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夢で逢いまSHOWとは?

(夢で逢いまSHOWから転送)
サザンオールスターズ

【出身地】
日本東京都渋谷区
【ジャンル】

【活動期間】

【レーベル】

【事務所】
アミューズ(1978年 - )
【共同作業者】

【公式サイト】
SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE
【】

【メンバー】

【】

【旧メンバー】

サザンオールスターズ(英語: Southern All Stars)は、日本ロックバンド。所属芸能事務所アミューズ。所属レコード会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント、所属レーベルタイシタレーベル。略称は「サザン」「SAS」。公式ファンクラブ名は「サザンオールスターズ応援団」。

概要

メンバーは青山学院大学の学生らで結成され1974年から断続的に活動が始まり、1978年に「勝手にシンドバッド」でデビュー。1979年に「いとしのエリー」が大ヒットし、1980年代には 「チャコの海岸物語」「Bye Bye My Love (U are the one)」などがヒット。1990年代になると「涙のキッス」「エロティカ・セブン」「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」の4作がミリオンセラーとなり、2000年代には「TSUNAMI」がダブルミリオンを記録。その後「HOTEL PACIFIC」や「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」「I AM YOUR SINGER」などもヒットし、2010年代に入ると「ピースとハイライト」「東京VICTORY」などがヒットした。大半の曲はバンドマスター桑田佳祐が作詞・作曲・歌唱を担当している。

バンド名の由来

バンド名の由来は、桑田が地元の友人である宮治淳一にバンドの名前を考えてほしいとお願いし、宮治がニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』をBGMにしてポスターを製作中、一息入れるために風呂でラジオを聴いていた際にファニア・オールスターズの来日コンサートの宣伝が流れ、風呂から上がった際につけっぱなしのレコードからニール・ヤングの「サザン・マン」が流れていて、これを組み合わせた際の響きが良い事と、当時桑田の家が茅ヶ崎市南湖にあった事に掛け、「サザンオールスターズ」という名前を考え出した。

メンバー

名前 よみ 生年月日と年齢 血液型 出身地 担当
桑田佳祐 | くわた けいすけ |  (1956-02-26) 1956年2月26日(64歳) | A型 | 神奈川県茅ヶ崎市 | ボーカル
ギター
関口和之 | せきぐち かずゆき |  (1955-12-21) 1955年12月21日(64歳) | O型 | 新潟県 | ベース
松田弘 | まつだ ひろし |  (1956-04-04) 1956年4月4日(64歳) | O型 | 宮崎県 | ドラムス
原由子 | はら ゆうこ |  (1956-12-11) 1956年12月11日(63歳) | B型 | 神奈川県横浜市 | キーボード
ボーカル
野沢秀行 | のざわ ひでゆき |  (1954-10-19) 1954年10月19日(65歳) | A型 | 東京都 | パーカッション
元メンバー
名前 よみ 生年月日と年齢 血液型 出身地 担当 備考
大森隆志 | おおもり たかし |  (1956-12-12) 1956年12月12日(63歳) | A型 | 岡山県岡山市 | ギター | 2001年8月7日付で独立

音楽性

楽曲は一般的には夏をイメージしたポップスや、ロック色の強いもの、バラードなどが知られているが、他にもヒップホップ民族音楽郷土音楽歌謡曲ジャズハードロックコミックソングまで幅広い要素を取り入れた楽曲があり、題材は恋愛セックス・郷土愛・ユーモア応援歌反戦・社会風刺ハナモゲラなど多岐にわたり、こうした様々な要素を意欲的に取り入れている。当然、夏以外の季節をイメージした楽曲も多く発表されている。ちなみに、桑田は日本の四季の中では春が一番好きである事を公言している。

影響

桑田は、ニール・ヤングボブ・ディランポール・マッカートニーエリック・クラプトンアラン・トゥーサンビートルズからの影響を語っている。

楽曲制作・レコーディング

桑田はメロディやサウンドを鳴らしたいという動機で作曲・演奏を始めたため、主に"曲先"で楽曲を制作している。そのため、初期の頃は「歌詞の意味はどうでもいい」と捉え「料理でいうお皿のようなもの」という感覚だったと述べていた。その後はファンの反応や、サポートミュージシャンを務めた小林武史小倉博和といった桑田曰く「詞の事をとても気にする人達」の影響で洗練されたものが多くなっていった。1990年代からは仏教用語や熟語が少しずつ登場するようになり、2010年代からは英語を意識的に減らしていくようになり日本語の歌詞を重視して書かれることが多くなった。

サザンの大半の楽曲のレコーディング形式としてはまず桑田が曲やポイントとなる言葉の一部分を作り、スタジオでメンバー・サポートミュージシャン・スタッフ・エンジニアなどにそれを伝え、全員がアイディアを出し合いながらイメージを膨らませ仮歌やオケを録音する。それと並行して桑田が作詞の作業に取り掛かり、一通り作詞して歌入れを始める。これ以降アレンジなどの細かな修正を繰り返して楽曲が完成するというものである。また、「曲によって異なったニュアンスを出すため」という理由でベースなどを桑田が担当メンバーに代わって演奏することも時折ある。

桑田は作詞をする際に入念な下調べを行っており、さまざまな情報をくまなくチェック・インプットをし、それが曲のアイデアに繋がっていると野沢は述べており、「週刊誌なんかは、ぜんぶ読んでるんじゃないか」といった推測もしている。歌詞はほとんど想像で書くこともあれば、楽曲のテーマに関係する人物あるいはそれに詳しい周囲の人物やスタッフへの取材をもとに書かれることもある。歌詞の中で桑田自身と異なる歌手像やペルソナが設定されていることも多い。

桑田が制作した楽曲の歌詞には前述の理由からメロディや符割りを優先する故に文法として正しくないものや、勘違いして書いてしまった歌詞がそのまま使われたりする事もあり、スタッフが訂正を促すこともあるが、歌いやすさなどを理由とした桑田の意向で大抵はそのまま残されている。

近年ではライブなどで演奏することを想定して制作したものも多くなった。過去の作品には制作したものの、作り込み過ぎたが故にライブでの再現ができなかった楽曲が何曲も存在すると桑田は述べている。

サザンの楽曲は前述のとおり大半を桑田が制作・歌唱しているが、野沢を除き他のメンバーも一部の楽曲を制作・歌唱している。なお、メンバー全員で制作した曲は「ブルースへようこそ」「シャッポ」、個々のメンバー同士の共作は「チャイナムーンとビーフン娘」「人生の散歩道」のみである。

バンドとしてのスタンス

前述の通りバンド活動に集中する時期と各メンバーがソロ活動に集中する時期があるため、関口は「良くも悪くも、何かしら口実を設けないと動きにくいバンド」と表現している。桑田は「大本営発表がある方が動き易いというか、先に流れをパーッと決める方がみんな楽だから。そういうバンドなんですよ(笑)」と語っている。

バンド仲について桑田は「やっぱりお互い若い時分には険がありましたよ。だけどもう、これこそ何度かバンドを休ませたりしているうちに、角が取れてきたというか(中略)互いの光る部分を見出し易くなった。今更無理難題を投げ合うくらいなら、その分できる事をたくさん頑張る方がいいもんね」と述べている。また、関口はサザンが長く続いた秘訣として「『休み休みやることかな』としか答えようがない」と述べている。

桑田はサザンは5人だけではなく、スタッフを含めた総力戦であると述べている。また、桑田はサザンをディレクションする点で最も重きを置いている点として「自分を含めたメンバー全員のバンドマンとしての気概とプライド」を挙げており、メンバー全員は陰ながら努力を重ねていると述べている。

2020年に新型コロナウイルスが流行して、芸能イベントや音楽ライブが中止となり大打撃を受けた。その関係でスタッフ達の仕事が無くなったことを知った桑田は何か音楽で出来ることを考え、サザンとしては「Keep Smilin’~“出来ることから”ちょっとずつ~」をスローガンに掲げた特別企画を開始させ、無観客配信ライブ「Keep Smilin’~皆さん、ありがとうございます!!~」を開催した。医療関係者だけでなく、400人のスタッフ達への感謝を込めて横浜アリーナで通常のライブと同様に大規模なステージを作り、ライブが行われた。

楽曲の世界観

和洋折衷

マーティ・フリードマンマキタスポーツのようにコード進行やメロディなどを「和洋折衷」と評す者も多い。

歌詞については教育学者明治大学文学部教授齋藤孝が「日本語の可能性を最大限に広げている」と評しており、桑田がたびたび行う当て字(二重読み)についても「こうした表現は江戸明治の時代によく見られる表現なんですね(中略)ひらがなは私たちの身体にスッと入っているもの、漢字は理知的で、頭のほうに入って来るものですのでこうして表現をする事によって、頭と身体の両方から掴む効果も生んでいると思います」と評価している。また、文語体口語体の混在も桑田の歌詞の大きな特色であるとしている。

桑田は日本語の情緒を「ある面でサザンがやっている事と合うと思う」と考えており、「言葉の意味そのものよりも、古来から日本語の持つ情緒、"粋さ"みたいなもんで自分の感性をダイレクトに出したい」「ビートルズとか外国の文化にもろに影響を受けてるけど、やっぱり日本の“ワビ”“サビ”の感覚っていうのを、もっと音楽に出していきたい」と述べている。また、日本的なものから「平和」を含めた「””という言葉が好き」といった発言もしている。

初期の楽曲に登場した「ちょいと」などのフレーズに関しては、長唄落語などの語感に影響を受けたものであると述べている。

JAPPANEGGAE(ジャパネゲエ)」「CRY 哀 CRY」「通りゃんせ」などのように古語を取り入れた歌詞をロック調のメロディに乗せた楽曲も存在する。

松田はこうした和洋折衷な路線を「自分たちなりの和モノ路線というか、洋楽と和モノの折衷を、俺たちはかっこ悪いものとしてとらえていないから」と述べており、桑田の楽曲に対するバランスのとり方を高く評価している。

亀田誠治は、桑田の事を「『日本人である』っていうことを最大の武器にして音楽を作られてる方だと思いますね」と評し、上述する和洋折衷な歌詞を「すごく日本っぽいキーワードをたくさん使ってる」「日本っていう国が持つ文化とか日本民族の歴史みたいなものを、桑田さんはごく自然に音楽の歌詞としてまとめあげてるんじゃないかっていう気がするんですね」などと高く評価している。

主に初期作品での英詞の監修を手掛けていた小林克也は和洋折衷な表現をする桑田の事を「日本人の洋楽コンプレックスを解放してくれた男」「明治や大正の文豪に連なる人」と評価している。

楽曲だけでなくライブの演出やグッズ・DVDなどにも和風要素を取り入れることも多い。

異国情緒的なモチーフを取り入れることについては、桑田が監督を務めた映画『稲村ジェーン』の制作時に「(劇中でスペイン語で歌唱する楽曲が流れたり、ハングル文字が書かれた看板やラマが登場する事について)ミスマッチの仕方が、多少定番とズレている方が面白い」といった持論を語っている。また、こういった要素を興味本位で取り入れた楽曲がきっかけで出自や思想に関するデマが流れた事もある。

ナチカサヌ恋歌」「平和の琉歌」「神の島遥か国」などのような沖縄音楽を意識した楽曲も制作されている。

エロティック

エロティックな曲を制作する理由について桑田は「音楽って、やっぱりセックスがないとダメだと思うのね。(中略)そういう事の方が素直に歌詞にしやすいわけ。これは性格だと思うんだけど」と述べている。

齋藤孝は桑田のエロティックな表現について「日本人が明らかに性を謳歌していた江戸時代の文学作品に通じるものがある」と評している。

徳光正行ミッツ・マングローブは、桑田のエロティックな表現を「桑田さんは精神的な”永遠の童貞”的なところがいい」「エロ全開の曲もあれば、私小説のような美しいエロもある」(徳光)、「セックスに憧れている中坊の妄想みたいな感じが歌詞に出てる」「生々しさがない」「これが生々しいエロだったら、老若男女に支持されるはずがない」(ミッツ) と評価している。

亀田誠治は、桑田の妻である原由子の存在が桑田のエロティックな表現の品格を上げていると評価しており、「「桑田さんのエロは、かわいいエロなんですよ。ゆるしてあげてね、みんなでパーティー楽しもうね!」といった空気を、原由子さんの存在が醸し出してくれている」と述べている。

加山雄三は桑田の事を「本当にいいやつ。心が素晴らしいから、あんなスケベな曲が作れるんだよ」と述べている。

社会風刺・反戦歌

社会風刺反戦歌などの楽曲については5thアルバム「NUDE MAN」の頃から制作されている。

こうしたテーマの楽曲を作ることについて桑田は「光を描こうとすれば、どうしてもその対極にある忘れてはならないことも描かなければならない」「明るいだけの歌はあまり面白くない」「大人でいれば辛いことがたくさんある」「世の中が不穏で歪んでいれば、歌だって自ずと歪むと思うんです」「僕だって自分の日常がありますから、全ての問題について毎日思い続けていられるわけじゃない。(中略)ただ、それでもおかしいことはおかしいと思うものだし、たまたまそれがきっかけで音楽が生まれたのなら、それを歌えない空気も、そこで歌えない自分も僕は嫌なんです」といった考えを述べている。一方で、インタビューでは「難しいことはよく分からない」「政治も疎い」といった事も述べている。

また、風刺は人を過剰に傷つけるためのものではあってはならないとし、「たとえば直接的に『○×反対』というのではなく、どこか粋でありたいし、○と×の間に様々なグラデーションがあると思います」といった考えを述べている。事実、桑田が風刺や反戦をテーマにして制作した楽曲は、単に世相を批判したり、後ろ向きな事柄を描くだけでなく、曲によっては後ろ向きな事柄を描いた上で前向きな歌詞を書いたり、日本国民に寄り添いエールを送ったり、平和ボケをしている自分たちへの自戒を込めたり、解釈を聞き手にゆだねるものも存在するなど、趣向を凝らしている事も特徴である。

なお、かつてはこういったテーマの曲で歌詞に過激なフレーズを入れた事も何度かあったが、後年にはそうしたフレーズへの興味はなくなっており、「やっぱり流れが良くないと、尖った言葉ばっかりの羅列だと、やっぱりポップミュージックとしてはね。僕はあまり好きじゃないんですよね。メロディも大事だし」「僕だってこう見えて、コンプライアンスだのなんだのと昔と比べたら相当気を配っているんです」といった発言をしている。

反戦歌を作ることについては「戦争はなかなか無くならないことも、平和を訴えるうえでのある種の虚しさも、大人ですから薄々は気付いています。でも言うだけでも言わなきゃ夢が持てない。僕は夢のない世の中が一番怖いと思っています」と述べている。桑田の反戦を訴える姿勢は祖母や父の影響によるものであり、特に父からは満州からの引揚者だったこともあって、満州での話や「品格とは真逆の、人間が究極の状態に追い込まれた時の様子」などの話をよく聞かされていた事を述べている。

また、反戦歌の面ではザ・ビートルズボブ・ディランがきっかけで戦争や平和を意識した事と、社会風刺の面では牧伸二の漫談やハナ肇とクレイジー・キャッツが出演していた『おとなの漫画』が好きだった旨を語っている。

渋谷陽一は、桑田がこうしたテーマで制作した楽曲を「自分の言葉のメッセージで社会を変えよう、政治に物申すっていうのではなくて、桑田佳祐も清志郎も、歌にした動機はひとつ、歌いたいからだったと思うんですよね」と評しており、桑田本人もこの主張に賛同している。

2015年のインタビューでは「メインストリームで風刺やプロテストソングを歌うアーティストが少ない現代で寂しさや使命感、もしくは矜持のような感情を抱くことはありますか?」といった質問をされ、桑田は「全くありません。そこは人それぞれですから。若い頃は恋愛や遊びに大半の時間を割くし、何より今の若い人と僕らでは生活環境も情報量もまったく違うでしょうから」「(自身に特定の主義主張や思想が無い事や、エロティックな楽曲を多数制作している事を述べた上で)つまり僕も俗物なんですよ」「ましてやシンガーソングライターの矜持なんかじゃない」「強いて言えば“衝動”でしょうか。作品としての歌って、本来は衝動的な叫びみたいなものじゃないですか」と答えている。

タイアップ先への気配り

CMソングや映画主題歌などの場合はタイアップのコンセプトや内容に合わせて制作することもあり、桑田がそういったイメージを曲より先に言葉にしてメンバーやスタッフに伝えるケースも存在している。これについては桑田自身も「ぜーんぜん関係ない曲が『タイアップ決まりました』って言われても、あんまり楽しくないからね」と語っている。

渋谷陽一は「いや、そこがまたすごい。そして、やっぱり正しい、ポップミュージシャンとして」、岸谷五朗は「桑田さんが台本をもらって曲を書くと、ものすごいものができる」、寺脇康文は「心を震わせるって、こういうことだね。桑田さんの曲って、心を震わせたり、踊らせたりーー耳で聴くっていうより、心に聴かせるという感じ。桑田さん自身がそういう人間だからなんだろうな」とこういった桑田の姿勢を高く評価している。

メンバー、スタッフ、ファンへの感謝

楽曲の中にはメンバー、スタッフ、ファンへの感謝が込められているものも存在している。

パフォーマンス

ライブではその時点でリリースした新曲から、初期の頃の楽曲まで幅広く選曲がされており、年々演奏曲が増えていくようになり、現在では曲数はアンコールを含め30曲を超えることが多く、公演時間も長い場合で約3時間半に及ぶ。

楽曲によっては世界観を表現するためにバックモニターに楽曲のテーマにちなんだ映像が投影されたりダンサーが登場したりすることがある。また、激しい楽曲に乗せて桑田が観客をあおったり、女性ダンサーと絡んだり、野外ライブでは客席に水を撒く事も特徴である。

桑田はよく歌詞や段取りを間違えてしまうことがあり、それが全国放送されてしまうこともある。それが2014年の年越しライブ「ひつじだよ! 全員集合!」の時のように一連の騒動を誘発する結果になった事もある。

音楽番組やライブでは、桑田が率先して近況・時事ネタ・下ネタ・ジョーク、メンバーやスタッフへのいじり・内輪ネタ・自虐ネタを交えてのトーク、会場の状況に合わせた演出、小道具やコスプレなどで観客や視聴者を笑わせることが多いが、それらの意図が曲解されたり、度が過ぎたことで大きな問題になり、謝罪することになった事が何度かある。また、ライブでは他のメンバーもその時々の流行や会場に合わせたネタをしたり、ものまねや内輪ネタ・自虐ネタ・メンバーいじりなどをして観客を笑わせている。

近年のライブではエンディングで桑田が観客やファンに対して感謝の念を述べるとともに「みんな死ぬなよ!」「頑張ろうな!」と呼びかけてステージを退場することが多くなった。

別名義での活動

アルバム『稲村ジェーン』は同名映画のサウンドトラックという性格上、収録されている楽曲により演奏者などのメンバーが異なる。このため、アルバムの名義は「サザンオールスターズアンドオールスターズ(SOUTHERN ALL STARS and ALL STARS)」とされている。

ちなみに、個々の楽曲でこの名義が使われたのは「稲村ジェーン」「美しい砂のテーマ」「LOVE POTION NO.9」「東京サリーちゃん」の4曲のみで、残りの7曲はサザンオールスターズおよび「稲村オーケストラ」「原由子 & 稲村オーケストラ」のいずれかで表記されている。特に、多くのアルバムに収録されている「希望の轍」は「稲村オーケストラ」のものであり、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)においても同名義で出演し、披露された。

また、その他のユニットなどでは松田・野沢・大森を中心メンバーとする「S.A.S.Project」がオムニバスアルバム『SNOWBIRD HOTEL』に参加している他、関口のソロアルバム『World Hits!? of Southern All Stars』では「関口和之&砂山(SAZAN)オールスターズ」が結成された。

来歴

各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。

出会いから結成まで(アマチュア時代)

1972年、大森隆志のバンドにドラマーがいなかったことから、バンドメンバーの友人にドラムを借りることになり、そのドラムを貸してくれたのが松田弘であった。時が変わり1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐関口和之は、フォークソング・サークルで知り合い、ロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成した。

翌年の1975年には青山学院大学に大森と原由子が入学し、同じく桑田や関口と同じサークルに入部した。一方桑田のバンドは「温泉あんまももひきバンド」、「ピストン桑田とシリンダーズ」と改名を行い、この頃から大森は桑田のバンドに興味を持つようになり、練習現場にしばしば現れるようになった。

桑田は原を迎え、「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」とバンド名を変えた後に「サザンオールスターズ」に改名した。

桑田が望んでいた「サザンオールスターズ」は長く続かず、再びメンバーが頻繁に入れ替わっていた。大森は桑田に松田を紹介したりして、1977年3月に桑田、大森、原、松田、天野和平(後にトランザム)による「サザンオールスターズ」でヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に申し込んだ。しかし、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入した。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得した。この直後に大森がバイト先で知り合ったセミプロの野沢秀行を大森の勧誘を受ける形でなし崩し的に加入した。

レコード会社はビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に決まったものの、芸能事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセット(前述のEastWestで披露した曲であり、当時の代表曲的存在)を持って事務所周りをしていた際、当時新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まる。アミューズは原田真二の個人事務所的存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったという。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったという。

デビューに向けて着々と準備が進む中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収めた。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったという。

メジャーデビュー

1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」でビクターからメジャーデビューを果たした。

同年8月31日に音楽番組『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーで初出演した。この際に桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言が飛び出し、この発言でイメージに拍車がかかった。この発言はのちに「台本によるもの」と明かしている。「勝手にシンドバッド」はテレビ番組で披露されたこともあり、大ヒットとなった。当時、桑田の日本語を英語っぽく発音してロックに乗せるいわゆる「巻き舌唱法」は、音楽ファンや関係者の間で賛否両論となった。なお、桑田はこの歌唱法や後述の作詞・作曲法をアマチュア時代からしていたため、歌唱法が批判されたりしたことを意外に思っていたという。

「勝手にシンドバッド」の発売から5ヶ月後に2枚目シングルとなる「気分しだいで責めないで」を発売。更に4ヶ月後となる1979年3月に3枚目シングル「いとしのエリー」、同年4月に2枚目アルバム『10ナンバーズ・からっと』を発売した。特に「いとしのエリー」は、出荷枚数が125万枚を記録し、「勝手にシンドバッド」での一発屋として終わらずに作品力で回避した。

『10ナンバーズ・からっと』を製作していた期間は「いとしのエリー」のヒットもあり、並行して雑誌の取材やテレビ出演、CM撮影、ライブ活動、年末にはNHK紅白歌合戦に「いとしのエリー」で初出場するほどの多忙な日々を送っており、精神的にも落ち込んでいたという。1980年に入ってすぐに「テレビ番組などに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」という宣言をして、FIVE ROCK SHOWと銘打った計画を開始した。その後、3枚目アルバム『タイニイ・バブルス』を発売し、自身の作品初となるオリコン週間ランキング1位を獲得した。特にアルバムに収録されていた「私はピアノ」は原がボーカルを務め、評判となった。その評判を受け、翌年1981年にサザンのメンバーの中で最初に原が「I Love Youはひとりごと」でソロデビューした。デビューのプロデュースは桑田が担当した。同年、サザンとしては、4枚目アルバム『ステレオ太陽族』が7月に発売され、7枚目アルバム『人気者で行こう』までは毎年7月に発売された。

1982年に入り、14枚目シングル「チャコの海岸物語」が「いとしのエリー」以来のヒットとなり、2度目のNHK紅白歌合戦に出演した。同年には5枚目アルバム『NUDE MAN』が発売され、ミリオンセラーに迫る売上枚数を記録した。その後、バラード曲を中心に収録した ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/13 06:47

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