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名鉄7000系電車とは?

【基本情報】

【運用者】
名古屋鉄道
【製造所】
日本車輌製造
【製造年】
1961年 - 1975年
【製造数】
116両
【運用開始】
1961年6月1日
【引退】
2009年8月30日(7000系)
2009年11月29日(7100系)
2010年3月21日(7700系)
【主要諸元】

編成
2両編成
4両編成
6両編成
8両編成
10両編成
軌間
1,067 mm
電気方式
直流1,500V
(架空電車線方式)
【最高運転速度】
110 km/h
【設計最高速度】
150 km/h
起動加速度
2.3km/h/s
【減速度】
4.5 km/h/s
【全長】
19,715 mm(モ7000形)
18,830mm(モ7700形)
18,950mm(モ7100形)
18,830mm(モ7050形・モ7150形・モ7750形)
【全幅】
2,736 mm
【全高】
4,200 mm(集電装置付)
4,065mm(集電装置なし・モ7000形)
3,830mm(集電装置なし・モ7150形)
3,880mm(集電装置なし・モ7050形の一部・モ7700形・モ7750形・モ7100形)
3,845mm(集電装置なし・モ7050形の一部)
台車
住友金属工業 FS335
住友金属工業 FS335B
住友金属工業 FS384
住友金属工業 FS384A
主電動機
東洋電機製造 TDK825/1-A
東洋電機製造 TDK825/3-A2
【主電動機出力】
75kW(直巻整流子電動機端子電圧340V・定格回転数2,000rpm)
【駆動方式】
中空軸平行カルダン駆動方式
(東洋電機製造 DND-102HJ)
歯車比
78:16=4.875
制御方式
抵抗制御
【制御装置】
東京芝浦電気 MC-11C
東京芝浦電気 MC-11E1M
制動装置
発電制動併用電磁直通ブレーキ・可変荷重装置付 (HSC-D)
保安装置
M式ATS
第5回(1962年)

名鉄7000系電車(めいてつ7000けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が1961年から2009年まで運用した電車である。

日本では初めて、運転台を2階に設置した上で最前部に展望席を設けた車両(展望車)で、「パノラマカー」という愛称がつけられ、1962年には鉄道友の会より第5回ブルーリボン賞受賞車両に選出された。改良を加えつつ1975年まで継続して増備され、合計116両が製造された。長期間にわたり名鉄を代表するシンボル的な車両として扱われ、一時期は名鉄では最多両数の形式となり、鉄道ファンからは「名鉄不朽の名車」「永遠の名車」「伝説の名車」ともいわれている。

本項では、本形式に準じた車両仕様で前面を貫通型として1973年に24両が製造された7700系と、本形式からの改造によって1984年に2両が登場した7100系についても記述する。また、名鉄の社内では5000系以降の高性能車について「SR車」と呼称していることに倣い、本項でもそのように表記する。また、特定の編成について記す場合は、豊橋方の先頭車の車両番号をもって編成呼称とする(例:豊橋方先頭車の車両番号がモ7001の編成であれば「7001編成」)。

目次

  • 1 登場の経緯
    • 1.1 前史
    • 1.2 未来の見える電車
    • 1.3 安全な電車
    • 1.4 デザイン決定の紆余曲折
  • 2 車両概要
    • 2.1 車体
      • 2.1.1 構体
      • 2.1.2 先頭部
    • 2.2 内装
    • 2.3 主要機器
      • 2.3.1 電装品
      • 2.3.2 台車
      • 2.3.3 運転室
      • 2.3.4 警笛
      • 2.3.5 その他機器
    • 2.4 増備途上での変更点
  • 3 沿革
    • 3.1 運行開始
    • 3.2 ダンプカーとの衝突事故
    • 3.3 ブルーリボン賞受賞
    • 3.4 支線区への直通
    • 3.5 通勤混雑の激化
    • 3.6 特急専用車の登場
    • 3.7 特急運用から離脱
    • 3.8 終焉
  • 4 保存車両
  • 5 編成表
    • 5.1 7000系登場当時の基本的な編成
    • 5.2 1985年時点の編成
    • 5.3 2004年時点の編成
    • 5.4 その他特別な編成
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
    • 7.1 書籍
    • 7.2 雑誌記事
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

登場の経緯

前史

1955年(昭和30年)に名鉄の副社長に就任した土川元夫は、第二次世界大戦後、日本国外の交通調査資料などを熱心に読み、日本が主権を回復すると積極的に日本国外の鉄道の視察も行っていた。また、1953年(昭和28年)から経営コンサルタントとして名鉄から依頼を受けていた荒木東一郎は、アメリカの交通事情を視察しており「鉄道は凋落し、自動車の時代になる」と予測していた。これを背景として、土川は「交通機関には寿命がある」という持論のもと、社員には「名鉄が鉄道としての魅力を失わない施策」「営業エリアの拡大につながる新しい乗り物」について社員に考えさせていた。

一方、1948年(昭和23年)に名鉄に入社していた白井昭は、1952年(昭和27年)から乗務員検修担当者の教育を行う部署である名古屋鉄道教習所の教官として着任していたが、名鉄社内で行われていた「合理化委員会」の会議にも、出席できるものには積極的に出席していた。こうした白井の積極性を見て、土川は白井にも頻繁に声をかけるようになっていた。白井も「聞かれたことを答えるだけではつまらない」と考え、本来の業務とは異なるダイヤ改正などについて考え、土川に意見を伝えるようになっていた。

また、白井はアメリカの鉄道車両や航空機・自動車で興味深いと思ったものをノートに記録し、デザインを研究していた。ある時、白井が土川と車両の話をしていた時に、「前の景色が見える電車を作りたい」と話すと、土川は「それはいいな」とだけ答えたという。

未来の見える電車

名鉄では、1959年冷房装置を搭載した車両として5500系を登場させていた。特別料金を徴収しない列車での冷房化は、戦前にわずかな実績があるのみであり、冷房を搭載した一般列車は日本国内の鉄道他社や乗用車でもほとんど存在せず、一般家庭にも冷房装置などない時代であり、利用者や沿線住民を驚かせた。しかし、白井は5500系に対して「独創的なところが何もない」と感じており、土川からの5500系をどう思うかという質問にも「夢も希望もない」と即答した。そのやりとりの後、白井は「あるべき車両」について土川に長い手紙を書くと、すぐに土川に呼ばれ「今までにない展望車の計画の創造に全面的に努力せよ」という特命が下った。

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イタリアの「セッテベッロ」
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モントリオールの
「ゴールデン・キャリオット」

土川はイタリアの鉄道を視察した際にイタリア国鉄ETR300電車「セッテベッロ」が気に入ったとされ、このため帰国後に車両部に写真や資料を回付したという話が伝えられているが、土川は「…のような」というようにイメージを縛るような言い方は絶対にしなかったともいわれている。また、当時ライバル視していた近畿日本鉄道(近鉄)の社長である佐伯勇から、10100系「ビスタカー」ブルーリボン賞を受賞したことを自慢されたために、「名鉄もブルーリボン賞を取れる車を」という命令があったともいわれているが、後に白井がブルーリボン賞の受賞式典のために社内で根回しを行った際には、どの部署も鉄道友の会の存在を知らず、「どのような賞なのか説明するのに苦労した」と白井は回想している。

いずれにしても、土川が展望車の実現を望んでいたことは確かで、1960年に役員会で展望車の企画が通ったときには、嬉しそうな顔をしながら白井に企画が通ったことを伝えたという。

一方の白井は、アメリカ人の友人から送られた保存鉄道ライブラリに掲載されていた、モントリオールの観光用電車である「ゴールデン・キャリオット」をイメージしていたという。白井は、それまでの展望車が後ろの景色しか見えなかったことについては「過去を見ていることにしかならない」として、このように主張した。

人間の本質として、過去よりも未来が見たいはずだ。これから作る展望車は、“未来”が見えるものでなければならない。ことに、子どもにそれを見せたい。 — 白井昭高瀬文人『鉄道技術者 白井昭』 (2013) p.63

土川もこの「すべての人が前を見られる」というコンセプトに賛成し、さらに「立っている乗客にも前が見えるつくり」を望んだ。

こうして、白井を企画責任者として、展望車の開発が開始された。新型車両の開発は車両を統括する車両部計画課が担当するが、企画責任者の白井は、この時点では教習所の所属のままであった。車輌の製造は日本車輌製造が担当することになった。

安全な電車

ところが、名鉄の社内から、この企画に反対する意見があった。

この当時、名鉄では踏切事故が激増していた。1958年12月24日に名古屋本線で特急に使用されていた3850系踏切オート三輪と衝突した際には、オート三輪の積荷が可燃物のシンナーであったために炎上して車両は全焼、乗務員・乗客にも死傷者が出ていた。翌1959年にも、10月1日・10月9日・11月20日・11月29日・12月8日と踏切事故が多発しており、乗務員の殉職もあった。こうした事情から、「乗客を危険にさらすわけにはいかない」という理由で、列車の運転を統括する運転部の部長が車両部に対して抗議を申し入れたのである。

しかし、土川はその抗議を受けても、展望車の開発を中止することはしなかったため、車両部では「衝突しても安全な電車」を作らなければならなくなった。安全性の確保を検討するうち、沿線企業の萱場工業からダンパーを先頭部分に設置するという提案があった。計算した結果、オイルダンパーを前面に2本設置することによって、車体を守れるという結果が出たため、衝突の状態や吸収力などのシミュレーションが行われた。

そのほか、運転台へ乗務員がどう出入りするか、運転台からの見通しがどうかなどが検証されたほか、監督官庁にも指導を仰ぎ、車両設計において例外的な認可の箇所を減らすべく検討が行われた。日本では前例がない車両構造のため、監督官庁も扱いに困ったといわれている。

1960年夏には役員会で新造計画が決定した。これを受けて、白井は正式に車両部へ異動となり、新型展望車の開発に専念できるようになった。

デザイン決定の紆余曲折

1960年8月に入ると、デザインを検討するためにクレイモデルが3種類製作され、その後にモックアップが製作されたが、モックアップは3種類のクレイモデルのどの形とも違うものになった。さらに9月には車両のデザイン画も出来上がり、新聞にも掲載されたが、これもモックアップとは違うものになった。それらはいずれも衝撃吸収用のダンパーを覆うボンネットが突き出たスタイルで、白井の気に入るものではなかった。デザインを提案した日本車輌の担当者は「このデザインのどこが悪い」と憤ったが、白井は土川に「デザインをやり直すべき」と進言、それを受けて土川は「先頭部のデザインをやり直す」と決めた。

このため、日本車輌では日本国有鉄道(国鉄)の臨時車輌設計事務所を通じて、インダストリアルデザイナーの萩原政男に車輌のデザインを依頼することになった。実は、萩原は小田急電鉄の特急用車両である3000形SE車の計画段階において展望車のデザインの相談を受けていたが、実現していなかった。また、国鉄の車両設計ではデザイナーの名前が出ることはなかったが、それではデザイナーの役割を世の中に認識させることはできなかった。萩原は私鉄の車両であればそれが可能であると考え、国鉄の仕事を辞めて名鉄の展望車の仕事を担当するようになった。

また、車体の色も画家杉本健吉によって決められることになった。杉本は岸田劉生門下の画家で、名鉄百貨店開業時の包装紙や交通関係のデザインも手がけていた。杉本は当初濃い緑色を考えていたが、車両部の担当者の提案を受け、スカーレット1色とすることになった。

1960年秋には、どんな車両になるかを新聞記者が取材していた際に、親しみやすい愛称として白井が萩原と相談して「パノラマカー」と述べたところ、マスコミではこれを大見出しで報道し、たちまち「パノラマカー」という名称が広まったという。

このような経過を経て登場したのが、7000系パノラマカーである。

車両概要

7000系は6両編成で登場し、1967年4月から4両編成も登場した。設計段階では、将来10両編成に増強することを考慮しており、1968年ごろには8両編成での運用も行われたほか、試運転や臨時列車では2両編成や10両編成で運用されたこともある。1990年以降は7700系中間車が7000系の編成に組み込まれた。一方、7700系は1973年4月に4両編成と2両編成が同時に登場した。前面が展望席スタイルではなく貫通構造となっており、1990年以降はすべて2両編成で運用され、7700系中間車は7000系の編成に組み込まれた。

7000系は系列中に3形式が、7700系は系列中に2形式が存在し、すべての車両が電動車である。制御方式は後述するように5500系と同じ抵抗制御+直並列制御を採用しており、奇数番号の車両 (Mc1,M1) に補助機器を搭載、偶数番号の車両 (Mc2,M2) に制御装置集電装置を搭載し、奇数番号の車両と偶数番号の車両をもって1つのユニットとして扱うという原則を守ることで、どのような編成にもすることが可能である。名古屋本線上において、ユニットの豊橋側が奇数番号車となる。

モ7000形
7000系の編成において両端の先頭車となる制御電動車 (Mc1,Mc2)。
モ7050形
7000系編成中間に組み込まれる中間電動車 (M1,M2)。
モ7150形
7000系編成中間に組み込まれる中間電動車 (M1,M2) で、工場内での入換用に簡易運転台を装備する。
モ7700形
7700系の編成において両端の先頭車となる制御電動車 (Mc1,Mc2)。
モ7750形
7700系の編成中間に組み込まれる中間電動車 (M1,M2)。

本節では以下、7000系について、1961年の登場当時の仕様を基本として記述し、増備途上での変更点と7700系については別途節を設けて記述する。更新による変更や7100系については沿革で後述する。編成については、編成表を参照のこと。

車体

先頭車は車体長19,000mm・全長19,715mm、中間車は車体長18,000mm・全長18,830mmで、車体幅は2,730mmである。

車体色は前述のとおりスカーレット1色である。車体側面には近鉄のビスタカーに倣って「パノラマ」というロゴを入れる案があったが、デザインを担当した萩原は「泥臭い」として採用しなかった。

構体

車体はすべて普通鋼製で、軽量化のため強度計算を入念に行った。また、車体の防音にも注力し、床板はキーストンプレートを採用した。

側面窓は日本車輌の提案により、窓柱を車内に収め、ガラスで柱部分も覆う「連続窓」という固定窓構造が採用された。側面のガラスは熱線吸収複層ガラスを使用し、基本的な寸法は幅1,500mm・高さ850mmで、ガラスの厚さは外側5mm・内側5mmとし、2枚のガラスの間には6mmの空間を設定している。扉と扉の間では、先頭車ではこのガラスが4枚、中間車では5枚並ぶ。中間車の戸袋部分の窓には幅850mm・高さ850mmのガラスを使用した。客用扉は幅1,100mmの片開き扉を2箇所に配した。

レール上面から床面までの高さは、先頭の展望室が1,040mm、それ以外の客室では1,150mmである。

先頭部

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運転室を2階に上げた先頭部
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前照灯と尾灯を兼用した標識灯

先頭部の形状は運転室を2階に上げ、最前部まで客室とした。萩原は「ボンネットが突き出していると乗客に事故を連想させて不安を与える」として、前面ガラスを車両先端まで延長し、後述するダンパーを車体の中に収納する構造とした。

前面窓は、当時の日本の技術では曲面の複層ガラスの製造ができなかったことと、製造数の少ない鉄道車両においてはコストが高くなるため、すべて平面ガラスで構成した。前面に使用されたガラスは外側8 mm・内側5 mm とし、2枚のガラスの間には6 mm の空間を設定しており、当時の価格で1枚10万という高価なものである。

衝突事故対策として、先頭部には最大吸収エネルギー77,000 kg/m・容量250 tのダンパーが2基設置された。このダンパーの中心高さは、当時の大型ダンプカーの荷台底面に合わせてレール面から1,300 mm とし、突き出し部分のバッファーは前部標識灯(前照灯)と一体のケースに収めた。

前照灯は、正面窓の上下に2灯ずつ、合計4灯設けた。このうち、窓下の2灯については、前述のダンパーと一体化されたケースに収めたほか、光源そのものがサーチライト(米国機関車でのマーズライト)のように円錐を描くように回転することによって、地上から光が明滅しているように見える「旋回式前照灯」を採用した。これは運転台にある旋回スイッチを入れることによって作動するもので、対向列車とのすれ違い時に減光していてもスイッチを投入すると旋回を開始する。この前照灯は前後切り替えにより赤いフィルターがかかり、尾灯としても機能する。非常時には尾灯(赤色光)の状態で旋回を行うことも可能である。なお、窓上の2灯については固定式として、運転士の目が疲れないようにしている。

正面窓下中央部には "Phoenix" と記したエンブレムが取り付けられた。これは「ダンプカーに衝突しても無事であるように」といういう願いを込めたものであるという。行先表示器は設置されていないが、これは岐阜と豊橋を結ぶ特急列車のみに運用することになっていたため、車両そのもので行先と種別を表すという考えによる。車両番号の表記は、それまでは側面窓下中央であったが、7000系では客用扉横の下部に変更された。書体はそれまでと同様のローマン体である。

内装

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車掌台付近と貫通路
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室内からみた展望席。隅柱が露出している
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車掌台に設けられた折りたたみ座席

室内の配色については、落ち着いて気品に満ちた色彩とすることを図った。側壁は窓より上はペールグレー、窓より下はグレーのフロスト柄とし、床の色はグレーで天井をホワイトとした。座席のモケットは灰緑色で、名鉄では「ピーターパン・ブルー」と称している。

連続窓構造のため、客室内には鋼柱が露出しているが、ここに横引式のカーテンをおくことで窓柱を目立たなくした。カーテンはベージュ色を基調とした。座席は転換式クロスシートをシートピッチ900mmで配置した。ただし戸袋窓部分のみロングシートとしている。

車両間の貫通路は1,200mm幅の両開き扉とした。

モ7000形の連結面には車掌台を設けたが、使用していないときには客室として使用するように、折りたたみ座席を設けた。客室と車掌台の仕切り壁は設けられていない。また、モ7150形の車端部には工場内での入換用に簡易運転台を設けた。

主要機器

主要機器については5500系を基本とし、若干の変更を加えたものとした。

電装品

主制御器は、5500系ではゼネラル・エレクトリックと東京芝浦電気(のちの東芝)の技術提携によってMCM形パッケージ型制御装置が採用されていた。これは、5500系が全車電動車であることから、床下に冷房用電源の搭載スペースを捻出するために採用されていたもので、7000系も全車電動車であることから、同様の理由で採用することになった。7000系で採用されたのは東芝のMC-11C形で、制御器1台で8基の電動機の制御を行う方式(1C8M)の多段電動カム軸式パッケージ型制御装置である。制御段数は、直列・並列とも17段、弱め界磁4段で、直列段と並列段は主幹制御器で指定する方式である。

主電動機については、東洋電機製造の補償巻線付直流直巻整流子電動機であるTDK-825/1-A形が採用されているが、これは5500系で採用されたTDK-825A形とほぼ同型で、出力は5500系の主電動機と同じ75kWである。また、駆動方式も5500系と同様の中空軸平行カルダン駆動方式で、歯数比の78:16=4.875という設定も5500系と同様である。

制動装置(ブレーキ)については、5000系以降の高性能車で採用実績のある発電ブレーキ併用のHSC-D形電磁直通ブレーキが採用された。

台車

名鉄では初の空気バネ台車となったFS335形

台車は、住友金属工業製のペデスタル式空気バネ台車であるFS335形台車が採用された。乗り心地向上のためゴムベローズの外側にコイルバネを巻いた「スミプレス形」と呼ばれるベローズ形空気バネを使用したほか、荷重に対する車体高さの均一化を図る目的で車体直結式(ダイレクトマウント方式)とした。また、これは名鉄では初の空気バネ台車採用となった。固定軸距は2,100mmで、車輪径は860mmである。

この台車の採用に先立ち、1960年に5000系モ5003で先行試作台車による試験が行われた。この時の試作台車は量産化改造の上、モ7006に使用されている。

運転室

運転士が乗務する乗務員室(運転室)は2階に上げた構造とした。土川が気に入ったイタリアの「セッテベッロ」では運転室への階段を客室内に設けていたため、それより後ろの客室からは前方風景は見えなかった。しかし、7000系のコンセプトは「すべての人が前を見られる」ことだった。これを解決するため、運転室への出入りは車体側面にステップを設けることによって、客室内への張り出しをなくした。これによって、客室の中央部からでも前面展望を楽しむことが可能になった。車外ステップには夜間の昇降用に階段灯を内蔵した。なお、非常用として客室内への昇降口を設け、折り畳み梯子を備えた。運転席後方には、中央に排気ダクト、その左右に窓を設けた。

2階の運転室は車両限界内に納める必要があるため、当時発売された軽自動車スバル・360を参考にし、運転士からの「運転室が狭いのではないか」という意見についても「スバル360を屋根に載せたと考えてほしい」と説明し、納得させた。運転席と助士席の後ろには可搬式の折り畳み椅子を使用して2名程度が座れる程度の広さがあり、詰めれば5名まで着席可能である。

運転席の機器については、主幹制御器・ブレーキハンドルとも小型化を図った。運転席の足元には左側から前照灯の減光・ミュージックホーン電気笛・空気笛の順に4つのペダルが備わっている。

警笛

7000系の警笛は通常の空気笛のほかに、補助警報音として電子音楽を流すミュージックホーンを装備した。このミュージックホーンは計画段階では公表されておらず、後述する展示会において初めて公表された。

このミュージックホーンはトランジスタを用いた発振回路を使用して波形を生成し、増幅器を通してスピーカーから前方に音を発する仕組みで、すでに補助警報音を装備していた小田急SE車のテープ式と異なり、保守に手数を要さない点が特徴である。登場当初は300Hz・450Hz・600Hzの3音階を用いており、1963年ごろには330Hz・440Hz・555Hzの3音階とされた。また、ビブラートのための変調周波数は6Hzと指定された。運転士足元にある4つのペダルのうち、左から2番目のペダルを踏むと鳴動を開始し、もう一度踏むと停止する。

また、このミュージックホーンの回路を利用した電気笛も装備した。これはミュージックホーンで使用している3音を和音として同時に鳴動させるもので、運転士足元にある4つのペダルのうち、右から2番目のペダルを踏むと鳴動し続け、ペダルから足をはなすと停止する。

その他機器

冷房装置は、5500系で採用実績のある東芝TAC-153形の改良型で、4,500kcal/hの能力を有するTAC-15形を、先頭車に6基・中間車には8基搭載したほか、展望室には床置き形で4,500kcal/hの能力を有するTAC-18形を2基搭載した。これらの冷房は乗務員室から1つのスイッチで一斉操作できるようにした。

補助電源装置は、出力60kVAのCLG-326-D形電動発電機を装備した。固定窓のため冷房停止は致命的な障害となるため、信頼性の向上に注力した。電動空気圧縮機はD-3-FR形を採用した。

連結器は、先頭部分が小型の自動連結器、編成中間は棒連結器である。

増備途上での変更点

1962年5月製造(2次車)
6両編成が4本増備された。運転台前面窓の寸法拡大により、窓の寸法と形状が一部変更されたほか、排障器の形状変更が行われた。また、車側灯は1灯式から2灯式に変更され、制御装置がMC-11D形に変更された。車内では展望席の座席の位置が変更となり、最前部座席と冷房装置との間隔が500mmから600mmに変更されたほか、展望席付近に速度計が装備された。台車は空気バネを中間リング式ベローズに変更したが、台車形式は変更されていない。また、このときの増備車からは前面に「逆富士形」と呼ばれる行き先表示板が設けられた。
1967年3月製造(3次車)
4両編成が登場、5本が増備された。車体構造が一部変更され、窓柱などに変化がある。運転室の窓配置は7500系に準じた使用に変更され、運転室側面に排気口が設けられ、運転室後方の窓が隅に2箇所から背面に1箇所に変更された。電装品についても、制御装置がMC-11E形に変更され、制御段数も直列・並列とも13段に変更されたほか、冷房装置がRPU-1504形に変更され、台車がダイヤフラム式空気バネを使用したFS335B形に変更された。また、このときの増備車から前頭部にフロントアイと称する広角凸レンズの機器が設置され、正面に連結対応準備工事が施された。
1968年10月製造(4次車)
既存の編成を組成変更して4両編成を増加させるための増備で、先頭車のみ4両が製造された。車内のロングシート部分につり革が設けられた。
1969年4月製造(5次車)
4両編成が2本増備された。側面に電照式の座席指定表示器が設けられ、各車両に号車番号札差しが設けられた。
1970年4月製造(6次車)
4両編成を増加させるために、先頭車のみ6両が製造された。主電動機がTDK825/2-A形に変更された。
1971年7月製造(7次車)
4両編成3本が増備された。この時の増備車から冷房装置が8,500kcal/hの能力を有するRPU-2208形に変更され、先頭車に3台・中間車に4台が搭載された。また、展望室部分のみシートピッチを880mmに変更し、最前部座席と冷房装置との間隔が600mmから660mmに変更された。
FS384形台車
1973年4月製造(7700系)
2両編成と4両編成が4本ずつ増備された。展望席がなく、前面が貫通形になったのが特徴で、先頭車連結面側の車掌台もない。機器と性能は7000系とまったく同じであるが、台車がS形ミンデン式のFS384に変更され、制御装置はMC11-E1M形とMC11-E2M形が採用された。室内では座席のモケットの色がスカーレットに変更された。
1974年6月製造(8次車)
6両編成が2本増備された。台車は7700系と同様のFS384に変更され、座席のモケットの色も7700系と同様にスカーレットに変更された。また、当初より正面に電動式の行先・種別表示器が設けられた。簡易運転台の必要はなくなっていたため、モ7150形は製造されていない。
1975年7月製造(9次車)
一部の4両編成を6両編成化するため、中間車のみ12両が製造された。ラッシュ時対策として側面扉を幅1,200mmの両開き扉としたほか、扉両脇をロングシートとした。クロスシート部分は座席定員確保のためシートピッチが840mmに縮小されている。車両番号は7100番台となったが、形式はモ7050形のままである。

沿革

運行開始

1961年4月22日、完成した7000系パノラマカーの最初の編成が神宮前駅で報道公開された。この時は報道関係者が撮影のために本線上に脚立を立て、運転台には6人も入り込む騒ぎであった。名鉄でも積極的に試乗会などを行い、運行開始までに20,000kmほど走行することになった。

また、この時期には新しい鉄道趣味雑誌として地元名古屋市の交友社より『鉄道ファン』が創刊されたが、この雑誌の初代編集長には7000系のデザインを担当した萩原が就任し、『鉄道ファン』創刊号の表紙は廣田尚敬の撮影による7000系の写真であった。

同年6月1日、豊橋駅を午前9時4分に発車する特急新岐阜行きから、7000系パノラマカーの営業運行が開始された。同年6月12日にはダイヤ改正が行われ、最高速度は110km/hに引き上げられた。これによって豊橋と岐阜の間を3時間で往復する運用が可能となり、日本の私鉄では初めて1日の走行距離が1,000kmを超える運用も登場した。運行開始後のパノラマカーは人気を集め、特急の始発駅である豊橋駅と新岐阜駅では、展望席の最前列に着席するために数時間も前から待つ光景も見られた。

これとあわせて、宣伝用の短編映画『ぼくらの特急』の撮影も行われた。この映画の撮影のために、1961年9月には機能試験も兼ねて10両編成での運転が行われた。また、複線の線路上で、撮影用電車と7000系を同じ方向に走らせ、7000系が追い上げてくるシーンの撮影も行われた。国鉄の特急「こだま」を並行区間で追い越すシーンを撮影しようとしたが、この時は注意信号が出ていて減速せざるを得ず、これは失敗であった。また、「パノラマカーは沿線住民の通勤の足に使われてこそ価値がある」という思想を反映し、展望室でスーツ姿で新聞を読む乗客や、立っている乗客も映された。

ダンプカーとの衝突事故

このように好評をもって迎えられた7000系パノラマカーであったが、踏切事故に対する開発関係者の懸念は残っていた。考えられる対策はすべて採り、名鉄では「10トンのダンプカーが80キロのスピードでぶつかっても大丈夫」としたものの、本来はこうした機能は使われない方が望ましいものであった。

運行開始から半年ほど経過した1961年11月29日、名古屋本線の木曽川堤駅付近を特急新岐阜行きとして85km/hで走っていたパノラマカーの前に、砂利を満載した大型ダンプカーが踏切警報を無視して入り込んできた。運転士はすぐに非常ブレーキを操作したが衝突し、ダンプカーは40mも引きずられ、パノラマカーは286mも走った木曽川橋梁の中央部付近で停止した。

しかし、負傷者は乗客8名が軽傷を負っただけで、しかもそれはダンプカーが側面にぶつかった際に側面ガラスが割れ、その破片が当たったものであった。展望席のガラスはひびが入った程度で、展望席に座っていた乗客は無傷だった。その後の調査と分析で、車体は完全に原形をとどめており、衝突事故防止の対策はすべて設計どおりに機能していることが明らかになった。

この事故は「ダンプカーキラー」「ダンプキラー」と報道され、パノラマカーの安全性は立証された。

しかし、名鉄の社内では新たな懸念が発生した。当時の名鉄には、車体の一部が木造の半鋼製車どころか、木造車体の車両も残っていた。そのような車両がパノラマカーと衝突したらひとたまりもない。「万が一AL車とでも衝突したらと思うとぞっとした」といい、その後自動列車停止装置 (ATS) が整備されるまでは、列車同士の事故が起きた際に、7000系が絡んでいないと分かると安堵したという。

なお、事故のあった7003編成は、その後しばらくは事故で損傷したモ7004・モ7053の代わりに5500系を連結して運用された。7000系と5500系の性能は同じであり、その後も非常時には同じ方策が採られるようになった。

また、モ7004には事故復旧時に試験的にニキシー管式の速度計を客室内に設置したが、この速度表示が好評だったことから、その後の増備車では速度計を装備することになった。

ブルーリボン賞受賞

先頭車の前面に設けられた方向板

1962年には、7000系は鉄道友の会よりブルーリボン賞を受賞した。白井が受賞式典のために名鉄の社内に根回しを行った際には、「どこの馬の骨か」という反応ばかりであったが、五摂家の一つだった鷹司家の27代目当主鷹司平通が鉄道友の会の世話役を務めていると分かると、社内の反応は一気に好転したという。同年5月26日の受賞式典において運行された「ブルーリボン賞受賞記念列車」には、白井のデザインによるヘッドマークがつけられた。

この年の6月25日のダイヤ改正からは増備車(2次車)が運用に入れられたが、このときから運用範囲に犬山線が加わったほか、名古屋本線でも急行などに使用されることになった。このため、乗り間違いを防ぐために先頭車の前面に方向板が設けられた。この方向板は、ブルーリボン賞受賞記念列車のヘッドマークのデザインがそのまま採用され、その形状から逆富士通称された。

1963年5月26日には国際かんがい排水委員会のための団体臨時列車が運行されたが、この列車には2両編成に短縮された7000系が運用された。7000系が2両で営業運行をしたのはこのときだけである。

支線区への直通

1967年から設置されるようになったフロントアイ

7500系の登場に先立ち、モ7014にて住友金属工業製新型台車のテストが行われた。その7500系は1963年12月に登場し、しばらくは大きな変化はなかったが、社長に就任していた土川から「パノラマカーの特急を支線区へ直通させる」という方針が打ち出された。これに伴い、本線特急には7500系を使用し、支線への直通に7000系が運用されるようになったが、短い編成が必要となったため、1967年3月に7000系の4両編成が登場することになった。しかし、7000系が全車電動車であったため、支線の変電所容量では電力が不足する可能性があった。この問題については2両の動力をカットすることで解決できたが、切り替え操作を避ける目的で、電圧を検知するリレーの設定値に差をつけ、電力不足になった際には2両の動力が自動的に切られるようにするという方策を採った。この時の増備車からは、支線内において車両直前の安全確認を行えるようにするため「フロントアイ」と呼ばれる機器が前頭部に設置された。この「フロントアイ」は広角の凸レンズを使用したもので、レンズを通して見ると、天地が逆になるものの展望席の直前の様子が分かる。フロントアイは、これより前に製造された車両にも追設された。

1967年12月から、6両編成4本を4両編成・8両編成2本ずつへと組成の変更が行われた。8両編成は名古屋本線の特急8両編成化に対応したものであったが、7500系の増備に伴い1968年10月に8両編成は解除され、この年に増備された先頭車4両を加えて6両編成と4両編成に組成変更された。その後も支線直通用の4両編成の増強は進み、1969年4月には4両編成2本が、1971年4月には4両編成3本が増備されたほか、1970年4月には先頭車のみ6両が製造され、6両編成3本が4両編成6本に組成変更された。なお、工場の設備が更新され、6両編成でも同時に入場できるようになったことから、モ7150形に設置されていた簡易運転台は1968年9月に撤去された。

なお、1971年9月3日には犬山線下小田井駅中小田井駅の間にある踏切で、警報機を無視した2.5tトラックと衝突する事故が発生した。このトラックの積荷が可燃物のシンナーであったため衝突後に炎上し、この年に製造されたばかりのモ7040が炎上する事故が発生している。

1973年に登場した7700
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出典:wikipedia
2018/09/22 08:31

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