このキーワード
友達に教える
URLをコピー

共産主義者同盟とは?

日本の新左翼

基礎概念
社会主義 / 共産主義
マルクス主義
マルクス・レーニン主義
トロツキズム / 毛沢東主義
アナキズム / 左翼共産主義
反レーニン主義 / 反スターリン主義
構造改革主義
既成左翼 / 新左翼 / 極左

主な党派・集団
革共同
第四インター / JRCL / 全国協議会派
革マル派 / 中核派 / 中核派関西派

共産同(ブント)
戦旗荒派 / 戦旗西田派 / 烽火派 / 叛旗派 / 統一委
社労党 / マルクス主義同志会
ML派 / マル青同 / 赫旗派 / 労共党
革命左派 / 赤軍派 / 連合赤軍
日本赤軍 / ムーブメント連帯

社青同(革労協)系
解放派 / 狭間派 / 木元派 / 全協

構造改革派系/ソ連系
共労党 / フロント
日本のこえ / MDS / 統一共産同盟

中国系
毛沢東思想研究会
日共左派 / 日共ML派
緑の党

アナ革連
アナキスト社会革命戦線
無政府共産主義者同盟

ノンセクト・ラジカル
東アジア反日武装戦線 / 京大パルチザン /

系統図

歴史
スターリン批判
安保闘争
六全協
全学連
全共闘
三里塚闘争
総括
内ゲバ

政治思想
反代々木派 / 日本帝国主義 / 先駆性理論 / 層としての学生運動論 / ゲリラ闘争 / 革命的敗北主義 / 革命的議会主義 / 自己否定論 / 反帝国主義 / 反帝国主義・反スターリン主義 / 前段階武装蜂起論 / 国際根拠地論 / 反皇室闘争 / 反差別闘争 / 障害者解放闘争 / 窮民革命論 / 越年闘争 / アイヌ革命論 / 反日亡国論 / 日帝本国人 / のりこえの論理 / 権力謀略論 / 二重対峙革命戦争

関連項目
日本共産党 / 民青
武装闘争 / 労働運動 / 反戦運動

世界革命論 / 国際主義 / 前衛党

過激派 / ニセ「左翼」暴力集団

Portal:政治学

日本共産党から分裂した党派
概念
共産主義 - マルクス主義 - 国際主義 - 暴力革命 - プロレタリア独裁 - マルクス・レーニン主義 - アナキズム - 構造改革 - トロツキズム - 毛沢東思想

主な党派
日本共産党国際主義者団 - 日本共産党(行動派) - 日本トロッキスト聯盟(革共同 - 第四インター) - 共産主義労働者党 - 日本共産党(日本のこえ) - 日本労働党 - 日本共産党(左派) - 日本共産党(マルクス・レーニン主義) - 日本共産党(解放戦線) - 日本労働者党 - 共産主義者同盟

その他除名者など
志賀義雄 - 武井昭夫 - 中野重治 - 西沢隆二

関連項目
日本民主革命論争 - 武装闘争 - 所感派 - 国際派 - 自主独立路線 - 民主集中制 - 新左翼 - ニセ「左翼」暴力集団

Portal:政治学

共産主義者同盟(きょうさんしゅぎしゃどうめい、共産同ブント)は、1958年に結成された日本の新左翼党派。

主に全学連を牽引していた学生らが日本共産党から離れて結成し(一次ブント)、60年安保闘争の高揚を支えたが1960年解体。1966年に再建されたが(二次ブント)1970年に再び解体し、戦旗派全国委員会派ML派赤軍派など多数の党派に分裂した。学生組織は社会主義学生同盟(社学同)。「マルクス・レーニン主義の復権」や「プロレタリア国際主義」、「世界革命」などを掲げた。

ブントは1960年代後半の学生運動・全共闘と重なる部分が多い。またブントは複数の解体や分裂を経験したため、その組織実態や人員は時期により異なる。 事務局は、東京都文京区元町、後に千代田区神田神保町に置かれた。

目次

  • 1 名称
  • 2 思想
  • 3 歴史
    • 3.1 一次ブント結成
      • 3.1.1 一次ブントへの主な結集者
    • 3.2 60年安保闘争
    • 3.3 一次ブント解体
      • 3.3.1 1次ブント解体後の諸派
    • 3.4 二次ブント結成
      • 3.4.1 二次ブントへの主な結集者
    • 3.5 街頭闘争
    • 3.6 全国学園闘争
    • 3.7 二次ブント分裂と解体
      • 3.7.1 2次ブント解体後の諸派
    • 3.8 余波としての赤軍派「軍事」路線
    • 3.9 1970年代以降
      • 3.9.1 二次ブント分裂後の系統図
    • 3.10 1980年代以降
  • 4 脚注
  • 5 参考文献
    • 5.1 (現存)共産同系諸派
  • 6 外部リンク

名称

党名の「共産主義者同盟」は1847年ロンドン亡命ドイツ人を中心に結成された「共産主義者同盟」(ドイツ語: der Bund der Kommunisten)に由来し、その略称「ブント」(ドイツ語: Bund)は「同盟」を意味する。

思想

1958年12月、共産主義者同盟 (一次ブント)の結成大会議案では、「搾取、貧困、抑圧、服従の絶滅と人間の真の解放を意味する世界共産主義革命」、「大衆的な革命党の結成とプロレタリア独裁の実現」、「マルクス・レーニン主義の革命的伝統」などを掲げ、「今日すべての共産主義党平和共存と一国革命の絶対化、世界革命の放棄においてその本質は同一」とし、日本共産党は「代々木官僚」による「裏切り的性格」、革命的共産主義者同盟は「革命的理論の欠如」と批判し、また「既存の一切の党に信頼をおかず」、「一枚岩の団結の神話を捨て」、「組織の前に綱領」ではなく「実践の火の試練の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ」などと記した。

一国の社会主義建設の強行と平和共存政策によって、世界革命を裏切る日和見主義者の組織に堕落した公認の共産主義指導部(スターリン主義官僚)と理論的、組織的に自らをはっきり区別し、それと非妥協的な闘争を行い、新しいインターナショナルを全世界に組織するために努力し、世界革命の一環としての日本プロレタリア革命の勝利のために闘う — 1959年8月 第3回大会で採択した規約

なお思想家の吉本隆明は、1960年『中央公論』4月号で、共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。

1966年、再結成された二次ブントの基本路線は (1)国際金融危機など世界資本主義戦後体制は動揺を開始し、プロレタリア革命への現実的条件が形成されつつあり (2)その一環として日本の戦後民主主義体制も動揺を開始し、革命反革命かの階級的死闘の時代への過渡的な前段階が形成されつつあり (3)日本のプロレタリア人民は「生活と権利の実力防衛」を反帝闘争として組織し、プロレタリア革命への展望を切り開いていくべきで (4)プロレタリア日本革命の勝利はプロレタリア世界革命への展望を開き (5)現代日本における革命党の意識性は、「反帝闘争をプロレタリア日本革命へ!」、「日本革命をアジア革命の勝利と世界革命の突破口とせよ!」などのスローガンにしめされる、であった 。

歴史

一次ブント結成

日本の新左翼#系統図」も参照

1950年代日本共産党は、米ソ冷戦の激化・中華人民共和国の成立(1949年)・朝鮮戦争の勃発(1950年)、そしてそれに伴うコミンフォルム=スターリンからうけた批判により、主流派(所感派)と反主流派(国際派)に分裂するなどの混乱状態に陥った。そして終戦直後の、占領軍・GHQの「解放軍」規定、議会主義的な「愛される共産党」(野坂参三)の方針から転換し武装闘争路線をとった。その経過につれ、終戦直後の人々の支持も離れ、議会の議席はゼロとなった。当時、密かに渡航し、北京で指導部(北京機関)を形成していた書記長徳田球一1953年客死した。1955年、共産党は、宮本顕治主導下に混乱を回復しようとし、武装闘争路線を廃棄(六全協)したが、党中央が以前持っていた権威は大きく低下した。また1956年ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判ハンガリー事件が起こり、ソ連の権威そのものも大きく揺れ動いた。

当時、全学連という動員数最大の大衆運動を独自に牽引し、レッドパージの大学への実施を阻止する・砂川闘争を成功させるなど、さまざまな具体的実績を持っていた学生は、共産党中央の指導に大きな不満を抱くこととなる。そして、共産主義者同盟、略称ブント(Bund)を1958年12月に結成した。世界初の共産党からの独立左翼といわれる。初期の指導部は、香山健一森田実らであったが、やがてより若い島成郎、姫岡玲冶(青木昌彦)、清水丈夫北小路敏らのグループに移っていった。ちなみに綱領は作成されず、機関紙に掲載されたマニフェストがあるのみだった。組織も厳密に前衛党的な中央集権体制を強いたものではなく、ルーズなもので、組織づくりも大衆闘争のなかでしかありえない、という発想のもとに成り立っていた。同盟員数は設立時点で約300人、1959年8月時点で約1400人、60年安保闘争時には約3000人程度だった。若い活動家の中には、林道義西部邁柄谷行人平岡正明加藤尚武長崎浩、などもいた。

59年6月全学連新人事で同盟員の唐牛健太郎が全学連委員長に就任。1960年までブント主導下の全学連が実現することとなる。唐牛は全学連委員長就任時「天真爛漫にデモストライキを行います」と言ったという。実際ブントの行動形態は、従来の左翼教条主義的なリゴリズムとは一線を画すものとなり、ジャーナリズムの非難も、「赤い太陽族」「赤いカミナリ族」といった、それまでの左翼攻撃とは異質なものとなった。

一次ブントへの主な結集者

60年安保闘争

安保闘争#60年安保」も参照

1959年岸信介内閣による、日米安全保障条約という国際政治における占領体制の総決算が行われようとしていた。改定反対派、改定推進派ともに、次第に、条約改定点の具体的争点ではなく、「平和」「民主主義」「ヒューマニズム」「進歩主義」といった戦後体制の理念そのものが争われる場となっていった。ブントは、1959年8月第三回大会において「ブントのすべてをぶちこんで戦う」ことを決議した。59年11月27日には、総評社会党などからなる二万数千人の国民会議と全学連5千人が統一行動をとり、全学連は正門を突き破り、国会構内に入った。構内は一万余のデモ隊と組合旗や自治会旗に埋め尽くされた(11・27国会構内大抗議集会)。これは周囲を驚愕させた。1960年1月16日政府代表団渡米阻止の羽田空港篭城では、唐牛健太郎青木昌彦以下幹部同盟員のほとんどを含む77名が検挙され、「ゼンガクレン」の名は世界中にニュースで配信された。しかし、これには非難が巻き起こり、自民党は全学連にたいする特別立法を提案し、社会党は安保共闘から全学連を排除することを主張し、共産党は反革命的挑発者と非難した。当時裁判を担当する弁護士の成り手がいなかったという。4月26日には国会チャペルセンター前に主流派全学連一万人が集まった。この動員は根こそぎだった。ブント中央はこの闘争に命運をかけた。全学連委員長唐牛健太郎が国会前で板張りトラック阻止線を飛び越え、後に続くことを求めた。学生3千人が後に続いた(4・26国会チャペルセンター前バリケード突破闘争)。

しかし、この闘争を境にしてブントは中央から末端細胞にいたるまで、解党状態に陥ってしまう。

5月19日国会で強行採決が行われ、院内に自民党は300名の右翼集団を入れた。ここで展開が起こり、連日大衆デモが行われるようになった。5月26日には空前の17万人のデモが国会前で発生した。しかし、全学連1万人は何ら行動方針をもたず、統一行動の巨万の波間に終日埋没するだけだった。

現実の展開は全学連書記局指導部の予想と思惑をはるかにこえて動き始める。

6月4日には国鉄労働組合がはじめて政治ストを行い、丸山真男が「行動へ」という文章を書き、鶴見俊輔らが無党派を標榜する市民グループ「声なき声の会」を結成し、吉本隆明は6月行動委員会というグループを結成して、ブント全学連と同伴し、石原慎太郎大江健三郎江藤淳寺山修司谷川俊太郎らは「若い日本の会」を結成した。一方、全学連主流派は、6月15日当時の全学連委員長代理の北小路敏の指揮の元、2時に学生2万人が国会前に集結し、5時に南通用門から国会構内に入り、集会をおこなった。7時に排除命令が出て排除されたが、8時にデモ隊は再度構内に入った。そのときには、全学連の行動を心配した教員・教官たちが多数、デモに参加した。10時に機動隊による強制排除が行われ、催涙弾が打ち込まれた。重軽傷者712人逮捕者167人が発生した。ここで同盟員でもあった樺美智子が軋轢の中死亡した。

この死亡に抗議し、大学では多数ストライキが行われた。教員たちも全学連に同情的となった。6月18日、国会前で学生・労働者市民の33万人のデモ・包囲が徹夜で発生した。そのなか岸内閣は、日米安全保障条約を自然発効させた後、総辞職した。1ヶ月後平和な秩序が戻った。

一次ブント解体

ブントは、闘争が大きくなればなるほど普段政治に関心をそれほどもたないものの参加が雪だるま式に膨れ上がり、また彼我の対立が大きくなればなるほど組織体としての統一を保持することはできなくなった。直接行動主義は、あるものからすれば指示系統のなさからくる跳ね上がり・無駄な流血・体当たりの極左戦術に見え、またあるものからすれば指示系統の重視・優先は、はじめから全てのことを理解していたかにいう、「火中の栗」を拾おうとしない現実的な手腕のなさからくる党派性に見えた。また、動員の「倍々ゲーム」を際限なく推し進めることは不可能だった。当時全学連書記局にいた蔵田は、2001年に、「国家総力の暴力装置が現存する限り、人民は一時的に軍事的、政治的、社会的に勝利を収めることができたとしても、それは部分的勝利に過ぎず、その勝利と引き換えに、無数の敗北を経験し、それを受容せざるを得ないという革命の公理が存在する」「ブント主義路線は、闘争対象=国家権力への直進をめざす限りない自己目的化と絶対化を前提にしているがために、闘争の性格と運動の度合いに応じた闘争形態や闘争手段への適応能力を失い、形態や手段に従属化させる。その結果、闘争形態や闘争手段は、党組織の自己保身という制動が作用してもなお、際限なくエスカレートし、歯止めを失うことになる」と述べた。

ブントは1960年7月29日第5回大会を行ったが、60年安保闘争評価をめぐって紛糾のうちに自然流会し、以後統一した行動はなされず、事実上解体し、戦旗派、プロレタリア通信派(プロ通派)、革命の通達派(革通派)、などに四分五裂した。戦旗派(ブントの事務局や出版を担っていた。ブント機関紙「戦旗」が由来。森茂など)は、1961年に革共同全国委へ合流した。プロレタリア通信派(清水丈夫西部邁青木昌彦など全学連書記局グループ)も解散を決議した後に、一部が革共同に合流した。革命の通達派(服部信司星野中長崎浩などの東大本郷支部グループ。青木昌彦の理論と、ブント中央の安保時の行動に批判的だった)は、分裂・四散したあと、その流れを汲むマルクス主義戦線派(マル戦派)によって、岩田弘の世界資本主義論を「発見」、これは後に分裂を経験せず独自に残った通称「関西ブント」の60年安保総括「政治過程論」と並んで、再建二次ブント(1966)の主導理論となった(マル戦派は、静岡高校フラクションや慶應大の指導部からなり、宇野経済学とその弟子である岩田弘の理論で武装した学生運動のエリート集団。1965年参院選では、革共同中核派三菱重工業長崎造船所社会主義研究会と共に浜野哲夫(池内史郎)を支援した)。また長崎浩は1968年、「叛乱論」を「情況」に発表(合同出版, 1969)60年安保の経験を68年学生反乱に接木し、構造分析した。長崎は60年と68年とのあいだに切断を認めず、「『革命の科学的根拠』(歴史の必然)の放棄はわたしたちにとって自明の前提だった」とする。長崎にとって、革命は必然的なものではなく「アジテーター」によって今ここに組織されるべき現実的なもの、とされた。

なお、後の革共同全国委分裂(革共同第三次分裂)後は、清水丈夫、陶山健一、北小路敏、藤原慶久(社学同書記長)、田川和夫らは中核派となり、森茂(鈴木啓一)、根本仁(土門肇)らは革マル派となった。上記以外には、近代経済学(西部邁・青木

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/11/07 12:48

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「共産主義者同盟」の意味を投稿しよう
「共産主義者同盟」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

共産主義者同盟スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「共産主義者同盟」のスレッドを作成する
共産主義者同盟の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail