このキーワード
友達に教える
URLをコピー

国共内戦とは?

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年9月)
国共内戦

上から時計回りに:四平戦役における共産党軍、国民革命軍(八路軍)のムスリム戦士たち、1930年代の毛沢東、兵士を視察する蒋介石、孟良崮戦役の直前に前線を調査する粟裕
戦争:国共内戦
年月日:

第一次:1927年8月1日 - 1937年1月6日
第二次:1945年10月11日 - 1950年5月1日または1979年1月1日


場所:中国
結果:
交戦勢力
1927–1949年
中華民国  | 1927–1949年
共産党

指導者・指揮官
蒋介石

白崇禧
陳誠
李宗仁
閻錫山
何応欽
王耀武
衛立煌
傅作義
劉峙
孫立人
杜聿明
薛岳
張学良
馮玉祥(1930年まで)

 |  毛沢東

朱徳
彭徳懐
林彪
劉伯承
周恩来
陳毅
鄧小平
聶栄臻
粟裕
陳賡
徐向前
葉飛
賀龍
葉挺


戦力
4,300,000(1946年6月)

3,650,000(1948年6月)
1,490,000(1949年6月)

 | 1,200,000(1945年7月)

2,800,000(1948年6月)
4,000,000(1949年6月)


損害
最大150万(1945–1949年) | 最大25万(1945–1949年)
第二次国共内戦


国共内戦(こっきょうないせん、: 国共内战/國共內戰)は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦(1945年 - )とに大別される。中国共産党は第二次国共内戦を指して解放戦争または第三次国内革命戦争と呼称している。

目次

  • 1 内戦までの経緯
    • 1.1 五・四運動の影響
    • 1.2 第一次国共合作
    • 1.3 蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊
  • 2 第一次国共内戦
    • 2.1 中国共産党の武装蜂起の開始
    • 2.2 掃共戦と中独合作
    • 2.3 西安事件 (1936)
    • 2.4 日中戦争と第二次国共合作
    • 2.5 年表
  • 3 第二次国共内戦
    • 3.1 重慶会談
    • 3.2 上党戦役
    • 3.3 アメリカの関与
    • 3.4 全面侵攻
    • 3.5 共産党軍と残留日本軍
    • 3.6 形勢の逆転
    • 3.7 中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失
    • 3.8 国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)
    • 3.9 台湾海峡危機
  • 4 その後
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 参考文献
  • 7 関連項目

内戦までの経緯

五・四運動の影響

1915年第一次世界大戦中の大日本帝国対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」の五・四運動が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。

第一次国共合作

結成当初の中国国民党と中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした。この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった。

なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

1924年にコミンテルンの仲介で第一次国共合作を行う。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。

1925年孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊

1926年に中山艦事件で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後、国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が1927年南京に国民政府を成立させ、同年4月12日上海クーデターを決行する。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。

黄文雄によると、蒋介石は第一次国共合作の頃は「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、支那事変勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。またスターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していたと言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。

第一次国共内戦

中国共産党の武装蜂起の開始

1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言した。共産党は武力闘争を開始し、同年8月1日南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。この時期の共産党が引き起こした武装闘争は、内戦と呼べるほどの規模の戦闘ではなく、局所的であり散発的であった。

中華民国の国民政府主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

他方、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

掃共戦と中独合作

蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開する。1931年5月、第二次掃共戦。同7月、第三次掃共戦。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしている。9月に満州事変が勃発。日本関東軍満州地域一帯を掌握する。翌年1月より2月にかけて、第一次上海事変が起き、3月1日満州国が建国される。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は抗日より中国共産党の掃討が大事として掃討作戦を優先し、強化した。つまり蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。

詳細は「中独合作」を参照

日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。しかし共産党は遊撃戦を展開、1933年4月には蒋介石は撤退する。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蒋介石は対日戦よりも対共戦を優先させる。

1933年夏、ドイツ軍事顧問団も作戦に参加し、包囲網とトーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日、第五次掃共戦が開始。蒋介石は80万の兵力を投入し、またトーチカは3000個も築造された。

1934年1月22日、共産党は会議において、毛沢東の指導者辞任と張聞天の就任を決定。毛沢東の遊撃戦に代わって、ドイツ出身のソ連軍人で、コミンテルンからの指示で三年にわたって共産党を指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍も攻撃拠点にトーチカを設け、敵をトーチカから誘い出し、突撃する作戦で、短促突撃と名付けられた。

1934年1月には、中国内のドイツ軍事産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立され、同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任し、ドイツ製武器を装備した二十個師団の形成、教導総隊、中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立していく。また同年4月、広昌の共産党トーチカは、蒋介石によって攻略され、共産党軍は4000人の戦死者を出す。

1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。

同年10月14日、共産党軍は、瑞金から脱出するが、蒋介石に追撃され、共産党は65000の兵士を失い、35000兵までに減少した。第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた(共産党の言い方では長征)。

長征

西安事件 (1936)

詳細は「西安事件」を参照

蒋介石は延安への攻撃を図るが、1936年12月12日、反共より抗日を優先しようとした張学良による西安事件が起こり、国共対立は一時収拾する。共産党の翻意で張学良は蒋介石に恭順して、蒋介石と張学良が伴だって南京に戻った事で西安事件は一旦は収まった。しかし張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蒋介石も無視できなくなった。それゆえ、翌年1937年2月に開かれた中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議では、赤化根絶決議(共産主義絶滅)と、日本との短期間での解決を同時に目指すという折衷的な内容となった。

西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。

日中戦争と第二次国共合作

1937年日中戦争が勃発する。1937年7月7日北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)。

日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結(8月21日、同29日発表)と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試み、第二次国共合作に入った(1937年-1945年)。滞っていた共産党との交渉は、中ソ不可侵条約の締結翌日に共産党軍の国民政府軍への編入となり、日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蒋介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言され、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。また近年、第二次国共合作の成立は疑わしいとする説もある(国共合作を参照)。

国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。アメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。

1943年、蒋介石が「中国の命運」という文章を発表すると、毛沢東は「反共産主義、反自由主義」だとして批判した。戦争終結直前の1945年5月には、蒋介石国民党は第六回全国大会で孫文の提唱していた革命三段階論のうち,軍政、訓政の次の段階である憲政に入ると宣言した。これに対抗して共産党側は第七回党代表大会で「連合政府論」構想を打ち出し、国民党政権を糾弾した。

日本軍の占領地域と八路軍の活動地域

年表

1926年(昭和元年)

1930年(昭和5年)

1931年(昭和6年)

1932年(昭和7年)

1933年(昭和8年)

1934年(昭和9年)

1935年(昭和10年)

1936年(昭和11年)

1937年(昭和12年)

中国軍による上海フランス租界避難民への爆撃。
出典:wikipedia
2018/09/15 05:01

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「国共内戦」の意味を投稿しよう
「国共内戦」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

国共内戦スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「国共内戦」のスレッドを作成する
国共内戦の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail