
【サイン】

第61-63代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次佐藤内閣
第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
第1次佐藤第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
第2次佐藤第1次改造内閣
第2次佐藤第2次改造内閣
第3次佐藤内閣
第3次佐藤改造内閣
【在任期間】
1964年11月9日 - 1972年7月7日
【天皇】
昭和天皇
第21-22代 北海道開発庁長官
第12-13代 科学技術庁長官

【内閣】
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
【在任期間】
1963年7月18日 - 1964年6月29日
第22代 通商産業大臣

【内閣】
第2次池田第1次改造内閣
【在任期間】
1961年7月18日 - 1962年7月18日
第64代 大蔵大臣

【内閣】
第2次岸内閣
第2次岸改造内閣
【在任期間】
1958年6月12日 - 1960年7月19日
第7代 建設大臣
第4代 北海道開発庁長官(兼任)

【内閣】
第4次吉田内閣
【在任期間】
1952年10月30日 - 1953年2月10日
その他の職歴

第3代 郵政大臣
(1951年7月4日 - 1952年10月30日)
第3代 電気通信大臣
(1951年7月4日 - 1952年8月1日)
第4代 内閣官房長官
(1948年10月17日 - 1949年2月16日)
衆議院議員
(1949年1月23日 - 1975年6月3日)
ノーベル賞受賞者
受賞年:1974年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:非核三原則の提唱

佐藤 栄作(佐藤 榮作、さとう えいさく、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本鉄道官僚政治家。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。7年8か月の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された。1974年ノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。吉田学校の代表格。 旧制山口中学校旧制第五高等学校東京帝国大学出身。運輸次官内閣官房長官(第4代)を経て政界に転身。造船疑獄で危機に陥るも、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第42122代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第22代)、科学技術庁長官(第1213代)、内閣総理大臣(第616263代)などを歴任した。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 学生時代
    • 2.3 高等文官試験
    • 2.4 就職
    • 2.5 官僚時代
    • 2.6 政歴
    • 2.7 内閣総理大臣
      • 2.7.1 在任中の主たる施策
      • 2.7.2 長期政権とその背景
      • 2.7.3 退陣
    • 2.8 退陣表明記者会見
    • 2.9 総理退任後
  • 3 人物・逸話
    • 3.1 政界の團十郎
    • 3.2 性格
    • 3.3 兄・岸信介との比較
    • 3.4 対人関係
    • 3.5 マスコミとの関係
    • 3.6 栄ちゃんと呼ばれたい
    • 3.7 語録
    • 3.8 その他の逸話
  • 4 ノーベル平和賞をめぐって
  • 5 略年譜
  • 6 栄典
  • 7 家族・親族
    • 7.1 家系
    • 7.2 人物
      • 7.2.1 実家(佐藤家分家)
      • 7.2.2 養家・自家(佐藤家本家)
      • 7.2.3 親族
    • 7.3 系図
  • 8 展示施設
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。

鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。

その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。

一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月、昭和時代においては最長の長期政権である。20世紀生まれ初の総理であり、自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣・岸信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階従一位勲等大勲位

生涯

生い立ち

現在の山口県熊毛郡田布施町酒造業を営む佐藤秀助・茂世(もよ)夫妻の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年頃、勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は一時他家に貸していたが、母・茂世が分家するに当たって酒造の権利を取り戻して茂世に与えられたものだった。秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。

地元の人たちは佐藤家の市郎信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している。

学生時代

1907年小学校に入学した。小学校の頃のあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶し、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。

高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた。池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという。

東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは親戚でもある松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格したし池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である。

1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。

高等文官試験

1923年12月、高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。

1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。

就職

兄の岸からは同じ農商務省への入省を勧められたが、特に役人を志望していたわけではなく、当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。そこで浅野セメント(現・太平洋セメント)への就職が決まりかかっていたが、高文にも合格していたため、鉄道省にも願書を出した。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された。

後に佐藤は二転三転した就職の経緯について、「人間の運命は奇妙なもので、あの時日本郵船に入っていたら、海運不況で苦しい思いもしたろうし、戦争中には郵船の船は全部沈められたので、海の藻屑と消えたかもしれない。同じ輸送の商売でも鉄道に入ったので、仕事も順調だったし、戦争にも行かなかった。セメント会社に入ったら、大金持ちになっていたろうか」と述懐している。

官僚時代

1924年5月、鉄道省に入省。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。

1926年、佐藤家本家当主の叔父・佐藤松介の遺児で、かねてからの許嫁であった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。

1934年から2年間、在外研究員として海外留学。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は「欧米における運輸について」。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地の他、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察している。

1940年、鉄道省監督局総務課長、翌年、監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法・運用に腐心。当時、早川徳次五島慶太により東京地下鉄道(現.東京地下鉄)経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年に同法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)を成立させ、これを調停した。このとき、栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」との主張からこれを主導した。

1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍高官と対立したためとする説がある。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら、鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。

1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(のちの大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した。

左遷されていたことが幸いして、岸が遭った公職追放からは免れることができた。

1947年運輸次官に就任、同年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、西尾末広内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。

政歴

佐藤栄作(1961年)

遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、1948年第2次吉田内閣で非議員ながら内閣官房長官として入閣。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。翌1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣犬養健検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。

保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った。鳩山一郎引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、政務調査会長・三木武夫と共に岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった。

大蔵大臣を務めていたときには共産主義と戦うため、日本共産党日本労働組合総評議会高野実派、日本教職員組合などに対抗し、実業界、財界トップからなる非政府グループを設立するなどしたが、資金面で非常に難しいとダグラス・マッカーサー2世大使と協議を交し、東京グランドホテルでS.S. カーペンター大使館一等書記官にアメリカからの財政援助を願い出、資金工作の受取人としては当時自民党幹事長だった川島正次郎を挙げた。

内閣総理大臣

1964年7月、佐藤は池田勇人の3選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月9日、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した。

総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている。

在任中の主たる施策

首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日体育の日建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。

また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。

その一方で、1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。

就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。

なお、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年に暴露された(日米核持ち込み問題)。その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年12月に報道された。

長期政権とその背景

アメリカのニクソン大統領と(1972年)

政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。

この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となり(いざなぎ景気)、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大した。

さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田は間もなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した。特に世論から期待の声が高かった実力者・河野の死は極めて大きかった。

このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫大平正芳中曽根康弘鈴木善幸宮澤喜一竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力が高く「早耳の佐藤」と呼ばれた。

また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といった、その後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直らに強行採決を自ら指示することもあり、日韓基本条約大学措置法沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭するなど、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。

こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。

石原慎太郎は戦後最強の内閣に佐藤内閣を挙げている。「忘れてならないのは、敗戦で喪った小笠原沖縄という領土を返還させた功績は歴代内閣で比類がない。強いからこそ長くやれるということもあるけど、あの人は物凄い二枚舌だったね、核の問題に関して。「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を言うから、僕は参議院であの人に楯突いたことがあるの。ところが彼はその裏で、実は若泉敬を使って、アメリカと核持ち込みの密約をむすんでいた。しかもそのとき、片一方でドイツと組んで核保有の議論をやろうとしていたんだ。凄いよ。さんも立派だったけれど、佐藤さんは寡黙なだけに凄味があったね。佐藤栄作は、見事な二枚舌を使って国家の大計を考えたんだ。日本人が核アレルギーというセンチメントで右往左往としているあの時代にね。」と述べている。

退陣

1970年の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつけること」を大義名分に、三木武夫を破り自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。

また外交では、ベトナム戦争における北爆を支持したため、左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。国際連合では中華人民共和国の加盟と国連安保理常任理事国入りは賛成しつつ、中華民国(台湾)の議席追放には反対する「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」を米国とともに共同提案して外務大臣・福田赳夫とともにアルバニア決議に反対したことから、野党や台湾との断交も厭わない自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には福田赳夫の不信任決議案に、河野洋平田川誠一等親中派若手議員の一部が欠席している。しかし、アルバニア決議が可決されたことで、1972年1月の施政方針演説では「中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として、中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。密使を香港に派遣して周恩来に親書をおくり、北京訪問の希望も伝えていた。なお、アルバニア決議が採択された際に「佐藤派の大番頭」と称された保利茂自由民主党幹事長は訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも周恩来は決議に反対していた佐藤政権への不信感から斥けていた。

また、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、また通産相として、長年の懸案であった日米繊維交渉を強引にまとめ上げる(1971年10月)などして急速に台頭、総裁公選も田中が宿敵の福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として、7年8ヶ月に亘る長期政権を終えた。

退陣表明記者会見

1972年6月17日の退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね?テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。

内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、これに岸井成格が新聞記者達に呼びかけ、「じゃあ出ましょうか!出よう出よう!」と記者全員が退席。がらんとした会見場で、佐藤はひとりテレビカメラに向かって演説した。

なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が

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出典:wikipedia
2019/04/13 14:16

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