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千葉工業大学とは?

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【千葉工業大学】

千葉工業大学

【大学設置/創立】
1942年
【学校種別】
私立
【設置者】
学校法人千葉工業大学
【本部所在地】
千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号
北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361座標: 北緯35度41分21.15秒 東経140度1分16.81秒 / 北緯35.6892083度 東経140.0213361度 / 35.6892083; 140.0213361
【キャンパス】
津田沼(千葉県習志野市)
新習志野(千葉県習志野市)
【学部】
工学部
創造工学部
先進工学部
情報科学部
社会システム科学部
【研究科】
工学研究科
情報科学研究科
社会システム科学研究科
【ウェブサイト】
千葉工業大学公式サイト

千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本私立大学である。1942年に設置された。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CIT」または「ChibaTech」。

目次

  • 1 外観
    • 1.1 大学全体
    • 1.2 建学の精神(校訓・理念・学是)
    • 1.3 学風および特色
      • 1.3.1 大学全般
      • 1.3.2 教育の傾向と特徴
      • 1.3.3 研究活動の特徴
      • 1.3.4 教務システムの特徴
  • 2 沿革
    • 2.1 略歴
    • 2.2 年表
  • 3 基礎データ
    • 3.1 所在地
    • 3.2 象徴
  • 4 教育および研究
    • 4.1 組織
      • 4.1.1 学部
      • 4.1.2 大学院
      • 4.1.3 旧設置科
      • 4.1.4 附属の研究所
        • 4.1.4.1 千葉工業大学工学研究所
      • 4.1.5 学校法人直轄の研究所
        • 4.1.5.1 未来ロボット技術研究センター
        • 4.1.5.2 惑星探査研究センター
        • 4.1.5.3 人工知能・ソフトウェア技術研究センター
        • 4.1.5.4 国際金融研究センター
        • 4.1.5.5 次世代海洋資源研究センター
    • 4.2 研究
      • 4.2.1 中島「橘花」プロジェクト
      • 4.2.2 鯨生態観測衛星「観太くん」
      • 4.2.3 レスキューロボット・原発調査ロボット
      • 4.2.4 流星観測カメラシステム「メテオ」+流星観測衛星「S-CUBE」プロジェクト
      • 4.2.5 はやぶさ2プロジェクト
      • 4.2.6 水星探査プロジェクト
    • 4.3 教育
      • 4.3.1 採択されているプログラム
      • 4.3.2 特色ある大学教育支援プログラム
  • 5 学生生活
    • 5.1 サークル活動
    • 5.2 イベント
  • 6 大学関係者と組織
    • 6.1 大学関係者組織
    • 6.2 大学関係者一覧
  • 7 施設
    • 7.1 キャンパス
      • 7.1.1 津田沼キャンパス
      • 7.1.2 新習志野キャンパス
      • 7.1.3 東京スカイツリータウンキャンパス
    • 7.2 運動施設
      • 7.2.1 茜浜校地(運動場)
    • 7.3 寮
  • 8 対外関係
    • 8.1 他大学・高専との協定(国内)
      • 8.1.1 包括提携校
      • 8.1.2 単位互換協定校
      • 8.1.3 連携大学院
      • 8.1.4 高等学校との協定
      • 8.1.5 その他
    • 8.2 海外学術交流(大学/機関)
      • 8.2.1 留学プログラム
    • 8.3 産官学間での連携
      • 8.3.1 企業との連携
      • 8.3.2 自治体との連携(協定)
      • 8.3.3 研究・教育機関との連携(協定)
    • 8.4 工大の煉瓦門(文化財)
    • 8.5 メディア
      • 8.5.1 撮影協力・製作協力
  • 9 事件・不祥事等
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
  • 12 Wiki関係他プロジェクトリンク
  • 13 関連項目
  • 14 公式サイト

外観

大学全体

千葉工業大学(JR中央総武線路を挟んで)

千葉工業大学は、最初、教育学者の小原國芳らによって「玉川塾工業大学」として玉川学園のプライベート大学として計画されたが、当時の日本の社会では希有な学風の大学であったこともあり、軍部(特に陸軍)をはじめとする旧来の教育を生業とする人々の反発や圧力が強かった。しかし、数は少なかったが、皇族東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将土肥原賢二陸軍大将などが小原の考えに共感し、長年に渡って小原の活動を支援していた。特に、東久邇宮稔彦王永野修身海軍元帥は熱心で、大学設立計画は、彼らの発意・尽力もあり(千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会「千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集」を参照のこと)、設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省指導による国策大学(準官立大学といえる)に発展して太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年5月15日(東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称で玉川学園内に設立された(初代理事長:東郷実、初代学長:小西重直)。日本の私立理工系大学としては藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)に続き、国内で2番目に古い歴史を持ち、現存する私立理工系大学としては最古の歴史を有する。なお、国公立の理工系大学を含めても東京工業大学に次ぐ歴史を持つ。

当時の国策的な意図も受け、単に高度な技術専門家の養成にとどまらず、国家枢要を担う人材の養成も考えに入れた教育方針が、設立当初から取り入られている(詳細は建学の精神にて後述)。1946年に千葉県君津市へ移転し、校名を「千葉工業大学」に改称。1950年に学校教育法に基づき、新制の私立大学へと移行した。

設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程8専攻・博士後期課程3専攻で、学生数は約1万名。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する。

建学の精神(校訓・理念・学是)

千葉工業大學教育8訓
設立認可申請書に添えて提出された設立趣意書では建学の精神及び教育方針は以下の通り(概略)。
(1)新国士の養成
専門家であるだけでなく、「吉田松陰先生の如く燃える愛国心と広く世界に知識を求むる好奇心とを兼備し、国家を担きアジアを背負ひ、世界文化に尽し得る」人物、すなわち新国士の養成。
(2)全人教育
単なる知識人、技術家ではなく、「自ら学び自ら体験し自ら思索し創造する」人間、「如何なる困苦に遭遇するとも正しきを実現せんとする活動力ある」人物の養成。
(3)労作教育
教育は、知育のみにあらず、「真の知育は労しみ、作り、体験し、試み、為し、行ふ所の自学自律、自啓自発の教育」でなければならないとする精神。
(4)塾教育(寮制教育)
「共に起き、共に食い、共に歌ひ、共に働き、共に遊ぶ」師弟同行、師弟共生の精神。
(5)相互扶助の精神
偉人は陋より生る。貧しき家に生まれし優秀児の救済、その境遇を理解し、同情し合って、完全なる人格を成し行く姿を大学の理想とする。
(6)実習教育
工場鉱山商店などの職場を学校とする計画実習と学習との心身一如の機会を捉える。
(7)天才教育
自由闊達な頭脳を作り、機智縦横の人を作る。
(8)アジアの学生と教育
隣国アジアの友と親しくし、共に手を携え、国際社会の善隣と協力をつくり上げていく。
現在の建学の精神
現在は、創立当初からの建学の精神である『師弟同行』『自学自律』を基調とし、工学的な基礎学力や教養力、コミュニケーション力を広く身につけるための実践型カリキュラムによる技術者の輩出に努めている。また大学では刻々と変化する社会、科学技術に対応するため、教育の精神に立ち返りながら、時局に即した教育目標や教育方針を定め社会に役立つ人材を育成するため努めている。

学風および特色

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2014年10月)

大学全般

教育の傾向と特徴

研究活動の特徴

教務システムの特徴

沿革

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略歴

第一期生入学式記念写真
(1942年6月8日、玉川学園内にて撮影)
永野修身海軍元帥
大学の沿革マップ

千葉工業大学は、1929年(昭和4年)に澤柳政太郎の遺志を受け継いだ小原國芳によって計画・準備されたものが起源である。

澤柳と小原らは、明治、大正、昭和と教育政策、教育活動に携わる過程で、様々な問題に遭遇し、本当の教育とは何か?本当の学校教育とは何か?を長年に渡って模索し、追究していた。彼らは明治政府が推し進めた近代化(西洋化)の行き過ぎによって教育までもが西洋の模倣化してしまい、国民思想や発想、考え方までも西洋化してしまったことに危機感を抱いていた。更に彼らは、学生を大きな教室に集め、一律に知識概念技術のみを一方的に注入する知識偏重の教育を主流とする、これまでの西洋起源の教育のやり方やテストの成績だけで人物が評価されてしまうテスト至上主義やハンモックナンバーによるやり方では、中国朝鮮などで見れられた科挙制度の先例からも(詳細は小原國芳#全人教育と小原の教育理念を参照のこと)本当に国家を担う人材は育まれないと考えていた。

彼らは、これまで帝国大学海軍兵学校陸軍士官学校をはじめとする官学私学の高等教育機関で、明治から行われてきたイギリスフランスドイツオランダなどの西洋諸国から輸入された文化思想(デカルト的な「我思う、ゆえに我あり」)を根源とする人物教育、人物養成を否定し(教育と我が生涯 小原國芳より)、松下村塾咸宜園興譲館などの江戸時代までの日本の教育にも見られたような日本的、東洋的な哲学、思想「我思う、ゆえに我あり。されど我とは何ぞや?」を土台とする人物養成に改めようとした。更に、彼らは当時、欧米のイートン・カレッジなどで新しく試みられるようになってきていた新しい教育思想を取り入れながら、西田哲学をベースに、知識や技術を使いこなす肝心の人格を育てる為の教育、そして、これまでの教育の様に受け身ではなく、学生自身が自らの頭で物事を判断したり、考えられる環境を整えることで、学生自らが、自らが持つ創造性や個性、才能や能力などを引出し、自由なペースで伸ばしていけるような創造力豊かな人材を育てる為の新しい形の創造教育の拠点を創成しようとした(全人教育の記事も参照)

彼らは、まず最初に成城学園を創立したが、成城学園の運営は予想に反した方向へと進み、進学実績を伸ばしたい教員保護者の意見が強くなり、他の学校と同じように、帝大などへ進学するための受験対策の為の予備校へと変貌してしまった。そのため、小原らはこの失敗を踏まえ、1929年(昭和4年)、故人となった澤柳の遺志を踏み、全人教育を柱に日本第一、世界第一の教育拠点の創成を目指し玉川学園を創立すると共に、その最高学府である「玉川塾工業大学」設置のための準備をはじめる。

その過程で軍部をはじめとする旧来の教育を成り合いとする勢力による抵抗や圧力などもあったが、小原の創造教育の理解者である東久邇宮稔彦王陸軍大将永野修身海軍大将らの働きもあり、大学創設計画は国家プロジェクトに発展し、文部省主導のもと、国策の官民大学(予科3年、本科3年の全寮制6年制大学)として、1942年(昭和17年)、東京町田の玉川学園内に興亜工業大学の名称で設立された。

創設には政府代表橋田邦彦文部大臣をはじめ、東久邇宮稔彦王、永野修身、小原國芳小西重直森矗昶森曉親子、東郷実本多光太郎平賀譲八木秀次西田幾多郎本間俊平武者小路実篤徳富蘇峰などの人々が参加した。大学設立の許可申請が通ったのは奇しくも日本太平洋戦争に突入した1941年(昭和16年)12月8日であった。なお、戦前までは日本政府帝国大学以外には大学レベルの工学教育を認めなかったため、工学部を設置できた私学はごく僅かであり、しかも大学予科3年・本科3年の教育課程を認められたのは、1920年(大正9年)に設立された早稲田大学理工学部、1939年(昭和14年)に設立された慶應義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学、そして1942年(昭和17年)に創立された千葉工業大学の3校だけであった。

大学設立の際には東京帝国大学東京工業大学から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用するなどして対処した。

1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)までは玉川学園内で教育が行われた。この玉川学園時代の塾生活は建学精神の理想の境地とされ、戦時下にもかかわらず、芝生の上で生徒が教師を囲みながら英語や音楽、道徳などの教養教育が行われるなど、世俗と切り離された自由な環境だったという(詳細は青空教室の「興亜工業大学の場合」の記述を参照)。小原國芳指導の下、大正自由教育などの新教育の方針・手法が重視され、予科教育では、単なる技術教育だけで終われるのではなく、哲学宗教学芸術学語学スポーツなどの幅広い意味の教養教育人格陶冶などの人物教育が重要視された。ちなみに制服は帝大のような学生服黒マント白線帽ではなく、背広ネクタイであり、「紳士」を育てることを念頭としていた。

なお、当時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だった。その為、入学する学生の中には、当時としては異質で自由な大学の校風に馴染めず、軍学校などに入りなおす者もいた。

1944年(昭和19年)に東京町田では手狭となったことから、大学本部と本科を東京都千代田区に大学予科を神奈川県川崎市に移転する。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツの神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。

戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍海軍関係の研究所や工場などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成のために陸軍士官学校や海軍兵学校などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。

太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)には千葉県君津市へと移転し、校名を千葉工業大学と改称。1950年(昭和25年)に同県習志野市津田沼校地へ移転し現在に至る。

戦後、新たに設立された玉川大学と本学は直接の系譜的なつながりはないが、両大学とも小原の全人教育精神は継がれている。また、1991年には玉川学園小原哲郎理事長の好意で、玉川学園時代に使われていた校旗が寄贈されたほか、2013年には新習志野キャンパス図書館に、千葉工業大学の創立に尽力した小原國芳が生涯もっとも多く書き記した「」の文字を書したタペストリーを設置するにあたり、小原芳明玉川学園理事長・学園長が招待されるなど両学園の間には現在でも交流が続いている。

年表

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この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。内容過剰の基準、解決法、このテンプレートの除去基準を説明しているページもご覧ください。(2015年1月)

【年】
【月日】
沿革
1929年 | 4月 | 小原國芳成城学園から分離し、町田財団法人玉川学園を設立。幼稚部初等部中等部を設置する。
6月 | 永野修身海軍兵学校長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。
1939年 | 9月 | 大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾)を設置し、森矗昶の協力を得て産学連携による実践教育を開始
1940年 | 9月 | 東久邇宮が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する
1941年 | 6月 | 「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省(現・文部科学省)に行うが受理されず
12月8日 | 太平洋戦争開戦
興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦文部相)受理
1942年 | 5月15日 | 東京府町田町(現東京都町田市)の玉川学園内に「興亞工業大学」の名称で国策大学として創立(予科3年・本科3年)
小原國芳が理事、東郷実が理事長、小西重直が学長、本多光太郎などが顧問に就任
5月24日 | 成城中学早稲田中学で第1回入学試験を実施
6月8日 | 開校式を実施する。航空工学科(50名)・冶金学科(50名)・機械学科(60名)の160名が入学
1943年 | 7月 | 小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任
1944年 | 4月 | 玉川学園内から予科・財団本部が、皇居近くの東京市麹町区紀尾井町上智学院(上智大学)内に移転する
9月 | 神奈川県川崎市大師河原日本冶金川崎製造所構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得する
10月 | 東京工業大学学長の八木秀次が正式に相談役に就任
1945年 | 4月13日 | 東京空襲によって麹町本部・予科校舎が全焼する
5月25日 | 東京空襲の余波で川崎学部校舎も罹災する
9月 | 東久邇宮内閣によって太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結
君津の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学に委託
戦災による実験設備の損失から学生東大東工大東北大などに預け、卒業研究を開始
11月11日 | 君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始
1946年 | 3月30日 | 東京から千葉県君津町に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称
12月4日 | 玉川学園側との会談の結果、小原國芳から寄贈された土地・建物を清算し不動産を所有しない大学となる
1947年 | 2月7日 | 君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電による火災で延焼する
3月 | 公職追放の影響を受けて2代目理事長の森曉、学長の小西重直などが大学を去る
9月30 | 第1回卒業式が行われる
1948年 | 4月 | 田中航空機器製作所津田沼工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請
予科寮を旧君津海軍病院施設に移転する
12月 | 千葉大学(当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される
1949年 | 4月 | 新制大学となる
11月26日 | PPA創立
1950年 |  | 旧鐵道第2聯隊跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転する
1953年 | 11月 | 校歌制定。電気工学科を増設。
1954年 | 10月7日 | 大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校)を取得
1955年 |  | 電気工学科第2部を増設。
1961年 | 3月10日 | 電子工学科工業化学科を増設
1962年 | 8月 | 千種校地を取得
12月20日 | 土木工学科建築学科を増設
1964年 | 4月1日 | 日本私立大学協会常務理事校となる
1965年 | 8月11日 | 大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置
8月11日 | 飯岡研修センターを開設
1967年 | 3月31日 | 千種寮が完成
1968年 |  | 千葉市千種校地に電子計算センター完成
1972年 |  | 千種校地に硬式野球場・武道館完成
1986年 |  | 芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成
1987年 |  | 茜浜運動施設(茜浜校地)完成
1988年 |  | 工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設
1989年 |  | 大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻)
修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設
1990年 |  | 第2部電子工学科・情報工学科・建築学科を増設。
大学院工学研究科博士課程(土木工学専攻)修士課程(精密機械工学専攻)を増設
1991年 |  | 第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加
大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。
1992年 |  | 大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻)
修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1994年 |  | 大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設
1995年 |  | 大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。
1997年 |  | 第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。
1999年 |  | 工学部に社会人対象教育を充実するために昼夜開講制を導入
ハイテクリサーチセンター開設。
2001年 |  | 工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行
3学部全学科に昼夜開講制を導入。
2002年 |  | 鯨生態観測衛星「観太くん」の打ち上げに成功
2003年 |  | 工学部9学科を5学科に改変しフレックス制を導入
(機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)
未来ロボットセンターを開設
日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー(FTTD)LANを構築
大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能ICカード」を大学内諸施設へ導入
2004年 |  | 大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。
2005年 |  | 文部科学省特色ある大学教育支援プログラムに採択、現代的教
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出典:wikipedia
2018/08/20 00:01

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