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大坂の役とは?

(大坂の役から転送)

豊臣氏
指導者・指揮官
徳川家康
徳川秀忠 |  豊臣秀頼
戦力
冬の陣:約200,000
夏の陣:約165,000 | 冬の陣:約90,000
夏の陣:約55,000
損害
不明 | 不明(40000人以上)
大坂の陣


大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。

目次

  • 1 端緒
    • 1.1 家康の天下普請
    • 1.2 秀頼の寺社造営
    • 1.3 方広寺鐘銘事件
  • 2 大坂冬の陣
    • 2.1 豊臣方の準備
    • 2.2 幕府軍の出陣
    • 2.3 緒戦
    • 2.4 攻囲戦
    • 2.5 和議
    • 2.6 堀の埋立
  • 3 大坂夏の陣
    • 3.1 樫井の戦い
    • 3.2 道明寺・誉田合戦
    • 3.3 八尾・若江合戦
    • 3.4 天王寺・岡山合戦
  • 4 終局
  • 5 諸大名の対応
  • 6 戦後処理
  • 7 伝承
    • 7.1 真田信繁
    • 7.2 秀頼生存伝承
    • 7.3 家康討死伝承
    • 7.4 大坂城攻城法伝承
  • 8 参加武将
    • 8.1 豊臣軍(豊臣家)
    • 8.2 幕府方
      • 8.2.1 冬の陣
      • 8.2.2 夏の陣
  • 9 その他
    • 9.1 日本国外の記録史料
  • 10 関連作品
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

端緒

豊臣秀頼
徳川家康

豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍の指揮を執り三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万石の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより豊臣家の所領は摂津河内和泉の約65万程度まで削がれた。

慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり、別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。

同年7月徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。

慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗奥羽大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍の指揮を執り上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。。

5月8日、秀頼が臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。

慶長16年(1611年)3月後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)には前年上洛していなかった東北関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。

二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲大筒の製作を命じ、他にも石火矢鋳造イギリスオランダに対し大砲焔硝(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。。

こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。

且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。

この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。

且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。秀頼による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、これを根拠に同日諸大名に出兵を命じて大坂の陣が勃発した。

家康の天下普請

徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城篠山城亀山城北ノ庄城名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城姫路城上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。

秀頼の寺社造営

豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮石清水八幡宮北野天満宮鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。

これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の(約28万)と約2万4千枚の(約24万両)が幕府に没収されている。

方広寺鐘銘事件

方広寺の鐘銘

慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺文英清韓に選定させている。

且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。

8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。

東福寺
御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄)
(名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)
国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)
(国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)
天龍寺
御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)
(家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)
南禅寺
銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)
(銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。)
第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)
(何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)
相国寺
銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)
(銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)
建仁寺
銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
(銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)
右僕射源朝臣家康
右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
(右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)
右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
(右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)
国家安康
国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)
(国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)
鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)
(鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)
君臣豊楽
君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)
(君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)
是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)
(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)

宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。 この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時のに関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。

大坂冬の陣

冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大

豊臣方の準備

慶長19年10月2日(1614年11月3日)、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・の建築なども行った。秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重ので囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣

10月11日、家康は軍勢の指揮を執り駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。

そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢の指揮を執り江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。

11月1日摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている。

幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。

諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍の指揮を執り越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦

慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦

豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10から5・6町まで接近していった。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している。

この接近時に起こった真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下している。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じている。

カルバリン砲と半カノン砲

9日。家康が11月23日より伊奈忠政福島忠勝毛利秀就角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度(の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)。この頃より大坂城総構への方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30、藤堂隊は7間に近接している。

10日には降伏を促す矢文を送り、11日には甲斐佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁石垣を破壊する為の坑道の掘削を始めた。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている。更に、船場の堀の埋め立ても命じた。また、大坂方武将への調略も行われ、本多正純が弟で前田家家老の本多政重真田信尹(徳川軍使番・真田信繁の叔父)と協力して、真田信繁を徳川軍に寝返らせるよう指示した文書が残されている。

15日に後述する和議交渉が暗礁に乗り上げた翌16日から、全軍より一斉砲撃が始められる。方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は靖国神社の遊就館に奉納されている。 6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も含まれていると思われる。

豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)。 大砲も使い、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげた(本町橋の夜襲戦)。

和議

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年4月)

徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。

朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏広橋兼勝三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

が提出され、これに対し徳川家が


を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。

堀の埋立

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和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も破壊されている。

幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。

大坂夏の陣

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大坂城炎上 1663年絵図
大坂夏の陣絵図

和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年3月15日(1615年4月12日)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人、大野治房たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。 なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。

樫井の戦い

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豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/11/21 00:52

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