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吉田拓郎とは?

この記事には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。
百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。(2008年12月)
吉田 拓郎

【出生名】
吉田 拓郎
【別名】
よしだ たくろう
入江 剣
【生誕】
(1946-04-05) 1946年4月5日(73歳)
日本 鹿児島県伊佐郡大口町
(現・伊佐市)
【出身地】
日本 広島県広島市(現・南区)
【学歴】
広島商科大学(現・広島修道大学)卒業
【ジャンル】
J-POP
フォークソング
ニューミュージック
ロック
【職業】
シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
【担当楽器】
ボーカル
コーラス
ギター
ハーモニカ
ベース
パーカッション
【活動期間】
1970年 -
【レーベル】
ELEC
(1970年 - 1971年)
CBS SONY/ODYSSEY
(1972年 - 1975年)
FORLIFE
(1975年 - 1999年)
IMPERIAL
(2000年 - 2009年)
avex trax
(2009年 - )
【事務所】
竹田企画
【共同作業者】
新六文銭
瀬尾一三
愛奴
かまやつひろし
松任谷正隆
ブッカー・T・ジョーンズ
加藤和彦
LOVE LOVE ALL STARS
吉田建
武部聡志
鳥山雄司
【公式サイト】
吉田拓郎 avex official website
【著名使用楽器】

ギブソンJ-45
マーチンD-35
ヤマハL-53
フェンダー・テレキャスター(ビグスビー・アーム付きモデルなど多数)
フェンダー・テレキャスター・シンライン
ギブソン・レスポール
ヤマハCPX-15NA
ボブ・ディラン

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーフォーライフ・レコードの第2代社長である。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現:伊佐市)出身。広島商科大学(現:広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5 cm。 「チケットの高額転売に反対」に署名しているアーティストである。

夫人は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1983年)→森下愛子(1986年 -)。

楽曲提供者としては入江剣 の名も用いている。

目次

  • 1 人物
  • 2 来歴
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 アマチュア期
    • 2.3 よしだたくろう期(1970年 - 1974年)
      • 2.3.1 エレック所属期
      • 2.3.2 CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
    • 2.4 吉田拓郎以降
      • 2.4.1 フォーライフ・レコード設立
      • 2.4.2 フォーライフ・レコード社長を退任
      • 2.4.3 テレビ出演の増加
      • 2.4.4 フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで
  • 3 シンガーソングライターとして
    • 3.1 音楽性
    • 3.2 影響を受けたミュージシャン
    • 3.3 作詞法
    • 3.4 作曲法
    • 3.5 歌唱法
    • 3.6 多様な音楽ジャンルへのアプローチ
    • 3.7 アルバム製作
    • 3.8 コンサート・ツアー
    • 3.9 音楽ビジネスへの影響
      • 3.9.1 テレビ出演拒否
      • 3.9.2 フォークの地位の向上
      • 3.9.3 コマーシャルソング
      • 3.9.4 新旧の音楽界の交流の活性化
  • 4 ラジオ・パーソナリティとして
  • 5 ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍
  • 6 出演
    • 6.1 現在の出演
      • 6.1.1 テレビ
    • 6.2 過去の出演
      • 6.2.1 テレビ
      • 6.2.2 ラジオ
      • 6.2.3 映画
      • 6.2.4 CM
      • 6.2.5 関連書籍
      • 6.2.6 NHK紅白歌合戦出場歴
  • 7 関連人物
    • 7.1 主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)
    • 7.2 3度の結婚
    • 7.3 交友関係
      • 7.3.1 ミュージシャン
      • 7.3.2 ミュージシャン以外
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
    • 9.1 著書
    • 9.2 解説書等
  • 10 外部リンク

人物

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサートラジオの活性化、CMソングコンサートツアープロデューサーレコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。

来歴

生い立ち

1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれる。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し、谷山小学校に二年生まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者。父は吉田家に養子に入った人で、鹿児島県の郷土史家である吉田正廣。兄は鹿児島ラ・サール高校出身で、母はラ・サール高校の学生寮で栄養士をしていた。両親の出身地は知らない、母方の祖母が広島の出身と話している。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校。鹿児島時代、音楽への関心はまったくなかったが、立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦1962年皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した。

1965年広島商科大学(現・広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。

アマチュア期

1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱し、中国大会2位、全国3位となる。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。 1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送DJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学バリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいヤジを浴びせられた。 1969年には、カワイ楽器広島店 に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバー が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。 1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した。

よしだたくろう期(1970年 - 1974年)

エレック所属期

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職する。エレックはまともな仕事は取ってこれず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる。1971年8月7日9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期

1972年1月CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売りあげた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった。2月26日に公開された近代放映製作東宝配給映画百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた。

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した。

吉田拓郎以降

フォーライフ・レコード設立

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)。

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドール井上陽水エレック泉谷しげるベルウッド小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコードを発起した。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる。

1976年4月に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバムクリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した。

フォーライフ・レコード社長を退任

1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された。

1983年浅田美代子と協議離婚する。

1985年6月15日には、国立競技場国際青年年(IYY)記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正とともに企画運営し、司会をつとめて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年12月森下愛子と3度目の結婚。

テレビ出演の増加

1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年NHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行なう。

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っさげて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行ない、5万人を動員する。

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで

1999年9月30日フォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月インペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦テイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavex traxに移籍する。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-rayDVDCD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された。

シンガーソングライターとして

音楽性

政治性を排除
 | 
この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2018年4月)

出典:wikipedia
2019/10/19 08:42

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