吉田 正尚(よしだ まさたか、1993年7月15日 - )は、オリックス・バファローズに所属する福井県福井市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。
6歳から野球を始めると、福井市立麻生津小学校、福井市足羽中学校への在学中は、ボーイズリーグの鯖江ボーイズに所属していた。本人曰く、「『遠くへ飛ばしたい』という意識が強い(子ども時代だった)」と述べている。
敦賀気比高校への進学後は、1年の夏に4番打者として第91回全国高等学校野球選手権大会に出場。帝京高校との初戦で1安打を放ったが、チームは敗れた。1年の秋に福井県大会優勝・北信越大会準優勝を果たし、2年の春には第82回選抜高等学校野球大会へ出場。開幕戦でもあった1回戦では、中村奨吾擁する天理高校を相手に3安打を放ち、チームの勝利に貢献した。その後も勝ち進んだが、山崎福也を擁する日大三高校との準々決勝で3打数無安打に抑えられると、チームも敗退した。2年の夏以降は甲子園球場での全国大会には出場できなかったが、春夏を通じて4試合で打率.313、16打数5安打、2打点という成績を残した。高校の2学年先輩に山田修義、1学年下には西川龍馬がいた。
青山学院大学への進学後には、東都大学の1部リーグで、1年の春季リーグ戦から4番打者に抜擢。打率.311、1本塁打、7打点を記録し、指名打者としてベストナインに選ばれた。秋季リーグ戦からは、3番打者に定着し、2年先輩の4番・杉本裕太郎とクリーンナップを組んだ。指名打者部門で2季連続のベストナイン選出を果たした。2年の春季リーグ戦では、指名打者から外野手へ転向すると、4本塁打を記録。外野手部門では初めてのベストナインに選ばれた。3年の秋季リーグ戦では、打率.352、3本塁打という内容で、外野手として2度目のベストナインを獲得。しかし、チームは2部に降格した。杉本の在学中には、リーグ戦で杉本との2者連続本塁打を3回達成している。4年の秋には、2部リーグで打率.400、5本塁打を記録したが、チームの昇格はならなかった。在学中には、東都リーグの1部で、通算72試合に出場。打率.277(278打数77安打)、9本塁打、38打点、12盗塁という成績を残した。
大学2年の7月には第39回日米大学野球選手権大会の日本代表、3年には第27回ハーレムベースボールウィークの日本代表に選出された。4年の6月には、2015年ユニバーシアードの日本代表に選出された。大会前に神宮球場で開かれた「大学日本代表対NPB選抜」戦では、髙橋光成から本塁打を放った。ユニバーシアードでは、主に4番打者として、日本代表の優勝に貢献。大会後に開かれたU-18日本代表との壮行試合では、上野翔太郎と高橋樹也を相手に、2打席連続本塁打を放った。
2015年のNPBドラフト会議で、オリックスから1巡目で指名。契約金1億円、年俸1,500万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は34。オリックスはこの会議で、JR西日本から杉本を10巡目で指名。2人とも入団したことによって、大学以来のチームメイトになった。なお、球団としては「どうしても和製大砲がほしかったんです」との理由で1位指名したが、本人は「(チームには)糸井嘉男、T-岡田、後藤駿太と左の素晴らしい外野手がたくさんいる」ことから、オリックスからの1位指名は想像していなかったとのことである。
2016年には、春季キャンプ前の新人合同自主トレーニング中に、前身球団(オリックス・ブルーウェーブ)のOBであるイチロー(当時はMLBフロリダ・マーリンズ所属)とほっともっとフィールド神戸で初めて対面。イチローから直々に、「青学(青山学院大学)の子やな」という声を掛けられた。しかし、トレーニングの2日目に左ふくらはぎの筋膜炎を発症し、春季キャンプのスタートを二軍で迎えた。キャンプ序盤の2月6日に一軍へ昇格したが、当日の打撃練習で右脇腹の違和感を訴えたため、2日後に二軍へ戻された。3月16日には、広島東洋カープとのウエスタン・リーグ公式戦に指名打者で出場。実戦2試合目でプロ初本塁打を記録した。オープン戦最終カードの阪神タイガースとの3連戦(京セラドーム大阪)から再び一軍へ合流すると、3試合全てでスタメンに起用。3月19日は、3回裏の第2打席で藤川球児から京セラドーム3階席前面の壁を直撃する本塁打を放った。オープン戦通算で13打数4安打を記録する、一軍監督(当時)の福良淳一より「指名打者としての開幕スタメン起用」を明言され、3月25日の埼玉西武ライオンズとの開幕戦(西武プリンスドーム)で「1番・指名打者」としてスタメンで一軍公式戦にデビュー。オリックスの新人選手が一軍開幕戦のスタメンに起用された事例は、2011年の駿太以来5年振り(指名打者としての起用は2002年の後藤光尊以来14年振り)であった。本人曰く「中学生(時代)以来」の1番起用とのことだったが、7回表の第3打席で一軍公式戦初安打を放つなど、フル出場で5打数2安打を記録した。さらに、開幕戦から6試合連続安打(プロ野球ドラフト会議導入後の1966年以降のNPBの新人選手の最長タイ記録)を達成。しかし、スタメン起用が続くうちに、腰椎の椎間板症に見舞われた。外野の守備へ就けないほどにまで症状が悪化したため、4月24日に出場選手登録を抹消された。8月12日に一軍へ復帰し、8月18日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で一軍公式戦初本塁打を放った。8月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(楽天Koboスタジアム宮城)以降は、30試合で3番打者に起用されると、9本塁打をマーク。翌27日の同カードでは、1回表の第1打席から2打席連続で本塁打を放っている。オリックスの新人選手による一軍公式戦での2打席連続本塁打は、阪急ブレーブス時代の1969年に福本豊が記録して以来47年ぶり。チームのシーズン最終戦であった10月1日の対楽天戦(コボスタ宮城)では、オリックスの新人選手としては1969年の加藤秀司以来47年振りに、一軍公式戦の4番打者に起用された。レギュラーシーズン全体では、前述した故障の影響で一軍公式戦への出場が63試合にとどまり、打席数(258)もパシフィック・リーグの規定打席(443)を下回った。それでも、打率.290(リーグ9位相当)、10本塁打、34打点を記録。オリックスの新人選手による一軍公式戦でのシーズン2桁本塁打は、阪急時代の1985年に熊野輝光が記録して以来31年振りである。OPSは.854(リーグ4位相当)、RC27は6.09(リーグ8位相当)に達した。守備面では、左翼手として44試合でスタメンに起用されたほか、右翼手として9試合、指名打者として8試合に出場した。シーズン終了後に台湾で開かれたアジア・ウィンター・リーグでは、ウエスタン・リーグ選抜の主軸打者として全18試合に出場。打率(.556)、本塁打(6本)、安打数(30安打)、塁打数(57塁打)、打点(29打点)の5部門でいずれもトップの成績を残した結果、最優秀打者に選ばれた。帰国後の12月20日に、年俸2,100万円(前年から600万円増)という条件で契約を更改。
2017年には、「公式戦全143試合出場」を目標に地元の鯖江市で始動した。前年のシーズン終盤以降の活躍に加えて、国内FA権の行使によって阪神へ移籍した糸井嘉男の穴を埋める中軸打者・レギュラー外野手候補として周囲から高い期待を寄せられたが、オープン戦の終盤に腰痛が再発。後の診察で急性筋性腰痛の発症が判明し、開幕一軍のメンバーから外れた。5月10日に、ウエスタン・リーグの対広島東洋カープ戦(舞洲サブ球場)で、「2番・左翼手」としてスタメンで実戦に復帰。1回裏の第1打席で本塁打を放ったが、試合後に腰痛を訴えたため、再び戦線を離れた。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ戦に「3番・指名打者」として、この年初めて一軍の公式戦に出場。翌10日の対日本ハム戦(いずれも京セラドーム大阪)では、1回裏の第1打席で、右翼スタンド5階席に推定飛距離130mの本塁打を放った。同月下旬以降は、首脳陣が攻撃重視の打線を組んだことから、8試合で1番打者、9試合で2番打者に起用。8月8日の対西武戦(京セラドーム大阪)では、2年連続の1試合2本塁打を2打席連続で記録した。8月16日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡ヤフオク!ドーム)以降は、シーズン終了まで、再び3番打者に起用。9月3日の対西武戦(京セラドーム)で、2年連続の一軍公式戦シーズン2桁本塁打を達成した。シーズン終盤の10月4日に臀部の膿を除去する手術を受けたが、登録の抹消には至らず、手術後にも一軍公式戦2試合へ出場した。前述した腰痛や手術の影響で、一軍公式戦への出場は64試合(268打席)にとどまったが、打率.311(リーグ2位相当)、12本塁打、38打点を記録。いずれも前年を上回る成績で、OPSは.928(リーグ3位相当)、RC27は7.41(リーグ3位相当)に達した。打順では、1番や2番に起用されることもあったが、主に3番打者(46試合)として起用された。守備面では、主に右翼手(36試合)で出場したが、左翼手として16試合、中堅手として1試合、指名打者として10試合にそれぞれスタメン出場した。なお、シーズン終了後の第1回アジア プロ野球チャンピオンシップには、日本代表として選ばれることが内定していたが、前述した膿を除去する処置を受けたため、正式発表の前に代表入りを辞退した。その後秋季キャンプへの参加も辞退し、11月下旬に腰の手術を受けた。12月6日に、推定年俸3,100万円(前年から1,000万円増)という条件で契約を更改。
2018年には、前年に腰の手術を受けたことを考慮されて、春季キャンプを二軍でスタート。「故障しない身体づくり」「走攻守すべての面でのレベルアップ」をテーマに、体幹トレーニングなどへ取り組んだ。キャンプ序盤の2月4日には、野球日本代表監督の稲葉篤紀から、2020年東京オリンピック・野球日本代表の代表候補あることを告げられた。キャンプ終盤から一軍へ合流すると、3月30日には、ソフトバンクとのレギュラーシーズン開幕戦(ヤフオクドーム)で「3番・左翼手」としてスタメンに起用。5月22日の対楽天戦(楽天生命パーク)では、3回表の第2打席でシーズン6号本塁打、4回表の第3打席で2点適時打(単打)、6回表の第4打席で二塁打を記録した。8回表の第5打席でも長打を放って三塁へ進んだが、二塁から三塁への進塁が「送球間の進塁」(公式記録上は「二塁打」)とみなされ、サイクルヒットの達成はならなかった。入団後初めて出場したセ・パ交流戦では、6月7日の対阪神戦(甲子園)で一軍公式戦初の三塁打、6月13日の対広島戦(京セラドーム大阪)で3年連続のシーズン2桁本塁打を記録。全18試合に出場すると、打率.397、3本塁打、10打点、出塁率.477、 得点圏打率.500という好成績でチームをパ・リーグ球団の最高順位(2位)へ導いたことから、交流戦のMVPに選ばれた。交流戦の最終戦で右足の関節を捻挫し、自力で歩けないまま代走を送られたが、翌22日から再開されたパ・リーグの公式戦では、代打での出場を経てスタメンに復帰している。オールスターゲームには、ファン投票・選手間投票ともパ・リーグ外野手部門の3位に入り、初出場。7月13日の第1戦(京セラドーム大阪)では、パ・リーグ選抜の「5番・指名打者」としてスタメンに起用されると、1回裏の第1打席でオールスターゲーム初安打・初打点を松坂大輔からの適時打で記録した。レギュラーシーズンでは全143試合への出場を果たし、規定打席へ初めて到達。打率.321、26本塁打、86打点という好成績を残した。オリックス入団3年目以内の日本人選手が一軍公式戦でシーズン20本塁打を記録した事例は前身・阪急ブレーブス時代の1988年に、入団3年目の藤井康雄が20本塁打を放って以来30年ぶりであった。
2019年には、オープン戦期間中の3月上旬に京セラドーム大阪で開かれた日本代表の強化試合(メキシコ代表との2連戦)に、プロ入り後初めて日本代表の一員として選出、2試合ともスタメンでクリーンアップの一角を任され、第2戦では1回裏の第1打席で満塁本塁打を放った。シーズンでは、開幕から4番打者に起用。開幕当初は打率が1割を切るほどの打撃不振で、シーズン初本塁打を放ったのは、開幕11試合(通算49打席)目の4月11日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)第3打席だった。それでも、5月21日に京セラドームで催された同カードで、オリックスの選手としては初めて、入団1年目からの4年連続シーズン2桁本塁打を自己最速のペース(出場43試合目)で達成した。前年にMVPを獲得したセ・パ交流戦で再び調子を落としたものの、オールスターゲームには、ファン投票・選手間投票(いずれもパ・リーグ外野手部門2位)を経て2年連続で出場。7月13日の第2戦(甲子園球場)では、「3番・左翼手」としてのスタメン起用で同ゲーム初本塁打を放ち、パ・リーグの選手から唯一の敢闘選手に選ばれた。レギュラーシーズンの終盤には、森友哉(西武)との間でリーグ首位打者争いを展開。打率.329で先にシーズンを終えた森には僅差で及ばなかったものの、リーグ2位の打率.322を記録した。さらに、2年連続の全143試合出場で自己最多の29本塁打を放ったほか、7月度と9・10月度の月間MVPにも選ばれた。シーズン終了後は、11月に開催の第2回WBSCプレミア12に日本代表として出場。チームとしては谷佳知(オリックス・ブルーウェーブ時代の2001年 - 2004年)以来の2年連続ベストナイン(パ・リーグ外野手部門)選出も果たした。プレミア12終了後の11月29日に、推定年俸2億円(前年から1億1,500万円増)という好条件で契約を更改。オリックス生え抜きの選手が入団5年目で1億円以上の年俸を勝ち取った事例は、イチローがブルーウェーブ時代の1996年に推定年俸1億8,000万円(前年から1億円増)で契約を更改したことに次いで2人目である。
2020年には、8月に打率.430で月間MVPを受賞するなど、シーズンを通じて高い打率を維持。一軍公式戦で3年連続の全試合(同年は120試合)出場を果たすとともに、通算打率.350で、チームの生え抜き選手としては2000年(ブルーウェーブ時代)のイチロー以来20年振りに首位打者のタイトルを獲得した。NPBの一軍公式戦において、平成生まれの選手がレギュラーシーズンの最終規定打席に到達したうえで、.350以上の打率でシーズンを終えた事例は吉田が初めてである。開幕から1ヶ月余りの間に7本の本塁打を放ちながら、通算の本塁打数は14本にとどまったが、3年続けてパ・リーグの外野手部門でベストナインに選出。一軍公式戦ではリーグで10番目に多い492打席に立ちながら、三振の総数はわずか29個で、リーグの規定打席到達者では最も少なかった(詳細後述)。
2021年には、チームの選手会長へ就任。球団との契約交渉を初めて代理人に委ねたうえで、1月4日から西川遥輝などと共に沖縄県内で自主トレーニングに臨んでいたことから、契約更改を春季キャンプインの直前(同月22日)にまで持ち越した。更改後の年俸は2億8,000万円で、出来高分を除いた推定額ながら、NPB6年目の野手としては歴代最高額とされる。その一方で、更改後の記者会見では、ポスティングシステムを通じたMLBへの挑戦を検討する可能性があることを示唆。更改の席で、球団に対してMLB挑戦へのビジョンを伝えたことも明かした。
野球選手としては小柄だが、オリックスOBの門田博光を彷彿させる左の長距離打者。手動計測ながら、学生時代に50m走で6秒2を記録したほどの俊足と、遠投で100mを記録したほどの強肩の持ち主でもある。
ホームランバッターに対する憧れは強く、インタビューで「僕自身、子供の頃にホームランバッターに憧れていたので、僕もそういう存在になりたい。今、野球界全体を見渡しても野球をする子供が減ってるじゃないですか。僕のホームランを見たいというのがきっかけになって野球人口も増えたらいいなと思います」とも述べ、「(力強いスイングは)変わらないし、変えられない」として、長距離打者としてのこだわりを示す一方で、「ボールに対するコンタクト率を意識しているんです」とも語っている。スイングは状況に応じて「投球ラインに沿ってバットを入れる」「上から叩く」「下からバットを入れる」の3つのスタイルを使い分けている。
また、探求心を持って自分のバッティングに向き合うことを楽しみながら、「ベストスイングの形を打席の中で再現できる可能性を高くできれば、その延長線上にホームランがある」「『打てると感じた球を打っていく』のが自分の打撃スタイル」と語っている。
高校時代には「力みなくバットが振れ、ヘッドスピードが速く、芯でボールをとらえる技術が高い巧打者」、オリックスへの入団当初は「広角に強い打球を打ち分ける長距離打者」という評価を受けていた。オリックス入団後の2シーズンには、上記の評価から一転して、長打力を示すIsoPが「0.203→0.206」と高い数値で推移。この時期には、いわゆる「プルヒッター」らしい傾向が顕著に表れていた。 現に、全打球に占める右翼方向への打球の比率が2年連続で40%を上回っていて、本塁打も通算22本中20本が(右中間を含む)右翼方向に飛んでいた。その一方で、バットコントロールと選球眼のバランスも非常に良く、三振率「13.2%→11.9%(リーグ4位相当)」(リーグ平均は「18.0%→19.5%」)・四球率「9.7%→14.2%(リーグ2位相当)」とも高い水準で推移。左投手と対戦した場合のOPSも「.822(対右投手.870)→.946(対右投手.922)」で推移するなど、左投手をほとんど苦にしていなかった。もっとも、本拠地の京セラドーム大阪で和田毅から一軍公式戦での初本塁打を放った際には、上記の傾向とは逆に打球が左翼の方向へ飛んだことから、「今までにない感覚で、左投手から左方向に打てたことが良かった」と語っている。
オリックス入団3年目の2018年からは、2020年シーズン終了時点で3年連続の全試合出場と最終規定打席到達を果たしながら、いずれの年も.320以上の高打率をマーク。NPBでこの条件を全て満たした打者は、ブルーウェーブ時代(1994 - 1998年)のイチローにまで遡る。
打率.350で首位打者のタイトルを初めて獲得した2020年には、通算492打席で72四球を選んだのに対して、三振をパ・リーグの規定打席到達者で最も少ない29個にとどめたことで、シーズン終了後に『日刊スポーツ』から「理想的な打者」との評価を受けるに至った。セ・パ2リーグ分立後(1950年)のNPB一軍公式戦において、「シーズン通算で70個以上の四球」と「シーズン通算で30個以下の三振」という条件をいずれも満たした首位打者は、長嶋茂雄(巨人時代の1960年・1963年)と張本勲(日本ハムファイターズ時代の1974年)に次いで3人目。パ・リーグでは、張本以来46年振りである。ちなみに、2020年の公式戦におけるPA/K(1つの三振を喫するまでに要する平均の打席数)も、パ・リーグ1位の16.95を記録。この年のセントラル・リーグ規定打席到達者で三振が最も少なかった宮崎敏郎(DeNA)の15.86をも凌いでいたが、吉田が1個でも三振を喫した試合(25試合)でのチームの勝率(.273)は、公式戦全120試合における通算勝率(.398)を大きく下回っていた。
少年時代にメジャーリーグ(MLB)公式戦のテレビ中継を見る機会が多かったことから、自身と同じ右投げ左打ちのブライス・ハーパーを「憧れの対象で目標の選手」に挙げている。オリックスへの入団時には、自身の強い希望で背番号を「34」(ハーパーがワシントン・ナショナルズ時代の2018年までに着用していた番号)に決めた。
青山学院大学時代の監督である善波厚司曰く、「守備も足も肩も平凡だけど、野球に取り組む姿勢が入学当初からずば抜けていて、『強く振る』ことができる強打者だった」「やはりモノが違います。ほかの『プロに行きたい』と言っている選手とは、思考力や行動力が違いました。魅力的なスイングの持ち主なので、プロでもある程度は活躍できるとは思いますから、けがをしない体を作っていって欲しいですね」と述べている。
NPBドラフト会議での1巡目指名に至ったターニングポイントとして、大学4年時にユニバーシアード野球日本代表へ参加したことを挙げている。同学年のチームメイトだった髙山俊(明治大学)や茂木栄五郎(早稲田大学)が東京六大学野球で実力を培っている一方で、自分は東都大学野球2部リーグでのプレーを余儀なくされていたことへの悔しさが、勝負強さを開眼させるうえで大きな原動力になったという。
「(高校時代までを過ごした)福井が野球人生の原点」ということを、インタビューなどでしばしば言及している。オリックス2年目の2017年には、春季キャンプの直前に、自身が所属していた少年野球チーム(鯖江ボーイズ)の後輩である岸本淳希や玉村祐典と共に自主トレーニングへ取り組んだ。
「向上心、探究心、反骨心が旺盛なこと」を、自身の性格の特徴に挙げている。2016年のオフシーズンにハンマー投選手の室伏広治へ直筆の手紙を送った縁から、2017年以降は春季キャンプの前に室伏からトレーニングの指導を受けている。2018年1月には、「自分自身に打ち勝つこと」「1日1日を大切に過ごすこと」「規定打席到達」を目標に、糸井や柳田悠岐と一緒にグアムで自主トレーニングを敢行した。
オリックスへの入団後に、持ち味の力強いバッティングスタイルを生かした動画(通称「マッチョ動画」)をプロデュース。2018年以降に京セラドームで催されるホームゲームでは、吉田がチャンスで打席を迎えた際に「マッチョ動画」をスコアボードの大型ビジョンで流すとともに、この動画と連動したダンベル型の応援グッズを球団公認で販売している。
「張り切り屋」を自認する性格ゆえに、オリックスへの入団当初は、腰痛を頻繁に発症していた。2017年のシーズン途中までは、スイングの最後までバットを両手で握り続けていたが、自分で靴下も履けないほどにまで腰の状態が悪化。これを機に、腰への負担の軽減と打球の飛距離アップを両立すべく、スイングのフォロースルーでバットから片手を離している。さらに、2017年のシーズン終了後に腰の手術を受けたことが功を奏して、2018年以降は一軍でレギュラーシーズンの全試合出場を続けている。
社会貢献活動への関心が高く、2018年にパ・リーグ公式戦の規定打席へ初めて到達したことを機に、本塁打1本につき10万円を国境なき子どもたちを通じて寄付している。