与党 (150)
野党 (87)
無所属・欠員 (4)
参議院(さんぎいん、英語: House of Councillors)は、日本の立法府たる国会の議院の一つで、衆議院とともにこれを構成する(日本国憲法第42条)。両院制を採用する諸国の上院に相当する。
日本国憲法では両議院ともに全国民を代表する選挙された議員で組織される民主的第二次院型の二院制が採用された。
参議院議員の任期は、衆議院議員の任期(4年)より長い6年で、衆議院のような全員改選(総選挙)ではなく、3年ごとに半数改選(通常選挙)が行われる(憲法第46条)。また、参議院は任期途中での議会の解散がないが、衆議院は任期途中で解散となることが多く、実際の任期の差は更に広がる。そのため、衆議院と参議院で同時選挙が実施されても、参議院議員の半数が国会の議席に残っているという特徴がある。
参議院だけに認められる権能としては、衆議院解散中における参議院の緊急集会(憲法第54条2項)がある。
一方、法律案の再可決(憲法第59条)、予算の議決(憲法第60条)、条約の承認(憲法第61条)、内閣総理大臣の指名(憲法第67条第2項)においては、衆議院の優越が認められている。予算については衆議院に先議権が認められているため、参議院は常に後議の院となる(憲法第60条)。また、内閣不信任決議や内閣信任決議は、衆議院にのみ認められている(憲法第69条)。
もっとも、衆議院が可決した法律案について、参議院が異なる議決をした場合に衆議院が再可決するためには、出席議員の3分の2以上の多数が必要となり、議決のハードルは高い。また、参議院が議決をしない場合に、衆議院は否決とみなして再可決に進むこともできるが、参議院が法律案を受け取ってから60日が経過していなければならず、この方法を多用することは難しい。したがって、会期中に予算の他に多くの法律を成立させなければならない内閣にとって、参議院(場合によっては野党以上に与党所属の参議院議員)への対処は軽視できない。
なお、憲法改正案の議決に関しては、両院は完全に対等である。また、憲法ではなく法律に基づく国会の議決に関しても、対等の例は数多くある(国会同意人事等)。特に衆議院の多数会派と参議院の多数会派が異なる「ねじれ国会」では、内閣運営に大きな影響を及ぼすことがある。
相対的に参議院は政権に対して一定の距離を保ち、多様な民意の反映、政府に対するチェック機能といった機能を有するものと言われてきた。したがって、衆議院とは異なるプロセスで選挙や審議を行い、多元的な国民の意思を反映することが期待される。
しかし、参議院については衆議院と全く同じ意思を示すと「カーボンコピー」と揶揄され、衆議院と正反対の意思を示すと「決められない政治」と言われる難しい存在であるという指摘がある。
河野謙三参議院議長の時代以来、参議院の性格・役割などにも関連して参議院改革の議論が行われてきており、一定の進展を見たものもある。正副議長の党籍離脱の原則、審議時間の確保、小会派への割り当て質問時間の増加、自由討議制の導入、決算重視の審査、押しボタン式投票の導入などが実現している。参議院改革論にはカーボンコピー論から来る参議院不要論に対抗するための「衆議院との差別化」の意図もある。
参議院の大きな特徴の一つとなっている押しボタン式投票は1998年(平成10年)の第142回国会から導入されたもので、利点としては「議事の迅速化(自席にあるボタンを押すことで投票を行うため、牛歩戦術のような抵抗ができない)」及び「議員個々の賛否を明らかにすることで議員の政治責任を明確化しやすい」の2点が挙げられている。ただし出席議員の1/5以上の要求がある場合は、押しボタン式投票は行われず、衆議院同様の記名投票によって採決を行う(参議院規則第138条)。このため、予算案や国務大臣に対する問責決議案など一部議案の議決については、慣例として野党から記名投票要求が出される。
大日本帝国憲法は、(天皇の)立法権の協賛機関として衆議院と貴族院の二院からなる帝国議会を置いた。民選(公選)議員のみからなる衆議院に対して、貴族院は、皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成されていた。
これに対して日本国憲法は、立法機関として衆議院と参議院の二院からなる国会を置き、参議院は、衆議院と同様「全国民を代表する選挙された議員」のみによって構成されるものとした(日本国憲法第43条第1項)。
日本国憲法の制定過程では1945年10月11日に近衛文麿が内大臣府御用掛に任命され、内大臣府が憲法調査に当たり、調査結果として近衛と佐々木惣一の2つの案が示された。このうち近衛案では 「貴族院ノ名ヲ改メ特議院 (仮称) トシソノ議員ハ衆議院ト異リタル選挙其ノ他ノ方法ニヨリ選任ス」 とされ、近衛が1945年11月22日に奉答した案では貴族院に代わる第二院を「特議院」と仮称している。また、佐々木案では「特議院ハ特議院法ノ定ムル所ニ依リ皇族及特別ノ手続ヲ経テ選任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」とされた。
一方、連合国最高司令官総司令部(GHQ)のマイロ・E・ラウエル民政局法規課長によって作成された「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」では「立法部は一院でも二院でもよいが、 全議員が公選により選ばれなければならない」と提案されている。
幣原内閣は憲法改正は内大臣府ではなく内閣がその任に当たるべきであるという立場をとったことから、 1945年10月13日には松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置された。 憲法問題調査委員会では二院制を維持すべきであるが、構成を民主的なものに改めるべきとの意見が支配的であり、その名称についても第7回調査会(1945年12月24日)で「貴族院ノ改称ニツイテ、今マデ出タ名称ハ上院・下院、 第一院・第二院、 左院・右院、南院・北院、 元老院・衆議院、参議院・衆議院、公選院・特選院、 特議院・衆議院、 公議院・衆議院、耆宿院・衆議院、審議院・衆議院等々ノ組合セガアルガ、参議院アタリガ無難ト云フベキデアラウカ」 との意見にまとまった。
1946年1月26日の第15回調査会では、 松本委員長執筆の 「憲法改正要綱」 (甲案)及びその基本となった 「憲法改正私案 (一月四日稿)」 さらに 「憲法改正案」 (乙案) が配付検討されたが、松本は甲案の審議において 「参議院」 の名称について「『両議院』 と呼べるように『議院』の語をつける方がよいと考え、 一応この名称とした」 と説明している。こうして日本国政府が取りまとめた松本試案および2月8日に占領軍に提出された憲法改正要綱において貴族院を参議院と改めると規定された。議員の選出は、選挙による選出と、勅選議員の二本立てとされた。
一方、GHQでは1946年2月5日の民政局長会合で簡明な一院制を日本政府に提案することとなった。民政局長ホイットニー准将は、1946年2月13日、吉田茂外務大臣及び松本烝治憲法改正担当国務大臣と会見した際、衆議院のみの一院制とする憲法改正案(マッカーサー草案)を提示したが、その場で松本が、一院制では選挙で多数党が変わる度に、前政権が作った法律をすべて変更し政情が安定しないことを指摘し、二院制の検討をホイットニーに約束させている。
その後、帝国議会と枢密院での議論のために法制局が作成した想定問答集では、「問 一院制を採らず両院制を採る事由如何」「答 一院制を採るときは、いはゆる政党政治の弊害、即ち多数党の横暴、腐敗、党利党略の貫徹等が絶無であるとは保し難いのであって(以下略)」と「政党政治の弊害」を両院制を採る理由としている。
参議院は全く新しく作られた組織で貴族院との直接のつながりは無い。ただし、初期の参議院が職能代表を指向したのは、かつての貴族院改革案のリバイバルであったという指摘もある。また、第1回参議院議員通常選挙は貴族院出身者が少なからず当選し、彼らが中心になって組織した院内会派緑風会は初期の参議院で大きな影響力を持っていた。
内閣にとって多数派の支持が必須となる衆議院は、逆に言えば通常は内閣の存立基盤であり、日本国政府を監視し、その過誤を是正するといった機能は、参議院の方により強く期待されることとなる。
参議院議員の任期は6年と長く、院が内閣総理大臣によって解散されることもない。多様な人材を集めて充実した審議がなされ、院も内閣も議院運営上の駆け引きを抑制しつつも、良い緊張感を保ちながら誠実な議論の積み重ねが行われる「良識の府」となることは、参議院の一つの理想であるといえる。
ただし、参議院が新設された当時の議論では「良識の府」などという議論は全くなく、誰がこのようなことを言い出したかは不明であり、由来は不明である。また、設置の目的に存在したものでもない。
衆議院先議案が衆議院で可決した後に参議院に送付されて国会で二度目の審議に入ることが多いことから「再考の府」とも呼ばれる。予算は衆議院先議規定があり、条約や法律も政権にとって重要法案は多くが政権側によって衆議院先議法案となりやすい。与野党対立法案では衆議院可決後に参議院で審議未了で廃案や継続審議となることもある。
学習院大学教授の福元健太郎が参院発足後の1947年から2000年に政府が衆議院先議に提出した7106本の全法案を分析すると、衆議院が可決した法案を参議院が実質修正したり廃案になった例は8%。審査回数で参議院が衆議院を上回ったのは22%という結果が出た。一方で、政策研究大学院大学教授の竹中治堅は「参議院は戦後日本の政治過程において多くの場面で現状を維持する方向で影響を与えてきた」と分析している。
衆議院で可決され参議院で否決された法案は過去に13例ある(みなし否決を除く)。ただし、衆議院で可決されたものの、参議院で議決できずに審議未了で法案が廃案になった例、参議院で修正案が可決された後で衆議院で参議院案が可決された例は多い。また、参議院で修正案が可決された後で衆議院が参議院案に賛成せず廃案になった例、参議院否決でも法案が成立した例もある。詳しくは衆議院の再議決を参照。
内閣不信任決議は衆議院のみの権限であるが、参議院の権限は決して無視できないものであるため、内閣は常に両院を意識する必要がある。参議院議決が政局になることから「政局の府」とも呼ばれる。
佐藤栄作首相は「参議院を制する者は政界を制する」と語り、度々重宗雄三参議院議長の元に出向き、法案成立の協力を仰いだ。また、竹下登首相は「参議院を笑う者は参議院に泣く」と語り、参議院を軽視することを戒めた。衆議院の優越規定があるが、法案の採決における衆議院優越規定について、出席議員の3分の2以上という高いハードルを課していること、参議院に解散が無く、任期の長いことが影響している。参議院に内閣総理大臣に対抗しうるボスが出てくる傾向は、のちに村上正邦や青木幹雄、輿石東らでも見られている。
1975年には、伯仲国会の中で、政治浄化が課題だった三木政権の政治資金規正法の採決では可否同数となり、議長決裁で可決されて成立する決着を迎えた。ねじれ国会になると、1998年の問責決議可決による閣僚辞任、2008年には第二次世界大戦後初の日本銀行総裁空席や、ガソリン税暫定税率期限切れによるガソリン大幅値下げ、与党を無視した野党による強行採決による証人喚問、2011年の平成二十二年度等における子ども手当の支給に関する法律の採決では可否同数になり、西岡武夫による議長裁決など、与党が急に解決できない政治課題が度々出てきた。
また、2005年の郵政国会では、参議院での郵政民営化法案の否決が、内閣総理大臣小泉純一郎による衆議院解散(郵政解散)という最大の政局へ繋がった。
議員定数は法律で定められる(憲法第43条第2項)。具体的には公職選挙法により定められ、以下のような経過をたどって、2015年(平成26年)7月現在、都道府県を単位とする選挙区選出議員が146人、全国を単位とする比例代表議員が96人であり、合わせて242人である(公職選挙法第4条第2項)。
定数が奇数の大阪・神奈川・福島・岐阜は定数是正の経過期間にある。次回選挙後は大阪・神奈川が各8人、福島・岐阜が各2人となる。
また、2015年法改正で定数是正が行われる地区では、次回選挙後は鳥取・島根、徳島・高知の2地区が合区を開始するため各県1人および2県併せて1人、新潟・宮城・長野が各3人、東京が11人、愛知が7人、北海道・兵庫・福岡が各5人となり、次々回選挙後は鳥取・島根、徳島・高知の2地区が2県併せて2人、新潟・宮城・長野が各2人、東京が12人、愛知が8人、北海道・兵庫・福岡が各6人となる。
3年ごとの通常選挙で改選される参議院議員は定数の半分の121であり、衆議院議員総選挙で改選される465の4分の1に過ぎない。2013年の第23回通常選挙まで、この少ない改選数からさらに比例代表分48を差し引いた73のみを都道府県単位の47選挙区に割り振っていたが、各選挙区に最低1の改選数を与えるため、その余の26の配分を調整するだけでは選挙区間のいわゆる一票の格差を解消するのが難しく、2016年の第24回通常選挙からは、鳥取選挙区と島根選挙区、徳島選挙区と高知選挙区を合区(参議院合同選挙区)してそれぞれ定数2(改選数1)とすることを含む10増10減による調整が実施されることとなった。しかし、選挙実施時には最大格差が3倍を超えると見られており、抜本的な解決にはなお遠い。
この問題についてはたびたび訴訟が起こされ、違憲または違憲状態とする判決が繰り返し出されている(一票の格差#参議院選挙区の一票の格差も参照)。
衆議院と同じく全国民を代表する選挙された議員で組織される(憲法第43条第1項)。3年ごとに総定数の半数ずつを改選する。都道府県単位(定数1~6)の選挙区制(大選挙区制)と全国単位の比例代表制(非拘束名簿式)の並立制であり、1人の人間が同時に双方へ立候補(重複立候補)することはできない。
比例代表制は1983年(昭和58年)の選挙から採用されている。その前は都道府県単位の選挙区制(地方区)と全国区制の2つが同時に行われていた。
現行制度の枠内で一票の格差是正のために各選挙区の定数調整を繰り返してきた結果、2016年の第24回通常選挙では改選数1の選挙区(一人区)が全45選挙区中32に上るに至る。衆議院の選挙制度(小選挙区比例代表並立制)と差が無くなってきたとも言われており、これもまた参議院の選挙制度の抜本的な見直しが求められる一因になっている。
2019年7月実施予定の第25回参議院選挙から比例区の一部で1983年から1998年まで採用されていた拘束名簿式(厳正拘束名簿式)が「特定枠」として復活することになり、これによって比例区では拘束名簿式と非拘束名簿式の両方が混合することになる。