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即位の礼とは?

【ジャンル】
国事行為
(天皇が即位を国の内外に宣言する諸儀式)
  1. 剣璽等承継の儀
  2. 即位後朝見の儀
  3. 即位礼正殿の儀
  4. 祝賀御列の儀
  5. 饗宴の儀

【頻度】
天皇の即位ごと
(一世一度)
【会場】
皇居宮殿
【会場所在地】
東京都千代田区千代田1-1
【開催国】
日本
【前回】
〈第125代天皇明仁
1989年(平成元年)‐1990年(平成2年)
【次回】
〈第126代天皇徳仁
2019年(令和元年)
【参加者】

【ウェブサイト】

www.kunaicho.go.jp
宮殿中庭に並べられた色とりどりの旛や、鉦、鼓、桙
①萬歳旛 ②日像纛旛 ③月像纛旛 ④菊花章大錦旛 ⑤菊花章中錦旛 ⑥菊花章小錦旛 ⑦桙 ⑧鉦 ⑨鼓
孝明天皇の即位礼
京都御所紫宸殿にて

即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、日本天皇践祚後、皇位を継承したことを国の内外に示す一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼

中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における戴冠式、即位式にあたる。

即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 即位の礼と憲法
  • 2 儀式
    • 2.1 即位礼・大嘗祭後
  • 3 即位の礼の変遷
  • 4 明治の即位の礼
  • 5 大正の即位の礼
  • 6 昭和の即位の礼
  • 7 平成の即位の礼
  • 8 令和の即位の礼
  • 9 ギャラリー
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

概要

皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に「皇位の継承」である「践祚(せんそ)」と「即位(そくい)」が別の儀式として行われるようになり、風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀(せんそのぎ)」と、即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。

明治時代の1889年(明治12年)に制定された旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年(昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。

明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な「皇室慶弔行事」と同様に、即位の礼の挙行日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った天皇明仁(現・上皇)の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。以来、即位の礼は「剣璽等承継の儀」、「即位後朝見の儀」、「即位礼正殿の儀」、「祝賀御列の儀」、「饗宴の儀」の5つの儀式から構成され、これらは全て国事行為である。

即位の礼と憲法

大日本帝国憲法下において、「即位ノ礼」は登極令に基づいて挙行され、神事との区別も厳格に行われていなかった。日本国憲法下で初となる明仁の「即位の礼」は皇室典範に基づいて行われ、徳仁の即位の礼もこれに倣う。現在の即位の礼の一連の儀式は全て国事行為である。

国民の一部に、即位の礼への国費支出や即位の礼への都道府県知事県議会議長の参列が憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断であったり、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである。

1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして即位の礼への国費支出を認めている。

ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の即位の礼が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において「平成の即位礼正殿の儀では、政府は、旙(ばん、装飾用の旗)から日本神話において天皇の権威の象徴とされるヤタガラスを取り除いたり、元来内閣総理大臣が正殿の階段の下の宮殿中庭から正殿・高御座の天皇を見上げて万歳三唱するところを、正殿内で万歳三唱するよう修正したりして政教分離、国民主権にも一定程度配慮した」と、政府の政教分離に対する配慮を認めたうえで「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある。

2018年(平成30年)12月10日、原告241名が天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定による天皇明仁の退位と新天皇徳仁の即位に伴う「退位の礼」、「即位の礼」、「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り公金支出の差し止めと損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。

儀式

日本国憲法施行後の「即位の礼」では、5つの儀式(国事行為)が行われる。ここでは儀式を概説する。

天皇明仁の剣璽等承継の儀
即位の礼はこの儀式から始まる
剣と璽(イメージ、実物は非公開)
1990年(平成2年)、即位礼正殿の儀

即位礼・大嘗祭後

豊受大神宮(外宮)
神武天皇「畝傍山東北陵」
奈良県橿原市
「親謁の儀」で使われた儀装馬車2号
宮中三殿(航空写真)

即位の礼の変遷

孝明天皇の冕冠。即位礼にのみ戴冠した。
孝明天皇袞衣。天皇の礼服である。

記紀に記される記録の限りでは、即位礼は元日に行われていたが、これは推古天皇の時代に隋帝国から暦法が輸入されたときに、大陸の歴代帝室の例に倣って正月即位が取り入れられるとともに、さかのぼってそれ以前の即位礼の日付も正月が与えられたのではないか、とされる。

それ以前の即位礼は大嘗祭と一体をなしており、大嘗祭が冬至の日(太陽太陰暦で11月頃)に行われた翌日、新帝が祭で天照大神の霊威を得てから群臣の前に姿を現す形式であったとされる。この時点では、神祇伯が天神寿詞を奏上し、神器が献上されることにより皇位継承を内外に宣明した。

その後、即位礼の時期が正月に繰り上げられ、大嘗祭に先んじておこなわれるようになった。記紀の記述によっても詳細な儀式次第は明らかでないが、まずはじめに神器が授受され、即日または後日、改めて「壇」に昇る式が行われた。

儀式次第が詳細に記録された最初は朱鳥4年正月1日(690年2月14日)の持統天皇の即位礼である。この時は、以下の式次第である。

この時点では天神寿詞は大嘗祭と併せて2度詠まれていた。「養老律令」(720年)においても

凡そ践祚の日、中臣天神寿詞を奏し、忌部神璽の鏡剣を上る。

とあり、寿詞の次に神器授受が行われていたことがわかる。

神器の授受は「剣璽渡御の儀」として即位式前(皇位継承直後)に行われることがあったが、天応元年(781年)の桓武天皇の皇位継承に際し、「即位」から日を置いて「大極殿に御して詔して」とあることから、事実上の践祚と即位の分離が行われるようになった。さらに延長8年(930年)の朱雀天皇の皇位継承に際して、明示的に「践祚」と「即位」が分離されるに至る。

貞観儀式」(870年代)「江家次第」(11世紀)において、即位礼の式次第が以下の通り明示された。

ここでは養老律令に定められていた剣璽渡御および天神寿詞が取り除かれ、また天子南面、礼服を着用するなど、大陸様式を取り入れた式次第になった。

ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。

1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。

儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇内裏紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇太政官庁安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝後村上天皇長慶天皇後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。後柏原天皇以降は太政官庁は再建されず、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、明治天皇に至るまでこの場所で行われた。

中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。

即位式は皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。

なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。

明治維新以降は旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められた。御大礼(即位の礼)は引き続き京都で行われることとされ、大正天皇昭和天皇の御大礼は引き続き京都御所において行われた。1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成令和の即位の礼は東京で行われた。式次第については旧例が踏襲されたが、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。

儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮勅使が遣わせられる。時期は登極令によりからとされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯皇后十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。

明治の即位の礼

明治天皇の伊勢神宮親謁

第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。

明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗というがたてられた。

慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。

大正の即位の礼

大正天皇の即位の礼

旧皇室典範登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は懐妊中であった(後に第四皇男子の澄宮崇仁親王を出産)ために欠席した。

この時に帝国議会上院の貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。

即位礼ノ勅語

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ惟神ノ寶祚ヲ踐ミ爰ニ即位ノ禮ヲ行ヒ普ク爾臣民ニ誥ク
朕惟フニ皇祖皇宗國ヲ肇メ基ヲ建テ列聖統ヲ紹キ裕ヲ埀レ天壤無窮ノ神勅ニ依リテ萬世一系ノ帝位ヲ傳ヘ神器ヲ奉シテ八洲ニ臨ミ皇化ヲ宣ヘテ蒼生ヲ撫ス
爾臣民世世相繼キ忠實公ニ奉ス
義ハ則チ君臣ニシテ情ハ猶ホ父子ノコトク以テ萬邦無比ノ國體を成セリ
皇考維新ノ盛運ヲ啓キ開國ノ宏謨ヲ定メ祖訓ヲ紹述シテ不磨ノ大典ヲ布キ皇圖ヲ恢弘シテ曠古ノ偉業ヲ樹ツ
聖徳四表ニ光被シ仁擇陬に霑洽ス
朕今丕績ヲ續キ遺範ニ遵ヒ内ハ邦基ヲ固クシテ永ク磐石ノ安キヲ圖リ外ハ國交ヲ敦クシテ共ニ和平ノ慶ニ頼ラムトス
朕カ祖宗ニ負フ所極メテ重シ
祖宗ノ神靈照鑑上ニ在リ
朕夙夜競業天職ヲ全クセムコトヲ期ス
朕ハ爾臣民ノ忠誠其ノ分ヲ守リ勵精其ノ業ニ從ヒ以テ皇運ヲ扶翼スルコトヲ知ル
庶幾クハ心ヲ同シクシ力ヲ戮セ倍々國光ヲ顯揚セムコトヲ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

昭和の即位の礼

1928年11月、即位の礼の昭和天皇

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受けて昭和天皇が践祚した。

1928年(昭和3年)11月6日、第124代・昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車(鳳輦)・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。

11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣田中義一が万歳三唱した。

天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会夜会などの祝宴の他、観兵式観艦式等が執り行われた。

即位礼ノ勅語

※漢字は常用漢字に改めた。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗惟神ノ大道ニ遵ヒ天業ヲ経綸シ万世不易ノ丕基ヲ肇メ一系無窮ノ永祚ヲ伝ヘ以テ朕カ躬ニ逮ヘリ朕祖宗ノ威霊ニ頼リ敬ミテ大統ヲ承ケ恭シク神器ヲ奉シ茲ニ即位ノ礼ヲ行ヒ昭ニ爾有衆ニ誥ク
皇祖皇宗国ヲ建テ民ニ臨ムヤ国ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率イテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地ト並ヒ存スヘキ所ナリ
皇祖考古今ニ鑑ミテ維新ノ鴻図ヲ闢キ中外ニ徴シテ立憲ノ遠猷ヲ敷キ文ヲ経トシ武ヲ緯トシ以テ曠世ノ大業ヲ建ツ皇考先朝ノ宏謨ヲ紹継シ中興ノ丕績ヲ恢弘シ以テ皇風ヲ宇内ニ宣フ朕寡薄ヲ以テ忝ク遺緒ヲ嗣キ祖宗ノ擁護ト億兆ノ翼戴トニ頼リ以テ天職ヲ治メ墜スコト無ク愆ツコト無カラムコトヲ庶幾フ
朕内ハ則チ教化ヲ醇厚ニシ愈民心ノ和会ヲ致シ益国運ノ隆昌ヲ進メムコトヲ念ヒ外ハ則チ国交ヲ親善ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普ク人類ノ福祉ヲ益サム事ヲ冀フ爾有衆其レ心ヲ協ヘ力ヲ戮セ私ヲ忘レ公ニ奉シ以テ朕カ志ヲ弼成シ朕ヲシテ祖宗作述ノ遺烈ヲ揚ケ以テ祖宗神霊ノ降鑒ニ対フルコトヲ得シメヨ

日程
昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀)
大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画
昭和天皇の即位の礼
1928年(昭和3年)


備考

先代の大正天皇の際と同様に、大礼記念の表彰として「大礼記念章」が制定された(昭和3年8月1日勅令第188号「大礼記念章制定ノ件」第1条)。授与対象は践祚の式(同第3条1号)並びに即位の大礼及び大嘗祭(同2号)に招かれた者、在所各地に於いて餐餌を賜った者(同3号)、大礼の事務及び伴う要務に関与した者(同4号)であった。

昭和大礼記念章
銀製女性用表面
銀製女性用裏面


なお、現在の阪急京都本線の前身である新京阪鉄道と、近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道は、この昭和天皇即位大典に間に合わせるようにして、それぞれ暫定開業している。

マスコミ関連では、1925年(大正14年)から開始されたラジオ放送で中継が実施されたが、行列を直視しながらの実況は禁止されていたので、音とスケジュールだけを頼りに実況した。紫宸殿での式典の際には、新聞などマスコミ関係者はすべて建礼門の外に締め出された。唯一、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部が内部の様子を撮影しており、そのフィルムが後年公開された。

各新聞は京都で撮影された写真を東京の本社にファクシミリ(当時は「写真電送機」と呼んでいた)で送信し、その写真が掲載された号外をその日のうちに発行することができたという。これによって、日本製のファクシミリの技術が大きく進歩するきっかけとなった。

1929年(昭和4年)5月4日-5日、宮城内旧三の丸覆馬場及び済寧館において御大礼記念天覧武道大会が開催され、武道史上最大の催事となった。

平成の即位の礼

即位礼正殿の儀」も参照
萬歳旛
1990年(平成2年)、大嘗祭

第125代天皇明仁の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年(平成2年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。

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出典:wikipedia
2019/10/19 08:45

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