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冷戦とは?

1959年の世界の様子(色分け)
(ワインレッド = ワルシャワ条約 (WT) 加盟国
朱色 = ソ連の他の同盟国(東側諸国)
青紺色 = 北大西洋条約 (NATO) 加盟国
空色 = アメリカの他の同盟国(西側諸国)
緑 = 植民地
灰色 = 非同盟諸国)
冷戦の多様化―1980年の世界(色分け)
(ワインレッド = ワルシャワ条約機構加盟国 (WTO)
赤 = 同条約加盟国以外の東側諸国
朱色 = 共産主義国家以外のソ連よりの諸国
紺 = 北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国
青 = 同条約加盟国以外の西側諸国
空色 = 非同盟諸国永世中立国
赤い点 = 反資ゲリラ運動発生地域
青い点 = 反共ゲリラ運動発生地域
アメリカは1945年から1992年の間に公式で計1,054回の核実験を実施した

冷戦(れいせん、: Cold War: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国アメリカを盟主とする資本主義自由主義陣営と、東側諸国ソ連を盟主とする共産主義社会主義陣営との対立構造。米ソ冷戦東西冷戦とも呼ばれる。

目次

  • 1 語源
  • 2 概要
  • 3 冷戦の展開
    • 3.1 起源(1945年-)
      • 3.1.1 ポーランド問題
      • 3.1.2 ベルリン問題
    • 3.2 冷戦のグローバル化(1949年-1955年)
    • 3.3 雪どけ(1955年-1958年)
    • 3.4 危機の時代(1958年-1962年)
      • 3.4.1 ベルリン危機(1958年-1961年)
    • 3.5 冷戦の変容(1963年-1968年)
    • 3.6 デタントの時代(1969年-1979年)
    • 3.7 新冷戦(1979年-1985年)
    • 3.8 改革から冷戦終結、そしてソ連崩壊(1985年-1991年)
      • 3.8.1 ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年)
      • 3.8.2 東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年)
      • 3.8.3 ソビエト連邦の崩壊(1989年-1991年)
    • 3.9 ポスト冷戦時代(1991年-)
  • 4 東西陣営の主な国
    • 4.1 資本主義陣営(西側)
    • 4.2 共産主義陣営(東側)
    • 4.3 非同盟・中立
    • 4.4 資本主義陣営→共産主義陣営
    • 4.5 共産主義陣営→資本主義陣営
    • 4.6 資本主義陣営→イスラム主義陣営
  • 5 欧州の対立構造
  • 6 冷戦史研究
    • 6.1 冷戦起源論を巡る論争
    • 6.2 ソ連崩壊後の冷戦起源論争
    • 6.3 米ソ冷戦史の相対化
    • 6.4 研究領域の拡大
    • 6.5 コーポラティズム
    • 6.6 デタント史研究の進展
    • 6.7 冷戦終結をめぐる議論
    • 6.8 新しい冷戦史
    • 6.9 研究者
    • 6.10 学術誌
  • 7 補足
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク
    • 9.1 研究プロジェクト
    • 9.2 その他

語源

1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国ソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており、後にバーナード・バルークも使い、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマン1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。

各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。

概要

ベルリンの壁

冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。

ヨーロッパのみならず、アジア中東南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。

アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。

この冷戦時代の世界は、

  1. 秩序が長きに亘って固定されており、変化が少ない
  2. 「質より量」が重視される大量生産社会
  3. 核すなわち原子力がものをいうテクノロジー

の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が消滅したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、リーマン・クライシスが引き金となった2008年世界金融危機までは、米国が唯一の超大国として君臨していた。しかし、2008年以後の世界は、冷戦体制や米国一極体制によって抑えられてきた民族紛争や地域紛争が続発し、かつ冷戦体制や米国一極体制に基づく価値観が破綻を見せ、変化が多くなって流動性を増している。

冷戦の展開

起源(1945年-)

ヤルタ会談

冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリンイギリスウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。

1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共封じ込め政策」につながった。

戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコ防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義自由主義の二つの生活様式というマニ教世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。

東欧諸国のうち、ドイツ同盟関係にあったルーマニアブルガリアハンガリースロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドン亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。

枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。

ポーランド問題

ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。

またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。

ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。

ベルリン問題

ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中にのように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年西ベルリンへ繋がる鉄道道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。

冷戦のグローバル化(1949年-1955年)

中華民国の蒋介石宋美齢、アメリカ陸軍のスティルウェル中将

冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党中国共産党内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。一方、中国国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援の下大陸への反攻を狙った。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。

朝鮮戦争で戦う国連軍

日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。

フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

ジョセフ・マッカーシー上院議員

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピン米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦オーストラリアニュージーランド太平洋安全保障条約 (ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国米韓相互防衛条約1954年中華民国米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構 (SEATO) を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。

このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。

1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。

主な出来事

雪どけ(1955年-1958年)

ニキータ・フルシチョフヨシフ・スターリン

1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリア永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。

この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。

一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機部分的核実験禁止条約でしばしば対立ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。

主な出来事

危機の時代(1958年-1962年)

U-2撃墜事件で撃墜された機体の残骸

互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に所持するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットU-2などの高高度を飛行する偵察機宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行月探査活動を活発化した。

キューバで最初に発見されたソ連のMRBMサン・クリストバル

しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年キューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。

その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルボリビアウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。

ベルリン危機(1958年-1961年)

ウィーン会談におけるフルシチョフとジョン・F・ケネディ大統領

1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機 (1958年)であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後にへと発展した(ベルリン危機 (1961年))。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。

主な出来事

冷戦の変容(1963年-1968年)

ベトナム戦争中、前線に降下するアメリカ軍のヘリコプター

キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。

米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動黒人公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。

チェコスロバキアプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。 なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国リチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した( ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/07/07 08:36

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