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原辰徳とは?

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原 辰徳
読売ジャイアンツ 監督 #83


【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
神奈川県相模原市(現在の相模原市南区)
(出生地は福岡県大牟田市)
【生年月日】
(1958-07-22) 1958年7月22日(60歳)
【身長
体重】
181 cm
84 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手外野手一塁手
【プロ入り】
1980年 ドラフト1位
【初出場】
1981年4月4日
【最終出場】
1995年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • 読売ジャイアンツ (1999 - 2003, 2006 - 2015, 2019 - )

【国際大会】

【代表チーム】
日本代表(WBC2009)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2018年
【得票率】
78.7%(122票中96票)
【選出方法】
競技者表彰(エキスパート部門)
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手外野手、右投右打)。プロ野球監督。解説者。WBC第2回大会(2009)日本代表監督を務めた。福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市相模原市(現南区)育ち。2019年より3度目の読売ジャイアンツの監督を務める。

1980年代から1990年代中盤にかけて巨人の4番打者を務め、ON時代後の巨人を支えた。入団から12年連続で本塁打20本以上を記録し、4番としての出場試合数は球団歴代4位である。監督としてもチームを7度のリーグ優勝と3度の日本一に導いている。2009年にはワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務め、世界一に導いた。

また、2008年より国際武道大学の客員教授、2016年より東海大学の客員教授を務める。愛称は「(永遠の・平成の)若大将」。

父は東海大学付属相模高校東海大学硬式野球部などで監督を務めた原貢。辰徳と同じく東海大相模高校・東海大学の野球部に所属し、巨人に入団した菅野智之は甥(妹の子)にあたる。

目次

  • 1 年表
  • 2 来歴
    • 2.1 プロ入り前
      • 2.1.1 高校時代
      • 2.1.2 大学時代
    • 2.2 現役時代
    • 2.3 評論家時代
    • 2.4 巨人コーチ時代
    • 2.5 第1次巨人監督時代
    • 2.6 巨人特別顧問時代
    • 2.7 第2次巨人監督時代
    • 2.8 巨人監督退任後
    • 2.9 第3次巨人監督時代
  • 3 テレビ・ラジオ解説
  • 4 選手としての特徴
    • 4.1 走塁放棄
  • 5 監督として
  • 6 人物
    • 6.1 趣味・嗜好
    • 6.2 ジェスチャー
    • 6.3 週刊文春の記事について
  • 7 詳細情報
    • 7.1 年度別打撃成績
    • 7.2 年度別監督成績
    • 7.3 タイトル
    • 7.4 表彰
    • 7.5 記録
    • 7.6 背番号
  • 8 関連情報
    • 8.1 ディスコグラフィ
    • 8.2 著書
    • 8.3 関連書籍
    • 8.4 写真集
    • 8.5 出演
    • 8.6 受賞
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考資料
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

年表

詳細は以下の#来歴を参照。

来歴

プロ入り前

幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧(現・三井化学)大牟田の社宅に住んでいた。なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた。私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校と転校した。中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家森村誠一一家も住んでいた。

高校時代

1974年東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末に高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二宇野勝土屋正勝杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原の他にも、津末英明(津末は東海大学の同期でもあり、後に巨人でもチームメイトとなった)、綱島里志、佐藤功、村中秀人らの好選手を擁していた。高校通算本塁打は43本。

大学時代

その後東海大学政治経済学部経済学科に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正と津末は同級生、高野光は後輩にあたる。当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した

1年生秋のリーグ戦で初本塁打を打ったが、打率.267で、ベストテンには入れなかった。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。打撃三冠王を2度達成する(2年生秋・4年生春)。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。

3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団(巨人、広島大洋日本ハム)競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた8となった。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた

1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科を卒業する。

現役時代

1981年開幕戦に6番・二塁手で先発出場。プロ初打席は中日ドラゴンズ三沢淳の前にセカンドフライに倒れるも、代わった牛島和彦からプロ初安打を記録。翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放ち、その17日後に行われた対大洋ホエールズ戦(北九州市民球場)では、遠藤一彦から自身初のサヨナラ本塁打も放った。試合終了後、興奮した大量のファンが乱入した。シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まる。空いた二塁には篠塚利夫が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まる。シーズン後半には疲労から成績を落としてしまったが、最終的には打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得した。シーズンオフには、日本テレビで1年目の活躍等を振り返る特集番組『辰徳スペシャル』が放映された。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位であった。

1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。巨人における3割30本塁打100打点の記録達成は、青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次いで球団史上4人目だった。

1986年、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、9月24日の対広島25回戦で津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感がずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる。

1987年1988年は2年連続で3割30本塁打を記録。特に1988年は本拠地が東京ドームになってチーム本塁打が激減する中、最後までホームラン王争いに加わった。その後、1996年に松井秀喜が38本塁打を記録するまで、チーム内で30本塁打以上を達成する選手は登場しなかった。

1989年左翼手コンバートされる。同年、新人時代から9年連続20本塁打以上のプロ野球新記録を達成した。近鉄バファローズとの日本シリーズでは、開幕から18打席連続無安打と極度に不振に陥る。東京ドームで迎えた第5戦、近鉄・吉井理人は原の前を打つ4番打者・ウォーレン・クロマティを敬遠する満塁策をとり、不振の原との勝負をする作戦を選ぶ。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を放ち、溜飲を下げた。ちなみに、原はこのシリーズはわずか2安打に終わったが、その2安打が第5戦の満塁弾、第7戦の2ランといずれも本塁打であり、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広を上回る6打点を記録している。

1990年は開幕戦で脇腹を痛め戦線離脱し、一時は任意引退公示されたが、最終的には打率3割を達成し、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。レギュラーシーズン127試合目となるナゴヤ球場での中日戦において3本塁打を放ち、10年連続20本塁打を達成。翌1991年には、入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し、2年連続ベストナインに選出される。しかし、プロ入団以来初めてのBクラス転落を経験し、年俸も微増の9900万円でわずかに1億円に届かなかった。

1992年一塁手にコンバート。当初三塁への復帰も検討されていたが、その背景には、不安定な左翼守備とその影響で打撃成績が下降したこと、またすでにファンの間で「原=三塁」のイメージが定着しており、外野手転向によってそれが損なわれていたことなどの理由があった。しかし、アキレス腱痛の悪化などを考慮し、最終的には一塁手へのコンバートとなった。入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新し、この年のオフ、駒田、斎藤雅樹とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。

1993年は三塁手に復帰。5月2日には4番出場が通算1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の規定打席未達に終わる。開幕から21試合を経た5月5日まで本塁打が出ないという不振ぶりで、新人時代より続けていたシーズン20本塁打以上の記録が12年で途切れるなど、プロ入り以来最低の成績に終わる。同年オフ、中日の主砲・落合博満FAを宣言し巨人に移籍。四番を任される事が確実となり、原の立場は微妙になった。

1994年左脚のアキレス腱を部分断裂し開幕を二軍で迎え、一軍初出場は開幕から53試合目、6月14日の阪神戦だった。7番打者で先発出場するも、ドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP・藪恵市から本塁打を放ち意地をみせた。2年連続で規定打席未達ながら、夏場に3打席連続本塁打を記録するなどの活躍を見せ、入団以来14年連続二桁本塁打を達成。チームは10.8決戦を制して4年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズで原は欠場の落合に代わり四番・一塁手で出場。第2戦で西武ライオンズ工藤公康から巨人の同試合唯一の得点となる適時打を放ち、球団創立60周年での日本一達成に貢献した。

1995年に現役引退原の引退が発表された後の試合では、ビジターの球場でも敵味方の区別なくファンから熱烈な声援が上がった引退試合は、巨人のホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化することと、シーズン終盤までチームが優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。原は4番・三塁手として出場し、紀藤真琴から左中間スタンドへ382本目の本塁打を放った。最終打席では、広島側の計らいにより大野豊がワンポイントで登板し、ライバル対決が行われ、結果はレフトフライに終わった。試合も1-3で巨人が敗れたが、試合後の引退セレモニーでは「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」と語り、「今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」との言葉を残した

評論家時代

1996年NHK野球解説者スポーツ報知野球評論家へ就任。プロ野球中継解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務めた。

巨人コーチ時代

1998年10月14日、長嶋が監督の下、巨人の一軍野手総合コーチに就任しプロ野球界復帰。背番号は80。初キャンプでは外野ノックの際に本塁打を連発して珍プレーとして取り上げられた。本人曰く「バットで打ったらスタンドに入れるのが仕事だったもんだから、つい、ネ。」2000年には、一軍ヘッドコーチに昇格。

第1次巨人監督時代

2001年シーズンオフの10月11日、勇退した長嶋の後任として巨人の監督に正式就任。背番号は83。1年目シーズンとなった2002年のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。当時オーナーだった渡邊恒雄に打診して、現役時代から親交があり、アメリカにコーチ留学していた鹿取義隆ヘッドコーチとして招聘した。

2002年は、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一の抑え転向、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初でシリーズとして1990年の西武以来12年ぶりとなる無傷のストレート4連勝で、「監督初年度での日本一」を達成した。

この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障が多かったものの、支配下選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。6月19日の対横浜戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の岡島秀樹、相手投手が左投げの河原隆一の場面、ベンチに控え野手清原和博村田善則鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政に交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した。

しかし翌2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜がFA権を行使しMLBへ移籍したことや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと(チーム防御率は3.04から4.43に低迷)、更には阪神の快進撃などもあり3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執もあり、渡邉恒雄オーナー(当時)曰く“読売グループ内の人事異動”の名目で同年9月26日監督を辞任することを表明し、特別顧問に転任した。

巨人特別顧問時代

2004年から2年間は巨人軍特別顧問(日本テレビ解説者、スポーツ報知客員評論家と兼任)を務めた。また、タレントとしてTBSラジオの番組『原辰徳のいきいきトーク』(『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』。2004年4月から9月…日曜9時55分 - 10時、2004年10月から2005年12月…土曜17時 - 17時15分、東京地区のみ放送)でパーソナリティを担当。

第2次巨人監督時代

2005年10月5日、自身の後任監督である堀内恒夫が成績不振により引責辞任。その後任として監督に再任した。背番号は88

2006年、シーズン当初は開幕ダッシュに成功し5月まで首位をキープしていたが、小久保裕紀高橋由伸阿部慎之助など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。

2007年、故障で出遅れた上原浩治を「今季のみ限定」で抑えに転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用が成功しチームを5年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入されたセ・リーグクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口貴彦西村健太朗の指導を依頼。新聞で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。

2008年は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、シーズン終盤の8月から9月にかけて12連勝含む26戦で21勝するなどし猛追、そのまま10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成する。クライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではパ・リーグの覇者・埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。

この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回したが、坂本はこの試合以降の2008年の全試合、全イニングに起用され、急成長を遂げた。野手では他に亀井義行や、育成枠から隠善智也らを、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐らを積極的に起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価された。

同年10月28日、日本野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。背番号は83。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。

2009年の日本シリーズでの原辰徳
優勝パレードの原監督(2009年11月22日撮影)

2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。野手陣においては、3年目の坂本を1番打者として起用、また前年までは代打や守備固めでの起用が多かった松本哲也・亀井善行をスタメンとして固定するなど、勢いのある若手をレギュラーとして起用した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績をキープし首位を快走、9月23日にV9(1965年 - 1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。ベテランの小笠原道大アレックス・ラミレスが期待通りの成績を残したことも、若手起用にも繋がり相乗効果となり、年間安打数1375本は球団歴代最多となった。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された。クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を達成した。

2009年12月6日にスイスローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された。

2010年は、長野久義を獲得し前年同様優勝が期待されたが、前年度活躍した内海哲也東野峻、ゴンザレス、オビスポといった主力投手がそろって不調に陥り、高橋尚成の退団やマーク・クルーンの救援失敗も響いてチーム防御率が1点近く悪化し、連覇を逃した。

2011年は、前年度の失敗から投手コーチに川口和久を招聘し立て直しを図り、この年入団した澤村拓一の活躍もあり改善したが、抑え投手を固定できず、久保裕也に決まるまではレビ・ロメロジョナサン・アルバラデホなどを日替わりで起用した。また、この年から導入された統一球に苦戦し、前年までの主な得点源であった本塁打が激減、得点力が大きく低下した。

2012年は、ラミレスがDeNAに移籍したが、野村克也の教え子である橋上秀樹秦真司をコーチとして招聘し、村田修一杉内俊哉デニス・ホールトンを獲得し、阿部を四番とした新チームで開幕をスタートさせる。ところが春先は前年度並に打てない日々が続き、単独最下位にまで転落した。しかし、長野と坂本の打順を入れ替えたり、松本哲也が復調したり、西武から移籍した石井義人を代打の切り札として使い、シーズン途中に復帰したエドガー・ゴンザレスの活躍などもあり打線は復調、交流戦ではセ・リーグのチーム初の優勝を決めた。交流戦後も好調は続き、夏場から首位の座を譲らず独走でリーグ優勝を決めた。この年は、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/04 17:56

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