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北海道日本ハムファイターズとは?

北海道日本ハムファイターズ
会社名 株式会社北海道日本ハムファイターズ
創設 1945年11月6日 (1945-11-06)
今シーズン
2019年の北海道日本ハムファイターズ
ロゴデザイン

所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

セネタース(1946年)
東急フライヤーズ(1947年)
急映フライヤーズ(1948年)
東急フライヤーズ(1949年 - 1953年)
東映フライヤーズ(1954年 - 1972年)
日拓ホームフライヤーズ(1973年)
日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年)
北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 現在)


本拠地
札幌ドーム(北海道札幌市豊平区)

収容人員 固定客席:40,476人
フィールドシート:202人
車椅子用席:117人
ファミリーシート:50人
立ち見・VIP席:不明
フランチャイズの遍歴

東京都(1952年 - 2003年)
北海道(2004年 - 現在)


永久欠番

100:大社義規



獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)

2006


日本一(3回)

リーグ優勝(7回)

セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回)
(2015年から2018年までは最高勝率)


成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

日本シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(9回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

4勝5敗


プレーオフ(2004-2006)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝1敗


プレーオフ(前後期制)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1勝1敗




球団組織
オーナー 畑佳秀
運営母体 日本ハム
監督 栗山英樹

株式会社北海道日本ハムファイターズ
HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS
種類
株式会社
【略称】
HNF、日本ハム、日ハム、ファイターズ
【本社所在地】
日本
062-8655
北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地
(札幌ドーム内)
【設立】
2003年8月
業種
サービス業
法人番号
3430001028820
【事業内容】
プロ野球球団の運営
【代表者】
畑佳秀(取締役オーナー)
竹田憲宗(代表取締役社長)
【資本金】
2億円
【純利益】
7億4000万円(2018年12月31日時点)
【純資産】
87億1300万円(2018年12月31日時点)
【総資産】
115億5700万円(2018年12月31日時点)
【決算期】
12月末日
【主要株主】
日本ハム
ほか(#グランドパートナーを参照。)
【関係する人物】
大社啓二(取締役オーナー代行)
【外部リンク】
https://www.fighters.co.jp/
特記事項:2004年に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。
日本ハム球団株式会社
NIPPON-HAM BASEBALL CLUB
種類
株式会社
【本社所在地】
日本
106-0032
東京都港区六本木6-1-20
【設立】
1946年12月18日
業種
サービス業
法人番号
3430001028820
【事業内容】
プロ野球球団の運営
【代表者】
清算人 山崎信也
【資本金】
1000万円(特別清算実施時点)
【決算期】
12月末日
【主要株主】
日本ハム 100%
【関係する人物】
大社義規
特記事項:(法人名遍歴)
設立当初「セネタース野球協会」
1946年「東急ベースボール倶楽部」
1948年「東急大映野球」
1949年「東急ベースボール倶楽部」
1954年休眠会社扱い。運営母体は事実上「東映興業」へ移譲。
1973年「日拓ホーム野球」
1974年「日本ハム球団」
2004年6月14日付をもって特別清算(法人格消滅)
※新法人「株式会社北海道日本ハムファイターズ」の新設

北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、英語: Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。

北海道フランチャイズとし、本拠地札幌ドームとしている。旭川スタルヒン球場や、函館オーシャンスタジアム帯広の森野球場釧路市民球場でも毎年公式戦を開催している(後述)。

千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズタウンには、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地であるファイターズスタジアムや、室内練習場、選手寮があり、関東地方におけるチームの拠点となっていた。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 東京時代
      • 1.1.1 セネタース - 東急時代
      • 1.1.2 東映時代
      • 1.1.3 日拓ホーム時代
      • 1.1.4 日本ハム(後楽園)時代
      • 1.1.5 東京ドーム移転後
    • 1.2 北海道時代
      • 1.2.1 ヒルマン監督時代
      • 1.2.2 梨田監督時代
      • 1.2.3 栗山監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
    • 3.2 2000安打達成者
    • 3.3 無安打無得点試合達成投手
    • 3.4 サイクル安打達成打者
  • 4 歴代本拠地
  • 5 歴代監督
  • 6 永久欠番
  • 7 ユニフォームの変遷
    • 7.1 ユニフォーム(一軍)
      • 7.1.1 東京時代
      • 7.1.2 札幌時代
      • 7.1.3 限定ユニフォーム
      • 7.1.4 復刻ユニフォーム
    • 7.2 ユニフォーム(二軍)
  • 8 球団旗の変遷
  • 9 マスコット
  • 10 チームの特徴
    • 10.1 東京時代
    • 10.2 札幌時代
      • 10.2.1 情報システム
      • 10.2.2 球団の観客増加戦略
      • 10.2.3 ドラフト戦略
  • 11 チームスローガン
    • 11.1 東京時代
    • 11.2 札幌時代
  • 12 主なキャンプ地
  • 13 主な出資企業
    • 13.1 ゼネラルパートナー
    • 13.2 グランドパートナー
  • 14 主な歴代の球団歌・応援歌
    • 14.1 年度別イメージソング
  • 15 応援スタイル
  • 16 キーワード
    • 16.1 深夜のダブルヘッダー
    • 16.2 7種類のユニフォーム
    • 16.3 オールスター組織票問題
    • 16.4 ラッキー7を他イニングに
    • 16.5 本拠地移転後の東京ドームの公式戦
    • 16.6 東京の球団から地域密着球団へ
    • 16.7 新球場建設構想
  • 17 放送
    • 17.1 テレビ
    • 17.2 ラジオ
    • 17.3 インターネット中継
    • 17.4 映画
    • 17.5 補足
  • 18 脚注
    • 18.1 注釈
    • 18.2 出典
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

球団の歴史

東京時代

セネタース - 東急時代

1945年11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタース( Senators企業名:セネタース野球協会)を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘飯島滋弥白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族西園寺公一オーナーに付け、銀座キャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登スポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。

東急・東映社史ではセネタースを青鞜と表記する場合がある。

1946年9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。苅田久徳を可愛がっていた猿丸元(のち、東急球団代表) が五島慶太の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め、同年12月18日東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。セネタースと東急との仲介の労をとったのは小西得郎浅岡信夫黒川渉三である。運営法人として、株式会社東急ベースボール倶楽部を設立。翌1947年の1月7日、球団名を東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。

1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers )に改称した。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。

この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は急映チックフライヤーズ( Kyuei Tic Flyers )となる。チックフライヤーズは、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( Otsuka Athletics )のチックを絡ませた名称だった。

フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区後楽園球場とする(1952年より、正式導入される)。

1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。

1950年

パ・リーグ参戦初年度のシーズンは7球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。

1952年

大下との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍。入れ替わりで西鉄から移籍した深見安博が本塁打王となる。

1953年

9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。

東映時代

1954年

1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社 に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。

1959年

後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。

1960年

12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。

1961年

それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わるが、他の5球団に勝ち越す。張本が初の首位打者を獲得。

1962年

東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。同年年頭、大川はワシントンハイツ多摩川園のいずれかへの新球場建設の将来構想を語った が、結局は実現しなかった。水原監督の下で土橋正幸尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手 (MVP)土橋正幸種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。

1964年-1967年

国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男白仁天毒島章一大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。大川は野球が好きで、当時の東映の新作の広告には「映画は東映 野球も東映」というキャッチコピーも添えてはいたが、もともと無駄な補強費を使わなかった大川は球団に金を使いたがらなかった。元巨人の名監督ということで年俸の高かった水原は1967年に監督を解任された。

1968年

大下弘が監督に就任。大川オーナーは「門限なし、罰金なし、サインなし」という球史に残る"三無主義"を打ち出す。しかし川上巨人のような緻密な野球が主流となりつつあった時代に、大下が現役だった頃のような野武士野球をやっても勝てるわけがなく、大下はシーズン途中で休養、球団史上初の最下位に終わる。

1969年

松木謙治郎が監督に就任。外野手の毒島章一が、コーチ兼任で松木を支えた。投手陣では、この年に日通浦和から入団した金田留広(金田正一の実弟)が18勝、2年目の高橋直樹が13勝をマーク。チームは前半戦をAクラスで終えていたが、後半戦は4位に終始した。

1970年

黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。7月30日開幕の後期からは、松木の休養に伴って、ヘッドコーチの田宮謙次郎が監督代行を務めた。

1971年

田宮が一軍監督、岡田茂が東映本社の社長へ就任する一方で、球団の経営に熱心だったオーナーの大川がシーズン中の8月17日に急逝。この事態を受けて、大川の長男・毅が球団オーナーに就任した。

投手陣では、高橋善正が8月11日の対西鉄戦で完全試合を達成。打線は、5月3日の対ロッテ戦(東京スタジアム)の延長10回表に代打・作道烝の満塁本塁打で勝ち越すと、続く大下、大橋穣、張本、大杉もソロ本塁打を放ったことによって、NPB公式戦新記録の5者連続本塁打を達成した。もっとも、この試合に大勝するまで9連敗を喫するなど、チームはシーズン序盤から下位に低迷。結局、5位でシーズンを終えた。

シーズン終了後には、大橋と種茂が、阪本敏三との交換トレードで阪急へ移籍。この年の春季キャンプ直前に熊谷組からドラフト外で入団した江本孟紀も、1シーズン在籍しただけで、高橋博士との交換トレードによって、佐野嘉幸と共に南海へ移籍した。

1972年

高橋善正が7試合連続完投勝利、大杉が8月に月間15本の本塁打を記録するなど活躍。6月に一時2位へ浮上したが、シーズンの最終順位は4位で、2位・近鉄および3位・南海とわずか1ゲーム差だった。なお、高橋はシーズン終了後に巨人へ移籍した。

その一方で、球団を所有する東急の五島昇(東急社長)と岡田は、大川色の強い球団の体質や、年間で3億円の赤字を出すほどだった球団の採算性を問題視。五島自身が野球を嫌っていたことや、東映自体の経営再建が急を要していたこともあって、球団経営権の売却を模索するようになった。なお、当初はパイオニアとの間で売却交渉を進めていたが、同社は10月21日に買収の断念を決めた。

日拓ホーム時代

1973年

1月16日に、球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を、親会社の東京急行電鉄が東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝 の経営する不動産会社日拓ホームへ球団を売却した。売却額は3億円で、日拓ホームは買収を機に、球団の商号を日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers )に改称。2月7日のパ・リーグ実行委員会で、球団名の変更が承認された。

岡田・五島・西村はいずれも「亀清会」(雑誌『経済界』主幹の佐藤正忠と東急エージェンシー社長の前野徹が主宰していた若手実業家の親睦会)のメンバーで、岡田が1972年12月の例会で東映フライヤーズの売却計画を他のメンバーへ打ち明けたことを機に、日拓ホームの知名度と企業イメージの向上を目論んでいた西村と意気投合。日拓ホームの関連会社・日拓観光の硬式野球部が当時社会人野球に参加していたことや、社会人野球のチームを保有した経験のある企業の社長(丸井青井忠雄日本熱学工業牛田正郎)も「亀清会」のメンバーだったことから、一時は牛田の提案で「輪番制」(会員企業による数年単位の持ち回り)による球団運営も検討されていた。結局、佐藤や前野が西村を説得した末に、日拓ホームが単独でフライヤーズの受け皿になった。

新オーナーの西村は、「黒い霧事件」の後遺症でセ・リーグとの人気の差が埋めがたいほど大きくなっていたパ・リーグに活気を取り戻そうと、球団の運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出した。後期にはホーム・ビジター合わせて7種類(7色)のユニフォームをナインに日替わりで着用させたが、後期途中の9月中旬に日本熱学工業によるフライヤーズの買収説が報じられたことをきっかけに、NPBの1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策。10月にはパ・リーグのオーナー懇談会で南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、他の球界関係者からの協力を得られず、合併は調印寸前で破談に至った。このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。日拓ホームフライヤーズとしての最後の試合は、11月11日に愛知県豊田市で開かれた中日ドラゴンズとのオープン戦であった。

なお、パ・リーグはこの年から1982年まで、前期・後期から成る2シーズン制を採用。チームは田宮が引き続き一軍の監督を務めたが、前期を5位で終えたことを機に退任した。後期には、二軍監督から一軍監督に昇格した土橋がチームを3位にまで引き上げたものの、チームは総合5位でシーズンを終えた。投手陣では、前年のドラフト会議で東映からのドラフト1位指名を経て入団した新美敏が、通算12勝で新人王を獲得。高橋直樹も、ノーヒットノーランと自身4年振りの2桁勝利を記録した。高橋善正との交換トレードでこの年に巨人から移籍した渡辺秀武も2桁勝利を挙げたが、数年来右肩痛に悩まされてきた尾崎が、この年限りで現役を引退。東映の新人時代から先発陣の一角を担ってきた金田留広は、この年から長兄の正一がロッテの一軍監督へ就任した縁で、シーズン終了後に野村収との交換トレードでロッテへ移籍した。打撃陣では、張本が後期に一軍のヘッドコーチを兼務しながら、シーズン(後期)の終盤まで激しい首位打者争いを展開。大杉は、6年連続のシーズン30本塁打に加えて、後期終盤の10月にパ・リーグ公式戦新記録の6試合連続本塁打を達成した。

日本ハム(後楽園)時代

1973年

11月19日に、日拓ホームが球団の経営権を日本ハムへ売却。球団の運営法人名が日本ハム球団株式会社に変わるとともに、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任した。日本ハムでは、球団経営権の取得を機に、チームの新しいニックネームを一般から公募。選考の結果、12月17日に、球団名を日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters )に変更することが発表された。

日本ハムは徳島県で創業した後に、本社を大阪市へ移していたため、かねてから関東地方への進出を模索。「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という大社の熱意もあって、関東地方での球団経営に乗り出した。このような事情から、日拓ホームからの球団買収に際しては、本拠地を日拓時代と同じ後楽園球場に置くことを唯一の条件に挙げた。前オーナーの西村は土橋の監督続投を日本ハム側と約束していたが、球団買収を主導していた三原は、義理の息子で西鉄のプレーイングマネジャー(選手兼任監督)を経験していた中西を新監督に据えた。

1974年

前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原は東映時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史広島東洋カープにそれぞれ移籍した。ヒーローインタビューを日本で初めて開始する。

1975年

前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも、太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三富田勝との交換で巨人に移籍。中西は解任され、大沢啓二が監督に就任した。

1976年

小田義人と新外国人のウォルター・ウィリアムス、巨人から移籍した富田勝が打率ベストテン入りするも、前期4位・後期5位の総合5位。

1977年

前期4位・後期4位で2年連続の総合5位に終わる。

1978年

ボビー・ミッチェルが本塁打王、南海から移籍の柏原純一も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになってから初のAクラス入りとなる。

1979年

高橋直樹が20勝を挙げ、島田誠が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。

1980年

新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、トニー・ソレイタトミー・クルーズクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦(10.7決戦)では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。

1981年

前期は4位に終わるも後期優勝。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/10/15 11:30

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