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名波浩とは?

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Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2012年10月)

名波 浩

【名前】

【愛称】
ナナ、名波くん、なっちゃん
【カタカナ】
ナナミ ヒロシ
【ラテン文字】
NANAMI Hiroshi
【基本情報】

【国籍】
日本
【生年月日】
(1972-11-28) 1972年11月28日(45歳)
【出身地】
静岡県藤枝市
【身長】
177cm
【体重】
70kg
【選手情報】

【ポジション】
MF
【利き足】
左足

【クラブ】


クラブ | 出場 | (得点)
1995-2008
ジュビロ磐田 |  301  | (32)
1999-2000
ヴェネツィア (loan) |  24  | (1)
2006
セレッソ大阪 (loan) |  13  | (2)
2007
東京ヴェルディ (loan) |  17  | (0)
通算
 | 355 | (35)
【代表歴】

1995-2001
日本 | 67  | (9)
【監督歴】

2014-
ジュビロ磐田
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在。
2. 2001年4月25日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手サッカー指導者解説者Jリーグジュビロ磐田現監督。 現役時代のポジションはミッドフィールダー。Jリーグの磐田、セレッソ大阪東京ヴェルディ1969イタリアセリエAACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10を着用し、1998年フランスワールドカップに出場した経歴を持つ。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 ジュビロ磐田
    • 1.3 ACヴェネツィア
    • 1.4 セレッソ大阪
    • 1.5 東京ヴェルディ
    • 1.6 ジュビロ磐田復帰
    • 1.7 引退後
    • 1.8 監督就任
  • 2 プレースタイル
  • 3 N-BOX
  • 4 エピソード
  • 5 引退試合(ミスターレフティ メモリアルマッチ )
  • 6 所属クラブ
  • 7 個人成績
  • 8 代表歴
    • 8.1 出場大会など
    • 8.2 試合数
    • 8.3 ゴール
  • 9 個人タイトル
  • 10 指導歴
  • 11 監督成績
  • 12 関連情報
    • 12.1 単著
    • 12.2 共著
    • 12.3 関連書籍
  • 13 関連項目
  • 14 脚注
  • 15 外部リンク

来歴

プロ入り前

静岡県藤枝市にて4人兄弟の末っ子として出生。女児出生を期待していた両親は4連続男児の誕生に肩を落とす。役所への届出期限が迫り慌てて「名波浩」と母が命名。藤枝市という環境と兄らの影響もあり物心つくうちからサッカーに熱中。この頃の名波家は家計が逼迫しており夫婦共働きで、四男は放ったらかし、その浩少年も家族行事よりボールを蹴ることばかり優先。時間があれば電話で友人を執拗に呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でサッカーに興じ、部屋の調度品を破壊していた。

西益津小学校入学、休み時間はサッカー、放課後は空き地、田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、どさくさに紛れて西益津サッカー団のセレクションに年長と参加、当時のコーチ山田晃はその(左足の)センスに驚嘆するも入団の加入条件が小学3年生以上だったため、1年後に受けるよう伝えて落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代での試合では手に負えなくなっていた浩少年を年長チームへと飛び級させる。この頃のポジションは左ウイング。

西益津中学校入学、中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ちまくり、3年生で県予選優勝。

藤枝市立西益津中学校

サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知り浩少年も「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望するも担任は藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言し進路を保留する。この選択に藤枝市中のサッカー父兄から名波家へ批判と落胆の声が挙がる中、清商へ進学。

清水商業高校時代は大岩剛山田隆裕薩川了洋望月重良らと共に高校総体ユース選手権を制覇した。

順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、水面下でプロリーグ化のあったJSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「卒業する事が絶対条件」と却下。同部では1部残留を辛うじて決め卒業し、教員免許取得。

ジュビロ磐田

1995年ジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラーとして活躍。後に訪れるジュビロ黄金時代を築き上げ、牽引した一人。同年から加茂監督率いる日本代表に招集。

1998年フランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場。背番号10を付け、中盤の中心選手として本大会にも全試合に先発出場した。その後、右膝の怪我をするまでの約6年間、日本代表の10番として君臨した。 名波本人は7番の着用を希望していたが、代表のスターティングメンバー選出時に10番を任され困惑したというエピソードが存在する。ラモス瑠偉の後継となる10番だったが勝ち点が伸びずにメディアに叩かれ、更に国立競技場での対韓国戦では柳想鐵の執拗なマークに遭い、マークを外すだけで手一杯となり体力を消耗、疲労したところで韓国に逆転負けを喫し「名波はスタミナ不足、10番の器ではない」と評価される。しかし走力、体力共に優っていた上、背番号で叩かれる理不尽さに業を煮やしていた名波は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯出場を決めた試合直後に背番号10番のユニフォームをラルキン・スタジアムの観客の少年に投げ渡した。

フランスW杯後、フィリップ・トルシエ就任後も召集される。1999年コパ・アメリカでは中田英寿が不在であったためトップ下を任されるも惨敗し、トルシエから「名波は一生リーダーにはなれない選手」と酷評された。

ACヴェネツィア

同年、ジュビロで全てのサッカーをやり尽くした感があった名波は、新天地を求め、同年夏にイタリア・セリエAACヴェネツィアに移籍。ヴェネツィアは前年まで中心選手であったアルバロ・レコバが移籍し、その穴を埋めるべく左利きの攻撃的選手を求めていた。しかし監督が二転三転し出場機会は少なく、クラブもセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団することが決まっていたため、翌年帰国し、磐田に復帰した。

帰国後アジアカップのメンバーに召集され、「イタリア挑戦に失敗した自分を呼んで貰えて感謝している」とコメント。大会では名波を中心にした攻撃が機能し圧倒的な強さで優勝、名波自身もMVPを獲得する。コパアメリカで名波を酷評したトルシエ監督も称賛を惜しまなかった。しかし2001年に右膝半月板を痛め代表から長期離脱。トルシエ監督や国民からW杯までの復帰が待ち望まれる中、10月の欧州遠征(セネガル及びナイジェリアと対戦)のメンバーに召集され同行するも、怪我の再発が確認され試合に出場しないまま再び離脱。2002年日韓W杯日本代表からも外れる。本人は「怪我をして外れたのではなく、実力がなかったから外された」と自分を戒めたが、実際は怪我からの復調が芳しくなかったためである。

ジーコ監督就任後、初の試合となったジャマイカ戦に招集された(背番号は8番。10番は中村俊輔が着用。)が出場は無く、その後は2度と召集される事はなかった。 一方、クラブでは、その後もジュビロの中心選手として活躍。2002年のJリーグ完全優勝(1st、2nd両ステージ制覇)にも大きく貢献した。

セレッソ大阪

2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、山本昌邦の監督辞任によって就任したアジウソン監督でも状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付で、当時最下位で降格の危機に瀕していたセレッソ大阪へチーム立て直しのために、2007年1月31日までの期限付き移籍を決断。名波加入前はシーズンでわずか1勝だったが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていったが、最終的に降格してしまう。11月26日の大宮戦で、史上23人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。

東京ヴェルディ

2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ、2007年2月1日から2008年1月31日までの期限付き移籍をすることが発表された。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことや、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。

ジュビロ磐田復帰

2008年11月12日、2008年シーズン限りでの引退を表明。2009年シーズンのコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」と、語っている。

引退後

現役引退後はジュビロ磐田のアドバイザーを務め、2009年4月5日より、テレビ朝日のサッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになった。また、BS朝日スカパー!などのサッカー中継での解説も務めている。テレビ朝日での中継時にはピッチ上から解説を行う。2011年のAFCアジアカップの決勝に代表されるように放送席で解説を務める松木安太郎セルジオ越後は興奮すると我を忘れてしまうことが非常に多くなるため(居酒屋中継と言われる)、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。2012年3月11日、東京ヴェルディ1969時代のチームメイトで栃木SCドリームアンバサダーを務める佐藤悠介が主催した「3.11悠介ドリームズメモリアルゲーム」に選手兼監督として出場した。

監督就任

2014年9月25日ペリクレス・シャムスカの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した。9月28日に行われ初陣となった愛媛FC戦では、前田遼一と8試合ぶりの先発に起用した松浦拓弥の得点で2-0で勝利を収め、同日に2009年よりレギュラー出演していた『やべっちF.C.』に出演し、同番組を卒業した。 初戦には勝利したが就任後の9試合を2勝5分2敗の4位で終えたためJ1自動昇格圏には届かず、J1昇格プレーオフ準決勝ではモンテディオ山形に対して後半アディショナルタイムで失点を喫し敗れ、磐田の1年でのJ1復帰を逃した。名波自身の目から見た監督就任時のチーム状況については「個々のレベル・サッカーの質は想定の範囲内だったが、選手たちの勝ちに対する飢えと負けたくないという気持ちがこんなに希薄だとは思わなかった」 と就任初年度の感想を述べた。

2015年シーズンは前田、山崎亮平といった攻撃的なポジションを務める選手が移籍し、苦しい流出が続いた が、新加入のジェイアダイウトン、GKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林祐希川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定した。前述の通り加入した外国人3人全員がチームにフィットしたが、名波は3選手の人柄を3人を知る関係者に聞き、プレーに関しても良いプレーを編集した動画だけでは無く、その選手が出場している試合をフルで観て獲得に動いているとインターネット番組『footi』で話している。

2016年シーズンは、最終節まで残留争いをして13位でシーズンを終えたが、チームの最低目標でもあったJ1残留を達成。

2017年シーズンは、昨季のチーム得点王だったジェイが退団に対して、中村俊輔川又堅碁が加入するも、中村が39歳という大ベテランという点や川又が前年名古屋グランパスで4得点しか挙げてない事など、シーズン前は批判的な声もあったが、中村の活躍や川又のシーズン14得点 など新加入選手が活躍。11年ぶりの5連勝 や16年ぶりのリーグ最少失点を更新 などオフェンスとディフェンスが躍動し、最終的にはACL出場圏内を争った。結局ACL出場圏内には入れなかったものの、リーグ6位でシーズンを終了。開幕前に「得失点プラマイ0」を目標と公言していた中で、それを大きく上回るシーズンとなった。

プレースタイル

ボランチのポジションから長短の繊細なパスを繰り出すゲームメーカー。高校、大学、ジュビロ入団当初まではトップ下でプレーしていたが、日本代表で加茂周監督に展開力と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後、代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。

ボールタッチやキックのほとんどを左足で行うレフティ。右足でボールを扱うことはほとんどせず、右サイドに流れた時にでも無理やり左足でセンタリングを上げたこともあった。自ら「右足はつっかえ棒」「右足でパスを出すときはむしろゲーム運びがうまくいっていないと見たほうがいい」とも発言している。ジュビロへの入団会見では「自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい」と宣言し、引退会見では「『左の名波』『名波の左足』という自分の最も好きなフレーズが14年間で浸透できたのが自信になる」と振り返った。ちなみにJリーグ公式戦において「右足で決めたゴール」はわずかに「1」であった。

2001年に負った膝の怪我の影響で連戦に耐えられないという噂については「自分のコンディションよりも、むしろピッチコンディションが問題。それさえ整えばできなくはない」とコメントしている。しかし、引退発表後には膝の状態が悪いところをチームメイトに見せないよう、ホテルの宿泊部屋でも配慮していたことを明かしている。

N-BOX

2001年にジュビロの鈴木政一監督が採用した中盤の陣形を、『週刊サッカーマガジン』は名波のイニシャルから「N-BOX」と命名した。フォーメーションとしては3-5-2だがウイングバックを置かず、名波を中心として前方に藤田俊哉奥大介、後方に服部年宏福西崇史が箱型に並ぶ。名波は流動的なパス交換の中継点となり、守備でも堅実にカバーリングをこなすなど、システムの中核として活躍した。2002年は奥が横浜F・マリノスへ移籍したため、当時若手であった西紀寛ジヴコヴィッチなどが奥のポジションに代わって入っていた。

ジュビロはFIFAクラブ世界選手権2001への出場を想定してこの布陣を準備したが、大会は開催中止となった。しかし、Jリーグでは翌2002年にかけて強く華麗なパスサッカーを展開した。

エピソード

藤田俊哉を尊敬し、自他共に彼のプレーを一番理解していた人物であると評する。「入団時は3クラブからオファーがあった。金銭面では磐田は一番下だったけれど、俊哉がいるから磐田に入った」とのコメントを残している。しかし、藤田との個人的な付き合いは高校時代から今に至るまでほとんど無く、「俺が個人的に一番仲がいいのは同級の大岩剛」とのコメントもある。

「試合を見る眼」については自信があると述べ、「現役を辞めたらサッカー誌で採点の仕事でもさせてもらおうかと思うことがある」「サッカーマガジンの採点よりは公平に見られる」という発言をしたことがある。

イタリア挑戦の際の記者会見で、「自分に足りないものがイタリアにあると思っているので、それを見つけに行きたい。」とコメント。 しかしこれは、コメントを求められた時に咄嗟に出た心にもない言葉であり、挑戦を終えて帰国時に記者に「足りないものは見つかりましたか?」と質問され困った。 この話をバラエティ番組で「見つかるわけねぇって。」と笑い話として語った。

監督就任後は試合中に大声を出し過ぎて喉を潰さないよう、頻繁に給水しをなめている。この行動がサポーターを中心に話題となり、TV番組の企画で専用の「名波飴」まで作られた。

引退試合(ミスターレフティ メモリアルマッチ )

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2010年1月10日

ステッレ・ジュビロ 5 - 4 アズーリ・ジャポーネ
川口信男 18分
名波浩 58分
中山雅史 68分
高原直泰 85分
名波浩 89分 |  | 三浦知良 19分
秋田豊 25分
三浦知良 42分
前園真聖 52分
エコパスタジアム
観客数: 43,077人
主審: 上川徹

ステッレ・ジュビロ(STELLE JUBILO)

1.大神友明、2.鈴木秀人、3.大岩剛、4.河村崇大、5.田中誠、6.服部年宏、7.名波浩、8.成岡翔、9.中山雅史、10.藤田俊哉、11.松原良香、12.山本浩正、13.川口信男、14.山西尊裕、15.森下仁志、16.脇田寧人(ペナルティ)、17.桜井和寿(Mr.Children)、18.清水範久、19.三浦文丈、20.大井健太郎、23.福西崇史、29.奥大介、32.高原直泰

アズーリ・ジャポーネ(AZZURRI GIAPPONE)

1.佐藤洋平、2.名良橋晃、3.相馬直樹、4.井原正巳、5.柱谷哲二、6.山口素弘、7.中田英寿、8.北澤豪、9.中山雅史、10.名波浩、11.三浦知良、12.澤登正朗、13.望月重良、14.岡野雅行、15.森島寛晃、16.本田泰人、17.秋田豊、18.城彰二、19.中西永輔、20.西澤明訓、21.小村徳男、22.平野孝、23.前園真聖、24.土田晃之、99.矢部浩之(ナインティナイン)

エピソード

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

【国内大会個人成績】

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【リーグ】
【リーグ戦】
リーグ杯
オープン杯
【期間通算】

【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】

日本 【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯 期間通算
1995 | 磐田 | - | J | 51 | 3 | - | 2 | 0 | 53 | 3
1996 | 30 | 3 | 14 | 1 | 1 | 0 | 45 | 4
1997 | 7 | 21 | 5 | 2 | 0 | 2 | 1 | 25 | 6
1998 | 33 | 7 | 2 | 0 | 3 | 0 | 38 | 7
1999 | J1 | 15 | 4 | 2 | 0 | - | 17 | 4
イタリア 【リーグ戦】
イタリア杯
オープン杯 期間通算
1999-00 | ヴェネツィア | 7 | セリエA | 24 | 1 | 7 | 1 | - | 31 | 2
日本 【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯 期間通算
2000 | 磐田 | 16 | J1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 | 1
2001 | 7 | 17 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 21 | 1
2002 | 24 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 29 | 1
2003 | 27 | 3 | 5 | 0 | 5 | 1 | 37 | 4
2004 | 29 | 3 | 5 | 0 | 3 | 0 | 37 | 3
2005 | 26 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 30 | 1
2006 | 10 | 0 | 4 | 0 | - | 14 | 0
C大阪 | 16 | 13 | 2 | - | 0 | 0 | 13 | 2
2007 | 東京V | 7 | J2 | 17 | 0 | - | 1 | 0 | 18 | 0
2008 | 磐田 | 16 | J1 | 13 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 18 | 0
【通算】
【日本】
J1 314 | 34 | 48 | 1 | 22 | 2 | 384 | 37
【日本】
J2 17 | 0 | - | 1 | 0 | 18 | 0
【イタリア】
セリエA 24 | 1 | 7 | 1 | - | 31 | 2
総通算 355 | 35 | 55 | 2 | 23 | 2 | 433 | 39

その他の公式戦

【国際大会個人成績】

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【出場】
得点
AFC
ACL

2004 | 磐田 | 7 | 3 | 1
2005 | 3 | 0
【通算】
AFC 6 | 1

その他の国際公式戦


代表歴

出場大会など

試合数


日本代表
国際Aマッチ

【年】
【出場】
【得点】

1995 | 2 | 2
1996 | 13 | 1
1997 | 21 | 3
1998 | 11 | 0
1999 | 6 | 0
2000 | 12 | 3
2001 | 2 | 0
2002 | 0 | 0
通算 67 | 9

ゴール

【#】
【日付】
【開催地】
【対戦国】
【結果】
試合概要
1. | 1995年8月6日 | 日本京都市 |  コスタリカ | ○ 3-0 | 親善試合
2. | 1995年10月24日 | 日本、東京 |  サウジアラビア | ○ 2-1 | 親善試合
3. | 1996年12月9日 | UAEアル・アイン |  ウズベキスタン | ○ 4-0 | AFCアジアカップ1996
4. | 1997年3月25日 | オマーンマスカット |  マカオ | ○ 10-0 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選
5.
6. | 1997年11月1日 | 韓国ソウル市 |  韓国 | ○ 2-0
7. | 2000年10月14日 | レバノンサイダ |  サウジアラビア | ○ 4-1 |  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/09/19 10:13

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