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北海道中央バスとは?

種類
株式会社
【機関設計】
監査役設置会社
【市場情報】
札証 9085
1950年3月20日上場

【略称】
中央バス
【本社所在地】
日本
047-8601
北海道小樽市色内1丁目8-6
北緯43度11分49.5秒 東経141度0分2.33秒 / 北緯43.197083度 東経141.0006472度 / 43.197083; 141.0006472座標: 北緯43度11分49.5秒 東経141度0分2.33秒 / 北緯43.197083度 東経141.0006472度 / 43.197083; 141.0006472
【本店所在地】
同上
【設立】
1944年(昭和19年)1月27日
(仮営業開始は1943年(昭和18年)3月1日)
業種
陸運業
法人番号
4430001050451
【事業内容】
一般旅客自動車運送事業(乗合貸切)、他
【代表者】
平尾一彌(代表取締役会長)
二階堂恭仁(代表取締役社長)
【資本金】
21億円(2020年3月31日現在)
【発行済株式総数】
3,146万株(2020年3月31日現在)
【売上高】
単独22,215百万円、連結38,094百万円(2020年3月期)
【営業利益】
単独465百万円、連結1,044百万円(2020年3月期)
【経常利益】
単独923百万円、連結1,215百万円(2020年3月期)
【純利益】
単独1百万円、連結220百万円(2020年3月期)
【純資産】
単独24,445百万円、連結31,061百万円(2020年3月期)
【総資産】
単独32,792百万円、連結41,365百万円(2020年3月期)
【従業員数】
単独1,623名(2020年3月31日現在)
【決算期】
3月末日
【主要株主】
中央バス総業株式会社 34.11 %
株式会社北洋銀行 4.57 %
株式会社北海道銀行 4.57 %
北海道中央バス社員持株会 3.07 %
中央振興株式会社 2.58 %
(2020年3月31日現在)
【主要子会社】
#主なグループ会社参照
【外部リンク】
https://www.chuo-bus.co.jp/

北海道中央バス株式会社(ほっかいどうちゅうおうバス)は、北海道道央圏を中心にバス事業などを行う企業。札幌証券取引所単独上場銘柄のひとつである(証券コードは9085)。組織形態は監査役設置会社であり、執行役員制度を採用。本社機能は小樽市札幌市に分けて設置するが、対外向けには本店を置く小樽市を本社所在地としている。

後志石狩空知地方のバス事業者が統合し発足。2013年(平成25年)3月現在の路線免許キロは5,217 km、路線数は282路線・681系統、車両数は貸切バスを含めて1,189台。路線バス車両数は北海道内3,564台中約3割を占める北海道内では最大規模のバス事業者である。

歴史

発足まで

後志石狩空知地方では大正から昭和初期にかけてバス事業者が次々と誕生した。1933年(昭和8年)10月1日の自動車交通事業法施行までは書類さえ揃っていればよいという状況で需給状況は勘案されていなかったことから、小樽・札幌市内や主要駅と周辺村落をバスで結ぶために事業者が乱立状態となった。3支庁管内の1932年(昭和7年)末時点でのバス事業者数は40を超え、廃業・譲渡も多く経営の移り変わりが絶えなかった。

鉄道大臣の八田嘉明1942年(昭和17年)、人手や物資の不足が顕著となったことからバス事業者を統合する方針を表明。これを受けた北海道庁は同年10月12日北海道における旅客自動車運輸事業統合要綱(いわゆる戦時統合)を発表。道内を7地域に分け、各地域で1社に統合する準備が進められた。

後志・石狩・空知地方はこの時点で22事業者があり、札幌市が経営する事業は規模や官と民の違いなどから対象外とされ、残る21事業者での統合が進められることとなった。資産や営業権の評価などに時間がかかり、特に鉄軌道兼営事業者はバス事業を切り離すことによって鉄軌道の経営に影響が出る恐れもあり、統合ではなく休止、あるいは統合除外の希望があり難航したが、当局の調整もあって1943年(昭和18年)2月7日、21事業者はバス事業を新会社へ譲渡することを決議した。同年3月1日北海道中央乗合自動車株式会社として仮営業を開始。鉄道省の混乱から正式な譲渡認可日は同年12月1日、運輸開始日は1944年(昭和19年)1月27日となった。

設立時の概要
  • 本社所在地:北海道小樽市稲穂東3丁目29
  • 資本金:135万円
  • 事業所:
    • 小樽支社 - 営業所(小樽、赤井川、泊、寿都、磯谷)、整備工場(小樽)
    • 札幌支社 - 営業所(札幌、豊平、厚田、夕張、江別、長沼、美唄、滝川、芦別)
  • 車両数:175台

被統合事業者

小樽市街自動車(小樽)
1920年(大正9年)に小樽乗合自動車、翌1921年(大正10年)に小樽市街自動車が発足。ともに小樽市内線を運行したが、乗客の奪い合いや乗務員同士の小競り合い、経営者間の紛争にまで発展し経営状態は悪く、1923年(大正12年)に両社が合併。新・小樽市街自動車として再発足した。
小樽市議会では1927年(昭和2年)にバス路線を市営化するよう提案したが買収価格が折り合わなかった。また軌道敷設を計画し、1928年(昭和3年)3月27日付で稲穂町西3丁目から奥沢町5丁目間、緑町4丁目間、長橋町間、計7.5 kmの軌道敷設免許を受けたが、建設資金を捻出できず、また小樽市街自動車の反対により実現されなかった。
1931年(昭和6年)には小樽郊外自動車が発足し、小樽から余市までのバスを運行した。小樽市街自動車はこれに対抗し1932年(昭和7年)に小樽から塩谷までの運行を開始。競争状態となり、小樽郊外自動車は3年で運行を廃止。小樽市街自動車が余市まで運行するようになった。
北海道中央乗合自動車の母体となった事業者である。
札幌自動車(札幌)
1925年(大正14年)春、札幌乗合馬車自動車が札幌から月寒までを運行。1926年(大正15年)6月に自動車部を札幌自動車へ分離独立させた。同年に、札幌電気軌道(路面電車市営化前の民間事業者)路線との並行区間が多く経営状態が良くなかった札幌乗合自動車を買収し、電車並行路線の廃止など整理を行った。
1928年(昭和3年)に事業を拡張。翌年までに余市駅前 - 古平、寿都 - 原歌、岩内駅前 - 泊、江別駅前 - 幌向8号を開設した。岩内 - 泊間の路線は1930年(昭和5年)に盃まで、1936年(昭和11年)に神恵内まで延長。また余市 - 古平間を運行していた種田自動車を買収している。
札幌自動車は道内他地域にも進出し、標津 - 羅臼、早来駅前 - 浜厚真、稚内桟橋駅 - 宗谷 - 尻臼、中越駅前 - 白滝駅前を運行していたため、他地域の統合においても重複して対象事業者となっている。
札幌観江バス(札幌)
詳細は「札幌軌道」を参照
小樽定山渓自動車道(小樽)
1930年(昭和5年)設立。小樽と定山渓の間に自動車専用道路(のちの北海道道1号小樽定山渓線)の敷設を計画し1932年(昭和7年)10月に完成。1933年(昭和8年)5月20日から小樽 - 定山渓間のバスを運行した。
1937年(昭和12年)より小樽市街自動車に経営を委託したが、バスが代燃車になってからは急カーブや急勾配の道路を運行するのが難しくなり、1935年(昭和10年)に運休となった。
定山渓鉄道(札幌)
詳細は「じょうてつ」を参照
札幌駅 - 豊平 - 定山渓 - 豊平峡でバスを運行していた定山渓自動車を1931年(昭和6年)8月8日に買収。1932年(昭和7年)5月8日より札幌駅 - 豊平 - 定山渓で運行した。
北海道鉄道(札幌)
詳細は「北海道鉄道 (2代)」を参照
山崎自動車店(江別)
1930年(昭和5年)篠津村の梅村自動車が江別駅前 - 新篠津で運行を開始。1936年(昭和11年)に山崎自動車店が買収した。
厚田自動車(厚田)
1932年(昭和7年)に石狩の堀江自動車が石狩八幡町 - 太美を、厚田の竹本自動車が厚田 - 石狩八幡町を運行。経営権の移管を経て、1940年(昭和15年)に厚田自動車を組織した。
後志自動車(札幌)
1930年(昭和5年)に南尻別の藤田自動車が昆布駅前 - 宮川温泉で運行を開始。1931年(昭和6年)に後志自動車を組織し藤田自動車の営業権を買収し既存路線のほか、昆布温泉 - 狩太駅蘭越駅 - 磯谷 - 湯別駅(寿都鉄道)を運行した。
余市赤井川自動車(赤井川)
1941年(昭和16年)に余市駅前 - 赤井川都 - 明治鉱山 - 銀山駅前で運行開始。冬期は運休であった。
余市臨港バス(余市)
詳細は「余市臨港軌道」を参照
滝川バス(滝川)
1926年(大正15年)9月30日に滝川自動車運輸を設立。滝川から橋本を経て浦臼、雨竜、南幌加、西徳富までを運行。1930年(昭和5年)1月に浜益村の幌 - 茂生 - 昆砂別、茂生 - 柏木 - 御料滝沢を追加した。1932年(昭和7年)に商号を滝川バスへ変更。1934年(昭和9年)1月には滝川 - 浜益の直通路線を開設した。
佐藤自動車(月形)
佐藤自動車は1925年(大正14年)より月形 - 峰延、岩見沢を運行。石狩川は車両を渡船に載せ渡った。1927年(昭和2年)6月に岩見沢自動車商会が岩見沢 - 茂世丑、月形の運行を開始すると両社は競争となり、乗務員同士の争いも絶えなかった。岩見沢自動車商会は1928年(昭和3年)9月に商号をアサヒ自動車商会に変更。一方の佐藤自動車は過当競争に堪えかね、車両をアサヒ自動車商会に譲渡しバス事業から撤退した。
ところがアサヒ自動車商会は戦中の混乱で燃料の割当が中止されると経営難に陥り、1941年(昭和16年)にバス事業を廃止してしまった。これにより佐藤自動車は代燃車を使い月形 - 峰延、岩見沢でバス事業を再開した。
美唄自動車運輸(美唄)
1927年(昭和2年)5月1日設立。美唄駅前 - 月形、南美唄を運行していたが経営難に陥り、1936年(昭和11年)6月に小樽市街自動車の出資を受けて再発足し、美唄駅前 - 三井美唄、峰延を追加した。
前田自動車(長沼)
1906年(明治39年)12月より馬橇を使って長沼 - 由仁駅を結んでいたが、1922年(大正11年)7月にこれをバスに切り替えた。1927年(昭和2年)6月に長沼 - 栗山を追加。ハイヤーの運行も行っていた。
夕張バス(夕張)
1930年(昭和5年)に夕張乗合自動車が設立され鹿ノ谷駅前 - 夕張本町、夕張駅前を運行。1934年(昭和9年)に商号を夕張バスに改称。1936年(昭和11年)に小樽市街自動車の出資を受け、鹿ノ谷駅前 - 若菜、沼ノ沢駅前 - 真谷地を追加した。
芦別合同自動車(芦別)
1928年(昭和3年)にサカエ自動車が設立され芦別駅前 - 新城を運行。1937年(昭和12年)4月に芦別合同自動車が事業を譲り受け、芦別駅前 - 神居古潭駅前に延長した。
加地自動車(妹背牛)
妹背牛は雨竜・北竜・秩父別方面に至る交通の要衝で、昭和初期には妹背牛駅前 - 雨竜を運行する加地自動車、妹背牛駅前 - 和(北竜)を運行する妹背牛自動車、妹背牛駅前 - 秩父別を運行する金井自動車があった。1931年(昭和6年)10月10日札沼線が全線開通すると乗客が激減し廃業する事業者が出た。加地自動車は経営者が変わりながらも運行を継続した。
沼田自動車(沼田)
1927年(昭和2年)4月に小平自動車が沼田 - 和のバスとハイヤーを運行したが、1930年(昭和5年)4月に大坂屋自動車部が沼田 - 多度志の営業を始めると経営は不振となり両社とも頓挫した。1933年(昭和8年)4月に小平自動車などが沼田自動車を組織し沼田 - 多度志でバスの運行を再開。ハイヤーの運行も再開した。
深川自動車(深川)
1937年(昭和12年)5月7日にハイヤー事業者などが参加し設立。深川駅前 - 音江 - 江部乙駅前と深川駅前 - 入志別 - 納内駅前を運行した。
五井自動車(妹背牛)
妹背牛自動車の廃業を受けて、1939年(昭和14年)に車両を譲り受け妹背牛駅前 - 和で運行した。

戦中・戦後の混乱期

発足当初は戦争末期でたちまち苦難な状況に陥った。物資不足、応召による従業員不足、人員補充による人件費増加が重なり、バスの運行は非常措置により従来の40 %に縮小し100台近くの予備車を抱えるに至った。女性職員の採用や遊休施設を売却し支払いに充当するなどで場を凌いだ。バスの運行に欠かせない燃料はあらゆる手段を講じて確保に奔走し、ガソリンの1滴は血の1滴とまで言われ、代用燃料は最も生産量の多い木炭が普及していたことから木炭が9割、薪が1割使用された。

1945年(昭和20年)8月15日、満身創痍の状態で終戦を迎えた。窓は割れベニヤ板で処置、座席も荒れ放題であった。軍隊が放出した車両が出回ったが、バスに転用する改装に苦労し、ガソリンは足らず、どん底の様相を呈した。これに対し輸送需要は激増したことからバス事業の急速な再建を要請されるようになった。休止路線の再開や新規路線の開拓に努め、これまで統合当時のまま個々に運行していた路線を延長して相互に連絡を図るなど運行の合理化を進め、1951年(昭和26年)4月の札樽線開設をもって全社線連絡を完了し、1953年(昭和28年)までに大半の主要道路への路線開設を完了した。

また、商号は他社との申し合わせもあり北海道中央乗合自動車としたが、商号の自由化と親しまれる呼称を考慮し、1949年(昭和24年)6月3日に北海道中央バスと変更した。

この商号変更の1箇月前に株式の譲渡制限を解除した。札幌証券取引所から上場の働きかけがありその前提として解除したもので、約10箇月の準備期間を経て1950年(昭和25年)3月20日に札幌証券取引所に上場した。

三大事件

戦後の混乱から立ち直り、業績が向上つつあった昭和20年代後半から昭和30年代前半にかけ、経営を根底から揺さぶる事件が3件相次いだ。いわゆる「三大事件」である。

バス炎上事故

1951年(昭和26年)7月26日午後1時頃、札幌発石狩行の路線バスが始発の五番舘(後の札幌西武)前を発車。40メートルほど進んだところで運転席後部から炎が噴き出し、瞬く間に車内へ燃え広がり全焼。12名が死亡し、32名が重軽傷を負った。この車両は非常口が無く、乗降ドアが構造上パニック状態の乗客が障害になって十分に開かなかったこと、窓枠にガラス破損防止のため鉄パイプの保護棒を取り付けていたため窓からの脱出は困難であったことが死傷者を多くした。

このバスには石狩の映画館に依頼され、ブリキ缶に入った映画フィルム22巻が積まれていた。当時の映画フィルムは可燃性のセルロイド製であり、バスに積み込まれるまでの約2時間、強い陽射しに晒され加熱状態になっていたことから延焼を大きくする結果になったとされる。乗務員が逮捕され、整備不良の疑いで捜査を受け、刑事事件にまで発展する事態となった。出火原因はタバコの不始末、バッテリーのリード線からフィルムに引火、バスの振動によりフィルムが緩み摩擦熱で発火など様々な推測がなされたが、どれも決め手がなく原因不明のまま捜査は終了した。

この事故を機に、可燃物など危険物の持ち込み禁止、乗降ドアの改良、非常口の設置、窓枠保護棒の撤去など保安基準が強化された。

長期労働争議

1953年(昭和28年)6月、労働組合から賃上げ要求があったが、会社はバス炎上事故の補償などで資金難に陥っており、満額要求には応じられなかった。幾度の団体交渉も不調に終わり、同月15日より貸切バス乗務拒否、17日に時間外勤務拒否など労働争議に発展した。22日になり会社は増額回答したが組合は納得せず、23日に24時間ストライキ、翌24日から無期限ストライキに突入した。一部組合員が拒否したため営業所によっては通常運行を確保できたが、組合員の中でもストライキ賛成派と反対派の対立が激化。賛成派支援団体の扇動もあって長期化など事態は深刻化した。

長期化するストライキに対して沿線住民からは批判の声が高まり、また組合内部でも支援団体の強い扇動に批判が出るようになった。北海道労働委員会があっ旋に乗り出す意向を見せたが組合は応じず、会社も中途半端な妥協はしないと膠着状態になり、小樽市長などから早期解決を要請される事態となった。

労使双方の代表者が非公式に接触し、解決の糸口として第三者を交えずお互いに腹を割って話し合う機運が芽生えた。7月2日から小樽市内のホテルで支援団体などを交えず非公開で団体交渉を行った。会社の提示を組合が受け入れ、労使双方が信頼関係のもとで話し合うことが大切であるという教訓を残し、11日間にわたるストライキに終止符を打った。

労使双方ともに痛手を負ったこの争議以降は労使協調路線をとり、ストライキは発生していない。分裂した労働組合は1971年(昭和46年)3月に一本化されている。

株買い占め事件

1957年(昭和32年)7月、社用で上京した社長の松川嘉太郎は、国際興業小佐野賢治の仲介により東京急行電鉄(東急)の五島慶太と面会した。五島は北海道のバス事業発展のために中央バスを通じて投資したいから協力してほしいと申し入れたが、内心は中央バス株の買い占めであることを察知した松川はこれを断った。

1958年(昭和33年)8月、中央バスの株価が急騰。北海道博覧会開催による観光景気と見られていたが、実際は東急が買収工作を仕掛けていたためであった。360万株のうち中央バス役員などが約3分の1を持ち残りが社外であったが、このうちすでに40万株が東急に移っていると見られた。9月中旬には北海道の商工部長から、道内のバス事業者を資本豊富な東急の傘下に入れてはどうかと申し入れがあったが即座に断った。10月上旬に専務が上京した際には東急から役員を送り込みたいと持ちかけられたがこれも断った。

このような事態を重大視し、松川は朝里川温泉に全役員を集め事情を説明。10月23日に松川名で株主に対し東急に株を売り渡さないよう要請状を送り、同月28日に小樽で、翌29日に札幌で大株主を集め協力を要請した。どうしても売りたい場合は新たに設立した中央商事(現・中央バス総業)が東急と同じ価格で買い取るとした。労働組合も全面的に協力した。

残る社外株は従業員の縁故など小樽の人々で占められており、東急の影響を受けることはまずないとは考えられていたが、相手は会社乗っ取りで名を売った五島慶太。どんな術策で来るか計り知れないものがあった。小樽の人々は地元の企業を守ろうと中央バスに協力する者が多く動揺も最小限で済み、この状態に東急は歯が立たず買収を断念。心配された1959年(昭和34年)5月の株主総会も平穏に終わった。

東急が保有する中央バス株は、小佐野を通じて北炭観光(後の三井観光開発、現・グランビスタ ホテル&リゾート)に売却された。その三井観光開発保有株は1975年(昭和50年)に売却の申し入れがあり、北海道拓殖銀行北海道銀行などに引き受けてもらった。過半数は役員・従業員および中央バス総業が保有している。

経営基盤の強化

昭和30年代に入り、戦後の混迷期から立ち直り高度経済成長期を迎えた。中央バスの業績も急カーブで上昇し、路線バスは増車に次ぐ増車、貸切バスは観光ブームの効果で飛躍的な伸びを見せた。

路線網の拡大とともに施設の拡充も図られた。営業所へ乗り場の併設、つまりバスターミナル化は1951年(昭和26年)の月寒ターミナルが最初であるが、自動車ターミナル法が整備された1959年(昭和34年)以降は各営業所を法に基くバスターミナルに改築したほか、法に基かないがターミナルとして整備した施設もある。

女性の深夜勤務には制限があったが、乗客から終発繰り下げの要望もあった。1963年(昭和38年)4月1日に小樽市内線の最終便を30分繰り下げ午後10時30分としたが、これを機に午後10時以降の便で車掌を乗務させないワンマン運転を開始した。道路状況の改善でワンマン運転に支障がなくなったことや、路線・車両の増加による人件費の抑制に効果を発揮。以降道路状況が改善された路線を随時ワンマン運転に切り替え、1972年(昭和47年)をもって女性車掌の採用を終了。後に定期観光バス以外全路線がワンマン化された。

営業所など施設の増改築が相次いでいた昭和40年代前半は神武景気の効果も終わりを告げ、1973年(昭和48年)には追い討ちをかけるよう第一次オイルショックが発生。全国に不況の波が押し寄せた。石油依存のバス事業は原油高等で打撃を受け、燃料の節約、経費削減、合理化を訴えた。幹部社員の昇給辞退、不採算路線の見直し、営業所の統廃合、運賃値上げなどあらゆる手段を講じたところ、これらが実を結んで増収となる結果になった。

1979年(昭和54年)の第二次オイルショックでは、不採算路線の再見直しや運転操作の改善による燃費向上に努めたほか、燃料が大型の約半分で済む中型バスを導入し、燃料費節減に効果をあげた。

この頃から関連事業への進出を本格化し、ニセコアンヌプリスキー場の開発や小樽市より天狗山スキー場を譲受するなど観光開発のほか、建設業などに経営参画して「中央バスグループ」を構成。過疎やモータリゼーションの進行で利用者数に陰りが見え、頭打ち状態のバス事業以外で利益確保を行っている。

安定、更なる成長へ

昭和50年代後半から同60年代は札幌圏で各種博覧会や競技大会の開催が多く、会場輸送を担当するなど好調であった。1983年(昭和58年)11月に運行を開始した高速いわみざわ号など本格的な高速バス時代の幕開けもあったが、この好況は長続きせず、貸切バス事業の合理化や全路線の60 %を占める過疎路線の整理など、健全経営体質づくりを進めることが課題となった。

貸切バス事業は北海道観光に支えられ1990年(平成2年)は改善されたが、円高ドル安による海外旅行ブームで翌年に再び悪化した。加えて貸切バス事業の新規参入自由化により台数増や価格破壊など競争が進み、他社よりコストの高い中央バスの経営を圧迫するようになってきた。貸切事業検討委員会を設け営業体制の強化やコスト切り下げが行われ、後に中央観光バスを設立している。

路線バス事業の過疎路線問題は深刻で、見直しが避けて通れない状況になった。1990年(平成2年)に北空知バスを設立し、深川市など空知地方北部の路線を同社に譲渡。地域密着型の運営やコスト削減に効果を発揮した。

このほかにも関連事業の強化や長沼ターミナルの譲渡、都市間高速バスの共同運行化、新千歳空港連絡バス路線見直しなどコスト削減と同時に利便性向上などのあらゆる対策を講じている。

年表

事業所

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本社(本店)
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札幌の本社機能やバス事業部が入る札幌ターミナル

2020年(令和2年)12月1日現在、すべて北海道に所在。

本社(本店)
小樽市色内1丁目8-6
札幌(経営企画本部)
札幌市中央区大通東1丁目3
  • 経営企画室、輸送安全対策室、バス事業部、整備部、運輸部、関連事業部

営業所・ターミナル

営業所には主な一般路線運行区域を示す。路線については各営業所記事を参照。

小樽事業部、札幌事業部、空知統括事務所(旧・空知事業部)は、バス事業部として統合された。管内節分けは旧事業部・事務所管轄による。

小樽管内

小樽事業部が置かれていた真栄営業所
真栄営業所
小樽市真栄1丁目7-7
おたもい営業所
小樽市オタモイ1丁目4-10
  • 小樽市
余市営業所
余市郡余市町梅川町775
  • 余市町・小樽市・古平町・積丹町・赤井川村
岩内営業所・岩内ターミナル
岩内郡岩内町字万代51-22
小樽ターミナル
小樽市稲穂2丁目22-10

札幌管内

停留所一例(一番左)
平岡営業所
札幌市清田区平岡3条1丁目1-20
  • 札幌市(主に豊平区、清田区)
西岡営業所
札幌市豊平区西岡491
  • 札幌市(主に豊平区、南区)・定期観光バス
大曲営業所
北広島市大曲工業団地1丁目9-2
白石営業所
札幌市白石区川北2254-7
札幌東営業所
札幌市東区東苗穂2条2丁目3-1
  • 札幌市(主に東区)
  • 旧札幌市営バス営業所
札幌北営業所
札幌市東区北49条東2丁目1-1
  • 札幌市(主に北区)・都市間高速バス
新川営業所
札幌市 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2021/03/05 13:21

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