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元寇とは?

元寇・弘安の役

弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』)
戦争:元寇
年月日:1281年6月16日-8月29日(弘安4年5月21日-閏7月7日:至元18年5月21日-8月7日)
場所: 日本九州北部
結果:日本勝利
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の壊滅
交戦勢力
鎌倉幕府
主に九州の地頭・御家人 |  モンゴル帝国(元朝)

高麗


指導者・指揮官

執権 北条時宗

総司令官
鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政
諸将
鎮西西方奉行 少弐経資
鎮西東方奉行 大友頼泰
西方奉行一門 少弐資能
西方奉行一門 少弐景資
西方奉行一門 少弐資時
関東御使・軍奉行 合田遠俊
肥後守護 安達盛宗
薩摩守護 島津久経
筑後御家人 香西度景
豊後御家人 都甲惟親
豊後御家人 都甲惟遠
肥後御家人 竹崎季長
肥後御家人 菊池武房
肥前御家人 福田兼重
肥前御家人 福田兼光
肥前御家人 山代栄
肥前御家人 龍造寺家清
肥前御家人 龍造寺季時
肥前御家人 藤原資門
筑後御家人 西牟田永家
薩摩御家人 島津長久
薩摩御家人 比志島時範
鎌倉幕府関東御家人 舩原三郎
伊予御家人 河野通有
六波羅派遣軍
六波羅大将 宇都宮貞綱(到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加)

 | 
皇帝 クビライ(忽必烈)

総司令官
日本行省左丞相 アラカン(阿剌罕) → アタカイ(阿塔海)
東路軍
東征都元帥 ヒンドゥ(忻都)
東征都元帥 洪茶丘
征日本都元帥 金方慶
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木児)
管高麗国征日本軍万戸 朴球
管高麗国征日本軍万戸 金周鼎
管軍万戸 イェスダル(也速䚟児)
管軍万戸 王某
管軍千戸 ダイタシェ(大塔失)
管軍千戸 李行里(朝鮮王朝の追号王・翼祖)
管軍上百戸 張成
郎将 康彦
郎将 康師子
江南軍
日本行省右丞 范文虎
日本行省左丞 李庭
都元帥 ナンギャダイ(嚢加歹)
都元帥 ハラダ(哈剌䚟)
都元帥 張禧
管軍万戸 カラダイ(葛剌歹)
管軍万戸 厲徳彪
管軍副万戸 ケイダラクダイ(邢答剌忽台)
寿春副万戸 呉安民
管軍総管 楚鼎
招討使 王国佐
水手総管 陸文政
池州総把 マハマド(馬馬)
所属不詳
招討使 クドゥハス(忽都哈思)


戦力

兵力不明

江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある。
六波羅派遣軍 60,000余騎
到着以前に元軍壊滅のため戦闘未参加

 | 
総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫

東路軍 40,000〜56,989人

江南軍 100,000人

軍船 4,400艘

東路軍軍船 900艘
江南軍軍船 3,500艘


損害

不明

指揮官
鎮西西方奉行一門 少弐資能戦傷死
鎮西西方奉行一門 少弐資時戦死
肥前御家人 龍造寺季時戦死

 | 
不帰還者
84,000〜141,290人

高麗兵・東路軍水夫不帰還者7,592人/生還者19,397人

捕虜
20,000〜30,000人

指揮官

招討使 クドゥハス(忽都哈思)戦死
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木兒)溺死
郎将 康彦戦死
郎将 康師子戦死



元寇(げんこう)とは、日本鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジア北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。

特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった。

主に九州北部が戦場となった。

名称

日本側の呼称

モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍による2度の日本侵攻について、鎌倉室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来異賊襲来蒙古合戦異国合戦などと表記していた。「異賊」という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、『八幡愚童訓』等鎌倉時代前後の文献では、刀伊の入寇神功皇后による三韓征伐についても用いられている。その他、「凶徒」という呼称も用いられた。また、1274年の第一次侵攻は文永合戦、1281年の第二次侵攻は弘安合戦などと表記されていた。

「元寇」という呼称は江戸時代徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒蒙古寇紀』、小宮山昌秀元寇始末』、19世紀の大橋訥庵元寇紀略』など、「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。

元寇という呼称

「元」
モンゴル帝国第5代皇帝・フビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古国皇帝」とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称は1268年(文永5年・至元5年)正月に、フビライの命によって高麗から派遣された使者が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時の公家の日記にも「蒙古」の呼称が用いられている。
1271年12月18日(文永8年・至元8年)、フビライは国号を漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、鎌倉時代の日本では「蒙古」という呼称が一般化していたため、「元・大元」等の呼称は用いられなかった。
江戸時代に入ると『元史』などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である「元」という呼称、また、クビライを指して「胡主」・「胡元」といった遊牧勢力に対する貶称(へんしょう)も用いられるようになる。
「寇」
「寇」とは、「外敵」という意味で、「(あだ)す」つまり「侵略する」を名詞に表した文字である。歴史学者の川添昭二は、この表現が江戸後期に出現した背景としては、アヘン戦争イギリス帝国に敗れたことや日本近海に西洋列強の船舶の来航が頻発したため、当時の日本の知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識」高揚があり、過去の蒙古襲来についてもその文脈で見るようになったと指摘している。
幕末に流行した頼山陽の『日本外史』では、弘安の役について「元主(クビライ)、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現している。

元・高麗側の呼称

元や高麗の文献では、日本侵攻を「征東(または東征)」「日本を征す」「日本之役」などと表記している。

新たな呼称案

近年では「元寇」の他にも「蒙古襲来」、「モンゴル襲来」なども使用される。「文永の役」・「弘安の役」についても、元・高麗側資料とも共通の名称を図るため、一部で1274年と1281年の干支に因んで「甲戌(こうじゅつ)辛巳(しんし)の役」という呼称が提案されているが、一般的ではない。

第一次日本侵攻までの経緯

ユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦宣明暦の長暦による。

モンゴル帝国の高麗侵攻

モンゴル帝国の版図の変遷
混一疆理歴代国都之図
(こんいつきょうりれきだいこくとのず)

縦130cm×横160cm
モンゴル帝国時代に作成された2種の原図を基に、1402年(建文4年)に李氏朝鮮で作られた現存最古の世界地図。西はアフリカ大陸から東は日本(右側下)まで描かれている。
龍谷大学大宮図書館所蔵
詳細は「モンゴルの高麗侵攻」および「高麗」を参照

モンゴル帝国による高麗侵攻は1231年(寛喜3年、太宗3年)から始まり、1259年(正元元年・モンケ9年)、反モンゴル帝国急先鋒の武臣政権が倒れたのをもって、高麗はモンゴル帝国に降伏した。

1260年(文応元年・中統元年)、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位したクビライ・カアンは、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する。高麗への懐柔策の採用は、日本侵攻に高麗を協力させるためだったとされる。

モンゴル帝国の樺太侵攻

詳細は「モンゴルの樺太侵攻」を参照

1264年(文永元年・至元元年)、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃している。この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった。以降20年を経て、二度の日本出兵を経た後の1284年(弘安7年・至元21年)、クイ(骨嵬)への攻撃を再開、1285年(弘安8年・至元22年)と1286年(弘安9年・至元23年)には約10,000の軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している。

これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある。この数度にわたる元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる。元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた。以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった。なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これがクオフオ(果夥)であったと思われる。

日本招諭の発端

クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは、1265年(文永2年・至元2年)、高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端である。

東方見聞録』に描かれたクビライ・カアン
中央のクビライ・カアンに2人の王が日本の黄金の容器を献上している。クビライの足元には「すこぶる美味」な日本の鶏が描かれている。『東方見聞録』のミニアチュール(挿絵)は写本が作成される過程で14世紀後半から15世紀初頭に描かれたものである。
『東方見聞録』(『驚異の書』) fr.2810写本 ミニアチュール(挿絵)folio71
フランス国立図書館所蔵
クビライ・カアン
国立故宮博物院所蔵
クビライ・カアンの狩猟図
劉貫道『元世祖出猟図軸』
国立故宮博物院所蔵

趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、の時代以来、あるいは使いを派遣して中国と通じてきました」と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる。クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした。

なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ興味を持ったからだとしている。

サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」

また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭主が来臣しないのを怒り、土の民力をつくし、舟艦を用意して、これに往きて攻める」と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている。

一方、クビライの重臣・劉宣は「至元初年に高麗の趙開(趙彝か)が日本と通交し南宋を牽制するように建言する」と述べており、招諭の発端として南宋包囲網を敷くことも目的の一つであったことがわかる。ただし、クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。

第一回使節

宗性筆『蒙古國牒状』
調伏異朝怨敵抄』所収
東大寺尊勝院所蔵

クビライは使節の派遣を決定すると、翌1266年(文永3年・至元3年)付で日本宛国書である「大蒙古国皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣した。使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった。

11月、ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた。しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を恐れていた。そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬を臨み、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人はかたくなで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた。これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した。

しかし、報告を受けたクビライはあらかじめ「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや、元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨した。

怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた。

命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近であった起居舎人・潘阜らを日本へ派遣する。

第二回使節

伝・北条時宗(北条定宗像とも)
満願寺所蔵

1268年(文永5年・至元 5年)正月、高麗の使節団が大宰府に到来。 大宰府の鎮西奉行少弐資能大蒙古国皇帝奉書(日本側呼称:蒙古国牒状)と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達する。鎌倉幕府では、この年の3月に北条時宗が八代執権に就任したばかりであった。

当時の国政は、外交は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送した。朝廷と幕府の仲介職である関東申次西園寺実氏は幕府から国書を受け取ると、院政を布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した。蒙古国書への対応を巡る朝廷の評定(ひょうじょう)は連日続けられた。

幕府では蒙古人が凶心を挟んで本朝(日本)を窺っており、近日牒使を派遣してきたとして、蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した。鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報告もあったとされる。

日本側からの反応が無かったため、太宰府到来から7か月後に使節団は高麗へ帰還しており、高麗は遣使の失敗の旨をクビライに報告している。

1268年(文永5年・至元5年)5月、クビライは使節団の帰還を待たずして「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と日本征服の意思を表明し、高麗に戦艦1,000(そう)の造船を命じている。また同年10月には、クビライは高麗に厳命した軍兵10,000と戦艦1,000艘の軍備が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べ、さらにモンゴル帝国の官吏を高麗に派遣して朝鮮半島の黒山島より日本侵攻ルートを調査させた。

同年、第2代皇帝・オゴデイ(窩闊台)以来の懸案であった南宋の侵攻を開始。1273年(文永10年・至元10年)に南宋の襄陽樊城が陥落するまで激戦が展開された(襄陽・樊城の戦い)。

大蒙古国皇帝奉書

大蒙古国皇帝奉書の内容は、次の通りであった。

天の慈しみを受ける

大蒙古国皇帝は書を
日本国王に奉ず。朕(クビライ・カアン)が思うに、いにしえより小国の君主は
国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が
祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し、遠方の異国にして
我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した
当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので
命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが
その歓びは父子のようである。
この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の
東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来
時には中国と通交している。だが朕の代に至って
いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、
王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ
朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
兵を用いることは誰が好もうか。
王は、其の点を考慮されよ。不宣。
至元三年八月 日

— 宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書
蒙古国牒状

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
日本國王、朕惟自古小國之君
境土相接、尚務講信修睦、況我
祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異
域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即
位之初、以高麗无辜之民久瘁
鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其
旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖
君臣、而歡若父子、計
王之君臣、亦已知之、高麗朕之
東藩也、日本密迩高麗、開國以
來、亦時通中國、至於朕躬、而無
一乘之使以通和好、尚恐
王國知之未審、故特遣使持書
布告朕意、冀自今以往、通問結
好、以相親睦、且聖人以四海爲
家、不相通好、豈一家之理哉、至
用兵、夫孰所好
王其圖之、不宣
至元三年八月 日


宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状
南都東大寺尊勝院所蔵

このクビライが最初に送った大蒙古国皇帝奉書は、「上天」・「大蒙古国皇帝(クビライ・カアン)」・「祖宗(チンギス・カン)」といった特定の語を一文字高く記述する台頭形式で、対して「日本国王」はそれら特定の語より一文字下げて記述してあり、間接的に日本国王を臣下とする関係を望んでいることを示唆するもので、それが入れられなければ、武力を用いることを仄めかすなど恫喝を含んだものであった。

この大蒙古国皇帝奉書の内容については諸説あるが、末尾の「不宣」という語は、友人に対して用いられるものであり、モンゴル帝国皇帝が他国の君主に与える文書としては前例のないほど鄭重なものとする見解がある一方、高圧的であるという見解もあり、歴史小説家・陳舜臣は、冒頭の「朕が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば…」の「小国」は日本を指し、最後に「兵を用いることは誰も好まない」と武力で脅すなど、歴代中国王朝国書と比較しても格段に無礼としている。

第三回使節

1269年(文永6年・至元6年)2月、クビライは再び正使・ヒズル(黒的)、副使・殷弘ら使節団を日本へ派遣、高麗人の起居舎人・潘阜らの案内で総勢75名の使節団が対馬に上陸した。使節らは日本側から拒まれたため対馬から先には進めず、日本側と喧嘩になった際に対馬島人の塔二郎弥二郎という2名を捕らえて、これらと共に帰還した。

クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた。クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させた。宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した。これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという。

第四回使節

1269年(文永6年・至元6年)9月、捕えた対馬島人の塔二郎弥二郎らを首都・燕京(後の大都)から護送する名目で使者として高麗人の金有成高柔らの使節が大宰府守護所に到来。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した。

モンゴル帝国による中書省牒
2度目の国書がモンゴル帝国の中央機関・中書省からの中書省牒だったことについて、クビライが「皇帝」の国書では日本側からの返書は得にくいと判断し、皇帝本人からの国書よりも下部機関である「中書省」からの国書にすれば日本側が返書し易いと考えたのではないかとされる。この中書省牒は日本に明確に服属を要求する内容だった。
朝廷による返書『太政官牒案』草案
この中書省牒に対して、朝廷の評定では、モンゴル帝国の服属の要求を拒否することに決し、さらに拒否の返書を出すこととした。早速、文書博士・菅原長成が返書文を起草し、中書省牒に対して返書「太政官牒案」草案を作成した。
草案の内容は以下のように、モンゴル帝国に対して日本の独立性を主張した内容だった。
「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。
本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。
(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。
およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。
知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ぬ唯一無二の存在である。よく考えよ」
また、高麗国王・元宗にも返書案を作成しており、捕えられていた塔二郎弥二郎の送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。
しかし、幕府は評定により「返牒遣わさるべからずの旨」を決し、朝廷に返書しないことを上奏した。朝廷が幕府の提案を受け入れたため、モンゴル帝国からの使節は返書を得ることに失敗し帰還した。

三別抄の援助要請

詳細は「三別抄」を参照

1271年(文永8年・至元8年)9月、高麗に反乱を起していた三別抄から、軍事的援助を乞う使者が到来。 この時、三別抄は自らを高麗王朝と称していた。

受け手側の朝廷はすでに高麗からもたらされた国書に対して、今回もたらされた高麗王朝を名乗る書状がモンゴル帝国を非難し珍島への遷都を告げ、さらにはモンゴル帝国と対抗するため数万の軍勢の援助を日本側に乞う内容であったため、非常に不可解に感じられ、この書状に対しての評定では様々な意見が述べられた。なお、三別抄の使者に対して、日本側がどのように対応したかは史料がなく、その後の詳細は詳らかではない。

一方で三別抄は、同年にモンゴル帝国に対して「駐屯する(蒙古)諸軍を退けて欲しい。そうすれば、然るのち帰順する。しかし、蒙古の将軍・ヒンドゥ(忻都)が要請に従おうとしない。今(クビライに)お願いする。(我らが) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/03/30 18:28

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