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博多とは?

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年7月)

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この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2018年3月)

博多総鎮守櫛田神社

博多(はかた)は、九州北部筑前国、現在の福岡県福岡市の地域。

博多湾に面する港町港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。古代からの歴史を持ち、中世には、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市として栄えた。江戸時代黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持った。明治時代には福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残るが同義ではない。

目次

  • 1 定義・名称
    • 1.1 分類
    • 1.2 広義
    • 1.3 狭義
  • 2 概要
    • 2.1 縄文海進
    • 2.2 袖の湊
    • 2.3 鎌倉時代以降
  • 3 歴史
    • 3.1 起源と古代
    • 3.2 日宋貿易
    • 3.3 元寇 - 室町時代
    • 3.4 戦国時代
    • 3.5 江戸時代
    • 3.6 近現代
  • 4 「博多」を冠する主な施設・企業等
    • 4.1 商業・娯楽施設
    • 4.2 スポーツ施設
    • 4.3 学校
    • 4.4 宿泊施設
    • 4.5 交通施設
    • 4.6 公的施設・公的機関
    • 4.7 団体
    • 4.8 祭り・伝統芸能・風習
    • 4.9 名産物・工芸品
    • 4.10 土産菓子
    • 4.11 ご当地ソング
    • 4.12 漫画・小説・文筆
    • 4.13 人物
    • 4.14 検定
    • 4.15 唱歌
    • 4.16 そのほか
    • 4.17 「福博」を冠する事物
  • 5 参考文献
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典

定義・名称

分類

現在「博多」と「福岡」は、特に九州外において同じ地域を指す地名として認識されることが多く、福岡市やその郊外のことを「博多」と呼び変えることも少なくない。「博多」という言葉を用いた場合、その言葉が指し示す範囲には曖昧性・多義性があり、人により差異はあるものの、概ね以下のような類型で用いられる。

「博多」の定義(狭い範囲から列挙)
定義/名称 地図 説明
博多駅周辺 | 地図 | JRの代表駅かつ、福岡市地下鉄の中心駅である同駅周辺に広がるCBDおよび繁華街。

なお博多駅は、1963年(昭和38年)に現在地に駅が移転する以前は、現在の祇園駅(祇園大通り)付近にあった。


博多部 |  | 博多区北西部の博多川(那珂川分流)と御笠川に挟まれた、旧来の町人町に該当する地域。博多川対岸の中洲地区を含めることもある

南端は時代により変遷するが概ね1963年(昭和38年)に移転前の博多駅(現在の祇園駅・祇園大通り)付近である。また、矢倉門は現在の博多警察署付近にあった。


博多部周辺 |  | 博多部に、博多駅周辺・キャナルシティ博多周辺・博多埠頭および中央埠頭周辺・御笠川対岸の千代地区などを含めた博多区内の地域。
博多区 | 地図 - Google マップ | 福岡市の行政区の一つ
博多湾沿岸地域 |  | 黒田入国以前の、古代から中世における文献上の参照に多い。
福岡市 | 地図 - Google マップ | 時に「博多市」と誤称される事もある。
福岡都市圏 |  | 春日市大野城市志免町糸島市など福岡市とその郊外も含めた呼称。
博多川

広義

「続日本記」において、博多の町は「博多大津」と称された。博多にある大津、すなわち海上貿易都市である。そのため博多とは、羽の形をした湾に面する干潟すなわち博多湾の旧沿岸の全域を指したものである。現代でも、福岡県内(特に旧黒田藩領域)においては、福岡市とその周辺を、「博多のほう」と呼び、また、福岡市へ行く場合は、「博多に行く」「博多へ出る」など表現する場合がある。これは「福岡」にいるのに、「福岡」を外部又は目的地として扱う表現には、違和感があるためである。

狭義

狭義として、戦国時代には自治都市、江戸時代には町人の町として扱われた領域を限定して博多と呼ぶことがある。地理的には博多区北西部の那珂川と御笠川に挟まれた区域である。北西端は明治時代の海岸線にほぼ相当する那の津通り近辺、南東端はかつて房州堀が存在した国体道路近辺となる部分で、教育行政の区画として、全地域が博多小学校博多中学校校区に含まれる。また、これに三笠川右岸の千代町を含めた部分は、複数町からなる「」を構成して博多祇園山笠や博多松囃子などの伝統行事を受け継いでおり、文化的な共同体としての博多である。

この限定定義での地域を博多部(はかたぶ)と呼ぶ。博多部に対して、那珂川以西の旧城下町を福岡部(ふくおかぶ)とし、この両者を総称して福博(ふくはく)と呼ぶことにより、博多部の独自性に配慮して福岡市中心部を表現することがある。

NPO法人博多部まちづくり協議会では特に注釈なくこの狭義の「博多」を用いている。また、『博多んもんの魂』など大庭宗一の著作ではこの狭義の意味でしか「博多」という言葉を用いていない。いっぽう現代、福岡市とその周辺において、単に「博多」や「博多にある」という表現を用いる場合は、博多駅周辺の地名が博多区「博多駅前」「博多駅東」「博多駅南」「博多駅中央街」であり、博多駅周辺を中心とした博多区の限定的な地域の地名を指す場合が多い。

市町村制度下において博多市という都市が存在したことはなく、1872年の廃藩置県で福岡部が第一区、博多部が第二区となったあと、これを併せた第一大区が福岡区を経て1889年に福岡市となった。博多の地名は1972年に博多区という行政区名として復活したが、その区域は旧来の博多(狭義)から大幅に拡張されたものとなった。

博多部を中心に用いられた方言が博多弁である。江戸時代までは福博の住み分けが明確であり、中洲を越えた那珂川対岸の福岡部(福岡城城下町)では福岡城勤めの武士層と家族係累が話す「福岡弁」(がっしゃい言葉)が用いられていたが、もともと話者の絶対数が少なかったうえ、平成時代に入ると話者はほぼ消滅し、一部の方言研究家による文献に残るのみである。かくして明治期以降、博多弁が博多部を中心に福岡市とその周辺に広がった。

交通
博多の玄関口の駅は、新幹線を含む全旅客列車停車駅である博多駅。同時に福岡市内最大のターミナルでもある。一方、福岡には「西鉄福岡(天神)駅」(通称:福岡(天神)駅)が存在する。1935年以降、単なる「福岡駅」は福岡県・市には存在していない。なお他に、「南福岡駅」や、「博多南駅」、「博多総合車両所」などがある。
港名は「博多港」であり、明治から昭和初期まで用いられていた「福岡港」(現在の福岡船溜)の呼称は博多臨港線貨物駅「福岡港駅」(1985年廃止)に残すのみとなっていた。志賀島糸島半島を結ぶ線から内側の湾名は、国土地理院の定義では西部域を「福岡湾」、東部域を「博多湾」とするが、一般的には総じて「博多湾」と呼ばれ、地図によっては両者が併記される。
「博多空港(はかたくうこう)」は福岡空港(もしくはその旧称である板付空港)の完全な誤用であるが、福岡空港は博多区に所在している。
メディア
バラエティ番組のみならず報道番組といったテレビ番組や全国区の雑誌の記事や漫画などのマスメディアでは、しばしば曖昧な定義で「博多」 という言葉が利用され、時には福岡市を「博多市」と誤って紹介することすらある。
ターミナル駅であり他県との玄関口となる博多駅をはじめ、博多どんたく博多祇園山笠博多ラーメン博多明太子など全国的に知られた祭事や土産品や施設などに「博多」という言葉が用いられる。そのため、九州外での認知度としては「福岡」よりも「博多」の方が高い事がままある。東日本方面で福岡方面を指す場合、「福岡のほう」と言うよりも「博多のほう」と言う方が通りが良いのも否定できない。全国区で活躍するタレント歌手が自らの出身を分かりやすく「博多」と言うこともその証左である。
福岡市出身の漫画家うえやまとち作の漫画『クッキングパパ』では、天神百道などを含め、福岡市の意味としてその大部分を「博多」と表現している。しかし漫画の舞台は博多部でもなければ博多区でさえない東区香椎である。西尾維新作の小説新本格魔法少女りすか』では冒頭部に「博多市」の名が登場するが、これは福岡市をモデルとした架空の都市である。
特産品
福岡県産のブランド農産物が全国の市場に向けて出荷される際、マーケティング戦略として「博多」の知名度にあやかったネーミングがなされている。その例として、イチゴの博多あまおう、博多なす、博多万能ねぎ、はかた地どりなどがある。これら博多ブランド農産物の生産地には、熊本県に隣接するみやま市や、大分県に隣接する豊前市なども含まれる。

概要

博多は、日本最古のであり、古代においては大宰府の外港として機能した。筑紫館(つくしのむろつみ)、迎賓施設である鴻臚館(こうろかん)が置かれた。中世には商港として栄えた。平安時代から鎌倉時代までの地形は現代と大きく異なっていた。遣隋使遣唐使が派遣される以前から在地の奴国の交流があり、中国や日本の歴史上の文献に見える那の大津の記述などは、そのいにしえの古さを物語る。三津七湊の筆頭でもある。

縄文海進

現代から約3000年前の紀元前10世紀頃に縄文海進のピークがあり、博多湾の海岸線は、次の中世期の袖の湊形成期に述べるよりも、さらに大きく後退しており、これに現代の福岡市の主要河川の樋井川、那珂川、御笠川が注ぎ込むことと、縄文海進ピーク以降の現代までの緩慢な海退により、縄文期の海岸線より海側に向けて徐々に海浜砂による砂礫層が形成されていった。中世の袖の湊形成期は、「冷泉津」や「草香江」が現在の市内中心部に大きく進出していた時代であるが、これは14世紀(1301年~)頃に始まる小氷期によるやや大規模な海退の手前の時期にあたる。

参考文献:コンソーシアム・福岡による各資料

袖の湊

中世の博多津は、平安時代の1161年に平清盛により日本初の人工港「袖の湊」が建設されたことにより始まる。住吉神社蔵「博多古図」によると、当時の博多津は大きく「草香江」、「冷泉津」、聖福寺や櫛田神社などがある博多中心部とそこから橋で繋がれた「沖の浜」と言う出島により分けられていた。当時の博多中心部は当時の比恵川より北の部分にあった。

「冷泉津」は現代の天神地区を中心として東西は中洲地区から赤坂地区周辺、南は住吉神社手前までに及び、この一帯は当時は全て海の底であった。冷泉津と草香江は当時の平尾村を中心とするやや小高い丘陵(現在の南公園から西公園に至る地域)によって隔てられ、「草香江」もまた、現在の草香江・六本松地区を中心として、全て海の底であった。平尾村の丘陵の北端からは東方の沖の浜に向け細長い砂嘴が伸びており、これを「長浜」と呼んだ。

「冷泉津」には南から那珂川、東には比恵川が注ぎ込んでおり、当時の那珂川河口付近に浮き島として「箕島」(現在の美野島地区)があり、そのすぐ北に江を隔てて、「冷泉津」のほとりに住吉神社が鎮座していた。筥崎八幡宮は、博多中心部から見て東北方向の海岸沿いにあった。

鎌倉時代以降

寛永ごろまでの福岡・博多(推定)
博多南縁の堀

福岡博物館所蔵の博多古地図(1550年頃)によると、博多湾の海岸線は、現在の九州大学病院付近から博多区古門戸町付近を結ぶ付近にあり、また、現在の博多川より西側は、住吉小学校付近まで海岸線が下がっており、現在の博多区中洲、中央区天神や渡辺通付近は海であった。三笠川(現在の御笠川・石堂川)は現在の堅粕小学校付近から西に大きく曲がり、現在のキャナルシティ付近で那珂川に注いでいた。この部分は当時は比恵川と呼ばれていた。なお、 2016年11月8日の地下鉄七隈線の延伸工事中の陥没事故地点(博多駅前2丁目交差点付近)はかつての比恵川跡と重なる。

元亀天正年間に大友宗麟の命を受けた臼杵鎮続により大規模な治水工事がおこなわれ、三笠川から博多湾に直接そそぐようにされた(現在の石堂川)。また比恵川は博多防衛のために堀を築造し、房州堀とした。房州堀の門を矢倉門とし、直近の出来町に小砦を築く。

このようにこの時代の博多津は、概ね、古門戸町付近の海岸線、現在の博多川、房州堀と、当時新造された、現在の石堂川に囲まれた地域であり、水郷都市の様を呈していた。中世初期までの博多津は入江などによりさらに海岸線が凹んでおり、現在の中洲川端駅付近で東西に括れた地形になっていた。そこから北の部分を息の浜(沖の浜)、南側を博多浜と呼んでいた。

鎌倉時代の元寇の後、沖の浜(現在の蔵本町付近)から現在の古門戸町付近までの海岸線沿いに防塁が築かれている。このころ、博多津の海沿いには承天寺正福寺櫛田神社萬行寺が鎮座しており、文字通り博多の中心部であった。

前述の石堂川の築造により房州堀(旧比恵川)の流量は著しく下がり、旧比恵川河口に中州が形成され、これが現在の中洲地区にあたる。

安土桃山時代から江戸時代にかけては、豊臣秀吉の太閤町割や、黒田氏により築造が行われた。中央の東西に凹んだ入江は狭められるとともに東西が連結されて、博多大水道と呼ばれる小運河が作られた。

近代では中洲ほか周辺地形が前述の海退現象(海水準変動)により形成もしくは埋め立てにより広がり、房州堀はほぼ消失し一部は暗渠化され、現在の那珂川、博多川、御笠川(石堂川)を境とするほぼ連続した地形が形成され、さらに北側に海岸線が上がり、人工埠頭が形成されて現在の地形に至っている。

歴史

福岡市」も参照

起源と古代

古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は、797年(延暦16年)の『続日本紀』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。「ハカタ」の語源は、「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府市榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」などの説がある。この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。

大宰府の外港であった博多津には万葉集にも読まれた筑紫館という日本最古の外交施設が存在した。その後、同じ場所に鴻臚館として建て直され、鴻臚館貿易が行われるとともに、遣隋使遣唐使が経由地として訪れていた(鴻臚館は現在の福岡城内で発掘作業が行われている)。757年(天平宝字元年)に櫛田神社が創建。806年(大同元年)に唐より帰朝した空海は博多に東長寺を建立している。

藤原純友の乱に際しては、朝廷追捕使小野好古藤原純友との争いで博多の町が焼失する。この争いの前、好古は戦勝祈願にと櫛田神社に素盞鳴大神を勧請したとされる。

日宋貿易

鴻臚館の衰退ののち、博多津では北宋南宋の商人や住吉神社筥崎宮など寺院神社荘園領主らの私貿易による日宋貿易の拠点となった。1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇1151年(仁平元年)の大宰府追捕使による襲撃があったものの日宋貿易で栄え、近年の発掘調査から宋銭が博多でも流通していたことが判明している。

平安時代末期から、後世「大唐街」と呼ばれる宋国人街が筥崎宮周辺に形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う国際都市であった。宋人は船団を組んで盛んに往来し、博多に居を構え、寺社とも結び付いた。このような宋商人は「綱首」(ごうしゅ、こうしゅ)と称される。1195年(建久6年)に帰朝した栄西が博多に聖福寺を開山したのも、博多綱首が心物両面で援助したからであった。1241年(仁治2年)に宋より帰朝した聖一国師円爾(弁円)の承天寺開山も博多綱首で小呂島地頭の謝国明が援助したことによる。この時期、僧により饂飩蕎麦饅頭が日本にもたらされ、博多はこれらの発祥だという説がある。

平清盛は父忠盛の後を継いで伊勢などを輸出品に宋との貿易を活発化させた。1158年(保元3年)に大宰大弐となった頃に清盛は博多に人工港「袖の湊」(そでのみなと)を開いて日宋貿易の中継地としたと考えられている。

博多どんたくの前身である博多松囃子は、清盛の子重盛が博多の町にもたらした恩恵への謝意を示したのがはじまりとされ、また博多祇園山笠は円爾が疫病の流行する博多の町を甘露水で清め回った1241年を起源としている。

ちなみに1222年(貞応元年)に人魚が博多の海に流れ着いたという記述があり、その骨とされるものが龍宮寺に所蔵されている。

元寇 - 室町時代

元寇が襲来した文永の役(1274年)によって博多の町は焼失した。再来を警戒して博多湾沿岸には元寇防塁が築かれる。防塁が築かれたことから博多の別名として「石城」の名が生まれる。元寇ののち1293年(永仁元年)に鎮西探題が設置され(現在の櫛田神社の近く)、大宰府に代わって九州統治の中心となる。鎌倉時代末期には、全国主要寺社の造営費を獲得するため、博多商人が幕府公認の下、しばしば元との間に交易船を往来させた(寺社造営料唐船)。

1333年(元弘3年)に後醍醐天皇が挙兵すると、菊池武時が鎮西探題北条英時を襲い博多の町を焼き払った。武時は少弐貞経大友貞宗によって駆逐されるが、足利尊氏によって京都の六波羅探題が陥落したことが伝わると貞経や貞宗さらには島津宗久らは北条英時から離反、鎮西探題を滅ぼした。1336年(建武3年)、建武の新政に離反して九州へ落ち延びた足利尊氏は少弐頼尚島津貞久大友氏泰らとともに多々良浜の戦いにて菊池氏を破る。

足利義満治世の1371年(応安4年)に管領細川頼之によって今川貞世(了俊)が九州探題に任命され、懐良親王南朝勢力の掃討、御家人の守護被官化に務めた。貞世はまた対馬壱岐松浦五島列島を本拠地とした倭寇によって博多に売られたであろう高麗人捕虜を哀れみ、帰国させている。さらに、からの倭寇討伐の要請などを受け、大内氏とともに倭寇を討伐し、幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に携わったが、讒言にて失脚した。

貞世の次に九州探題となった渋川満頼は、応永の外寇に際して博多商人宗金をして幕府との連絡を行い、博多商人の平方吉久(外郎の由来である陳宗敬の子)と妙楽寺住職の無涯亮倪を朝鮮に派遣し、李氏朝鮮使者の宋希璟が博多を訪れたときは自ら接待した。

足利義持は、私貿易を行っていた大内義弘応永の乱で討ったのち、安芸出身といわれる博多商人肥富(小泉)の進言を受けて1401年(応永8年)に祖阿を正使、肥富を副使として明へ第1回遣明船を出してもいる。

この頃の博多商人は日明貿易や日朝貿易のみならず、琉球を経由して東南アジアとの貿易にも関わり、中でも道安という商人は琉球国王の名代として貿易を行った。明で買い付けた生糸は日本で20倍の価値になり、逆に日本のは明で4~5倍の価値になったという。また銅銭を輸入し、日本刀硫黄などを輸出し、博多商人は巨万の富を得ていた。その様子は海東諸国紀にも記載されている。

渋川満頼が九州探題を辞したのち、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言、宗金など商人たちは大友氏の保護下で貿易を行う。当時の博多の町は、港がある北東部「息浜」(おきのはま)に6000戸、聖福寺・承天寺周辺の南西内陸部「博多浜」に4000戸あり、息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めていた。

日明貿易が再開した1432年(永享4年)、少弐嘉頼家臣・三原入道の家人と秋月満種家臣・原田種泰の家人が見物に来ていた博多祇園山笠の「追い山」の会場にて衝突、三原方50人余、原田方20人余の死者を出した。翌年には少弐家人と大内持世家人が博多で衝突。さらに翌年には大内家人と少弐家人が箱崎にて衝突している。この他にも守護大名同士や大身らは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。

1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は大内勢力と大友勢力の配下となる。

戦国時代

応仁の乱ののち足利将軍家三管領細川氏らの日明貿易の拠点として台頭すると、博多商人や大内氏と利害が衝突するようになる。そのもっともたるのが日明貿易の港寧波大内義興一味と細川高国一味が争った寧波の乱(1523年)である。こののち大内義隆1536年(天文5年)に遣明船を再開する。義隆はまた博多祇園山笠の舁き山12本のうち6本を周防国山口に分け移したと言われている。1551年(天文20年)に義隆が家臣陶晴賢の謀反で追われ自害したのち、博多の町は大友宗麟により統治される。宗麟は1559年(永禄2年)に幕府から九州探題に任命されてもいる。

だが同年に大友宗麟に反旗を翻した筑前国衆の筑紫惟門は、1559年4月12日(永禄2年2月25日)に兵2,000で博多の街を焼き払って破壊し、大友氏の博多代官を殺害した。イエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダによれば、1570年3月上旬(永禄13年1月)の博多の町は森林のごとくに変貌して20戸ほどしか居住していなかったという。このとき多くの商人は肥前国に避難しており、神屋宗湛唐津に逃れていた。しかしその2カ月後にアルメイダが再び博多を通過した時には20戸から3,500戸に増えて、程なく人口1万人に達する勢いだったといい、1570年(永禄13年/元亀元年)の博多の急速な復興がうかがえる 。

大友氏は、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を元亀・天正年間に家臣臼杵鎮続に命じて行わせ、博多湾に直接流れ込むようにした。今の石堂川(御笠川)である。そして比恵川の跡を堀として敵の来襲に備えた。臼杵鎮続が安房守であったことから房州堀と呼ばれる。房州堀は江戸時代には古屋堀とも呼ばれ、明治時代九州鉄道博多駅(現在の祇園駅付近)が建設されるまで残っていた。堀の近く、現在の博多警察署の場所に矢倉も建てた。

大友氏時代の博多は九州で最も富裕な町であったと言われる。有力商人を中心として自治が行われていたとイエズス会士ルイス・フロイスは伝えている。博多では「年寄」と呼ばれる役職が自治運営をしていたと考えられ、後年の1597年(慶長2年)の資料において「十六人之年寄衆」と残っている。また宣教師アルメイダは「博多はキリスト教を受け入れず日本一布教しづらい土地であった。その理由は裕福で贅沢な町だからである」と伝えている。フランシスコ・ザビエルは京都へ赴く途中に博多にも立ち寄っているが、男色の酷さに辟易とし足早に去っている。当時の西欧の文献において博多は「Facata」「Focata」「Facatta」と記載された。

博多商人は戦国時代も活躍し、その一人で神屋宗湛の祖父寿禎は大内義隆の父義興の支援で石見銀山を開発する。また種子島に漂着(1543年)した明国船に乗船していた明国人王直は博多商人3人を貿易仲間としていた。この時期、日明貿易船や平戸長崎に来航しているポルトガル船・オランダ船などに無担保で買付用のを融資し、航海成功時に3~11割の高利子を付けて返済させる「抛銀」(なげがね)というリスクの高い商行為がおこなわれており、神屋氏をはじめ博多商人もこれによって多額の利益を得た。

1578年12月20日(天正6年11月12日)の耳川の戦い大友氏島津氏に大敗したことが筑前国に伝わると間もなく、博多で筑紫広門秋月種実の軍勢による掠奪が起き、1579年1月3日(天正6年11月26日)にイエズス会司祭修道士は博多を脱出した。1580年(天正8年)には龍造寺隆信が筑前国に進撃し、博多の町のほぼ全土が焼失した。続いて島津義久の軍が復興した博多を占領するも1586年(天正14年)8月下旬に博多を焼き払って撤退する。

1587年(天正15年)豊臣秀吉九州征伐を行い島津氏を降伏させる。九州平定後秀吉は筥崎宮に滞在し、千利休や神屋宗湛らを招いて茶会を開く。同年6月10日に秀吉は、平戸と長崎からコエリョとモンテイロが秀吉に謁見するため乗って来たフスタ船に、箱崎浜から乗船して焦土の博多を眺める。そしてすぐに博多の復興に取り掛かり、黒田如水をして住民を呼び戻す役目を担わせた。その後には石田三成を博多奉行に任じ、博多商人の宗湛や嶋井宗室にも協力をさせ、本格的な復興に取り掛かった。入り江や湿地を埋め立て、息浜と博多浜を一つの町とし、最初の縄張りを行った南北の街路を「一小路(市小路)」とし、町を袈裟の七条になぞらえて七小路(七筋)七堂七厨子七口七観音とし、七小路に面する町々を「」(ながれ)という単位に集合させた。この復興事業は「太閤町割り」と呼ばれる。また荒廃した櫛田神社に社殿を寄進した。

秀吉は復興とともに9か条からなる「定」(さだめ)を発布。問屋を禁じ、土地家屋への課税「地子」や武士への労役「諸役」も免除し、博多に武士が家を持つことも禁止され、博多の廻船を全国で保護し、喧嘩も両成敗とした。楽市楽座政策である。これらは朝鮮出兵を見越して博多の町を兵站供給地とするためであったとされる。また、秀吉はこの博多滞在中の6月19日バテレン追放令を発布している。

ただし、秀吉の当初の復興計画は、博多を九州統治及び将来の朝鮮出兵のための政治・軍事都市とする予定であった。(当初は豊臣政権の五奉行筆頭である治部少輔石田三成に筑前52万石を与える予定であった。)この年の5月から6月にかけて、豊臣秀長田中吉政らに充てた複数の書状によれば、博多に城を建設して秀吉の九州における居城にするとともに五大老の一人小早川隆景に筑前を与えて留守居役を兼ねさせること、南蛮中国高麗(朝鮮)との貿易を博多一港に限定する代わりに博多の中心地から寺院・神社を排斥して郊外に移転させ、市内にはイエズス会に教会を建設させる構想があったとされている。ただし、その代わりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/09/17 23:29

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