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君が代とは?


【作詞】
古歌(『古今和歌集』初出)
【作曲】
林廣守奥好義
【採用時期】
1880年(明治13年)10月26日(非公式)
1888年(明治21年)(対外正式公布)
1999年(平成11年)8月13日(立法化)

【試聴】

君が代:様々な楽器による演奏

君が代(きみがよ)は、日本国歌

10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。当初は「祝福を受ける人の寿命」を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌となった。1869年(明治2年)に薩摩藩の砲兵隊長・大山弥助(大山巌)が薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選び、その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルト西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省告示以降、事実上の国歌として定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。世界で最も短い国歌である。

目次

  • 1 歌詞
  • 2 礼式曲「君が代」制定までの歴史
    • 2.1 和歌としての君が代
      • 2.1.1 テキスト
      • 2.1.2 解釈
    • 2.2 諸文芸・諸芸能と「君が代」
    • 2.3 礼式曲「君が代」の成立
  • 3 国歌「君が代」の成立
    • 3.1 第二次世界大戦前
    • 3.2 第二次世界大戦後
    • 3.3 現状
  • 4 楽曲としての「君が代」
    • 4.1 拍子と調子
    • 4.2 テンポと演奏時間
  • 5 評価
  • 6 君が代に関する諸説
    • 6.1 作詞者について
    • 6.2 松永文相報告
    • 6.3 「九州王朝」起源説による解釈
  • 7 歌唱・演奏した著名人
  • 8 関連する楽曲
  • 9 参考音源
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
    • 11.1 書籍
    • 11.2 雑誌論文
    • 11.3 その他
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

歌詞

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである。9世紀にあって光孝天皇僧正遍昭長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって天皇を指すとは限らなかった。すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語御伽草子謡曲小唄浄瑠璃から歌舞伎浮世草子狂歌など多岐にわたり、また箏曲長唄常磐津、さらには碓挽歌舟歌盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食門付など、きわめて広範囲に及んでいる。「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである。

国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる。

日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石
いわおとなりて
苔のむすまで

— 君が代、日本の国歌
さざれ石、京都の賀茂御祖神社

「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それにがはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある。

バジル・ホール・チェンバレン

イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する。

A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで

香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。

皇祚連綿兮久長
萬世不變兮悠長
小石凝結成巖兮
更巖生綠苔之祥

礼式曲「君が代」制定までの歴史

和歌としての君が代

テキスト

歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)。

『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。

なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。

解釈

万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇藤原基経醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である。

後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる。

『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。

諸文芸・諸芸能と「君が代」

「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽猿楽謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。

『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」

「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。
義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに…

『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」

静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、
しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき

安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。

16世紀薩摩国戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。

蓬莱山

目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に
不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ
君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば
また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば
千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ
下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ
君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と
国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして
鳥もなかなか驚くようぞ なかりける

「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。

「君が代」は、江戸城大奥元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いわほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。

礼式曲「君が代」の成立

国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌()という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。

吹奏楽もまた、元来は西洋のものであって弦楽器による室内楽中心の江戸時代にあってはなじみが薄かった。日本における吹奏楽の歴史は、安政年間(1854年-1859年)に新設された長崎海軍伝習所において蘭式太鼓(オランダ海兵隊太鼓信号)の紹介や蘭式鼓譜の刊行がなされたことを始まりとしている。なお、慶応4年(1868年)よりはじまった戊辰戦争において新政府軍が行進する際に歌われ、演奏された曲が『宮さん宮さん』(品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲)であった。この曲は、和笛と太鼓による演奏形態のうえでも、また旋律のうえでもきわめて日本的な性格をもつが、歩行に合わせた規則正しいリズムに西洋音楽の影響がみてとれる。

「君が代発祥の地」碑
薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ

1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)が設立され、フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。薩摩バンドは1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮による初めての演奏会をひらいている。

初代礼式曲の「君が代」は明治3年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際、薩摩バンドによって吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあってフェントン作曲の「君が代」は普及せず、1876年(明治9年)に海軍楽長である長倉彦二(のちに中村祐庸と改名)が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を海軍省に提出した。この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。

"Japanese National hymn(日本の礼式曲)"譜面の表紙
伊勢の夫婦岩をデザイン。作曲者としてエッケルトの名がみえる。クルト・ネットー作(1880年)

1877年西南戦争が起こり、その間にフェントンが任期を終えて帰国した。1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林広季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。なお、改訂された「君が代」の第2主題は、ヨーゼフ・シュトラウス1862年(文久2年)に作曲した『日本行進曲』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。

改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。

1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブが作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。

第二十三 君が代

君が代は ちよにやちよに
さゞれいしの 巌となりて
こけのむすまで うごきなく
常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さゞれいしの 鵜のゐる磯と
あらはるゝまで かぎりなき
みよの栄を ほぎたてまつる

また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。

1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。

礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。

1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」については、「国歌・君が代」と記載され、林廣守の名が作曲者、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされた。

官報第337号

文部省告示第三號
小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌
詞竝樂譜
別册ノ通撰定ス
明治二十六年八月十二日 文部大臣井上毅

1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節天長節一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。

1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。

第一號 君カ代 天皇及皇族ニ對スル禮式及一月一日、紀元節、天長節、明治節ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ掲揚降下スルトキ

軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。

国歌「君が代」の成立

第二次世界大戦前

「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった。小学校の国定修身教科書には「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)と、また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め、1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法公布記念式典で昭和天皇香淳皇后臨席のもと「君が代」が斉唱された。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇退場の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した。

また、「君が代」に代わるものとして、1946年毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった。

学校・教育現場では、1946年(昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする、文部省天野貞祐文部大臣「談話」が1950年(昭和25年)10月17日に全国の教育委員会に通達され、1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている。

官報「国旗及び国歌に関する法律」

「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年(平成11年)8月9日、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が成立し、13日に公布(号外第156号)され、即日施行された。日本国政府の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した。

なお、同法案は衆議院で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年7月22日に、参議院では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年8月9日に、それぞれ賛成多数で可決された。

国旗及び国歌に関する法律

第二条 国歌
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出典:wikipedia
2019/01/08 17:19

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