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国家社会主義ドイツ労働者党とは?

ドイツ国政党
国家社会主義ドイツ労働者党
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei

指導者
アントン・ドレクスラー(議長)(1920-1921)
アドルフ・ヒトラー(議長、指導者)(1921-1945)
マルティン・ボルマン(党担当大臣)(1945)
【成立年月日】
1920年2月24日
【前身政党】
ドイツ労働者党
【解散年月日】
1945年10月10日
【解散理由】
連合国管理理事会指令第2号による禁止
【本部所在地】
バイエルン州ミュンヘン褐色館
【党員・党友数】
3,900,000人(1933年)
8,500,000人(1945年)

【政治的思想・立場】
ナチズム
極右/急進右翼
民族共同体
汎ゲルマン主義
反ユダヤ主義
反資本主義
反共主義/反ボルシェヴィズム
ヴァイマル共和政
ヴェルサイユ条約

【機関紙】
フェルキッシャー・ベオバハター
【シンボル】

【党旗】

ハーケンクロイツ

党歌「旗を高く掲げよ

 | この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。詳細は#訳語を参照。
  • 国家社会主義ドイツ労働者党
  • 国民社会主義ドイツ労働者党
  • 民族社会主義ドイツ労働者党

国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、ドイツ語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 発音、略称: NSDAP)は、かつて存在したドイツ政党国家社会主義を掲げる極右政党である。一般にナチスナチ党などと呼ばれる(詳細は#名称を参照)。また日本では国民社会主義ドイツ労働者党、民族社会主義社会主義ドイツ労働者党、国粋社会主義社会主義ドイツ労働者党などとも訳されている(詳細は訳語参照)

1919年1月に前身のドイツ労働者党(DAP)が設立され、1920年に改称した。1921年に第一議長に就任したアドルフ・ヒトラーは、党内でフューラー(独:Führer、指導者、総統)と呼ばれるようになり、指導者原理に基づくカリスマ的支配を確立していった。結党以来長らく野党であったが、1929年世界恐慌以降国民の社会不安を背景に支持を拡大させていき、1932年7月の国会選挙国会の第一党を占有するに至った。1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されたことで政権与党となり(ナチ党の権力掌握ナチス・ドイツ成立)、一党独裁体制を敷いたが、1945年第二次世界大戦の敗戦(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#ドイツの降伏)で事実上消滅し、被占領中に連合国によって禁止(非合法化)された(連合軍軍政期 (ドイツ):非ナチ化)。

名称

正式名称

前身の党は「ドイツ労働者党」(ドイツ語: Deutsche Arbeiterpartei)であったが、1920年党の実力者となったヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングオーストリアの「ドイツ国家社会主義労働者党」(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。討議の結果、「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (ナツィオナールゾツィアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)」の党名が採用された。2月22日付のビラアントン・ドレクスラーがこの党名を使用し、2月末に正式に党名変更されたが、党書記が使用し始めたのは4月18日になってからであった。

略称

略称の「ナチ(Naziナーツィ)」は 「Nationalsozialist」の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、「ナチス( Nazisナーツィス)」は複数形である。元来はヴァイマル共和政時代に対立する党派がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称であり、主たる対立党派であるドイツ社会民主党員および社会主義者も、同様に党名の「Sozialist」を短縮して「ゾチ(Soziゾーツィ)」と蔑称されていた。したがって、映画などの創作で、ナチ党員が自らを「ナチ」や「ナチス」と呼ぶのは本来は誤りであり、実際には党名の略称である「NSDAP(エンエスデーアーペー)」、「NS(エンエス)」、或いは単に「Partei(パータイ)」と呼び、党員同士は「党同志」を意味する「Parteigenosse(パータイゲノッセ)」、もしくはその略語「PG(ペーゲー)」、「同志」を意味する「Kamerad(カメラート)」などと呼び合った。

しかし、ナチスという呼称はドイツ国外でも戦前から広まっており、党の通称として反対・賛成する勢力を問わず広く用いられた。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている。現在は他の非ドイツ語圏でもナチス・ドイツなどの呼称が広く使用されており、ドイツ語にも同様の「Nazi-Deutschland」などの用語もあるが、分断時代の西ドイツにおいても「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった。また上述のNSを接頭語にして、例えば「NS-Deutschland(エンエス・ドイチュラント)」のように造語される。

訳語

ナチズム#呼称」および「国家社会主義」も参照

邦訳は、「Nationalsozialismus」の「National」の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働者党」のほか、「国民社会主義 」、「国粋社会主義」なども使用される。日本の高校歴史教科書では「国民- 」とするのが主流となっている。同様に、同党が掲げた主義思想も、「国家社会主義」のほかに「国民- 」、「民族- 」などの訳語も使用されている。

略称の日本語訳は、「ナチス」の他、戦前・戦中は「国粋社会党」「国民社会党」なども使用された。

ナチス・ドイツ時代のメディアなどを研究する佐藤卓己は、は「国民社会主義」と訳すべきと主張する。佐藤は、「National」を「国家-」とするのは誤訳であり、現代ドイツ史の専門家でこのように訳す者はいないと主張する。佐藤はさらに、「国家- 」と誤訳され続ける背景には「国家の責任のみ追求して国民の責任を問おうとしない心性」があると主張する。ドイツ近現代史専門の石田勇治も、「National」は「国家(Staat)ではなく、国民あるいは民族という意味で用いられている」と指摘している。石田は、「ナチズムは国家ではなく、国民・民族を優先する思想」であり、党名を「国家- 」と訳すとそのナチズムの本質を見誤ってしまうため、日本語訳は「国民- 」とすべきと主張する。経済学者の瀬戸丘紘は、「ファシズムにとって『階級』ならぬ『民族』を意識させ『民族』意識をテコとすることは決定的に重要だった」との理由から、「国家- 」ではなく「民族- 」の訳語を用いている。 マルクス経済学研究者の岩田弘も、ナチスの民族主義優生思想に即している「民族社会主義」の訳語が適切と主張している。また「Arbeiterpartei」の部分について「労働者党」ではなく「労働党」と訳す例もある。

なお中国語では「民族社會主義德意志工人黨」や「國家社會主義德意志工人黨」や「國家社會主義德國工人黨」など。略称は「納粹黨」。最初「Nazi」は上海語の発音に基づいて「南尖」([nø tɕi])と訳していたが、後に当時駐在ドイツ武官を務めていた国民革命軍少将の酆悌が「納粹」と訳した。「納粹」([nɑ̂ tsʰwêɪ])は「Nazi」([ˈnaːtsi])という音を表すとともに、「精粋を納める」という意味を表す。肯定的な意味を持つ「納粹」という単語は「Nazi」を訳すときに使われていたが、現在では「納粹」が固有名詞として使われるようになり、肯定的な意味を持っていない。

思想

詳細は「ナチズム」を参照
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この節の加筆が望まれています。

党内ではヒトラーの指導を絶対のものとして受け入れるという点においては、あまり異論はなかったが、ナチ運動の内実は地域ごとの党組織や党職能組織、突撃隊、党有力者がその時々の状況に応じて勝手に活動していることが多く、統一された運動とは言い難い。農民に対する物を除けばまとまった政策綱領のようなものは存在しなかった。しかしそれが党の各組織を競合的に発展させ、運動にダイナミズムを与えていた。

世界恐慌による社会不安や議会政治の混迷の原因をすべてヴェルサイユ条約ヴァイマル共和政ユダヤ人ボルシェヴィズムに帰せ、強力な指導者が導く「民族共同体」を樹立することが必要であるとする単純なスローガンや運動が持つ若々しさは恐慌に喘ぐ国民に現状突破のシンボルとして広く訴えかけるものがあった。ナチ党はヴァイマル憲法体制を一括して全否定することによって自らを既存体制側政党と対決する基本的選択肢であることを示した。競合する他党を影響力を持つ社会的利害団体の傀儡に過ぎないと中傷して自らを唯一の国民運動と宣伝した。

反ユダヤ主義・反共主義

ヒトラーにとって反ユダヤ主義反共主義は一体である。ヒトラーはマルクス主義について「国際的な世界ユダヤ人が自由独立の国民国家の経済的基礎や国民的工業と国民的商業を破壊し、それとともに国家を超えた世界金融=ユダヤ主義のために自由な諸民族を奴隷化するのに利用する経済的武器」と断じている。

ナチ党内の多数派によって唱えられた党の目標として「労働者階級の国民化」という要求があった。これはナチ党は労働者大衆をマルクス主義的国際主義から解放して「ドイツ的社会主義」へ導く労働者党であるべきという主張であった。ヒトラーははっきりとこの立場を代表しており、「(労働者を)国民的に感じ、国民的であることを望む団結した価値ある要因として民族共同体に連れ戻すこと」がナチ党の活動の最も重要な目標の一つとしている。

民族共同体

ヒトラーは「ユダヤ人とマルクス主義者の国際連帯によるドイツ民族の分断(階級闘争)」に対抗するため民族共同体構想を提唱した。「公益を私益に優先させる」民族共同体によって国内を平等化あるいは協調的な形にまとめあげ、国民の諸階層が調和した社会を作る。それにより国内の階級闘争は止揚され、階級を超えた「国民」が創造される。そうすれば「国民」は国内の利害対立から解放されて一丸となって国民全体の利害追求(対外的な膨張)に向かうことができるという理念である。

ヒトラーは「都市の人間でも、田舎の人間でもなく、肉体労働者でも、ホワイトカラーでも、熟練工でも、農民でも、学生でも、ブルジョワでもなく、あるいは特定のイデオロギーの追従者でもなく、我々はみな民族の一員である」「今まで常に我々を分け隔ててきた職業や階級といった全ての理念を超えて単一に結合された国民が存在しないなら、そしてそれが存在するまでは民族共同体はあり得ない」「国民社会主義は、社会生活上好ましくない対立に橋を架け、平等化し、協調的な形に全体をまとめることを目標としている」と論じる。

民族共同体を実現させるため、ワイマールの「民主主義原理」は「指導者原理」に置き換え、自由主義的な夜警国家は打破し、国家は国民経済に積極的な責任を果たさなければならないというのがナチ党の基本的な国家像であった。

農村政策

もともとナチ党は都市的な傾向を持っていたが、農村部の困窮が深まる1928年初夏以降からは農村での党活動を重視するようになった。農村におけるナチ党は「農民の窮状は社民党政権と結託した暴利を貪るユダヤ資本のせいである」というステレオタイプな反ユダヤ主義宣伝に終始した。困窮深まる農村部では既存体制と根本から対決する政党が求められていたため、ナチ党は農村部に浸透することに成功したが、農村部ではナチ党の「社会主義」を警戒する向きも強かったので、農民向け宣伝をしやすくするため、1928年にヒトラーは彼の慣習に反して党綱領の正式な解釈を制定した。それにより綱領17条「公益目的のための土地の無償収用」の対象はもっぱら「ユダヤ人の投機による利得」に限定されるものであって私有財産制は維持されるとしている。

青年崇拝

社民党やブルジョワ諸政党と比較して若者が多い党だったため、同時代に普及していた青年運動を積極的に動員した。それにより1920年代後半から強まった世代間対立で党は大きな利益を得ることに成功した。ナチ党はその反動的なイデオロギーにも関わらず、新たな技術的手段を積極的に受け入れる姿勢、ブルジョワ的旧秩序の拒否の姿勢から青年層を大いに惹きつけた。

党史

黎明期

第一次世界大戦中の1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」という労働者グループがブレーメンで結成された。国有鉄道ミュンヘン本工場に勤務する鉄道金具工のアントン・ドレクスラーはその地方組織を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。この団体はマルクス主義、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ人、フリーメーソン、戦時不当利得者、ヤミ商人と闘争することを目的としていた。

この委員会に参加したのはドレクスラーの同僚であるミュンヘン鉄道工場の熟練工たちが中心だったが、委員会の好戦的ナショナリズムは、厭戦気分が高まっていた大戦末の人民の感情とかみ合っておらず、支持者は一向に増えず、会員40人を超えることができないでいた。

そこでドレクスラーは10月2日にトゥーレ協会会員でジャーナリストのカール・ハラーとともに「政治的労働者サークル」を結成し、トゥーレ協会の後援を受けてドイツ労働者党の結成準備を行った。トゥーレ協会は右翼民族主義団体「ゲルマン騎士団」のバイエルン地方支部を基礎として1918年1月に結成された反ユダヤ主義的な右翼団体であり、当時バイエルンにおいて220人ほどの会員をもち、バイエルンにおける様々な右翼団体・反ユダヤ主義団体に影響力を持っていた。

ドイツ労働者党

1919年1月5日、ドレクスラーの同僚の鉄道員25人が集まったミュンヘンの酒場「フュルステンフェルダー・ホーフ(Fürstenfelder Hof)」での集会においてドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)の結党が行われた。党首にあたる第一議長にはハラーが就任した。結党時の党員は40人ほどであり、社会主義反ユダヤ主義の色彩を帯びたナショナリズムを標榜した。

この際にドレクスラーもトゥーレ協会へ加入し、ディートリヒ・エッカートゴットフリート・フェーダーといったトゥーレ協会員たちがドイツ労働者党に協力し、ドレクスラーの活動にも影響を与えるようになった。「政治的労働者サークル」はもっぱらトゥーレ協会の指揮下にあったが、ドイツ労働者党は本質的にドレクスラーが作った党であり、彼の起草による方針を定めた。その方針には次のようなものがあった。「党は精神的および肉体的な意味での創造的な民族同胞をすべて糾合した社会主義的組織であって、ただドイツ人指導者によってのみ指導される。」「党はドイツ労働者の高尚化を欲する。熟練の定住労働者は中産階級としての評価を受ける権利を持つ。労働者とプロレタリアとの間には厳重な区別が設けられなければならない」「大資本はパン及び労働者の供給者であるから保護しなければならない。彼らが労働者を無遠慮に搾取して、労働者の人間らしい存在を不可能にしない限りは」「党はドイツ経済生活の社会化はドイツ国民経済を破滅させると考える。ゆえに社会化なしで労働者に対する利益の分配が必要である」「党は全力を挙げて不当利得者、物価つり上げに反対する。何らの価値も創造しない者、いかなる精神的・肉体的労働も行わない者が高い利得を得ることには反対する」「党の主要目標の一つは手工業の奨励である。最も有能な手工業者はもっと多くの利得を得るべきであり、熟練労働者は中産階級と同等の国家公民であるべきである。大資本主義者の犠牲となっている中産階級の増大と安定が必要である」

バイエルンに社会主義政権が君臨している間は反ユダヤ主義に反対する空気がこの地方に強かったので、ドイツ労働党も公然たるユダヤ人攻撃は控えていたが、政府軍のミュンヘン進攻を受けてレーテ共和国が崩壊した後には反ユダヤ主義言論を強めるようになった。

ヒトラーの入党

ヒトラーのドイツ労働者党党員証とされるもの。7番目の党員と記載されているが、後年に偽造されたものであると考えられている。

レーテ共和国崩壊後のアドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンを占領したアルノルト・フォン・メール歩兵大将を司令官とする政府軍(ドイツ国軍第4軍集団を名乗っていた)が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であるカール・マイヤー大尉にスパイを命じられたためであった。同党が1919年9月12日にミュンヘン中心部タール街54番地にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイ」で開いた集会に参加したヒトラーは、ドイツ統一主義者として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマン教授と激論した。これをきっかけにドレクスラーから注目され、彼のパンフレット『我が政治的目覚め あるドイツの社会主義的労働者の日記より (Mein politisches Erwachen aus dem Tagebuch eines deutschen sozialistischen Arbeiters)』を贈られるとともに再来を懇願された。

その後ヒトラーの下に「入党許可状」付きのはがきが送られてきて、9月16日にヘーレン通り(Herrnstraße)にある「アルテス・ローゼンバート(Altes Rosenbad)」で開催される党委員会に出席してほしいと要請があった。『我が闘争』の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会に出席した後にヒトラーはこの党のために活動することを決心したという。マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党した。

ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、入会証や名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない。

ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任

ヒトラーは自身が党を指導するようになってから党員や聴衆が急増したことを印象付けようとして初期の党を実際以上に小政党に描こうとする傾向があり、『我が闘争』の中では1919年10月16日の「ホフブロイハウス」での集会の聴衆を111人、11月13日の「エーベルブロイケラー」での集会を130人、12月20日の「ドイチェス・ビアホール」での集会を140人だったとしているが、ミュンヘン警察情報部や軍情報部の記録によればどの集会も300人程度の聴衆があったようである。党はトゥーレ協会の後援もあって、300人程度の聴衆をコンスタントに集める組織力は結党時から持っていたとみられる。とはいえヒトラーが党の存在を一般民衆に広めようと精力的に活動し、彼の巧みな演説が人気を博して党勢の拡大につながったことは事実である。ヒトラーは演説のうまさに加え、党最初の有給幹部でヒトラーの軍隊仲間だったルドルフ・シュスラー(Rudolf Schüßler)らの支持を受けていたため、ヒトラーの党内における地位は無視できないものとなった。

10月16日の「ホフブロイハウス」での集会から党は入場料の徴収と会場内での寄付金募集を行うようになった。入場料徴収と寄付金募集というのは右翼運動としては新しい形態だったが、これにより党財政は安定した。

初期の党委員会の会議はヘーレン通りの酒場「アルテス・ローゼンバート」の一室で行われることが多かった。党に送られてきた市民や党員からの手紙を読んだり、返信を書いたり、集会の打ち合わせをしたり、政治問題の議論をしていた。しかしヒトラーはこうした委員会の在り方を「おしゃべりクラブ」と呼んで、その不活発さにいら立っていた。

12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出し、党委員会は公開の党員集会で選出されること、また党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会から完全独立した委員会になることを要求した。トゥーレ協会員で党を特殊意識を育てる秘密政治サークルに留めようとしていたハラー議長はこれに怒ってヒトラーと対立したが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになった。

ミュンヘン・タール街54番地「シュテルンエッカー・ブロイ」の党本部事務所

12月22日にはこれまでも党集会場の一つとして使ってきた酒場「シュテルンエッカーブロイ」内の一室を賃貸して小さな党本部事務所を設けた。この賃貸契約書に党を代表して署名しているのはヒトラーである。

1920年1月5日にドレクスラーとヒトラーは議長であったハラーを解任し、ドレクスラーが新議長に就任した。ハラーはトゥーレ協会員として党を後援する立場にあったため、彼の追放により党とトゥーレ協会の直接の関係は切れることとなった。ドレクスラー新党首の下でヒトラーは第一宣伝部長に就任した。

改名

1920年1月5日以来ドレクスラーによって「国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」への党名変更が提案されていた。「ドイツ労働者党」では、マルクス主義的国際主義政党と間違われるというのがその理由だった。「国家社会主義」というのは、ドレクスラーが影響を受けていたオーストリアドイツ国家社会主義労働者党に倣ったものである。この党名変更は2月20日に行われた。ヒトラーは当初「社会革命党」を提案したが、ルドルフ・ユングに説得され、ドレクスラーの案を承諾した。

1920年1月1日時点において党員は190人ほどで平均年齢は32歳だった。そのうち熟練労働者と手工業者は33%、知的な自由職業者は14.5%、公務員と使用人は14%、軍人は13%、商業は12%、学生は7%、店舗・工場など事業所所有者は4%、不熟練労働者は2.5%となっている。比較的多数を占める熟練労働者と手工業者はドレクスラーとともにミュンヘン鉄道工場で働く者たちで、そのため初期の党には「鉄道労働者党」の感があった。知的な自由職業者の内訳は文筆家・ジャーナリスト・編集者などが7人、技師が6人、芸術家が6人、医師が3人である。190人の党員のうち182人までがミュンヘン在住者であった。

この時期のナチ党はまた存在を広く知られていたわけではなく、党財政は各界の有力者の寄付によるよりも、大衆による献金と彼らの犠牲的献身によって支えられていた。したがって「支配勢力がナチ党を培養し育成した」等の主張は正確とは言えないが、当時のバイエルン支配勢力は再度のレーテ共和国樹立を阻止するためにバイエルン内のあらゆる反共・保守系団体に援助しており、ナチ党もその範囲内で援助を受けることはできた。

2月4日に反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などを訴える25カ条綱領が起草された。この綱領はドレクスラーが主として作り、フェーダーとヒトラーが協力して完成させたものだと言われている。綱領は2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた集会(参加者2000名)で正式採択された。

詳細は「25カ条綱領」を参照

またこの集会での会場警備隊が党の一機関であることも正式に決定され、これがのちに突撃隊へと発展する。

また1920年中にハーケンクロイツを党のシンボルに採用し、党旗、党章、腕章などを取り入れた。ハーケンクロイツ(スワスチカ)は元々は普遍的な幸運のシンボルであったが、同時にアーリア人の優等性を示す人種主義の象徴としても用いられており、ドイツ攻守同盟エアハルト海兵旅団などが使用していた。ハーケンクロイツには向きが左回りと右回りの二種類があったが、ヒトラーは右回りで統一している。

12月17日にはエッカートの尽力でトゥーレ協会の機関誌だった『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。

ヒトラーとドレクスラーの対立

1920年8月7日から8日にオーストリアザルツブルクズデーテンオーストリアドイツ国家社会主義労働者党の共同大会があり、この際にヒトラーとドレクスラーの間で国家社会主義労働者党の統一問題の論争が起きた。ドレクスラーはこれらの党と統一することに賛成、対してヒトラーはそれに反対の立場だった。

当時のオーストリアのドイツ国家社会主義労働者党は革命によってではなく議会によって変革することを目指しており、議会政治に参加していた。ドレクスラーが目指すのも議会政党であったが、当時のヒトラーは革命主義者で議会政治への参加に反対していた。

さらに1921年3月26日から28日にかけてのツァイクの大会においてドレクスラーとドイツ社会党アルフレート・ブルンナーが党を合同させようとした時にもヒトラーが反対した。ヒトラーは自分たちと他の国家社会主義政党では原則的にも戦術的にも相いれないため、統一によって規模が拡大したとしても内部的団結や闘争能力は弱まると考えていた。

いずれの合流計画もヒトラーの反対で流産したため、ドレクスラー派はヒトラーと対立を深めた。

ヒトラーの党首就任

ヒトラーは、1921年3月31日に軍を退役し、以降党務に専念するようになっていた。

1921年6月初めから7月にかけてヒトラーはエッカートとともに『フェルキッシャー・ベオバハター』の資金集めのためにベルリンへ赴いたが、その間にドレクスラーと反ヒトラー派の党幹部たちが、ヒトラーが反対していたユリウス・シュトライヒャー率いるドイツ社会党との連携を模索した。この動きを知ったヒトラーは、7月10日にミュンヘンへ取って返し、11日にも党委員会に宛てて離党の手紙を書いた。これは党指導部には想定外のことで、ヒトラーを失うか、自分たちが退陣するかの選択を迫られた。さらにヒトラーは7月14日に自分が再入党する条件として、党委員会の即時辞職および独裁権限を持った議長の地位を要求した。一番聴衆を集められる稼ぎ頭の弁士だったヒトラーには自分抜きでは党は立ち行かないという自負があった。7月15日に党委員会はヒトラーの要求を受け入れ、7月29日にホフブロイハウスで開かれた臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出された。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされた。

このころからヒトラーはエッカートやヘスといった自派の党員から指導者を意味する「Führer(フューラー)」と呼ばれるようになり、党内に定着した。やがてこれはヒトラー終生の肩書きとなった(総統を参照)。

ヒトラーは同年8月に従来のナチ党の会場警備隊を「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」に改組し、エルンスト・レーム大尉の推薦で反革命義勇軍エアハルト海兵旅団ハンス・ウルリヒ・クリンチュ元海軍少尉をその指揮官に任じた。同組織は9月に「突撃隊(Sturmabteilung, SA)」に改称された。突撃隊は共産主義者による党集会妨害を排除するとともに、他党の同種団体との街頭闘争において主力となる準軍事組織だった。突撃隊の幹部は禁止されたエアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。

またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2021/03/06 01:08

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