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坂本龍馬とは?

【通称:】
直柔、龍馬、才谷梅太郎
【生年:】
1836年1月3日
【生地:】
土佐藩 (高知)
【没年:】
(1867-12-10) 1867年12月10日(31歳没)
【没地:】
京都
【活動:】
尊皇攘夷公議政体
【藩:】
土佐藩(高知県)
【所属:】
海援隊
【受賞:】
正四位
【廟:】
京都霊山護国神社(霊山墓地)
靖国神社

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日新暦1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日新暦1867年12月10日〉)は、江戸時代末期志士土佐藩郷士

直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。

土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件中岡慎太郎山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位追贈される。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 幼少年期
    • 1.2 江戸遊学
    • 1.3 土佐勤王党
    • 1.4 脱藩
    • 1.5 勝海舟と神戸海軍操練所
    • 1.6 亀山社中(のちの海援隊)
    • 1.7 薩長同盟
    • 1.8 海援隊
    • 1.9 船中八策と大政奉還
    • 1.10 暗殺(殺害)
  • 2 年譜
  • 3 評価
    • 3.1 同時代
    • 3.2 死後
    • 3.3 異説
  • 4 人物
    • 4.1 女性関係
    • 4.2 手紙と変名
    • 4.3 愛用の品
    • 4.4 身体的特徴
    • 4.5 その他のエピソード
  • 5 家系・家族
    • 5.1 略系図
    • 5.2 坂本龍馬・福岡孝弟・板垣退助姻戚系図
  • 6 名前を冠した施設
  • 7 その他
    • 7.1 龍馬の絆都市間交流
  • 8 関連作品
  • 9 歴史教育
    • 9.1 坂本龍馬が掲載された教科書
  • 10 注釈
  • 11 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連文献
    • 13.1 原典
    • 13.2 書籍
    • 13.3 論文
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

生涯

幼少年期

高知市の生誕地・地図

龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て(または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも)、それにちなんで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。

弘化3年(1846年)、10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。 幼年の龍馬は12 - 13歳ごろまであたかも愚人のように夜溺れの癖(寝小便癖)があったとされるが、愚童であったとの記録はない。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが、これも諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていない。以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

龍馬の人格形成において多大な影響を与えたのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。

嘉永元年(1848年)に日根野弁治道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」を得た。

江戸遊学

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月ごろに江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており、嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。

黒船来航

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。 そこでは砲術漢学蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎長岡謙吉らを紹介されている。 また、この時期に徳弘孝蔵のもとで砲術とオランダ語を学んでいる。

安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している。

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」である。ただ、千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」などさまざまな同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠も残っている。 同年9月に土佐へ帰国した。

土佐勤王党

土佐藩では、幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信(容堂)が吉田東洋参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭薩摩藩主・島津斉彬宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

安政7年(1860年)3月3日井伊直弼江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。

同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前美作備中備後安芸長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。

同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。 これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(おもに老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

脱藩

挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国中国九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かったあとに、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。 萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫児島惟謙がいた。

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀すべて取り上げてしまった。このとき、龍馬ともっとも親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。

脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない。

一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月ごろに大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。

勝海舟と神戸海軍操練所

勝海舟

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。 この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。 だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。 いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助新宮馬之助望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこのころのことである。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした。 5月17日付の姉・乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 と近況を知らせている。

神戸海軍操練所跡碑・地図

龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎弘瀬健太切腹させられた。平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」と述べている。

8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派がふたたび実権を握った。8月に天誅組大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるためにふたたび藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。

この写真は近年、楢崎龍(お龍)として紹介されているが間違い。

5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。 6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている。

この時点では龍馬と海舟は知らなかったが、6月5日池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。

八月十八日の政変と池田屋事件のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少しあとの8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている。 8月中旬ごろに龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。

望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月18日に神戸海軍操練所は廃止になった。

亀山社中(のちの海援隊)

亀山社中跡(現亀山社中記念館、長崎市地図)

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月ごろに龍馬らに出資した(「亀山社中」)。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。

長州藩では前年の元治2年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵し、恭順派政権を倒してふたたび尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

中岡慎太郎

幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩の志士・渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。 西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。 これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。

薩長同盟

詳細は「薩長同盟」および「寺田屋事件#坂本龍馬襲撃事件」を参照
京都伏見寺田屋・地図
坂本龍馬。慶応2年または3年に上野撮影局で撮影された。

慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。 龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。 龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。

龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる。。

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。 明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している。

龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。 西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山日当山温泉塩浸温泉鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した 。 龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の

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出典:wikipedia
2019/10/22 17:52

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