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北朝鮮による日本人拉致問題とは?

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北朝鮮による日本人拉致事件(きたちょうせんによるにほんじんらちじけん)とは、1970年代から1980年代にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)工作員土台人よど号グループなどにより、多数の日本人が、日本から極秘裏に、北朝鮮に拉致された国際犯罪事件である。

目次

  • 1 日本国政府の認識
  • 2 北朝鮮の活動概要
    • 2.1 拉致の手口
      • 2.1.1 拉致実行の指令
    • 2.2 拉致被害者の境遇
    • 2.3 北朝鮮側の対応
  • 3 政府認定拉致被害者
    • 3.1 宇出津(うしつ)事件
    • 3.2 少女拉致事案
    • 3.3 李恩恵(リ・ウネ)拉致事案
    • 3.4 アベック拉致事案(福井県)
    • 3.5 アベック拉致事案(新潟県)
    • 3.6 アベック拉致事案(鹿児島県)
    • 3.7 母娘拉致事案(新潟県)(娘)
    • 3.8 母娘拉致事案(新潟県)(母)
    • 3.9 欧州における日本人男性拉致容疑事案
    • 3.10 欧州における日本人女性拉致容疑事案
    • 3.11 辛光洙(シン・グァンス)事件
    • 3.12 元飲食店店員拉致容疑事案
    • 3.13 女性拉致容疑事案(鳥取県)
  • 4 政府が未認定の拉致事件
  • 5 拉致問題の推移
    • 5.1 1970年代
    • 5.2 1980年代
    • 5.3 1990年代
      • 5.3.1 家族会の結成
      • 5.3.2 拉致議連の混乱
    • 5.4 2000年代(小泉訪朝まで)
    • 5.5 2度の日朝首脳会談
      • 5.5.1 2002年日朝首脳会談
      • 5.5.2 5人の帰国
      • 5.5.3 帰国した拉致被害者
      • 5.5.4 小泉訪朝後の世論の大変化
      • 5.5.5 2004年日朝首脳会談と拉致被害者家族の「帰国」
      • 5.5.6 遺骨問題
      • 5.5.7 小泉訪朝後の政治家の動き
      • 5.5.8 国際社会の動き
    • 5.6 2000年代(小泉再訪朝後)
      • 5.6.1 2005年
      • 5.6.2 2006年
      • 5.6.3 2007年
      • 5.6.4 2008年
      • 5.6.5 2009年
    • 5.7 2010年代
      • 5.7.1 2011年
      • 5.7.2 2012年
      • 5.7.3 2013年
      • 5.7.4 2014年 - 2015年
      • 5.7.5 2016年
      • 5.7.6 2017年
  • 6 被害者家族組織・支援団体
  • 7 その他の失踪者
    • 7.1 その他の失踪者に関する団体
  • 8 歴代「拉致問題担当大臣」
  • 9 年表
    • 9.1 事件の発生
    • 9.2 拉致犯罪の表面化
    • 9.3 小泉政権
    • 9.4 安倍政権
    • 9.5 麻生政権
    • 9.6 菅政権
    • 9.7 野田政権
    • 9.8 安倍政権
  • 10 拉致事件をテーマとする作品
    • 10.1 歌
    • 10.2 漫画/アニメ
    • 10.3 映像
    • 10.4 演劇
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
    • 13.1 人物
    • 13.2 条約
  • 14 外部リンク
    • 14.1 政府系
    • 14.2 支援団体など
    • 14.3 報道・メディア
    • 14.4 その他情報

日本国政府の認識

日本では、主権の侵害と国民の生命と安全に対して、大きな脅威をもたらすテロリズムである。北朝鮮は、長年拉致事件への関与を否定してきたが、2002年(平成14年)、平壌で行われた日朝首脳会談で、金正日が日本人の拉致を認め謝罪し、再発の防止を約束した。しかし、このことに対する賠償などは、未だに行われていない。

日本政府が認定した拉致事案は12件、拉致被害者は17人。

日本政府は「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」としている。

北朝鮮政府側は、このうち13人(男性6人、女性7人)について、日本人拉致を公式に認めており、5人が日本に帰国しているが、残り12人については「8人死亡、4人は入境せず」と主張している。日本政府は「全員が生存しているとの前提で対処する」との立場をとっている。

また、日本政府認定の拉致被害者の他に、北朝鮮から拉致された疑いが拭えない「特定失踪者」の解決も、日本政府は取り組むと明言している。

北朝鮮の活動概要

北朝鮮は、国家樹立当初から武力行使を辞さぬ形で、朝鮮半島統一することを標榜してきた(詳細は朝鮮統一問題を参照)。この点においては、大韓民国(韓国)も同じ態度のまま(李承晩北進統一論)であったが、1950年(昭和25年)、北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争に突入した。だが北朝鮮側の事前の予期に反して国連軍が韓国防衛のために派兵し、中国人民解放軍が北朝鮮を支援(介入)したことで、国土の荒廃と南北分断の固定化を招いた。

その後の北朝鮮は、朝鮮戦争からの復興事業を一段落させた後、1960年代に入ると、韓国に対する諜報活動を活発化させた。時には、直接の破壊工作も行ったと言われている。その工作活動は、少なくとも1980年代まで続けられていたことが確認されている。これらについては北朝鮮側からの反論もなされている。

1970年代から1980年代にかけ、日本国内において、不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察による捜査や、亡命北朝鮮工作員逮捕された土台人の証言などから、北朝鮮工作員による、日本人拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。

それまで主として、韓国国内で活動してきた北朝鮮のスパイ(工作員)らが、この時期以降、韓国当局の手によって数多く摘発されるなど、韓国当局による北朝鮮工作員への警戒が非常に厳しくなったことで、在日韓国・朝鮮人らを抱き込んで、韓国に入国させる形での対韓国工作活動の遂行が困難になってきた。そのため、北朝鮮当局は日本人に成り済まして、工作員を韓国に入国させる手口が有効であると考え、韓国のみならず、世界各国の出入国に便利な日本人のパスポート(旅券)を奪取するため、また同時に、工作員を日本人にしたてるための教育係としての利用、あるいは日本国内での工作活動の利便性を向上させる目的で、複数の日本人を拉致したとの指摘がある。


一方で、特定失踪者問題調査会の調査結果によると、拉致されたもしくは拉致された疑いが濃厚な者(俗に言う1000番台リスト)が失踪前に従事していた職業を詳細に調べた結果「印刷工」「医師」「看護師」「機械技術者」といった、北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野を担う職業に集中していることが判明していること、また、これらの特殊技能を持った拉致被害者に、日本人の配偶者を与え、家族を人質とすることにより、脱北させないようにするために、日本人を拉致した例も、多数あるのではないかとの指摘もある。北朝鮮には、1970年代にはよど号ハイジャック事件で北朝鮮に「亡命」した日本人男性が少なからずおり、「国家の賓客」として扱われていた。

拉致の手口

拉致の実行については、以下のような手口が報じられている。

  • 福井県新潟県など日本海沿岸鹿児島県など東シナ海沿岸に工作員を密かに上陸させ、付近を偶然通りがかった若者を暴力も辞さない方法を用いて拉致する。
  • 日本国内に潜入している工作員や土台人が目ぼしいターゲットを決めて接近し、言葉巧みに誘い出し、誘拐する。
  • 日本国外に在留、居留する日本人に「仕事の紹介をする」として、北朝鮮に誘拐する。ただし入国までは本人の同意を取り付けていると考えられる。
  • 工作員が日本沿岸での工作活動中に目撃されたと思い、目撃者を強引に拉致する。
  • 工作員の侵入地点と拉致現場が離れているケースもあり、輸送手段としての自動車の調達、潜伏先や監禁場所の手配などの共犯行為には、現地に土地勘のある在日朝鮮人の土台人が関わった可能性を指摘する声もある。

拉致実行の指令

  • 平壌放送(AM657kHz)内の乱数放送で指令があったとの説が有力(音声による乱数放送(A-3放送)は2000年に廃止。)。
  • また、平壌放送以外でも北朝鮮の国営放送朝鮮中央放送内で、選曲の順番などで工作員に指令を送ったりもしていたと考えられる。

(参考として、日本側への重要な工作指令は万景峰号船内にて直接、口頭にて指令が伝達される)

拉致被害者の境遇

一部の拉致被害者は、特殊工作機関の常時監視のもと、上述の特殊技能を活かした任務や日本語文献の翻訳などに従事させられるなど、非常に不自由な生活を強いられていたとの指摘がある。脱北者によれば、拉致された日本人ひいては拉致問題の存在は北朝鮮の住民には知られていないという。餓死する子供が多発している北朝鮮の一般庶民の現状に比べると拉致被害者たちは優遇された生活を送っていたと言われているが、実際は非常に厳しい生活状況であったことが、曽我ひとみの夫のチャールズ・ジェンキンスが執筆した『告白』(角川書店 2005年)などからは伺うことができる。

拉致が日朝間で政治問題化した、1990年代後半以降は、一定地域内に各戸別に隔離された生活だったという。北朝鮮一般市民との接触は、継続的に特殊工作機関による厳重な監視下に置かれ、この時期に限らず常に遮断された状態であった。北朝鮮側は、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議で「死亡」とされた8人の死亡診断書等の資料が捏造であったことを認めた。また、横田めぐみのものとして提供された「遺骨」を鑑定した結果、日本政府は別人のものと判断し、未帰還の多くの拉致被害者は生存していると見ている。拉致被害者はこの他にも多数おり、特定失踪者問題調査会では数百人に及ぶ日本人が拉致されていることを示唆している。

その一方で、生存情報の多くを頼っていた安明進・元北朝鮮工作員が韓国で麻薬密輸・使用で有罪判決を受け、その後姿を見せていないことから、推測や憶測が混じったこれまでの情報の再検証が真相解明の為に不可欠となっている。

北朝鮮側の対応

この一連の拉致事件は長い間謎とされて来た。冷戦末期の1987年に発生した大韓航空機爆破事件の際の工作員金賢姫の証言から疑惑が浮上したが、国会においては1997年までは国交正常化等の議題になった際に懸案として出る程度であった。

1991年(平成3年)以来、日本政府は北朝鮮に対し拉致事件を提起していたが、北朝鮮側は否定し続けた。

日本では1977年に拉致された中学生横田めぐみ等に関する実名報道があってから、国会で取り上げられるなど、報道の頻度が爆発的に増えた。1997年には拉致被害者の救出を求める議員連盟が発足し、政府が7件10人の拉致被害者を認めた。北朝鮮側は「拉致は捏造」と主張し、北朝鮮系の在日朝鮮人の団体である朝鮮総連なども同様の主張をしていた。

2002年(平成14年)9月17日内閣総理大臣小泉純一郎(当時)らが訪朝し、日朝首脳会談を行った際に、当時の北朝鮮の最高指導者(国防委員長であり、朝鮮労働党中央委員会総書記)である金正日は、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが、「現地請負業者」(土台人とみられる)と共謀して、日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に一時帰国し、間もなく本人たちの意思で日本に残ることとなった。

2004年(平成16年)5月22日、小泉純一郎の2度目の平壌訪問により、先に帰国していた拉致被害者の夫や、子供が日本への帰国を果たした。

しかし、2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮を訪問して実現した日朝首脳会談の席で、金正日国防委員会委員長は「部下が勝手にやったことだ」と北朝鮮が日本人13人を拉致したことを初めて認め謝罪したものの、すでに拉致実行組織を解体、拉致を指揮した者を処分したと伝えたが、拉致の実行犯が現在でも英雄扱いされているなど、実際に処分等は行われていない。北朝鮮は2002年9月17日の日朝首脳会談において、日本人拉致事件は解決していると主張している。

北朝鮮は「日本が解決済みの拉致問題を意図的に歪曲し誇張するのは、日本軍過去に朝鮮人民に働いた犯罪を覆い隠す為の政略的目的に悪用する為だ」と主張している。一方で「日本が誠意を示せば、何人かは帰す」とも主張している。

北朝鮮は、日本政府が認定した拉致被害者17人のうち、残り12人について「死亡」あるいは「入境せず」として、「拉致問題は解決済み」と説明し、その後の協力を拒んでいるが、日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続けている。

「北朝鮮による日本人拉致事件」については、マスメディア・更に日本政府内でも、すべて「拉致」と総称しているが、刑法学上はすべて「拐取(海外移送目的拐取)」である。北朝鮮による日本人拉致においては、刑法上の「略取」に当たる事案(加害者による暴力行為を手段として、強制力により被害者の身体を拘束の上で移送した事案)と、「誘拐」に当たる事案(偽計を手段として被害者を騙す等によりその同意を得つつ、身柄を加害者の実力的支配内に置いた上で移送した事案)、国外移送時の状況が不明な事案に分けられる。少女拉致事案・アベック拉致事案・母娘拉致事案・鳥取女性拉致容疑事案は「略取」であり、欧州における日本人男女拉致容疑事案は「誘拐」である。宇出津事件・李恩恵拉致事案・辛光洙事件・元飲食店店員拉致容疑事案など土台人を介したものと見られる拉致事案については「誘拐」の可能性が高いが、国外移送から北朝鮮入国に至る状況の詳細は不明である。

政府認定拉致被害者

日本政府が認定した拉致被害者は次の17人、久米裕横田めぐみ田口八重子濱本富貴惠地村保志蓮池薫奥土祐木子市川修一増元るみ子曽我ひとみ曽我ミヨシ松木薫石岡亨有本恵子原敕晁田中実松本京子(肩書・年齢は当時、敬称略、被害者家族の決断により実名報道されている) 。この内5名は日本に帰国。2007年(平成19年)4月12日、警察庁はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供2人(当時長女が6歳と長男が3歳)が1974年(昭和49年)6月中旬に行方不明になった事案について、複数の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した(2児拉致事件)。よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供2人が朝鮮籍であり、日本国民であることを要件とする拉致被害者支援法の認定基準には該当しないため、子供2人は拉致被害者としては認定されていない(2007年10月30日現在)。

宇出津(うしつ)事件

1977年(昭和52年)9月19日拉致
東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕(1925年(大正14年)2月17日 - 当時52歳)
石川県宇出津海岸付近にて失踪
北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人・李秋吉が「45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、不審船(工作船)で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している。この1件だけで、「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。警視庁公安部石川県警察は主犯格の金世鎬(キム・セホ)を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。なおこの事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号解読に成功したことが評価され、1979年警察庁長官賞を受賞している。この事実は長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。なお、李は起訴猶予処分となり日本への帰化を許され、日本国民・大山秋吉として現在も都内で自営業を営んでいる。

少女拉致事案

1977年(昭和52年)11月15日拉致
新潟の女子中学生、横田めぐみ(1964年(昭和39年)10月5日 - 当時13歳)
新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪。新潟県警察は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。
北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは1986年に結婚し、1987年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、1994年4月(2002年10月の報告では「1993年3月」としていたが後に訂正)に入院先の病院自殺、1997年に火葬したとしている。2004年11月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された(「ニセ遺骨問題」も参照)。遺体は未確認。2006年6月29日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは1994年に自殺した」と述べた。この発言について、彼女の両親である横田滋横田早紀江夫妻は「予想通りの証言。こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ」とした。また、安倍晋三内閣官房長官(当時)も「発言内容は信憑性がない」とした。
帰国した拉致被害者たちの証言によると、1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で曽我ひとみと同居し、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で拉致被害者田口八重子および工作員女性1名と同居していたとされている。1986年(昭和61年)に平壌へ転居した後、1994年(平成6年)頃までは地村夫妻や蓮池夫妻と同じ地区で暮らしていたとされている。
1997年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本龍太郎政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら1994年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした1997年当時には無く1999年に建設されたものだと複数の脱北者が証言している。また、帰国した地村富貴恵が「(自殺より後の)1994年6月にめぐみさんが隣に引っ越してきた」と証言している。また2011年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として「横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した」とする証言を日本政府に伝えている。さらに週刊朝鮮の報道によって2005年に作成された北朝鮮平壌市民名簿に横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている。なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、1971年加賀市沖不審船事件同様に不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある。
横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる。また、金正恩が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある。

李恩恵(リ・ウネ)拉致事案

1978年(昭和53年)6月29日頃拉致
東京の飲食店員、田口八重子(1955年(昭和30年)8月10日 - 当時22歳)
帰国した拉致被害者たちの証言によると、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で横田めぐみおよび工作員女性1名と同居していた。1986年(昭和61年)に平壌へ転居し、10月には地村富貴恵と平壌市内の百貨店で会っている。蓮池薫の証言によると、その後田口八重子は敵工地と呼ばれるところに行ったとされている。
1987年11月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮のスパイ(諜報員)金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している。この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、1988年(昭和63年)頃全国各地に「昭和55年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか」というポスターが貼られている。その後埼玉県警察警備部の調べで1991年(平成3年)に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考えた家族からの要請で実名での報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。
日本の警察庁から2人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真10枚ほどが準備された。田口八重子の写真をこの中に混入し、「このなかに教育に当たった女性がいるか」と金賢姫に示した。1枚1枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て、「この人です」と言ったという。李恩恵は拉致された田口八重子であることが確認された。2009年3月、金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した。
地村富貴恵の証言によると、北朝鮮に上陸した際、子供が日本にいるから帰してほしいと訴えたとされている。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込もうと計画していたが、北朝鮮側に工作員になれないと言われ断念したとされている。
北朝鮮側の説明によれば、田口八重子は1984年に日本人拉致被害者(原敕晁 下記9参照)と結婚、1986年(昭和61年)の同男性の病死後、1986年(昭和61年)7月に自動車事故で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。また、李恩恵なる人物の存在を否定している。

アベック拉致事案(福井県)

1978年(昭和53年)7月7 - 8日拉致
小浜の大工見習い、地村保志(1955年(昭和30年)6月4日 - 当時23歳)、被服店(ブティック)店員、濱本富貴惠(1955年(昭和30年)6月8日 - 当時23歳)
福井県小浜市で拉致。実行犯は北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)である。
2人は1979年(昭和54年)に結婚。1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。2004年(平成16年)5月22日、日朝首脳会談の結果を受け、娘1人と息子2人も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(新潟県)

1978年(昭和53年)7月31日拉致
中央大学法学部生、蓮池薫(1957年(昭和32年)9月29日 - 当時20歳)、化粧品会社社員、奥土祐木子(1956年(昭和31年)4月15日 - 当時22歳)
新潟県柏崎市で拉致。「ちょっと出かける。すぐ帰る。」と言って外出したまま消息を絶つ。同様に奥土も外出したまま両名が拉致される。実行犯は北朝鮮工作員、チェ・スンチョルである。
2人は1980年(昭和55年)5月に結婚、1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に地村らと共に日本に帰国。2004年(平成16年)5月、残された子供(1男1女)も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(鹿児島県)

1978年(昭和53年)8月12日拉致
電電公社職員、市川修一(1954年(昭和29年)10月27日 - 当時23歳)、鹿児島の事務員、増元るみ子(1953年(昭和28年)11月1日 - 失踪時24歳)
鹿児島県日置郡、吹上浜キャンプ場で拉致。
北朝鮮側の説明によれば、2人は1979年7月(2002年10月の報告では「1979年4月」としていたが後に訂正)に結婚したが、市川は1979年9月に海水浴場で心臓麻痺により死亡。増元も1981年に心臓麻痺のため死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。一方、北朝鮮元工作員・安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、1988年から1991年にかけて「何回も二人を見た」と証言している。

母娘拉致事案(新潟県)(娘)

1978年(昭和53年)8月12日拉致
佐渡准看護婦、曽我ひとみ(1959年(昭和34年)5月17日 - 当時19歳)
新潟県真野町(現:佐渡市)において母親と2人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で横田めぐみと同居した後、1980年(昭和55年)8月に元アメリカチャールズ・ジェンキンス結婚1983年(昭和58年)6月に長女出産、1985年(昭和60年)7月に次女出産。2002年(平成14年)10月に日本に帰国。夫および2人の娘については、2004年(平成16年)5月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども(2女)は北朝鮮政府の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していたが、同年7月9日、インドネシアジャカルタにて再会し、7月18日一家4人で日本に帰国。北朝鮮は、曽我ミヨシ(46歳)については、「日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った」と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。

母娘拉致事案(新潟県)(母)

1978年(昭和53年)8月12日拉致
佐渡の准看護師の母、曽我ミヨシ(1931年(昭和6年)12月28日 - 当時46歳)
曽我ひとみは佐渡で上記の准看護婦と買い物帰りに同時に失踪。北朝鮮拉致認定。北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時46歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定。曽我ミヨシの消息は全く不明。

欧州における日本人男性拉致容疑事案

1980年(昭和55年)拉致
京都外国語大学大学院生、松木薫(1953年(昭和28年)6月13日 - 当時26歳)
1980年(昭和55年)5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。同年6月にスペインマドリードにて拉致。松木は、石岡亨と共に「よど号ハイジャック事件」の犯人グループの妻2人(森順子若林佐喜子)により拉致されたことが警察の調べで判明している。北朝鮮側情報では、1996年8月23日に自動車事故で死亡したとしている。
2002年(平成14年)9月に派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。また、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。
②1980年(昭和55年)5月頃拉致
日本大学学生、石岡亨(1957年(昭和32年)6月29日 - 当時22歳)
1980年5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ1980年6月スペインにて拉致。1980年4月にスペインの動物園でよど号メンバーの妻2人(森順子・若林佐喜子)と一緒に撮影された写真が存在する。
また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループ柴田泰弘日本赤軍戸平和夫が使用していたことが確認されている。
北朝鮮側によれば、1985年12月に拉致被害者(下記8-3.有本恵子)と結婚、1986年に長女が誕生するが、1988年11月4日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。1995年8月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。

※ 警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを求めている。

欧州における日本人女性拉致容疑事案

1983年(昭和58年)7月頃拉致
神戸市外国語大学学生、有本恵子(1960年(昭和35年)1月12日 - 当時23歳)
欧州にて失踪。有本の拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻となった八尾恵が、2002年3月12日、「私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と東京地裁で証言している。警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。
北朝鮮側の説明によれば、有本は1985年に石岡と結婚、一児をもうけるも、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。

辛光洙(シン・グァンス)事件

  • 1980年(昭和55年)6月頃拉致
  • 大阪府鶴橋中華料理店「宝海楼」勤務の調理師、原敕晁(1936年(昭和11年)8月2日 - 当時43歳)
  • 宮崎県青島海岸から拉致された本件については北朝鮮工作員、辛光洙が韓国当局に対し中華料理店勤務、調理師男性の拉致を認める証言をしている。本件に関連し、警視庁公安部は辛光洙を国際手配した。辛光洙は1999年12月31日恩赦により釈放。金大中政権の「非転向長期囚送還」により翌2000年9月2日北朝鮮に送還された。北朝鮮政府は、拉致実行犯は処罰したと説明しているが、一方で辛光洙は拉致実行後に金正日から大きな功績があったとして「国旗勲章1級」を授与され、英雄として北朝鮮の記念切手にもなっている。
  • 北朝鮮側の説明によれば、原敕晁は李恩恵(リ・ウネ)拉致事案の田口八重子と1984年に結婚するも1986年に肝硬変で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は1995年7月遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。北朝鮮側情報では、本人の金儲けと歯科治療の意向を受け、1980年(昭和55年)6月17日 宮崎市青島海岸から連れ去った。警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索を実施後、工作員の辛光洙・共犯者の金吉旭・指示役で工作機関副部長の姜海龍を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。
  • 原には地元長崎市に兄がおり、家族会にも参加しているが、事件がドラマのように取り上げられることを嫌い、メディアに登場することはない。
在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書に関して
1989年(平成元年)、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯釈放を求める在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書が、当時の日本社会党公明党社会民主連合らの議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。その際、釈放要望対象者の中に辛光洙らの拉致共犯者・実行犯が含まれていた。
その後、2002年(平成14年)9月に金正日が拉致実行を認めたあとで同年10月19日に当時官房副長官安倍晋三土井たか子菅直人
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出典:wikipedia
2018/02/21 20:10

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