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千代の富士貢とは?

【基礎情報】

【四股名】
千代の富士 貢
【本名】
秋元 貢
【愛称】
ウルフ、小さな大横綱
【生年月日】
(1955-06-01) 1955年6月1日
【没年月日】
(2016-07-31) 2016年7月31日(61歳没)
【出身】
北海道松前郡福島町
【身長】
183cm
【体重】
126kg
【BMI】
37.62
【所属部屋】
九重部屋
【得意技】
右四つ、寄り、上手投げ
【成績】

【現在の番付】
引退
【最高位】
第58代横綱
【生涯戦歴】
1045勝437敗159休 (125場所)
【幕内戦歴】
807勝253敗144休 (81場所)
【優勝】
幕内最高優勝31回
幕下優勝1回
【賞】
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞5回
【データ】

【初土俵】
1970年9月場所
【入幕】
1975年9月場所
【引退】
1991年5月場所
【引退後】
九重部屋親方
【備考】

金星3個(三重ノ海2個・若乃花1個)
2014年8月16日現在
テンプレート プロジェクト 相撲

千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - 2016年7月31日)は北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第58代横綱。本名・秋元 貢(あきもと みつぐ)。血液型はA型。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 誕生〜入門前
    • 1.2 初土俵〜十両昇進
    • 1.3 新入幕〜肩脱臼との戦い
    • 1.4 再入幕〜三役昇進
    • 1.5 横綱昇進〜ウルフフィーバー
    • 1.6 限界説との戦い
    • 1.7 度重なる不幸〜国民栄誉賞受賞
    • 1.8 1000勝到達〜現役引退
    • 1.9 引退後
    • 1.10 史上10人目の還暦土俵入りを披露
    • 1.11 現職親方のまま61歳で死去
  • 2 力士として
    • 2.1 取り口など
    • 2.2 筋肉質な体型
  • 3 エピソード
    • 3.1 家族・関係者
    • 3.2 横綱昇進前
    • 3.3 対戦相手への対策
    • 3.4 弟弟子・北勝海
    • 3.5 記録
    • 3.6 現役引退
    • 3.7 引退後
    • 3.8 家族
    • 3.9 趣味
    • 3.10 その他
  • 4 主な成績
    • 4.1 通算成績
    • 4.2 相星決戦
    • 4.3 連勝記録
    • 4.4 各段優勝
    • 4.5 三賞・金星
    • 4.6 場所別成績
    • 4.7 主な力士との幕内対戦成績
  • 5 改名歴
    • 5.1 四股名
    • 5.2 年寄名
  • 6 関連作品
    • 6.1 書籍
      • 6.1.1 自著
      • 6.1.2 共著
      • 6.1.3 漫画
    • 6.2 テレビドラマ
    • 6.3 楽曲
    • 6.4 TV CM
    • 6.5 ゲーム
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

来歴

誕生〜入門前

北海道松前郡福島町で漁師を営む家に1955年に誕生。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)が直々に勧誘したが、自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。

それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。まだ現役であった北の富士も秋元と遭っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった。」と振り返っている。

初土俵〜十両昇進

本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」)と名付けられた。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られており、九重からはそれだけの大器と見られていた。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6か月で中途退学して相撲に専念した。同年秋ごろに右足首骨折でやる気が薄れたが、当時東京で上野の松坂屋に勤めていた姉に励まされて何とか踏みとどまった。

小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

新入幕〜肩脱臼との戦い

1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第1号の新入幕を果たし、2日目には幕内初白星を元大関大受から挙げるが、相撲の粗さが元で5勝10敗と負け越し。その後幕下まで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化する。取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた。

1977年10月29日に九重が死去したので部屋は北の富士が継承した。

1977年頃からは頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。これは全治1年、手術すれば2年という重大なケガであり、「手術すれば半年は稽古ができない」「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と三重県四日市中央病院の藤井院長に勧められる。この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという。

再入幕〜三役昇進

同年5月場所は周囲の予想通り十両に陥落したものの、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。

肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ、1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二ケタ勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝した。連勝は九日目輪島に敗れて止まったが11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。

1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足を見て作戦を立てており、それが見事決まって優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定したが、千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)。九重は千代の富士の優勝で一番思い出に残る取組にこの優勝決定戦を挙げており、塩沢実信のインタビューでは「やっぱり、初優勝の時ですね。北の湖との本割で敗れて、そして優勝決定戦。あの二番は忘れられません。大関に昇進、横綱に昇進という時は、感激が大きすぎてピンと来ないもんなんです。初優勝した時は、千代の富士の姿を見て涙が出ましたから」と語っていた。

横綱昇進〜ウルフフィーバー

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。この千秋楽の取組では千代の富士が立合い、得意の左前ミツを取って頭をつけた。北の湖が左をのぞかせ、右からおっつけたが、千代の富士は土俵際、回り込んで右の前ミツも取ると、右上手出し投げで北の湖の体を泳がし、そのまま寄り切った。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。この日のNHK大相撲中継の視聴率は2017年3月場所終了時点では夏場所としては第3位となる36.5%を記録。横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した。横綱昇進の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが「今の横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)の四股名の方が強そうだから」と述べ固辞。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士の配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。

新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わり、この休場で「不祥事」「短命か」などと批判された。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。この場所も14日目に隆の里に敗れている。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で千代の富士は長く苦しんだ。

1981年には、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。こうした事情から、関脇・千代の富士(不詳)、大関・千代の富士(『テレビマガジン』における永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は少ない。

この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合3周以上していた)。

限界説との戦い

1982年には3連覇を達成し初の年間最多勝を記録する。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『読売大相撲』に「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休したほか、同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、横綱としての責任を問われることになった。

同年11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。

度重なる不幸〜国民栄誉賞受賞

しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからで、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色が青から「黒」に変わり、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみ一人横綱となる(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)も、1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。

1987年前半はわずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対大乃国戦)が奇しくも昭和最後の取組となる。53連勝は昭和以降の記録としては2014年1月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位。

1989年1月場所も優勝候補筆頭だったが、雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手首にテープを巻いて腹に固定して登場、右手のみで賜杯を手にした。

1989年2月に誕生したばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後4か月足らずで6月に死去してしまう。自身や家族も精神的ショックが大きく師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して奇跡の優勝を果たした。この場所の千秋楽の優勝決定戦では2人は仕切りでほとんど目を合わせなかった。立ち上がって北勝海が右ノド輪で攻めたが、千代の富士は左おっつけから差し手争いに持ち込み左四つがっぷりの体勢になった。千代の富士は北勝海が再三右上手を切りにくるのも構わず、出し投げ気味のタイミングのいい上手投げで、28回目の優勝を決めた。この優勝に際して千代の富士は「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメント。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。翌9月29日に首相官邸において、内閣総理大臣海部俊樹から賞が授与された。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談した上で辞退している。

1000勝到達〜現役引退

1990年1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。しかし、同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。さらに夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。

1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。3月場所の休場を経て5月場所を出場した目的である貴花田と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。再燃する引退説をこの時は否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだがとったりで完敗。この貴闘力戦の取組を最後に、その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見して現役引退を表明。その冒頭、「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました。」と呟いたのは有名である。そして「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたなと、そろそろ潮時だなと」と貴花田戦の衝撃をコメントしていた。そうして「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだその相撲人生を終えた。日本相撲協会はその理事会において功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・陣幕(元前頭1・嶋錦)と千代の富士自身が所有していた年寄・八角の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。あと1回優勝すれば大鵬の優勝32回に並ぶところでの引退であり、巷では引退を惜しむ声が高かったが、九重は塩澤実信のインタビューで「そりゃみんなそう言うし、本人もできればもう一度優勝して辞めたかったんだろうけど、しかし僕は『記録は31回も32回も一緒だ。記録にこだわっちゃいかん。辞める時が大事だ』と言ったんです。そういう意味じゃ、僕も納得したし、千代の富士本人も納得したいい辞め方だったと思います」と答えている。

千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

引退後

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。しかし、まもなく陣幕(先代九重)との考え方の違いなどもあり。1993年弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立し八角部屋を創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった。さらに、施設も旧九重のものを継承し九重の方が部屋を出て行く形となった。このため、九重は自宅を改装して部屋を新設した。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている。

現役にはいつも厳しい口調で辛口だったが、優しい一面もあった。部屋では弟子との交換日記を欠かさず、赤ペンでアドバイスを送った。取組後には絵文字入りのメールも。ケガをすると将来を優先し、無理をさせずに休場させるのが方針だった。

引退後、2010年5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に関する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。近年は力士の稽古不足・下半身の強化不足を主張し続けた。

日本相撲協会では、1994年武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。また、1998年に弟弟子の八角が格上の監事に就任したり長く審判部副部長務めているのに理事が務める審判部長に二子山押尾川放駒と大関止まりの理事が3代続いて九重を超えて就任していて「副部長を務めている」と言うより「部長に昇進できずにいる」という印象が強かった。

しかし、2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事・高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。

その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。

2012年の理事改選で再選されるが最下位当選。しかし、直後の改選理事による理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。

北の湖が腸閉塞のため2014年1月場所・初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり協会あいさつも担当。あいさつとして「大関稀勢の里が休場致し遺憾に存じます」と述べる。

2014年の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことから驚きをもって迎えられることはなかった。同年4月の職務分担では委員に降格。友綱(元関脇・魁輝)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった。育成面では前述の千代大海の他に千代天山千代鳳千代大龍を育てている。大鵬以降の一代年寄で弟子が大関に昇進した親方は2016年時点では九重ただ一人である (ただし、前述の通り一代年寄は辞退している)

史上10人目の還暦土俵入りを披露

2015年6月1日、還暦(60歳)を迎え、前日の5月31日に両国国技館にて、北の湖以来2年ぶり10人目の還暦土俵入りを行った。土俵入りの露払いを日馬富士が、太刀持ちを白鵬が務めた(いずれも当時横綱。両者ともに現役横綱が務めるのは初)。

この還暦土俵入りに際しては、太刀持ちの袱紗、また新調した赤い綱の御幣(これまでは白色)も赤色にし、記念パーティーの羽織ひもも赤にするというこだわりを見せていた。

現職親方のまま61歳で死去

ところが、それからわずか1か月後の2015年7月に「内臓疾患」として7月場所を全休。同年9月場所で復帰した際に、同年6月の定期検診で癌が見つかっていたこと、膵臓癌手術を受けていたこと、約1か月入院して7月末に退院していたと9月13日(同場所初日)に自ら述べた。7月20日頃には、周囲に「ありがとね」と感謝の言葉を口にしていた。

「昭和の大横綱」北の湖(当時、日本相撲協会理事長)が直腸癌による多臓器不全のため2015年11月20日夜に62歳で死去。11月場所に出場するため北の湖理事長は福岡市内に滞在していた。翌11月21日、九重親方はNHKの大相撲中継番組に同場所14日目の解説者として出演し、1981年1月場所に北の湖を下して幕内初優勝を達成した優勝決定戦のVTRを見て「自分が本当に勝ったのか…という状態だった」と述懐。さらに、「きのう病院に運ばれたことは聞いていたが、その何時間後にまさか…」「自分たちの世代は全員(横綱北の湖は)大きな壁で大きな目標だった。それを超えないと何にもならない。そういう意味で偉大な人だった」と目を涙で潤ませながら語り、急死した北の湖を悼んだ。

しかしその後、2016年に入ってから癌が再発。胃や肺などに転移しており、鹿児島県などで放射線治療などを受け続けていた。2016年3月場所のころからは急激にやせ細り、2016年7月場所の九重部屋宿舎ではやせ細った姿が見られ、同場所4日目の7月13日からは体調不良を訴え休場し、帰京して入院していた。7月場所3日目には監察の部屋で「きついなあ、きついよ」と言って机に突っ伏しており、同じ監察委員として九重親方の側にいた武蔵川(元横綱・武蔵丸)は「そんなこと言う人じゃなかったから、びっくりした」と語っている。

2016年7月31日(日)17時11分、東京大学医学部附属病院にて膵臓癌のため死去。61歳没。次女の秋元梢が同日夜に、「最期は苦しむ事なく、家族全員に看取られて、息を引き取りました」と報告した。

8月6日には通夜、7日には葬儀・告別式が九重部屋で営まれた。弟弟子である八角理事長や読売ジャイアンツ前監督の原辰徳、歌手の細川たかしら約1000人が参列した。また、交友のあった阪神タイガース二軍監督の掛布雅之や1989年に国民栄誉賞授与を決めた当時の内閣総理大臣である海部俊樹らから弔電が寄せられた。

戒名は「千久院殿金剛貢力優梢禅大居士」(せんきゅういんでんこんごうこうりきゆうしょうぜんだいこじ)。

10月1日には「第58代横綱千代の富士 お別れ会」が国技館で行われ、故人と親交のあった関係者約1500人が参列、一般ファンによる献花には約3500人が長蛇の列をつくり故人を偲んだ。弔辞を読んだ友人の松山千春は、故人の半生を描いたドラマ『千代の富士物語』の主題歌で自身の楽曲「燃える涙」を熱唱、最後に「千代の富士〜!」と絶叫して追悼した。

日本政府は、生前の九重(千代の富士)が力士および年寄として相撲界の発展に尽くしたことや、昭和を代表するスポーツ界のヒーローとして一般大衆への認知度が高いことなどを踏まえ「没日・7月31日付にて千代の富士(秋元貢)を従四位に追叙し、旭日中綬章を追贈する」と2016年8月24日の閣議において決定した。

力士として

取り口など

歴代3位・通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、歴代2位の通算勝利数(1045勝)と同3位の幕内勝利数(807勝)、1988年5月場所7日目から同年11月場所14日目までの53連勝(取り直し制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱である。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。

体格で上回る力士との差を埋めるために土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。このウルフスペシャルは「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出されたという。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには驚異的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。自身が得意とした前ミツ相撲は輪湖時代の四つ身時代へのアンチテーゼとも言われた。

元々力任せな投げを武器としていただけあって腕力に長けており、1981年2月の測定では左の握力が92kg、右が89kgを記録した。同じ測定で千代の富士の記録を破ったのは北天佑ただ1人であり、全盛期は100kg近くの握力を誇った出羽の花も3位に甘んじていた。左前褌を取る稽古を積み重ね、本場所の取組でも左前褌を取ることを徹底したことから、左手小指の爪は常に切る必要がないほど擦り切れていた。

横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りでかなり上手い。重い横綱を付けた状態で上げた足が頭より高い位置に達するのは、千代の富士のほかにはあまり例がない。また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど礼儀作法を重んじている。

立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いがすぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界がささやかれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。

筋肉質な体型

その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10.3%)、たくましさ漂う風貌でも人気を集めた。幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。相撲協会診療所の林盈六医師は「筋肉質というのは、生まれつきの体質なんですね。骨が太いから、筋肉が余計についている。毎年2月に全関取を測定していますから分かるんですが、レントゲン写真でも千代の富士は明らかに骨が太い。それに引き換え、アンコ型の力士というのは骨が細いんです。胸部撮影で鎖骨の写真なんか見ると、それがよく分かります」「そして素晴らしい点は皮下脂肪がついていない。十両以上の力士で千代の富士は一番少ない。あの痩せている大旺よりも、なお皮下脂肪が少ないんですからね。測定した数字で言えば上腕が9mm、背中が10mm、腹が9mmなんです。これを幕内力士の平均数値、各15mm、20mm、20mmと比べて見れば分かって頂けるでしょう」と1981年2月の検査について分析して絶賛していた。

エピソード

家族・関係者

横綱昇進前

詳細は「貴ノ花利彰」を参照

対戦相手への対策

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