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唐とは?

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年8月)



 | 618年 - 907年 | 





唐の版図
公用語 中古漢語
首都 長安
皇帝
618年 - 626年 高祖
904年 - 907年 哀帝
面積
715年
約5,400,000km²
人口
9世紀
約8000万人
変遷
隋から唐へ 618年6月18日
【唐は滅亡し五代十国の分裂時代へ】
907年6月1日

中国の歴史

元謀藍田北京原人
神話伝説(三皇五帝)
黄河長江遼河文明


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(とう、拼音: Táng618年 - 907年)は、中国王朝である。李淵を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア北東アジア諸国、例えば朝鮮半島渤海日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。

690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。

日本では唐の滅亡後も唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。

目次

  • 1 国号
  • 2 李氏
  • 3 歴史
    • 3.1 初唐(武周期を含む)(7世紀初頭 - )
    • 3.2 盛唐(8世紀初頭 - )
    • 3.3 中唐(8世紀半ば - )
    • 3.4 晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)
  • 4 政治
    • 4.1 律令体制とその崩壊
    • 4.2 科挙と貴族政治
    • 4.3 官制
    • 4.4 身分制度
    • 4.5 地方制度
    • 4.6 宦官
  • 5 経済・軍事
    • 5.1 税制・兵制
    • 5.2 専売制
    • 5.3 貴族の没落と市民経済の勃興
    • 5.4 坊制
    • 5.5 経済
      • 5.5.1 市制
      • 5.5.2 行
      • 5.5.3 交通制度と旅
      • 5.5.4 農業
      • 5.5.5 手工業
      • 5.5.6 商業
      • 5.5.7 貨幣
      • 5.5.8 大都市
      • 5.5.9 陸上交易
      • 5.5.10 海上交易
      • 5.5.11 荘園の形成
    • 5.6 軍事
      • 5.6.1 中央軍
      • 5.6.2 地方軍・辺境軍
      • 5.6.3 軍組織
      • 5.6.4 騎兵と装備
      • 5.6.5 戦法と陣法
  • 6 文化
    • 6.1 思想・宗教
      • 6.1.1 儒教
      • 6.1.2 仏教
      • 6.1.3 道教
      • 6.1.4 その他
      • 6.1.5 宗教政策
    • 6.2 文学
      • 6.2.1 初唐
      • 6.2.2 盛唐
      • 6.2.3 中唐
      • 6.2.4 晩唐
      • 6.2.5 歴史
      • 6.2.6 伝奇小説
    • 6.3 音楽と歌舞
    • 6.4 美術
      • 6.4.1 木造建築
    • 6.5 ギャラリー
  • 7 社会・生活・風習
    • 7.1 唐時代の気風
    • 7.2 生活実態
    • 7.3 食事と料理
    • 7.4 服飾と化粧
    • 7.5 女性と結婚
    • 7.6 年中行事
    • 7.7 運動・競技
    • 7.8 屋外遊戯
    • 7.9 屋内娯楽
    • 7.10 酒と酒宴
    • 7.11 喫茶と茶道
    • 7.12 散楽と劇
    • 7.13 牡丹の流行
    • 7.14 異国趣味
    • 7.15 異国人
    • 7.16 無頼と刺青
    • 7.17 遊侠と奢豪
    • 7.18 虎と狐への信仰
  • 8 国際関係
    • 8.1 北方
    • 8.2 西方
    • 8.3 東方
    • 8.4 南方
    • 8.5 日本との関係
  • 9 唐の皇帝と元号
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
    • 11.1 総論・歴史
    • 11.2 政治
    • 11.3 経済・軍事
    • 11.4 文化
    • 11.5 社会・生活・風習
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

国号

国号の「唐」は山西省を中心とする地域の古い呼び名で、この地域には古代にはが建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があったとされる。また、の時代には周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした武王の子・唐叔虞が立てたの別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部にを国号とする小国があったことが知られ、と盟約を結ぶも、紀元前505年によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。

本項の唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあった。後唐王家は臣下の朱邪赤心が功績によって李姓を唐王朝から賜った家であり、南唐王家は「唐の憲宗の八男・建王李恪の子孫」を称したが、いずれも唐王朝李氏の直系とはいえない。

李氏

唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。

旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、唐で編まれた『晋書』で特筆大書されている西涼の初代王・をその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし、唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定によって出され、以後日本学界ではこの考え方が定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、(鮮卑化した漢族とする)唐朝の出自であることを論証し、やはり学説となった。

近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもあるが、主流をなす見解ではない。また、中華民国の学者姚薇元の『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局2007年)では唐をテュルク系高車を出自に持つ代郡李氏とする見解を示している。森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか?」という質問に対して、「唐の王族・李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません」と回答している。

そして、少なくとも唐王朝の高祖太宗高宗三代の母はすべて異民族である。例えば、唐王朝の名臣として名高い長孫無忌は鮮卑の拓跋出身であり、その妹が太宗の皇后であり、高宗の母である。

歴史

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唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐盛唐中唐晩唐の4期に細分して通観する。

初唐(武周期を含む)(7世紀初頭 - )

7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守(総督)であった李淵617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、を建国した。

建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。

太宗は北方の強国突厥を降してモンゴル高原羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリカガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。

武則天

唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号をと改めた(武周)。

中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。

しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。

盛唐(8世紀初頭 - )

玄宗
8世紀前半の唐

712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年トランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。

玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。

都の長安を占領され玄宗はに逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(太子の葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。

軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。

中唐(8世紀半ば - )

安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。

これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗し、かえって宦官の専横を招いた。

晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)

文宗の弟の武宗廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。

この頃から、859年裘甫の乱868年龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させるとを建て、皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。

河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなった。

政治

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兵制については「税制・兵制」の節を参照。

律令体制とその崩壊

律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、文帝により「開皇律令」が編纂されていた。唐はそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。

律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。

後述する三省六部、九品制、均田制府兵制などは令によって規定され、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼ぶ。

唐の律令は何度か変更され、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。

律令が現実の社会状況と合致しない場合、それに代わって詔勅と格が主要な役割を果たしたとされる。安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、より格式が多用されるに至る。

科挙と貴族政治

唐代は南北朝時代からの風潮を引き継いで、権門貴族が強い影響力を保持していた。皇室の李氏を含め唐の支配者層を形成したこれらの集団は、いずれも多くが関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。

関隴貴族は鮮卑北朝貴族であり、この他には主に漢族の流れを汲む山東貴族、南朝の流れを汲む南朝貴族がある。家門の家格という考え方は魏晋南北朝時代を通して維持され、唐が建国された後でも長い歴史を持ち最高の名門とされる山東貴族は、影響力には乏しいが家格は依然として高かった。

家格が高い家と婚姻関係を結び自らの家格を上げることが広く行われたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に莫大な結納金を積むのが常であった。太宗は皇室と外戚の権威を高めるべく、貴族を格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、山東貴族の家門が第一等、皇室の李氏が第三等だったため、唐の官制に基づき皇室の李氏や親族を第一等・第二等とするよう命じた。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。これは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたことを示している。

貴族は政治への影響力の源泉として、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を握っていた。

高位の官僚には課役の免除、刑罰を金銭で贖えるなどの特権が与えられ、また資蔭と呼ばれる親の官品に応じて子が任官できる制度があった。唐の政治は概ね貴族により運営されていた。

一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。

武則天は関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の反感を買っていた。そこで武則天は科挙を通過する新興富裕層を積極的に引き上げ、権力の安泰を計った。

しかし武則天の時代は新興富裕層を厚遇するあまり、大地主による土地の併呑が横行し、農民が田地を失って小作となる事例や逃亡して奴婢となる事例が蔓延、また同じく唐初以来厳格に行われてきた版籍の調査を甘くして、官位の低い新興富裕階級による土地の併呑や奴婢を囲い込みに便宜を計った為に隠田や脱税が横行、玄宗時代に税制改正が行われる原因となった。

中期以降の唐では、基本的には上位の官職に就けない状態ではあったが、科挙出身者が徐々に官界に進出する。また貴族出身にも科挙を受験する者が増える。

官制

律令制下の官制三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部吏部戸部兵部刑部工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。

六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定され、宰相の会議上は政事堂と呼ばれた。しかし次第に皇帝の代理人である中書令の権力が強くなり実権を振るうことになる。

官制の最高位である宰相には、侍中・中書令・尚書左僕射・尚書右僕射が任じられ、他の官職にあるものに同中書門下三品という仮官を与えて宰相に任じることがあった。同中書門下三品は、後に同中書門下平章事と名称を変え、宰相を意味するようになった。

尚書六部の下には代以来の実務機関である九寺五監があり、庶務を担当した。

また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。

これらの部署に配置される官僚達は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられている。この九品以上までが、「流内官」と呼ばれ、それ以外は「流外官」と呼ばれた。流内官の文武の各品階ごとに実務が伴わない官名が定まっており、文散官・武散官と呼ばれた。また、五品以上は宰相の推薦による勅任官で、六品以下が吏部に任じられた認証官であった。また、中央にいる京官と地方の外官にも分けられた。実務を伴う官名は職事官と呼ばれた。

特権として、九品以上の流内官は本人の公課が免除され、五品以上は同居親族の公課が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた。

官人になるためには、皇帝・皇后の親族であることや蔭の対象とあること、または科挙合格した上で、吏部で行われる銓選という身言書判の試験に合格する必要があった。流外官から銓選だけで官人になることもあった。流内官になることは、入流と呼ばれた。しかし、流内官には清・濁の区別があり、皇帝・皇后の親族や蔭の対象者、科挙合格者は清官であったが、流外官から選ばれたものは濁官にしかなれなかった。

8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するため新たな官制が布かれた。主なものにの監察を行う観察使、戸部の事務処理量が膨大となったため戸部から独立させた国家財政を司る度支使、物資の運送を司る転運使、塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る職権を持つ職もある。このうち翰林学士などの令外官使職と言う。

度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。宝応年間以降は、常に塩鉄使が転運使を兼ね、後唐に至ると度支使・塩鉄使・戸部尚書が一本化されて三司となった。

またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった、翰林学士は宦官と並んで大きな権限を持つことになる。

身分制度

律令において、良賤制度がとられ、人は良人賤人に分けられていた。賤人(賤民)は、独立した戸籍を持たず、官賤人と私賤人に分けられ、それぞれ細かく身分を分けられていた。良人と賤人、もしくは賤人の異種身分同士で刑罰が異なり、身分が上が下に犯した場合は通常より罪が軽くなり、下が上を犯した場合は重くなった。

官賤人は、重罪人とその親族が籍没されたものや戦争捕虜とその子孫が中心であった。私賤人は、没落者とその親族、人身売買された者、強奪された者、官賤人が引き渡された者、親が私賤人だった者が中心だった。良人と賤人の間の結婚は禁じられ、良人と、私賤人の女性との間に生まれた子はその良人が認めなければ、私賤人のままであった。

ただし、私賤人でも、主人が勝手に殺すことは禁じられ、税や兵役の負担は免れることができ、金銭で私賤人の間における身分を上昇することができた。主人が私賤人を良人にすることは許されていた。また、官賤人は、赦免を受けることで、次第に身分が上げられ、良人となることができた。この時代では、賤人を良人として解放するのは大きな善行とされていた。身分についても、生来の出自により、完全に固定されたものとしては認識されているものではなかった。

戸の中では尊卑長幼制がとられており、戸における世代の上下と年齢の上下を勘案した上で、上が下を犯した場合は軽く、下が上を犯した場合は重くなるように、刑罰が定められていた。

地方制度

唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。

道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とすると、その下の県令を長とするである。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。

県の下に、4家を以て、5隣を以てとする隣保制と、100をまとめて1とし、5里を1とする郷里制がある。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という郷役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。

安史の乱後は、多くの藩鎮が地方に置かれた。また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30ごとに置かれ有事に備えた。

宦官

唐代は歴代王朝の中でも後漢ほどではないが、宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は玄宗の絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位に上ったといわれる。高力士自身は全身が玄宗への忠誠心のような人物であったが、あまり表に出ることはなく陰で権勢を振るう傾向が強く、唐末の宦官権力の一典型となった。

安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げ宦官初の宰相となった李輔国代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後、宦官の存在は唐皇室の中で大きな位置を占める。

神策軍は唐の地方軍のひとつだったが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命され宦官の権力の拠り所となった。

宦官の専横に対して皇帝の側にも宦官を排除する動きが出てくる。憲宗の孫の文宗は宦官に不快感を抱いており、それを察した官僚李訓鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致から計画は失敗し李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。

こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、宦官は基本的に皇帝と不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が残した言葉はこのことを如実に示している。また前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性故に宦官という存在がありえた。

権勢を振るった宦官も唐末に朱全忠・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/10/21 18:15

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