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元号とは?

1989年1月7日総理大臣官邸にて新元号「平成」を発表する内閣官房長官小渕恵三元号法に基づき史上初めて内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。
2019年4月1日、総理大臣官邸で新元号「令和」を発表する内閣官房長官菅義偉。憲政史上初めて元号が皇位継承(元号法による改元の要件)の前に公表された。また、元号の発表が史上初めてインターネット配信された。

元号(げんごう)は、中華帝国(中国)で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的にを単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。

現在は、日本のみで制定、使用されている。日本における元号の使用は、宝女王(皇極天皇)治世第4年(西暦645年)に難波宮で行われた大化の改新時に始まり、以降、「日本」という国号の使用も始まったとされる。この他、日本やベトナム(越南)では年号(ねんごう)の称号で呼ばれることが多かった。公称としては、日本では江戸時代(慶応)までは「年号」が多く使われ、明治以降は一世一元の制が定着し元号法制定以後、「元号」が法的用語となった。ベトナムでも保大20年(1945年)の八月革命まで一貫して「年号」が使用され、「元号」という称号は一般的ではなかった。

総説

紀年法のうち、西暦イスラム紀元皇紀(神武紀元)などが無限のシステム(紀元)であるのに対して、元号は有限のシステムである。皇帝など君主即位、また治世の途中にも行われる改元によって元年から再度数え直され(リセット)、名称も改められる。元号の「元年」は「1年目」に当たる。英訳すると、元号は「regnal era name」などとなる。「○○1年」または「○○年」と表記・呼称される例が多く散見されるが、これは誤りであり、正式には「○○年」と表記・呼称する。日本では一度使用された元号は二度と使用しない慣例があるが、中国などの他の元号文化圏ではそのような慣例は重視されておらず、嘗て使用した元号を再使用する例が多くみられる。

元号は、古代中国武帝の時代に始まった制度で、皇帝時空統治権を象徴する称号である。『春秋公羊伝』隠元年では「元年者何。君之始年也」とあり、これは皇帝権力の集中統一を重視する「大一統」思想の国制化であった。時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。

元号は漢字2字で表される場合が多く、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字は現在の令和の時点でわずか73字であり、そのうち21字は10回以上用いられている。一番多く使われた文字は「永」で29回、2番目は「天」「元」のそれぞれ27回、4番目は「治」で21回、5番目は「応」「和」で20回である。なお、近代以降の元号のうち令和の「令」や平成の「成」、昭和の「昭」はそれぞれ初めて採用されたものである。また、平成の「平」は12回、大正の「大」は6回「正」は19回、明治の「明」は7回使われている。

独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然高昌南詔大理渤海がある。また西遼西夏中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。

アジアにおける歴史

で発行された大明通行宝鈔と呼ばれる紙幣。左下に洪武の元号が書かれている。

中国で元号制度が始まるのは武帝の時代のことである。漢の武帝の治世第36年ー元鼎2年(紀元前115年)頃、治世第一年(紀元前140年)に遡及して「建元」という元号が創始されて以降、まで用いられた。

前近代の朝鮮と雲南

中国の元号は、中華帝国の冊封を受けた朝鮮(新羅、高麗、朝鮮)、雲南(南詔大理)でもそのまま使われた。ただし、これらの諸国は時代により独自の元号を使用・併用することもあった。また、特に朝鮮においては、紀年において中国の元号+年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号+干支を組み合わせて使うことがよくあった。

前近代の満州とベトナム(越南)

8世紀初頭以降の満州(大氏渤海国・大武芸の仁安元年以降、遼、金、後金を経て、愛新覚羅氏大清帝国・溥儀の宣統2年まで)、日本(文武天皇の治世第5年=大宝元年以降、現在まで)と、10世紀末以降のベトナム(丁氏大瞿越国太平元年以降、阮氏大南帝国保大20年まで)は、中華帝国の冊封を受けた時期もあったが、常に独自の元号を使用し、中国と対等の立場を表した。満州から出た清は中国本土(明)及び台湾(鄭氏東寧)を倒して中華帝国を統治し、満州の元号が中国本土及び台湾でも用いられた。ベトナムにおいても、朝鮮と同様に、紀年において中国の元号+年数の代わりに自国の王や皇帝の廟号+干支を組み合わせて使うことがよくあった。

前近代の琉球

伝承上の琉球国王の系譜は舜天氏(清和源氏の系統)と尚氏(天孫氏オモイカネの系統、日本本土では阿智祝氏がオモイカネの系統である)から成る。琉球は12世紀に日本本土から来た皇別氏族である清和源氏の舜天尊敦(源義家の四世孫である源為朝の子と伝えられる)によって建国された。この伝承によれば鎌倉幕府の源氏と琉球王国の舜天氏は一家である。その後、数代を経て舜天氏はオモイカネ系統の尚氏(英祖)と交替した。尚氏琉球は元を倒した明に朝貢し、尚氏が大明皇帝によって琉球国王と認められる冊封体制に属した。17世紀の島津氏による尚氏琉球の保護国化以降も、尚氏琉球は国内外で中国の元号(明及び清の年号)+年数を使っていたが、琉球通信使などのような島津氏(同じく源義家の四世孫である源頼朝の庶出を自称するが、日向国島津荘にあった藤原北家=近衛家領地の荘官を兼ねており、領家であった藤原氏を本姓とする)や徳川氏(同じく源義家の四世孫である得川頼有/徳河頼有の子孫を自称)とのやりとりの際には日本の元号+年数を使った。

中国

漢の武帝以前は王や皇帝の即位の年数による即位紀元の方式が用いられていた。当時の紀年法では新しい天子が即位した翌年を始めの年とする認識がとられていることが多い。例えば『資治通鑑』によれば威烈王23年の翌年が安王元年、高祖12年の翌年が高后元年となっている。また『史記』の孝武本紀では孝景の崩じた翌年を元年としている。このように王暦において即位の翌年から次の天子の元号を始めることを「踰年称元」といい、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。ただし『史記』でも孝文本紀と孝景本紀とでは記載に混乱がみられ、史書によっても混乱がみられる部分がある。そのため史書の編纂の過程で『資治通鑑』のような体裁に整えられていったとする説がある。

元号制度が始まったのは漢の武帝の時代からだが、の太祖洪武帝(朱元璋)により一世一元の制がとられるまで、ひとりの皇帝の治世中にしばしば改元された。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。

中国では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)。伊藤東涯は『制度通』において「先君崩薨の後、明年を元年と云、踰年改元すと云、是なり。」としている。ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった。

の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。

1911年辛亥革命によって満州族(愛新覚羅氏)のが倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年袁世凱帝制(中華帝国)を敷いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部(遜清皇室小朝廷)では「宣統」の元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。

満州国1932年に建国されると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の満州国の滅亡で再び元号は廃止された。

中華人民共和国が大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用される。しかし、これはキログラムが「公斤」と、キロメートルが「公里」と表記されるのと同じで、元号としてではなく、中国語表記である。

現代の台湾

中華民国(台湾)では、正月(元旦節)は農暦正月(旧正月)を祝う一方、公元(西暦)と同期した「中華民国紀元」が、辛亥革命(1911年)の翌年(1912年)以降、台湾光復(1945年10月25日)、台北遷都(1949年12月7日)を経て現在に至るまで公式に用いられている。西暦1912年1月1日=黄帝紀元4609年旧暦11月13日=大清帝国宣統2年旧暦11月13日=中華民国元年1月1日(=日本大正元年1月1日)。民国紀元は、厳密には国号であって、紀元でも元号でもないが、元号のように絶対的に使用されている。台湾独立時代の元号として、鄭氏東寧国の永暦(もと南明の元号、1662年-1683年)、台湾民主国の永清(1895年)があるが、鄭氏東寧国や台湾民主国の建設、中華民国の台北遷都にちなむ台湾紀元のような紀年法は無い。また、1949年以降の中国(中華人民共和国)では一般の公文書には「公元」(西暦)を使用し、元号やそれに準じた民国紀元のような紀年法は無く、西暦の使用が憚られる宗教建築の棟札などには干支と農暦(旧暦)による紀年が用いられる。西暦2020年は中華民国109年である。

現代の朝鮮

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、正月(元旦節)は陰暦正月(旧正月)を祝う一方、陽暦(西暦)と同期した「主体紀元」が、金正日の統治第三年(1997年)以降、現在に至るまで公式に用いられている。1997年=主体86年であり、元年~85年までは観念上の存在であって遡及的に使用され、金正日の父・金日成が生まれた1912年(民国元年、大正元年)を観念上の元年とする。主体紀元は、厳密にはイデオロギー口号(こうごう、スローガン)であって、紀元でも元号でもないが、元号のように絶対的に使用されている。日本では1872年=明治5年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1873年=明治6年以降、元号が西暦と同期するようになったが、李氏朝鮮国(1897年以降は李氏大韓帝国)においても1895年=開国504年末の改暦で旧暦が廃止され、翌1896年=高宗建陽元年以降、李氏大韓帝国が消滅した1910年=純宗隆熙4年まで西暦と同期した元号が用いられた。1912年=【観念上の朝鮮開国521年】=【観念上の朝鮮純宗隆熙6年】=朝鮮主体元年=中華民国元年(=日本大正元年)。このほか、李氏朝鮮国で1870年~1896年まで用いられた開国紀元(旧暦と同期、1392年を元年とする)や、大韓民国(韓国)の大韓民国紀元(西暦と同期、三一独立運動の年、大韓民国臨時政府(上海)成立の年、1919年を元年とする)、檀君紀元(もと旧暦と同期していたが1948年以降は西暦と同期する、開天紀元ともいう、『三国遺事』に記録された檀君神話に基づき、檀君即位の年である、中国の五帝・帝堯の治世第50年=紀元前2333年「旧暦10月3日」を元年=即位年即位日とし、今は西暦10月3日を開天節として祝う)などの紀年法がある。1961年以降の韓国では一般の公文書には「陽暦」(西暦)を使用し、檀君紀元は使用されず、元号やそれに準じた主体紀元のような紀年法も無い。西暦2020年は朝鮮主体109年(=中華民国109年)である。

現代のベトナム

ベトナム社会主義共和国(共和社会主義越南)の指導政党であるベトナム共産党の設立記念日は1930年2月3日(保大5年旧暦1月5日)であり、必ず西暦で祝われ、旧暦1月5日に祝われることはない。一方、ベトナムもまた正月(元旦節)は台湾や朝鮮と同様に陰暦正月(旧正月)を祝う。また、元旦節や清明節、春分節などの伝統節日の紀年においては、公元(西暦)ではなく旧暦と同期した「共和社会主義越南紀元」が、サイゴン解放・南ベトナム革命(1975年)の翌年(1976年)以降、現在に至るまで非公式に用いられている。1976年=共和社会主義越南三十二年であり、元年~三十一年までは観念上の存在であって遡及的に使用される。共和社会主義越南紀元は、厳密には国号とイデオロギー口号(こうごう、スローガン)を合わせたものであって、紀元でも元号でもないが、ローマ字やキリスト紀元(西暦)の使用が憚られる宗教建築ー村落集会所(亭)や寺、廟、族祠の棟札などには、原則として漢字(及び喃字、チューノム)と漢数字で、阮氏大南帝国時代の元号(年号)のように使用されている。実際にはローマ字や算用数字で書く場合もあり、共和社会主義越南紀元の代わりに干支と陰暦(旧暦)による紀年が用いられる場合もあって、その使用は必ずしも絶対ではない。旧南ベトナムの亭、寺、廟、族祠などでは1955年を元年とする越南共和紀元が1955年から1975年まで使用されていた。共和社会主義越南紀元の観念上の元年は、1976年以前に旧北ベトナムの亭、寺、廟、族祠などで非公式に使用されていた越南民主共和紀元と同じ、八月革命の年、1945年である。1945年=阮氏大南帝国保大20年=越南民主共和元年=【観念上の共和社会主義越南元年】(=日本昭和20年)である。

このほかに、同じく旧暦と同期した雄王紀元(フンヴオン紀元)がある。鴻厖紀元(ホンバン紀元)ともいう。雄王紀元は、『大越史記』及び『大越史記全書』に記録された神話(雄王祖=帝明説)に基づき、初代フンヴオン(雄王=涇陽王)鴻厖氏即位の年である、中国の三皇・炎帝神農氏の第三世孫(帝明)の没年=紀元前2879年を元年とする。このため、ベトナム人の間では「ベトナム五千年の歴史」という言い回しが存在する。ベトナムでは「ベトナム(鴻厖氏文郎国)建国の年・建国の日は、初代フンヴオンの父・王祖帝明の没年であり命日・忌日(ゾー Giỗ)である」という「没年称元」の観点から、建国記念日「旧暦3月10日」を雄王祖忌(ゾートーフンヴオン、Giỗ Tổ Hùng Vương)という。雄王紀元は雄王祖忌を祝う上での観念上の紀元であり、雄王祖忌以外の場で使用されることは稀である。

1887年のフランスによる阮氏大南帝国の保護国化以降、ベトナムの一般の公文書は「西紀」(西暦と同期する)と元号(年号、旧暦と同期する)が併記され、1945年以降の独立ベトナム諸政権は元号・旧暦を廃止して「公元」(西暦)だけを使用したため、旧暦3月10日に固定されたベトナムの建国記念日(雄王祖忌)は、旧正月(元旦節)とともに、ベトナムの国民の祝日のうち「移動祝日」(毎年西暦上の日付が移動する祝日)となっている。西暦2020年1月25日=【観念上の雄王紀元4900年旧暦正月元日】=共和社会主義越南七十六年旧暦正月元日(日本令和2年1月25日)である。

東北アジア、東南アジアの神話紀元と王室の華裔伝承

朝鮮・ベトナム王室の華裔伝承

旧暦と同期した中国の黄帝紀元、朝鮮(高麗)の檀君紀元、ベトナム(大越)の雄王紀元は、いずれも唐の司馬貞・補『史記』(732年頃完成、以下『補史記』と称する)の三皇本紀・五帝本紀に記載された中国神話(朝鮮の場合はプラスしてインド神話)に基づき、自らの王家の祖先を華裔(中華皇帝の血統)とする形で、13世紀までに創作された神話紀元である。『補史記』に基づいて古代の諸帝王の系譜を順に追うと、①第三代三皇=初代炎帝神農氏=帝石年、②帝臨魁(石年の子)、③帝承(帝臨魁の子)、④帝明(帝承の子、帝石年の三世孫)と続き、帝明の庶子がベトナムの初代フンヴオン(雄王=涇陽王)となる。その後、⑤帝直(帝宜ともいう。帝明の子、初代フンヴオンの異母兄)、⑥帝嫠(帝直の子)、⑦帝哀(帝嫠の子)、⑧帝楡罔(帝哀の三世孫)と続き、帝楡罔を倒して三皇時代を終焉させ、新たな五帝時代を開始し、また干支を創ったのが、❶初代五帝=黄帝である。三皇は、炎帝神農氏や、その庶子であるベトナムの初代フンヴオン涇陽王を含め、人間ではなく龍の体(蛇体)であり、黄帝に至ってようやく人間が世界の統治者になったと伝えられる。黄帝に続いて、❷帝顓頊(黄帝の二世孫)、❸帝嚳(帝顓頊の甥、黄帝の三世孫)、❹帝堯(帝嚳の子)と続き、帝堯の治世第50年に帝釈天(インドラ、桓因)の二世孫である檀君が朝鮮に降臨した(人間ではなく熊の体であったと伝えられる。『ラーマーヤナ』物語の猿王ヴァーリンは熊王であるともいわれ、檀君同様にインドラの子孫である)。その後、❺帝舜(帝堯の女婿)が帝堯から禅譲を受け、次いで1⃣初代夏王ー(夏禹、禹王)が帝舜から禅譲を受けて夏朝を創業した。以後、夏→殷→周(西周)へ至り、東周・春秋戦国時代以降は神話的記述が消えて、歴史時代に入る。

日本皇室の華裔伝承

明治5年(1872年)に制定された日本の神話紀元ー神武天皇即位紀元(皇紀)は、『日本書紀』(720年頃完成)の紀年(元嘉暦儀鳳暦による干支紀年)を西暦に換算し、西暦と同期しており、またその由来が『補史記』(732年頃)に記述された中国神話とは無関係である点で、中国の黄帝紀元、朝鮮の檀君紀元、ベトナムの雄王紀元と異なる。しかし、日本皇室に華裔伝承がなかったわけではなく、中国側では『史記』淮南衡山列伝に徐福伝説が記載され、三国志の『魏書』(魏志倭人伝)に「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身…」のように倭人と夏王朝の夏后少康の後裔との関係が暗示され、『晋書』『梁書』に「自云太伯之後」(倭人は周王朝の親戚で衡山に隠棲した呉太伯の後裔を自称する)と記載され、日本側でも倭服(和服)を呉服と称する伝統があった。日本の儒学者にとっての皇祖=呉太伯説は、日本の仏教者にとっての反本地垂迹説と同様に、日本の皇室こそ周室の後裔であり、世界の中心にして正統であり、日本儒教こそ正しい儒教であると主張できる根拠であったたため、林羅山などがこれを支持したが、林羅山・林鵞峰父子らの『本朝通鑑』(1670年頃)には皇祖=呉太伯説は記載されなかった。一方、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』(1633年頃)はもうひとつの異説を採用して、「日本の皇室は姫季歴の子孫」と記載した。鄭成功の幕僚で、南中国やベトナムを転戦したのち来日した儒学者(朱子学者)の朱舜水は、武人であると同時に当時の中国最高の儒学者であり、水戸黄門(徳川光圀)の保護を受けて水戸藩の儒学者らに学問を講じ水戸学に大きな影響を及ぼしたが、皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説を自著で述べていない。上記のように、朱舜水同様、林羅山もまた皇祖=呉太伯説を自著で述べていないにもかかわらず、18世紀以降の水戸藩において、「林羅山・鵞峰らの『本朝通鑑』が呉太伯説を採用し、これに怒った水戸黄門、佐々介三郎、安積覚兵衛らが、林家の妄説である呉太伯説を否定するため、『本朝通鑑』へのアンチテーゼとして『大日本史』執筆に取り組み、日本全国を探訪して史料蒐集をおこなった」という誤った伝承が存在し、『水戸黄門漫遊記』などの娯楽小説へとつながった。詳細は「『本朝通鑑』による呉太伯説との関係」を参照。

「万世一系」「孟舟即覆」

『書経』、『史記』が記述する中国神話によれば、周の武王(姫発、紀元前1070-1043年ごろ)の曾祖父、古公亶父(姫亶父)には長男(長兄)の姫太伯、次男(長弟)の姫虞仲、三男(次弟)の姫季歴がおり、呉の子爵家は姫太伯(呉太伯)の子孫、周の王家は姫季歴の子孫、周の武王は姫季歴の二世孫である。『日本教会史』の皇祖=姫季歴説はベトナムにおける雄王祖=帝明説と酷似し、中国と自国の帝王の兄弟関係を強調するものである。このほかに、松野氏系譜(松野連系図)にも松野氏=姫氏説(姫太伯の系統)がある。皇祖=呉太伯説、皇祖=姫季歴説はいずれも周室と皇室は同根として、皇室の万世一系の正統性を補強するものであった。そのため、日本における皇祖=呉太伯説の支持者たちにとって、①秦による周討伐(紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた)を正当化する理論を提供し、②周の武王による殷の紂王討伐を革命の例とした『孟子』の革命説は、周を滅ぼした理論、周を侮辱し皇祖に不敬をなす理論であって、絶対に受け入れがたいものであった。『孟子』は遣唐使によって早期に日本に持ち込まれていたにもかかわらず、鎌倉期の花園天皇などの天皇自身を除き、引用が憚られた。宋代の「国王一姓相伝六十四世」(新唐書日本伝)、明代の「有携孟子往者,舟即覆溺」(五雑俎、ただし原文は「有携其書往者,舟輒覆溺」)など日本の「万世一系」「孟舟即覆」を裏付ける記述は中国側にも存在した。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はいまだかつて存在しない。

日本の元号

日本における元号の一覧については、「元号一覧 (日本)」を参照

元号を用いた日本独自の紀年法は、西暦に対して和暦(あるいは邦暦や日本暦)と呼ばれることがある。

日本国内では今日においても西暦(グレゴリオ暦)と共に広く使用されている。

西暦2020年は「令和2年」。

元号名(読み) 初日年月日 現年数 現在位年月日数 天皇名
令和(れいわ) | 令和元年(2019年)5月1日 | 2年 | 1年5か月と21日 | 徳仁(今上天皇)
皇室典範特例法および元号法に基づく、明仁(上皇)の退位および徳仁(今上天皇)の即位(譲位による皇位継承)による改元

2019年(令和元年)5月1日に、前日(平成31年)4月30日天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行での第125代天皇明仁の退位(上皇となる)に伴い、皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。この皇位の継承に伴い元号法の規定により同年4月1日元号を改める政令が公布・5月1日に施行され、「令和」(日本における最初の元号大化」から数えて248番目の元号)に改元された。

元号制定の条件

『昭和大礼記録(第一冊)』によると、一木喜徳郎宮内大臣(現:宮内庁長官)は、漢学者宮内省(現:宮内庁)図書寮の編修官であった吉田増蔵に「左記の五項の範囲内に於て」元号選定にあたるように命じた。

なお歴史的には、「他国でかつて使われた元号等と同じものを用いてはならない」という条件はなかった。異朝でかつて使われた元号を意図して採用した例すらある。例えば、後醍醐天皇の定めた「建武」は、王莽を倒して漢朝を再興した光武帝の元号「建武」にあやかったものであった。また、徳川家康の命によって用いられた「元和」は、憲宗の年号を用いたものである。近代の「明治」も大理国で用いられた例があり、「大正」もかつてベトナムの莫朝で用いられた(ただし、読みは「たいせい」)。

元号選定手続について

1979年(昭和54年)10月、第1次大平内閣(大平正芳首相)は、「元号法に定める元号の選定」について、具体的な要領を定めた(昭和54年10月23日閣議報告)。

これによれば、元号は、「候補名の考案」、「候補名の整理」、「原案の選定」、「新元号の決定」の各段階を践んで決定される。まず、候補名の考案は内閣総理大臣が選んだ若干名の有識者に委嘱され、各考案者は2〜5の候補名を、その意味・典拠等の説明を付して提出する。総理府総務長官(後に内閣官房長官)は、提出された候補名について検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する。このとき、次の事項に留意するものと定められている。

  1. 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
  2. 漢字2字であること(3文字以上は不可。但し、749年から770年にかけては、漢字4文字の元号が使用されている)。
  3. 書きやすいこと。
  4. 読みやすいこと。
  5. これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと(過去の元号の再使用は不可)。
  6. 俗用されているものでないこと(人名・地名・商品名・企業名等は不可)。

整理された候補名について、総理府総務長官、内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長に連絡し、意見を聴取する。そして、新元号は、閣議において、改元の政令の決定という形で決められる。

元号の字数

日本の元号は伝統的に「二文字」であるが、元号に用いることのできる文字数は明確に制限されていない。この例外は聖武天皇光明皇后の時代から約四半世紀、天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲の5つ(四文字)のみである。

元号一覧 (日本)」を参照

元号使用の歴史

宗福寺にある源清麿の墓。左下に「安政」の元号が刻まれている。
1895年(明治28年)11月8日、
三国干渉の結果となった遼東半島還付条約。日本の「明治」との「光緒」、二ヶ国の年号が記されている。

一般に難波宮で行われた大化の改新(645年)時に「大化」が用いられたのが最初であり、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。なお、即位改元は南北朝以後から江戸時代前半期の数例(寛永など)を除いて確実に実施されている。

前史

日本書紀』の王暦は原則として王の即位の翌年を元年とする記述で整理されている。ただし『日本書紀』は後世に編纂されたもので各王の時にどのような紀年法だったかは別問題である。

『日本書紀』の王暦は前王の崩御と同じ年に即位したか翌年に即位したかにかかわらず原則として即位の翌年を元年とする記述で整理されている。例外的に孝徳天皇文武天皇の王暦は即位年が元年となっているが、いずれも譲位により即位した例で、諒闇即位の時は翌年を元年とし、譲位即位の時は同年を元年としている。『日本書紀』の王暦における即位翌年に改元する越年称元(踰年称元)は那珂通世によって指摘された。元号制度が確立されてからも即位翌年に改元する踰年改元の例は江戸時代までみられた。

飛鳥時代〜江戸時代

一般には「大化」が日本最初の元号とされている。

元号制度が安定的にみられるのは文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元してからで、以降、独自の元号制度が展開されている。飛鳥時代の「大宝」から江戸時代末期の「慶応」までは一代の天皇の間に複数回改元しうる制度であった。

平安時代末期、源頼朝は、寿永二年十月宣旨によって朝敵認定を赦免され東国支配権を認められるまで、養和ついで寿永への改元をいずれも認めず、それ以前の治承の年号を使い続けるなど、元号は強い政治性を帯びていた。

南北朝時代には、持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)が独自に元号を制定したため、1331年から1392年まで2つの元号が並存した(建武元年、同2年は、南北共通)。

室町時代には、朝廷が定めた新元号を、将軍吉書として総覧して花押を据える「吉書始」と呼ばれる儀式で改元を宣言して、武家の間で使用されるようになった。そのため元号選定には武家の影響力は強いものであった。特に足利3代将軍の義満以降、改元に幕府の影響が強まった。一方で京都室町幕府と対立した鎌倉府が改元を認めずに反抗するという事態も生じた。また応仁の乱などで朝廷と幕府が乱れると朝廷による改元と幕府の「吉書始」の間が開くようになり、新元号と旧元号が使用される混乱も見られた。

戦国時代末期、織田信長元亀4年7月、将軍足利義昭を京都から追放した直後に元亀から天正への改元を主導し、織田政権の開始を象徴する出来事となった。

江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事(中国の元号の中から良いものを選べ。ただし、今後習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである)」とされ、徳川幕府が元号決定に介入することになった。また、改元後の新元号を実際に施行する権限は江戸幕府が有しており、朝廷から連絡を受けた幕府が大名旗本を集めて改元の事実を告げた日(公達日)より施行されることになっていた。これは朝廷のある京都においても同様であり、朝廷が江戸の幕府に改元の正式な通知をして、幕府が江戸城で諸大名らに公達を行い、江戸から派遣された幕府の使者が京都町奉行に改元の公達を行い、町奉行が改元の

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出典:wikipedia
2020/10/24 18:58

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