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古田敦也とは?


監督歴

  • 東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2007)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2015年
【得票率】
76.8%(332票中255票)
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 1988 | 野球

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手(捕手)・監督で、現在は野球解説者タレントスポーツキャスター日本プロ野球名球会副理事長。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。マネジメントは株式会社ビッグベンと業務提携。妻はフリーアナウンサー中井美穂

選手としてヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。史上14位タイの8度の年間打率3割達成者。2004年プロ野球再編問題発生時には日本プロ野球選手会会長として球団側との先頭に立ち、日本プロ野球史上初のストライキ決行を主導して交渉を導いた。

ミスタースワローズ」といえば誰ですか?のアンケートでは2位以下を大きく引き離して1位を獲得した。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 プロ入り後
    • 1.3 29年ぶりの選手兼任監督
    • 1.4 現役引退・監督退任
    • 1.5 ヤクルト退団後
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 守備
    • 2.2 打撃
  • 3 プロ野球論
    • 3.1 「優柔決断」
  • 4 人物
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別守備成績
    • 5.3 年度別監督成績
    • 5.4 タイトル
    • 5.5 表彰
    • 5.6 記録
    • 5.7 背番号
  • 6 スポーツマンNo.1決定戦
  • 7 関連情報
    • 7.1 野球以外での受賞
      • 7.1.1 ファッション関連
      • 7.1.2 その他
    • 7.2 主な著書
    • 7.3 出演
      • 7.3.1 テレビ番組
        • 7.3.1.1 情報・報道番組
        • 7.3.1.2 バラエティ番組
        • 7.3.1.3 教養・ドキュメンタリー番組
        • 7.3.1.4 スポーツ番組
        • 7.3.1.5 ドラマ
      • 7.3.2 ウェブテレビ
      • 7.3.3 ラジオ番組
      • 7.3.4 CM
      • 7.3.5 PV
    • 7.4 ゲーム
    • 7.5 ディスコグラフィ
      • 7.5.1 シングル
    • 7.6 その他
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

プロ入り前

川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。100人ほどの小学生が所属していた少年野球チームであり、AからDの4チームに別れていた。入団直後、Dチームに入れられたが、Dチームにはキャッチャーがいなかったという理由と「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。また、当時は阪急ブレーブスのファンクラブ組織である「ブレーブスこども会」の会員でもあった。地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。

3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格した。合格後は高校時代の監督から立命館の練習に参加するよう勧められ、そこで評価を得た。そして当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされ強引に押し切られた。またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学。硬式野球部に入部した。同期の同学科には寺地永が居る。

高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている。

関西学生リーグで通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれた。3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時にはキャプテンを務め、1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった。その後、野球部中尾監督に日本ハムスカウトから上位指名の連絡が入り、11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった。また、当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている。古田獲得に尽力したヤクルトの片岡宏雄スカウトは、本人がこの時に"2位以上でないとトヨタ自動車"という意向を各球団に伝えていたと明かしている。

その後、古田は就職活動を行い、一般の学生として新卒採用に応募し、1988年3月に立命館大学経営学部卒業、経営学士号取得ののち、同年4月にトヨタ自動車に入社。入部した同社硬式野球部でも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄潮崎哲也らとバッテリーを組む。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

1989年、古田のプレーに惚れ込んだヤクルトスカウト部長の片岡宏雄がトヨタを訪れて獲得の意思を本人に伝えた際、古田は「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も念を押した。片岡は「スカウトに面と向かって『嘘じゃないでしょうね』なんて。まさに捕手の性格。しかも堂々と言った。相当なもんだと思ったね」と後に語っており、古田に二度惚れし、眼鏡で尻込みする現場の声を抑え込んだという。ヤクルトは同年のドラフト会議で古田を2位指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せず、野村がドラフト会場で直前になって「古田(の指名)はやめよう。捕手はワシが育てる」と発言した際には、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と喰い下がった。なお、野村は、大学出に名捕手はいない(大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなど)、というのが本来の持論である。しかし、野村克也の著書(私の教え子ベストナイン)では、スカウトが眼鏡をかけている(当時、眼鏡の捕手は大成しないと言われていた)という懸念材料と、打撃は期待出来ないという評価を伝えると「今はいいコンタクトレンズがあるし、捕手に打撃は二の次」と、むしろ野村が古田の獲得に積極的だったともいえるような記述がある。

プロ入り後

入団当初のキャンプで、野村は、古田の送球の動作の速さ、捕球も腰がしっかり落ち安定していたことから、正捕手に据えることとした。そこで、当初は打撃を評価していなかったこともあり、捕手としての配球術を勉強させようと、試合中のベンチで古田を野村の前に座らせて野村の話を聞かせることで勉強させた。当時ヤクルトの正捕手だった秦真司の捕手としての資質に野村が見切りをつけ、 途中から古田がその座を奪い106試合に出場。リーグ1位の盗塁阻止率を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得した。

2年目の1991年オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。

1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズ、翌1993年の日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場した。

1993年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。

1994年4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱、結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。

1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。

1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、本塁打は9本ながら勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。再び日本シリーズを制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。

1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。

若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出された。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。

2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。同年の日本シリーズでは自身2度目のシリーズMVPを受賞した。

2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割をマークした。また満塁では11打数8安打(打率.727)をマークするなど満塁での勝負強さが光った。

2003年6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録。シーズンでも打率こそ2年ぶりに3割を割ったが1995年以来の20本塁打以上を記録した。

2004年開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、上記にあった通り球界再編による選手会の活動が激務で日に日に成績は下降。なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。

2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。

29年ぶりの選手兼任監督

2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。

ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘。「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。

2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿五十嵐亮太の不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。

現役引退・監督退任

東京ヤクルトスワローズ#主力選手の相次ぐ放出」も参照

2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代5位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、記録を達成した試合で退場処分を受けた上、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。

9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。

9月27日の対広島戦でシーズン初安打を放つ。敵地・広島市民球場での試合であったが、試合後にはささやかなセレモニーが行われた。過去に所属経験のない相手球団の主催試合で引退セレモニーが行われるのは異例の事であった。

神宮球場における最後の出場となった10月7日、古田の引退試合が行われた。奇しくも対戦相手は同じ広島であった。神宮での最終打席となる8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。これが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。8回には石井一、また9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。この翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後のバッターボックスに立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。

10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津に対し突如戦力外を通告した件について、球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なかった件などに言及するなど、最後までフロントとの間に軋轢が残った。

ヤクルト退団後

2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した(なお、プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日だけ所属契約しているが特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。

2015年1月23日野球殿堂において255票獲得しプレーヤー表彰に選出された。一問一答での「捕手とは?」の質問には、「相手の嫌がることをやらなきゃいけない。死球を当てると厳しく対応される時代だったが、それをかいくぐりながら、そこそこ成績を残せた」と現役時代を振り返った。野村克也は「私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である『優勝チームに名捕手あり』を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう」と祝福のコメントを寄せた。

2016年には「第11回 BFA U-18野球チャンピオンシップ」「第7回女子野球ワールドカップ」「第1回 U-23 野球ワールドカップ」の3大会のアンバサダーを稲村亜美とともに務める(BS-TBSの中継番組にも大会アンバサダーとして出演)。

選手としての特徴

かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があり、古田も眼鏡を着用していた(乱視がひどく、当時のコンタクトレンズでは自身の眼球に合わなかったため、止む無く眼鏡を着用していた)ことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評された。プロ入り後は野村監督によるマンツーマンの指導などで日本球界を代表する捕手となった。古田は殿堂入りした際の「一番誇れる記録は?」という質問に、「記録っていうか、メガネをかけてやってこれたことかな。目が悪くてメガネかけたプロ野球選手はダメだって言われた時代なんでね。高校生を含めてけっこうたくさんの人に〝メガネかけてるんですけど、おかげで野球を続けてます〟と言われて、やった甲斐あったかなあと思いましたねえ」と述べている。

正捕手として日本プロ野球名球会入りしているのは野村克也・古田・谷繁元信阿部慎之助の4人のみである。野村は古田について、「初めてキャンプで見たときから、捕球や二塁への送球は天才的で、肩も強かった。当初はスカウトから『打撃には目をつぶってください』と言われたが、もともと頭のいい子だったから、投手の配球を読むことで上達し、2年目には首位打者も獲得した」と振り返り、賞賛している。また、古田の性格については「大変強気で自信家、そして目立ちたがりのところもある」と分析し、「捕手の本能も持っているが、それと同じくらい投手に近い考えもある」珍しいタイプと評している。

守備

ID野球の申し子」の異名で名を馳せた。ピッチャーに初球から決め球を要求したり、3つ目のストライクを狙う時にストライクゾーン中央にストレートを要求したりして打者の裏をかいた。

持ち前の強肩に加え、送球前の動作や、捕球してから即座に送球動作へと移る技術、正確で素早く力強いスローイング等を徹底的に磨いた。1991年に12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。

この捕球、送球について、そのもととして、下半身の柔軟さがあげられることが多い。古田自身は股関節の柔らかさについて、「これは持って生まれたものだと思うんです。子供のころから、いわゆる女の子座りもできた。ヒザの関節も、じん帯も緩めなんです。よく伸びるというか、柔らかいというか……。特にヒザは緩いかもしれませんね。というよりルーズ気味。人に引っ張られるとグラグラってする時がありますから」と述べている。

ミットを動かさずにボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。矢野燿大は「古田さんのキャッチングは、手で捕っているというよりも下半身で捕られているように見えるんです。右バッターのアウトサイドにボールが来るとする。そうすると、古田さんの場合、上半身の体勢はそのままで、下半身だけがアウトサイドに寄っていくんです。で、キャッチングの瞬間、フッと身体が内に寄る。手じゃなくて身体が寄るんです。低めのボールにしてもそう。もともと古田さんって、ぺちゃんって座れるじゃないですか。僕なんかだと股関節が固いから、低めに来たら手でしか上げられない。でも、古田さんは重心で上げられるんですよ。ベンチから、つまり、横から見ていたらようわかります。(中略)だから、審判にも絶対にストライクに見えるんです。僕らみたいに手をちょこっと動かしたりするのは審判にもバレバレなんですけど、古田さんはインコースだろうがアウトコースだろうが、下半身を動かして身体の中心で捕るんで、全部ストライクに見えるんですよね」と語っている(類似趣旨:村田真一)。

ただ単に球がミットに入りやすいという理由で大きなミットを好んで使った。

守備・打撃の両面で、それまで定説とされていた技術に対し、自身の経験に裏打ちされた独自の理論に基づく技術を構築している。かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、敢えて両腕をルーズにして、人差し指をおそよ45度にして構えた。これは脇を締めることで、ヒジの自由性を失うデメリットを懸念したためであり、脇を締めた状態(ミットを立てた状態)から低目の投球を捕球する際には、『ミットを上から被せにいく捕球しかできない』という。それだと捕球直後には腕を伸ばしきって一段とミットの位置を下げてしまうため、ボールと判定される見込みが高くなる。それを解消させようとミットを下から掬い上げる捕球を求めた結果、“脇を空ける構え”につながった。脇を締めていると真ん中に外に向かって取りにいった時ミットの重みもあってより外側に向くが、脇を締めずに最初から外回りでいけば、より的確にボールを取れる。新人時代には、それを見た野村監督から「お前、もういっぺんやってみい」と言われ、再現してみせると「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言われたという。

宮本慎也の談話によると、配球を根底にした守備体系の指示については、捕手の古田が全て務めていた。そのため古田の捕手としての出番が激減した2006年以降、それまで守備網に引っかかっていた打球が、あと一歩のところで外野に抜けていってしまう頻度が高まったという。

捕手の他、1993年のリーグ優勝が決定した次の試合で外野手(左翼手)、1997年に野村克則と守備位置を入れ替わる形で一塁手として出場したことがある。

打撃

捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。守備負担の大きい捕手を務めながら残した通算打率.294は、7000打数以上の選手中では歴代9位に位置する。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年阿部慎之助が.3405を記録するまでは2リーグ制以降では捕手のシーズン打率の歴代最高記録だった。

新人の頃に落合博満の打撃を捕手側から見て参考にし、自分の打撃に採り入れたという。打撃でも独自の理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから、初球の重要性を挙げている。

現役時代はピッチャーに合わせてバットを取り替えており、古田は自身を球界一バットを取り替えた男であると主張している。たとえば緩いカーブは短いバットなら先にあたるが、長いバットなら芯に当たるとだろうという単純な理由で、相手によってバットを選んでいた。バットを頻繁に替えたのは、敢えてバットのせいにすることによって気持ちの切り替えを図るという狙いもあった。

現役時代、伊勢孝夫打撃コーチからは「強いて言うなら、お前は無手勝流だな」と言われており、引退後の自著でも定まった打撃フォームを持たない人物であったことを自認している。

プロ野球論

「優柔決断」

2009年の自著では、インターネットなどによって情報量に優れているため、高校生などでもそのままプロで通用するのではないかと古田自身も思える選手が増えたという。だが、現在の若手選手は情報過多で頭でっかちのため経験が足りないと憂慮している。そんな古田は、1つの情報を得て満足するのではなく、違う方法も試し、人のアドバイスも聞いてみる情報収集を行い、決断をスッパリと下す、「優柔決断」を推奨しているその上で大切なのは以下の通りである。

まず先入観や好き嫌いで篩にかけず、本、インターネット、人づてなど何でもよいので、あらゆる手段を使って情報を収集する。次に現在の環境に愚痴を言わず、与えられた環境の中でいかに最大限の力を発揮するかを大事にする。ブレることを恐れず、進歩することが必要なら成功体験に囚われず変化を求めるべきである。野球の技術を手に入れるためには、情報を収集するだけではなく実際に体験して自分のものにする。それから15秒から20秒の思考時間で取捨選択できるように、頭の中にファイルを作り、情報を体系化する。プロ野球選手は弱点を克服していなければレギュラーを守れるはずもないため、相手に弱点があっても、それが2年前の情報であればその情報を捨てる。そして成功イメージを描きすぎることによってそれに囚われて自分の打撃などができなくなるため、描きすぎないようにする。周りの空気に流されないことも重要である。即決グセを付け、最後は腹をくくることが大切である。

人物

趣味は将棋ゴルフ、読書、映画鑑賞など。音楽ではU2の大ファンである。書道は有段者。特に将棋では日本将棋連盟から1995年8月に初段、2004年11月には三段の免状を受けている。NHK連続テレビ小説ふたりっ子」にも「棋将」のタイトル保持者・毛利元彦役でスポット出演した。また、妻の中井美穂もNHKの「将棋講座」でアシスタントを務めたことがある。

従兄タレント大木凡人がいる。また血縁ではないが、ヤクルト時代の同僚であった城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にある。城石の前夫人であった大橋未歩に城石との交際を薦めた。

大学時代には家庭教師などのアルバイトをしていた。4回生のゼミ(テーマは現代日本の中小企業問題)では、そのドラフト直前、当時の担当教授に進路を聞かれた際、「ドラフト待ってます」と答えている。

トヨタ自動車在社時代、社内では人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。新人研修ではディーラーで営業の仕事もした。プロ入り後も愛車は一貫してトヨタ車を愛用している(ソアラアリストセルシオレクサス・LS)。古田は社会人野球時代の経験をプロ入り後にも役立っていて普通の金銭感覚も身についたと後のインタビューで答えている。

1993年には母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれた。その際のキャッチコピーは「ぼくのチームも大したもんだが、ぼくの母校も大したもんだ」。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、という内容の同学の広告に再登場した。

1994年シングルCD「Xeno 〜見知らぬ人〜」を発売している(現在は廃盤)。

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出典:wikipedia
2018/07/16 10:10

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