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埼玉西武ライオンズとは?

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埼玉西武ライオンズ
会社名 株式会社西武ライオンズ
創設年度 1950年
ロゴデザイン

イニシャルマーク
所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

西鉄クリッパース(1950年)
(西日本パイレーツを吸収合併(1951年・開幕直前))
西鉄ライオンズ(1951年 - 1972年)
太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)
クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)
西武ライオンズ(1979年 - 2007年)
埼玉西武ライオンズ(2008年 - 現在)


本拠地
メットライフドーム(埼玉県所沢市)
2007年当時の写真

収容人員 33,556人(メットライフドーム)
フランチャイズの遍歴

福岡県(1952年 - 1978年)
埼玉県(1979年 - 現在)


永久欠番

24:稲尾和久



獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)

2008


日本一(13回)

リーグ優勝(22回)


成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

2008


日本シリーズ出場(21回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(7回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝5敗


プレーオフ(2004-2006)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝2敗


プレーオフ(前後期制)(1回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1勝0敗
1982




球団組織
オーナー 後藤高志
(西武ホールディングス代表取締役社長)
運営母体 西武鉄道
(西武ホールディングス傘下)
監督 辻発彦

株式会社西武ライオンズ
SEIBU LIONS
種類
株式会社
【略称】
埼玉西武ライオンズ、西武、埼玉西武、ライオンズ
【本社所在地】
日本
359-1153
埼玉県所沢市上山口2135番地
【本店所在地】
171-0022
東京都豊島区南池袋一丁目16-15
【設立】
1950年1月28日
(西鉄野球株式会社)
業種
サービス業
法人番号
6013301006279
【事業内容】
プロ野球球団運営ほか
【代表者】
後藤高志(オーナー)
居郷肇(代表取締役社長)
【資本金】
1億円(2013年3月31日現在)
【売上高】
100億円(2010年3月期)
【純利益】
4億8045万4千円(2018年3月期)
【純資産】
24億6775万9千円
(2018年3月31日現在)
【総資産】
56億3327万5千円
(2018年3月31日現在)
【従業員数】
74人(2010年3月31日時点)
【決算期】
3月末日
【主要株主】
西武鉄道 100%
【関係する人物】
西亦次郎中村長芳堤義明坂井保之根本陸夫
【外部リンク】
http://www.seibulions.jp/
特記事項:1978年10月25日福岡野球株式会社から現商号に変更。西武ホールディングス連結子会社である。

埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama Seibu Lions)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。

埼玉県フランチャイズとし、同県所沢市にあるメットライフドーム本拠地、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場準本拠地としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地はドームと同じ敷地内にある西武第二球場である。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 福岡時代
      • 1.1.1 パ・リーグ加入以前
      • 1.1.2 西鉄クリッパース時代
      • 1.1.3 西鉄ライオンズ時代
      • 1.1.4 太平洋時代
      • 1.1.5 クラウン時代
    • 1.2 埼玉時代
      • 1.2.1 根本監督時代
      • 1.2.2 広岡監督時代
      • 1.2.3 森監督時代
      • 1.2.4 東尾監督時代
      • 1.2.5 第1次伊原監督時代
      • 1.2.6 伊東監督時代
      • 1.2.7 渡辺監督時代
      • 1.2.8 第2次伊原監督時代
      • 1.2.9 田辺監督時代
      • 1.2.10 辻監督時代
  • 2 在籍選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
  • 4 チームの特徴
  • 5 球団旗の変遷
    • 5.1 球団旗(一軍)
    • 5.2 球団旗(二軍)
  • 6 ユニフォームの変遷
    • 6.1 ユニフォーム(一軍)
      • 6.1.1 西鉄時代
      • 6.1.2 太平洋時代
      • 6.1.3 クラウン時代
      • 6.1.4 西武時代
    • 6.2 ユニフォーム(二軍)
    • 6.3 期間限定ユニフォーム
  • 7 ユニフォームのスポンサー
  • 8 応援スタイル
  • 9 永久欠番
    • 9.1 過去の準永久欠番
  • 10 歴代本拠地
  • 11 歴代監督
  • 12 主な歴代の球団歌・応援歌
  • 13 主なキャンプ地
    • 13.1 過去
  • 14 1982年以降のチームスローガン
  • 15 マスコット
  • 16 お台場ドーム構想
  • 17 福岡時代の歴史の取り扱い
  • 18 不祥事
    • 18.1 黒い霧事件
    • 18.2 2007年裏金問題
  • 19 グッズショップ
  • 20 ファンサービス
    • 20.1 ファンクラブ
  • 21 アニメとのコラボレーション
    • 21.1 主なコラボ作品
  • 22 放送
    • 22.1 現在放送しているライオンズの冠番組
    • 22.2 かつて放送されていた番組
      • 22.2.1 福岡時代の番組
  • 23 関連書籍
  • 24 脚注
    • 24.1 注釈
    • 24.2 出典
  • 25 関連項目
  • 26 外部リンク

球団の歴史

福岡時代

パ・リーグ加入以前

西日本鉄道(西鉄)は、1943年にそれまでの大洋軍を譲り受け、西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散している。

戦後すぐの1946年6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に日本野球連盟から復帰申請を却下されている。

ところが、1949年暮れにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り、福岡県福岡市西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers )を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。

西鉄クリッパース時代

1950年

1月下旬に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。

選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守深見安博河野昭修塚本悦郎ら、八幡製鐵鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツ川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。

シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。

同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされることもあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。

西鉄ライオンズ時代

1951年

1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる。

1952年

シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スターで大下弘深見安博緒方俊明とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。

1953年

Bクラスの4位に終わるも、中西太がホームラン王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。

パシフィック・リーグ初優勝の様子(1954年)
1954年

西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月中旬から9月にかけて27勝1敗とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日に対阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。

1955年

前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。

1956年

4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。

1957年

この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も7勝15敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。

1958年

南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走、オールスター前には2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、西鉄の稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。

稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。

1959年

中西太、大下弘、関口清治らの故障もあり、投手陣も稲尾和久以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原脩が監督を辞任、三原は大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎徳次が就任。

1960年

この年も中西太が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾和久の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。

1961年

稲尾和久が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが、チームは2年連続3位に終わり、川崎徳次が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西太、選手兼任助監督の豊田泰光、選手兼任投手コーチの稲尾和久による「青年内閣」が誕生する。

1962年

前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。

1963年

序盤から独走状態だった南海に6月には最大14ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れる。

1964年

序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫ノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。

1965年

8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ、3位となる。

1966年

5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初の完全試合を達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。

1967年

開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。これが西鉄最後のAクラス入りとなった。

1968年

開幕から4連敗。6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。池永正明が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。

1969年

5月に9連敗で中西太が一時監督休養。9月には4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。10月、永易将之八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾和久が現役引退し監督に就任。

1970年

開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永正明が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は「黒い霧事件 (日本プロ野球)」参照)。投手では東尾修三輪悟、打者では東田正義竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用。東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となる。

1971年

巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾修と河原明が共に16敗でリーグ最多敗になるなど、一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランをたてつづけに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。

1972年

東尾修が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ新人王を獲得するが2年連続全球団負け越し。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位。観客動員数も激減するなど経営が悪化、ついに西鉄は球団経営を手放すことになった。

太平洋時代

1972年

11月にロッテオリオンズ中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions )となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。

1973年

この年からパリーグは前後期制度となる。開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げ前期は4位。後期も序盤は好調だったが5位に終わり通年4位。この年から翌年にかけてロッテ監督・金田正一との遺恨対決が話題となった。オフにはメジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードを獲得する

1974年

期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感がなく、前期3位、後期4位、通年では4位に終わる。シーズン終了後、稲尾は監督を解任される。後任には大洋から江藤愼一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得。

1975年

54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が首位打者、東尾修が最多勝を獲得した。オフ、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤は選手兼打撃コーチという発表に江藤が反発、退団してロッテに移籍。

1976年

新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し監督に就任。戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターとなり、球団名が改まることが決定した。

クラウン時代

1977年

シーズンからクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions に変更。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため省略。同年10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブから若干の資金援助が続い

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出典:wikipedia
2018/10/07 07:14

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