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北海道拓殖銀行とは?

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株式会社北海道拓殖銀行
The Hokkaido Takushoku Bank, Ltd.


旧北海道拓殖銀行本店

種類
株式会社
【市場情報】
東証1部 8312
1949年5月16日 - 1998年8月27日
大証1部(廃止) 8312
1961年10月2日 - 1998年8月27日
札証 8312
1950年4月1日 - 1998年8月27日

【略称】
拓銀(たくぎん)
【本社所在地】
日本
060
札幌市中央区大通西3丁目7番地
【設立】
1900年(明治33年)4月1日
業種
銀行業
【代表者】
河谷禎昌(頭取)
【資本金】
1,237億円
【従業員数】
2,950名
【外部リンク】
http://www1.mediagalaxy.co.jp/takugin/
特記事項:経営指標は全て1997年(平成9年)11月現在。
北海道拓殖銀行のデータ
【英名】
Hokkaido Takushoku Bank
統一金融機関コード
0012
SWIFTコード
HTAKJPJT
【店舗数】
195店
(道内132店、道外63店)
【貸出金残高】
5兆9,838億円
【預金残高】
5兆9,006億円
特記事項:
経営指標は全て1997年(平成9年)11月現在。
2006年(平成18年)1月31日に法人格抹消。

株式会社北海道拓殖銀行(ほっかいどうたくしょくぎんこう、英語: The Hokkaido Takushoku Bank, Ltd.)は、かつて存在した日本の銀行第二次世界大戦終戦までの特殊銀行であり、その業務を継承して1998年(平成10年)まで存在した都市銀行である。通称は北海道外のマスコミや業界内では北拓(ほくたく)とも呼ばれていたが、一般には拓銀(たくぎん)と呼ばれ浸透、道内の一般市民の間でも「拓銀さん」と呼ばれ生活の中で親しまれていた。

目次

  • 1 特徴
  • 2 沿革
    • 2.1 特殊銀行として発足
    • 2.2 戦前の歴代頭取
    • 2.3 普通銀行への転換
  • 3 バブル景気
    • 3.1 不動産開発路線
    • 3.2 総合開発部の融資
      • 3.2.1 カブトデコム
      • 3.2.2 ソフィア
      • 3.2.3 イージー・キャピタル・アンド・コンサルタンツ
      • 3.2.4 三貴
      • 3.2.5 興隆富士商
      • 3.2.6 ミヤシタ
  • 4 経営破綻
    • 4.1 不良債権の急増
    • 4.2 不良債権処理
    • 4.3 経営危機の表面化
    • 4.4 道銀との合併構想の破談
    • 4.5 資金調達の難航
    • 4.6 営業譲渡先の模索
    • 4.7 北洋銀行への営業譲渡
    • 4.8 破綻の日
  • 5 破綻後
    • 5.1 営業譲渡処理
    • 5.2 道内店舗
    • 5.3 道外店舗
    • 5.4 システム統合
    • 5.5 元行員の再就職
    • 5.6 道内企業への影響
      • 5.6.1 一般企業
      • 5.6.2 金融機関
        • 5.6.2.1 信用組合
        • 5.6.2.2 信用金庫
    • 5.7 責任追及
  • 6 スポーツ事業
    • 6.1 社会人野球
    • 6.2 スキージャンプ
  • 7 在職した著名人
  • 8 その他
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

特徴

札幌市に本店を置き北海道を地盤としていた。道外では東京埼玉千葉神奈川宮城愛知大阪京都兵庫の各都府県に支店を置き、香港ニューヨークにも海外支店を置く大手銀行の一つであったが、都市銀行として一番小規模な銀行でもあった。

1997年(平成9年)11月17日に経営破綻、1998年(平成10年)11月に北洋銀行および中央信託銀行(中央三井信託銀行を経て現:三井住友信託銀行)へ事業を譲渡した。1999年(平成11年)に法人解散、2006年(平成18年)に清算結了。

都市銀行としては戦後初、かつ現在、唯一の破綻銀行である。

経営破綻するまでは、現在の東京証券取引所札幌証券取引所に株式を上場していた。

沿革

特殊銀行として発足

明治期の北海道拓殖銀行

北海道開拓が進められていた明治初期、既に北海道には中小の民間銀行(釧路銀行根室銀行等)があったが、多くは小規模な水産業商業への融資にとどまり、高利貸しが幅を利かす地域もあった。1896年(明治29年)公布の農工銀行法により全国46府県に農工銀行が設置されたが、これは土地担保に融資を行うものであり、開拓途上で資本蓄積の乏しい北海道には、これに代わる特別の国策銀行が必要であるとされた。

このため1899年(明治32年)に北海道拓殖銀行法(拓銀法)を制定、これに基づく特殊銀行として1900年(明治33年)2月16日に北海道拓殖銀行が設立された(初代頭取曽根静夫)。当時の資本金は政府・道外資本を含む300万円、職員26名、本店は現在北海道電力本社がある札幌市中央区大通東1丁目。拓銀には金融債発行による資金調達が認められ、道外の潤沢な資金を供給する窓口となった。

こうして道内産業に長期・低利の融資を行ったが、この目的は「北海道ノ拓殖事業ニ資本ヲ供給スル」(拓銀法第1条)という広範囲なもので、拓銀は日本勧業銀行日本興業銀行に代わる役割も果たしていた(ゆえに、農工銀行の役割も果たしていたことから47都道府県中、北海道にのみ設置されなかった。当然、勧銀が受け皿支店を開設するということもなかった)。このため、勧銀・興銀の北海道進出が行われたのは実に戦後のことである。とは言え、道内の商工業は未成熟であり、やはり農業への融資がその大半を占めていた。大正中期には水田造成への融資が拡大した反面、冷害による凶作で延滞債権が増加し、昭和初期までに1万ヘクタールもの農地を担保として取得していた。

1939年(昭和14年)の拓銀法改正で、それまで債券発行による資金調達に基づく長期金融が中心だったのを、広く一般から預金を取り扱った上で短期金融の上限も撤廃された。この普通銀行及び貯蓄銀行業務の兼営で拓銀は急激に規模を拡大。第二次世界大戦に突入すると、戦時統合で北海道および樺太における普通銀行並びに貯蓄銀行を統合した。また、豊原支店を中枢として全資産の3割以上を樺太に有していた。北海道炭礦汽船や北海道配電(北電の前身)などの軍需産業へのシンジケートローンにも加わるようになった。

戦前の歴代頭取

【代】
【氏名】
【在任期間】
【出身地】
【出身校】
【前職・備考など】

【1】
曾根静夫 | 1900年2月16日 - 1903年5月31日 | 千葉県鋸南町 |  | 大蔵省国債局長
台湾総督府民政局長
山形県知事
【2】
美濃部俊吉 | 1903年7月30日 - 1916年11月2日 | 兵庫県高砂町 | 帝国大学法科大学 | 大蔵省理財局書記官
朝鮮銀行総裁
法学博士美濃部達吉の兄
【3】
水越理庸 | 1916年11月24日 - 1924年8月22日 |  | 明治大学中退 | 大蔵省官僚
朝鮮銀行理事
【4】
加藤敬三郎 | 1924年9月16日 - 1927年12月8日 | 愛知県 | 日本法律学校 | 逓信省九州逓信局長
朝鮮銀行総裁
【5】
松本脩 | 1928年1月13日 - 1936年2月15日 | 奈良県 | 帝国大学法科大学 | 大蔵省銀行局
【6】
岡田信 | 1936年2月17日 - 1941年1月5日 | 滋賀県守山市 | 帝国大学法科大学 | 大蔵省銀行局特別銀行課長
台湾総督府財務局
満州興業銀行総裁
【7】
永田昌綽 | 1941年1月5日 - 1947年4月9日 |  |  | 初の北海道拓殖銀行出身頭取
北海道曹達社長

戦後1946年(昭和21年)、GHQにより一時業務停止を宣告され、1950年(昭和25年)の拓銀法廃止により特殊銀行としての使命を終えた。

普通銀行への転換

拓銀法廃止を控えた1949年(昭和24年)には、政府保有株式を放出し東京証券取引所上場していた(証券コード:8312)。翌1950年(昭和25年)、旧拓銀の普通銀行業務を継承し、正式に民間銀行として再発足。1952年(昭和27年)をもって開業以来の拓殖債券(金融債)の発行を停止し、この機能は日本長期信用銀行へ移った。1955年(昭和30年)には発行済債券をすべて償還、同時に全国地方銀行協会を脱退し都市銀行の仲間入りを果たした。

この中で本州への出店や海外拠点の整備を進めつつも、やはり拓銀は北海道における密接な地域的基盤に成り立つ銀行であり、北海道の大多数の家庭・企業が「拓銀さん」に預金口座を持ち、金額や内容を問わず「拓銀から融資を受けている」「拓銀に当座預金口座を持っている」ことがその企業の信用度を測るバロメーターであると同時に経営者のステータスとなるほどだった。北海道札幌市を始めとする道内市町村のほとんどから指定金融機関の指名を受け、都銀13行中最小の規模ながら「道民銀行」としての地位を確立、1965年(昭和40年)3月まで、北海道宝くじの発行も受託していた。

戦時中に着手した重厚長大産業への融資も引き続き斡旋され、産炭製紙製糖など、その後主要な取引先となる企業への融資も増えた。貸出金の4割を法人部門が占めた時期もあり、普通銀行・都市銀行への転換とともに営業基盤は拡大。製造業の弱い北海道経済を支える存在となっていた。このため北海道財界に絶大な影響力を持ち、北海道経済連合会の歴代事務局長を輩出、北海道経済同友会代表幹事や北海道商工会議所会頭には拓銀頭取が幾度も就任した。

北海道財界が共同で出資・寄付する話が持ち上がると、拓銀・北電が負担割合を決定した上で、残りを他の企業に割り振るのが慣例となっていた。金融機関同士の案件の場合も、拓銀4 : 北海道銀行3 : 北洋銀行2 : 札幌銀行1の負担比率とするのが暗黙の了解だった。

高度経済成長期以降、首都圏(主に東京・埼玉)へ支店を多数出店するようになるが、東京都心部以外は郊外住宅地の駅近くに店舗を構えるパターンが多かった。

1962年(昭和37年)頃から、ヒグマをモチーフにした「たくちゃん」をキャラクターに制定。1989年(平成元年)からサンリオの「みんなのたあ坊」をキャラクターに採用、1990年代には菅野美穂渡辺満里奈、北海道が舞台のテレビドラマ北の国から』に出演した吉岡秀隆、北海道出身の益田喜頓らをCMキャラクターに採用していた。テレビCMにおけるキャッチコピーは「あなたの夢 お預かりいたします」「あなたの物語、お預かりします」であったが、印刷物においては70年代より破綻時まで「こまやかな おつきあい」をキャッチコピーとしていた。

バブル景気

不動産開発路線

拓銀では長らく大蔵省出身の頭取が続いていたが、1977年(昭和52年)に五味彰が生え抜き2人目の頭取に、1983年(昭和58年)に鈴木茂が生え抜きとして3人目の頭取に就任した。生え抜きの頭取が二代続けて誕生したことで、行内は業容拡大への盛り上がりを見せる。邦銀は1985年(昭和60年)頃より、バブル景気に乗って不動産融資に注力し、地価の高騰は首都圏から三大都市圏を中心として日本全国へ広まっていった。だが北海道の場合、景気の波は都市圏よりも遅れてたどり着く。他の都銀同様、拓銀も道外の拠点だった東京営業部や大阪支店を通じて不動産融資を始めたが、これが本格化したのは1988年(昭和63年)頃のことで、一足出遅れた格好となった。既に収益競争に突入していた他の都銀との差は広がり、振り向けば横浜銀行千葉銀行などの上位地方銀行に追い上げられ、拓銀の焦りが募っていた。鈴木頭取は拡大路線をとった。

通常の銀行業務なら、土地の評価額の70%程度しか融資を行わないが、バブル期は今後の地価高騰も見越して、その時の評価額の120~130%もの融資を行っていた。当時の金融機関の多くが同様の融資形態を取っていたが、拓銀は進出が後発だったため、融資の際、他の金融機関がすでに担保としている土地に、劣後順位で担保設定せざるを得なかった。これは借り手の不動産会社が破綻した際、回収可能分が減ることを意味し、後に現実のものとなる。

これらの背景にあったのは1989年から構想され1990年(平成2年)に策定された「たくぎん21世紀ビジョン」である。1989年頭取に就任した山内宏が鈴木前頭取の拡大路線を受け継ぎ、米国コンサルティング会社マッキンゼーに依頼したもので、当初は「道内でのリーディングバンク」「本州でのニューリテール(富裕層向け資産運用)」「アジアでの海外戦略」を三本柱とするものだったが、拓銀幹部の提案により「企業成長・不動産開発支援(インキュベーター)」が最終案に付け加えられた。頭取時代に拡大路線を決定した鈴木茂会長、80年代後半にインキュベーター路線の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、「たくぎん21世紀ビジョン」がスタートした1990年(平成2年)に陣頭指揮をとった海道弘司常務の3人は「SSKトリオ」と呼ばれた。この「SSKトリオ」が事実上人事権を掌握し、ワンマン体制を作り上げ、拓銀の拡大路線を推し進めていった。

総合開発部の融資

「21世紀ビジョン」で付け足しに過ぎなかったはずのインキュベーター戦略は、北海道へのバブル到達とともに主役と見なされるようになり、これを担う「総合開発部」が拓銀に新設された。総合開発部には渉外・契約を担当する業務推進グループと、融資の適正を検査する審査グループがあった。しかし人員配置は業務推進8名に対し審査2名と、審査機能が極めて軽視されていた。

また、総合開発部は第1部と第2部に分かれ、それぞれ札幌と東京を受け持っていた。既に総量規制の通達が出され、地価も日経平均株価も下落に転じており、東京の第2部は肌身にバブルの終焉を感じていた。第2部は不動産融資の凍結を決定したが、第1部には危機感が通じず、第2部は1991年(平成3年)10月に設置1年で廃止。一方の第1部は、ますます勢いに乗って乱脈融資を広げる。特に、カブトデコムとソフィアの2社への融資は、その後大きく不良債権へと変貌した。

カブトデコム

詳細は「カブトデコム」を参照

もとは兜建設として創業されたカブトデコム(カブト)は、1988年(昭和63年)に現商号に変更。その名の通り本来は建設業だったが、土木工事から不動産の売買・賃貸へと年を追って業態が変化していった。率いていたのは44歳の若き社長・佐藤茂で、1984年頃から拓銀との人脈を形成していた。北海道の建設業者がもっぱら公共事業の受注を収益の柱とする中、カブトは「民間物件の開発提案企業」を掲げ、急成長を遂げていた。1989年に154億円だった売上高は、1990年(平成2年)には418億円、1991年(平成3年)には1,009億円と千億の大台に乗せ、株式の店頭公開も実現。1989年の初値が2,300円だったカブト株は、1990年(平成2年)に4万1,400円にまで上昇した。

同時期に進められていたのが、カブトの総力をかけた総事業費1,000億円のリゾート計画「ホテルエイペックス洞爺」であり、拓銀の全面的なバックアップがついていた。拓銀は単純な資金提供に留まらず、計画段階から行員を派遣し、リゾート会員権を拓銀傘下の「たくぎん保証」が販売保証するなど、密接な関係にあった。

ソフィア

ソフィアの創業者は理容師の中村揚一である。倶知安町に生まれ、貧しい家庭で育った中村は旺盛な向上心を持ち、1972年(昭和47年)、札幌駅近くのホテルに「サウナのある理容室」を開業。奇抜な店舗展開で、道内外に30店を構える「ソフィア中村チェーン」を築いた。

1980年代の半ば、拓銀は中村と接触している。拓銀は道内の成長企業発掘を進めており、ソフィアの評判を聞いて近づいたのだった。ソフィアのメインバンクは当初北洋相互銀行だったが、急拡大を続けるソフィアに北洋側が懸念を示していた。拓銀・ソフィア両者の思惑は一致し、ソフィアのプロジェクトに拓銀は潤沢な融資を行った。

特に札幌市北区における大規模再開発事業を打ち出し、まず1988年(昭和63年)にドイツクアハウスをモデルとした健康リゾートホテル「札幌テルメ」を開業。1991年(平成3年)には隣接地に地上11階建ての「テルメインターナショナルホテル札幌」の建設に着手、1993年(平成5年)に開業。さらにはヤオハンと共同で巨大ショッピングセンター建設を計画するが、こちらはヤオハンの撤退により1994年(平成6年)に凍結。いずれも拓銀グループが資金を捻出し、総事業費1,000億円前後、総面積は90ヘクタールに及んだ。

イージー・キャピタル・アンド・コンサルタンツ

イージー・キャピタル・アンド・コンサルタンツは焼き鳥屋チェーン「五えんや」の創業者垣端(中岡)信栄が1983年(昭和58年)に設立した会社である。

実際の融資は、拓銀関連会社のノンバンクであるエスコリースが行う形で融資がなされていた。同社は中小企業に融資しコンサルタントも行う会員制中小企業金融という仕組みでコンサルタント料と貸付業務で利益を得る会社であった。

しかし、垣端信栄は付き合いのある人間に金をばら撒いて結果的に370億円の使途不明金が発生したほか、本業の中小企業向け融資もバブル経済があってこその企業ばかりで融資も焦げ付くようになり、1993年(平成5年)12月に和議を申請し、その後は貸付債権の回収業務に専念していたものの、2001年(平成13年)3月には和議による再建を断念し自己破産を申請した。負債総額は3200億円で、エスコリース向けの債務は3000億円であった。

三貴

詳細は「三貴」を参照

三貴は、宝飾品婦人服子供服の製造小売業として1965年(昭和40年)に設立。早稲田大学大学院大学院生であった木村和巨が自宅で開業した宝石販売業が起源で、木村の融資要請に唯一応じたのが北海道拓殖銀行神田支店であった縁で、同社のメインバンクとなる。バブル景気に乗じて急成長した背景には、拓銀の支援があったことが極めて大きい。また、拓銀出身の役員が多数派遣されており、極めて緊密な関係にあった。しかし、バブル崩壊後経営は悪化し、1997年(平成9年)にはアパレル部門から完全撤退。その後宝石小売に特化したものの業績を回復することができず、拓銀の破綻に伴い致命的な打撃を受ける。 2009年(平成21年)1月21日東京地方裁判所民事再生法の適用申請を行い、負債総額約117億円を残して経営破綻。

興隆富士商

株式会社興隆富士商は、札幌市で不動産分譲・賃貸、ラブホテル経営を主な業務として1974年に設立。最盛期には29億円を売上げたがバブル崩壊後は多額の金利負担から資金繰りに行き詰り、2000年5月9日に二回目の不渡りを出し銀行取引停止処分となり、2002年09月26日に札幌地裁から破産宣告を受け倒産した。負債総額は230億円であった。

社長は、拓銀の関連会社たくぎんファイナンスからの融資を返済する際に担保物件の任意売却額を偽り、根抵当権を不法に抹消させたとして、2000年2月に詐欺の疑いで逮捕された。また同社は、かつての拓銀首脳の個人的スキャンダルを把握したことにより、拓銀からの巨額の不明朗な無担保融資を引き出したとされ、道内金融関係者の間では「拓銀破たんの源流」とも呼ばれた。

ミヤシタ

株式会社ミヤシタは、帯広市に本社を置き、内装、看板工事を主な業務して1971年3月に設立。1978年からは長崎屋の北海道における指定事業者になり、北海道の長崎屋と関連会社の内装工事をほとんど受注する関係となった。1987年11月にミヤシタから長崎屋株の仕手戦の資金として20億円の借り入れ申し込みを行なうものの、仕手株の融資は社会的に問題があるとの理由で直接の融資は行なわれなかったが、その際に既存借入の実績を理由に7億円(翌年には9億円に拡大される)の運転資金限度枠を設ける事により、事実上、仕手戦の資金とされること容認した。

平成に入ってからは、子会社である有限会社コウシン商事が1988年以降に行なっていた小豆相場取引を本格化するために、1989年1月から2月にかけて拓銀に対し小豆相場運転資金の融資を申し込み、合計27億5000万円の融資を実行したが、翌年の1990年3月までに小豆相場の損失が16億5000万円が発生する事となる。

10月には小豆相場での損失を挽回するために乾繭(かんけん)現物取引を画策し、その必要資金として15億円(その後24億まで拡大される)の融資を依頼したが直接の融資は不可能とされ、子会社のたくぎんファイナンスサービスが融資をする事となったが、乾繭取引も失敗に終わり1992年に事実上倒産した。

経営破綻

不良債権の急増

1990年代に入り、バブル崩壊が起き、拓銀の不良債権も急増する。

カブト・ソフィアへの融資で建てられたホテルは採算性ゼロ、加えてホテルマンとしては素人である拓銀行員が従業員に加わっていたため、営業するだけ赤字は拡大していった。目立った客は「拓銀○○支店ご家族一行様」であり、1994年(平成6年)の宿泊者数は目標の半分に過ぎない5万7,000人。拓銀はすぐに潰して償却するという選択をせず、延命資金を追加注入し、不良債権はさらに増加していった。

拓銀からカブトへの直接の融資は500億円程度とされていたが、傘下企業同士を含める総体は数千億円規模に膨らんでいた。1992年(平成4年)3月末には500億円の追加融資枠が設定され、第三者割当増資の引受もあり、最終的にカブトへの融資は2,803億円、カブトによる関連会社への債務保証も1,000億円を超えていた。拓銀側も「実質的にカブトは債務超過」と認めたが、融資の中にはペーパーカンパニーを通したものもあり、すぐにカブトに倒産されては不正の実態が明るみに出てしまう。この責任問題を恐れた拓銀は、表面上は再建支援を装いつつ、自らへの悪影響を減らしながらカブトを数か月かけて倒産に導く方向で動き出す。

1992年(平成4年)には拡大路線を進めてきた「SSKトリオ」の最も下であった海道弘司常務が乱脈融資の責任をとらされるかたちで常務を退任し、関連会社タクトの社長に就任した。同年に、頭取時代に拡大路線を採用し「SSKトリオ」の長として長らく人事権を掌握していた鈴木茂会長も、取締役相談役に退いた。「SSKトリオ」は崩壊し、行内での影響力を失った。1994年(平成6年)にはインキュベーター路線を推し進めていた総合開発部が廃止され、インキュベーター路線の破綻が完全に明らかになった。

不良債権処理

1992年(平成4年)10月に山内宏頭取らが集まって拓銀本社で開かれた経営会議で、カブトを倒産に追い込むことが決定された。1993年(平成5年)3月の年度末を挟んだ前後に、拓銀から傘下のダミー会社を通じた巨額の資金移動がなされている。総額400億円にも上る融資はダミー会社を素通りし、即日カブトのグループ企業へ流された。これはカブトへの支援にも見えるが、最終的にこれらはカブトグループによる拓銀系ノンバンクからの借入返済に充てられ、系列ノンバンクの経営危機は覆い隠されることとなった。こうして不良債権の「飛ばし」を行うと同時に、ダミー会社はカブト保有不動産も買い漁っていた。数か月後のカブト倒産に備えて、優良資産を拓銀のものにする狙いがあった。1992年(平成4年)にアワジ商会、ミッテル、もりに商事、ローレイなどという名で設立された拓銀傘下のダミー会社は30社前後もあったとされる。

6月になると拓銀とカブトの断絶は鮮明となる。カブトグループの中でも収益力のある甲観光・兜ビル開発の2社を実質的に乗っ取り、傘下に収めていた。この2社の取締役を全員追い出した上、担保権を行使しカブト保有の2社の株式を拓銀名義に書き換え、極めつけはカブトの佐藤社長を札幌地方検察庁約束手形の偽造を理由に告訴・逮捕させた。拓銀は告訴の取り下げと引き換えに、カブトに社長退陣などの全面降伏を迫った。

社長の刑事告訴は大きなダメージであり、拓銀の資金援助無しでは存続が危ういという劣勢にあったカブトはこの条件を飲む。これを受けて拓銀は札幌地検に告訴取り下げを申し出るが認められず、地検は「告訴を取り下げるなら拓銀首脳の特別背任罪を立件する」という趣旨を伝えた。つまり拓銀はカブトを上手く誘導したつもりでいながら、自身も検察にマークされていたのである。

一方で、1994年(平成6年)9月大蔵省検査で、ソフィアグループ向け融資に関しての指摘を受けたものの、その後も100億円の融資を続けるなど、不良債権処理には一貫性がなかった。このソフィアグループ向け融資のうち87億円分に関しては、拓銀破綻後、歴代2頭取に対する商法違反(特別背任罪)容疑での告発が行われた。

経営危機の表面化

1994年(平成6年)1月週刊現代に「拓銀解体の衝撃シナリオ」と題する記事が掲載され、初めてマスコミから「危ない銀行」として明確に名指しされた。北海道からもバブル景気の波が完全に引いたこの年、拓銀が信用回復に乗り出そうとした矢先、本州では数十億円単位で預金を下ろす企業も現れた。同年4月、乱脈融資の中心となっていた総合開発部を廃止する。

1994年(平成6年)の年末には大蔵省から「決算承認銀行」の指定を言い渡され、金融当局の強い管理下に置かれることとなる。この事実は極秘事項となり、顧客・株主は勿論のこと、行員も上層部を除いてほとんど把握していなかった。翌1995年(平成7年)5月に発表した3月期決算では、設立以来95年で初の赤字に転落。夏にはムーディーズから、「非常に弱い財務内容・何らかの外部の支援を要する」とされるEランクの格付けを与えられた。

1996年(平成8年)末、報道機関の間には「大納会の後に拓銀が重大発表をする」「近く業務停止命令が出る」など不穏な噂が流れ始めた。年が明けた1997年(平成9年)になると銀行株は軒並み安値を更新し、特に拓銀株は外資系証券会社から大量の空売りを浴びせられ、18年ぶりに株価200円を割った。大口の機関投資家を中心とした預金解約が始まる。

2か月後のテレビ番組「サンデープロジェクト」で「株価から見て実質的に破綻」という発言が放送されると、不安は小口の一般利用者にまで広がり、翌月曜日だけで10億円以上の預金が解約された。預金流出と経営不安がスパイラルとなっていた。

道銀との合併構想の破談

1997年(平成9年)3月、拓銀は貸出金総額に対する不良債権の割合が13.4%と、都銀の中で飛びぬけて多いことが分かり、経営不安と共に資金調達難が生じた。「大手20行は潰さない」との方針を持っていた大蔵省は、拓銀を、北海道第2の銀行であり藤田恒郎元大蔵省証券局長が頭取を務める北海道銀行(道銀)と合併させる方針をとった。道銀もバブル崩壊で、また道内第3位の北洋銀行との競合もあり経営が苦しかったため、拓銀が存続会社になり「新北海道銀行」として翌年4月に合併するという計画が発表された。

1997年(平成9年)3月15日、道銀の藤田頭取は地銀協の例会で東京に向かい、同日夜に宿泊先のウェスティンホテル東京501号室で拓銀の河谷禎昌頭取と会談をもった。藤田頭取は合併素案を記したメモを差し出し、河谷頭取もこれを了承。同席者はおらず、トップ2人だけの一晩の会談で銀行同士の合併が決定された。半月後の4月1日札幌グランドホテルで記者会見を開き、素案メモとほぼ同様の合併趣意書が発表された。新銀行の肩書きは都銀でも地銀でもない「スーパーリージョナルバンク」と言葉

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出典:wikipedia
2018/05/11 19:04

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