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大平正芳とは?

大平 正芳
おおひら まさよし
1980年4月30日

【生年月日】
1910年3月12日
【出生地】
日本 香川県三豊郡和田村
(現・観音寺市)
【没年月日】
(1980-06-12) 1980年6月12日(70歳没)
【死没地】
日本 東京都港区
【出身校】
東京商科大学(現・一橋大学)
【前職】
大蔵省官僚・大臣秘書官
【所属政党】
(自由党→)
自由民主党
【称号】
正二位
大勲位菊花大綬章
衆議院永年在職議員
商学士
【親族】
兄:大平数光(豊浜町長)
娘婿:森田一(衆議院議員)
【サイン】

第68-69代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次大平内閣
第2次大平内閣
【在任期間】
1978年12月7日 - 1980年6月12日
【天皇】
昭和天皇
第79-80代 大蔵大臣

【内閣】
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
三木内閣
三木改造内閣
【在任期間】
1974年7月16日 - 1976年12月24日
第100-101代 外務大臣

【内閣】
第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
【在任期間】
1972年7月7日 - 1974年7月16日
第31代 通商産業大臣

【内閣】
第2次佐藤第2次改造内閣
【在任期間】
1968年11月30日 - 1970年1月14日
第92-93代 外務大臣

【内閣】
第2次池田第2次改造内閣
第3次池田内閣
【在任期間】
1962年7月18日 - 1964年7月18日
その他の職歴

第21-22代 内閣官房長官
(1960年7月19日 - 1962年7月18日)
衆議院議員
(1952年10月2日 - 1980年5月19日)

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本大蔵官僚政治家池田勇人秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争ハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。位階正二位大勲位菊花大綬章受勲。

衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第2122代)、外務大臣(第9293100101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第7980代)、内閣総理大臣(第6869代)を歴任。首相就任までに椎名裁定三木おろし大福密約といった苦難があり、田園都市構想一般消費税構想は実現しなかった。読書家、クリスチャンとして知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 学生時代
    • 1.3 大蔵省時代
    • 1.4 政治家としての活動
      • 1.4.1 池田側近として
      • 1.4.2 原子力・核問題への対応
      • 1.4.3 宏池会会長
      • 1.4.4 総理大臣就任
      • 1.4.5 総理在任中の政策
      • 1.4.6 四十日抗争と衆参同日選挙
      • 1.4.7 急死
  • 2 評価
    • 2.1 財政家として
    • 2.2 外政家として
    • 2.3 宰相として
    • 2.4 評価と再評価
    • 2.5 栄典
  • 3 人物・逸話
    • 3.1 アーウー
    • 3.2 人物像
    • 3.3 逸話・発言
  • 4 家族・親族
  • 5 関連文献
    • 5.1 著作集
    • 5.2 大平政権に関連する文献
    • 5.3 倪志敏の論考
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

生涯

生い立ち

香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた。

学生時代

和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。

高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。

卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。就職するにせよ昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した。卒業論文は「職分社会と同業組合」。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。

大蔵省時代

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

政治家としての活動

池田側近として

池田内閣の頃

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退職し自由党公認で衆議院選挙に立候補し当選。以後、連続当選11回。1957年(昭和32年)、池田勇人が宏地会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣内閣官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。第2次池田内閣第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣外務大臣に就任した。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」1962年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。

原子力・核問題への対応

また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取っており、核・原子力関連の問題が多かった。1963年(昭和38年)1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については1年8か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが、大平の秘書官を務めた森田一によれば、実際には1963年(昭和38年)4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う。

なお、核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することはなかったが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢を核アレルギーを感情的に煽っている旨批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。

大平 (注:寄港申し出が)非常にショッキングなできごとのように取り上げられたので、わたし自身も多少驚いたのでございます。しかし、民主主義の政治においては、われわれ政治をやる者がこう思うからというだけではいけないので、やはり国民全体が理解し、それに協力するという雰囲気ができ、それで政策が実行に移されることが望ましいし、またそうすべきでございます。(中略)その論議は事実を踏まえた上で公正に行われるべきだと思います。
大平 核兵器とか言いますと、一般の受ける印象は非常に悪魔のようにつよい。(中略)核兵器と言う、みんなが悪魔みたいにみているものの持っている戦争抑止力というものに依存しておるということだから、これを一がいに平和の敵であるというような考え方は、非常に危険な考え方になるのではないだろうか。
大平 日本は一番、パブリックリレーション(広報・相互理解)の面で弱いですね。
大平 今日、原子力潜水艦の安全性というようなことから、今度は議論の焦点が最近はサブロックに移ってきたようだけれども(中略)事態が進みまして、こういったものの寄港問題が新しく出てくれば、それは事前協議の新しい問題として出てくるわけでございまして、いまの問題に関する限りは全然関係のない論議じゃないか。こういう論議に反対論の論調が集中してきたということは、逆に見れば本体のほうにあまり問題がなくなっているのではないかという感じがするのですね。 — 大平正芳 西脇安「原子力潜水艦寄港問題を語る 対談」『政策月報』1964年9月

寄港承認直後にも、サブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。小泉純也防衛庁長官ら新任閣僚が同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘したため、米側が危機感を募らせていたからだった。

宏池会会長

次の佐藤政権では政調会長を務めた後、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣通商産業大臣第1次第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣大蔵大臣を務め、内政外政にかかわる要職を歴任した。

佐藤内閣では通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、田中角栄通産相の裁量によって妥結を見る)。

1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。

三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。

その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。

総理大臣就任

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に、福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する。 事前の世論調査では福田が有利だったが、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票を獲得。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。

総理在任中の政策

1980年4月30日アンドルーズ空軍基地にて

大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想総合安全保障構想などを提唱した。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権だった。

また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印等、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた。

四十日抗争と衆参同日選挙

政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。

選挙後国会首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派三木派中曽根派・中川グループが推す福田の一騎討ちとなった結果、138票対121票で大平が福田を下して、第2次大平内閣が発足した。

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚いた。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。こうして第36回衆院選第12回参院選が公示され、投票日は6月22日と決まった。

急死

総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労不整脈により虎の門病院に緊急入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務に、70歳という高齢と、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた。以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、公表はされていなかった。

大平の入院に対し、反主流派の中川一郎は、健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも、国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に退陣を要求、反主流派の一部から大平おろしの声が上がりはじめた。また6月9日には大平派の鈴木善幸が、大平の後は話し合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きが上がった。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、興亜院時代からの盟友で官房長官を務めていた伊東正義らにもそれを明言している。

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変した。妻志げ子以下家族、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら、5時54分死去した。70歳3か月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。

この突然の大平の死により、官邸の方は伊東正義官房長官が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は西村英一副総裁が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は大来佐武郎外務大臣が大平の代理として首脳会議に出席するという、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった。

48年ぶりの現職総理の死去という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。「香典票」と呼ばれた同情票も自民党有利に働いたとされることもある。結局、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。大平の選挙区だった香川2区へは娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。

多磨霊園にある大平家(左)と大平正芳(右)の墓

葬儀は7月9日に内閣と自民党の合同で行われた。党内からは現職首相の死亡なので国葬という意見もあったが、控えめのほうが大平にふさわしいという伊東の主張により内閣・自民党合同葬となった。葬儀では一般市民も4000人近くが長い列を作った。墓所は東京の多磨霊園と郷里豊浜の豊浜町墓地公園にある。豊浜の墓碑銘には正面に「大平正芳之墓」、左面に盟友の筆による「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已ざりき 伊東正義 謹書」、右面に戒名「興國院殿寛道浄基正芳大居士位」が刻まれている。「永遠の今」は大平が生前よく揮毫した一句である。

郷里の観音寺にあった選挙事務所は没後に大平正芳記念館となったが、建物の老朽化にともない2015年(平成27年)3月末で閉館した。 閉館後、文書類は国立国会図書館に寄託、元首相の蔵書は香川県立図書館に寄贈されることになり、2016年2月に県立図書館内の「大平正芳文庫」としてオープンした。遺品については地元の観音寺市に寄贈される。その後、地元の有志が復活に向けて動き、2016年11月5日に同じ観音寺市内にある世界のコイン博物館2階に新たな記念館がオープンした。

評価

財政家として

大蔵省の出身で、蔵相時代の赤字国債発行や財政再建への強いこだわりがあり、財政家としての側面は広く知られている。「棒樫財政論」や「安くつく政府」に代表される小さな政府志向であった。

大平自身は三木内閣の蔵相時代に赤字国債の大量発行に踏み切った責任を強く感じ、「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」との思いから、内閣総理大臣に就任した際に税制改革を断行しようと考えて一般消費税導入を提唱した。しかし自由民主党内からの反発や野党・世論の反対を受け、また1979年衆院選での自由民主党大敗もあって挫折に追い込まれた。

外政家として

大平自身の取り組みで後世への遺産となったものには、むしろ外交など対外関係にまつわるものが多く、戦後日本を代表する外政家といえる。

外務大臣としては、池田内閣時代における日韓交渉、田中内閣における日中国交正常化交渉で、いずれも重要な役割を果たした。総理大臣時代に提案した「環太平洋連帯構想」は今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。また、特筆すべきものとして、鄧小平との交流とその影響がある。2人は1978年以降の短期間に合計4度も会談しているが、この中で大平は、占領期の傾斜生産方式や自身が深く携わった「所得倍増計画」を始めとした戦後日本の経済発展について詳細に説明、それがGNP「四倍増計画」その他、鄧小平による改革開放の着想と策定に与えた大きな影響について、日中双方の専門家から指摘されている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は4年に及び、これは2017年に岸田文雄が超えるまで戦後最長であった。

宰相として

盟友であった鈴木善幸は、「大平君は個人の政治家としてはたいへん立派な業績を残されたけれども、大平政権としてはそういう党内抗争の渦の中に埋没してしまって、内閣としての十分な成果を修めることができなかった。ですからああいうように哲学者といわれ、思想家といわれた大平氏が残した著書、文献はですね、非常に深い思索、思想を持った政治家、宰相とみられておるんだけれども、実際にやった仕事というのは、そういう政界のドロ沼の中に埋没してしまったと、こういうことですね。」と評価している。

評価と再評価

このような朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」との評が一般的で、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったという。

財政問題への取り組みや、「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない。。2008年頃から評伝、回想録や研究所、大平自身の著作集などが相次いで刊行されている(2010年5月1日『朝日新聞』、5月2日『読売新聞』)。

栄典

人物・逸話

アーウー

1980年4月30日、アンドルーズ空軍基地にて妻の大平志げ子(後方)と

演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをすることからアーウー宰相の異名を取った。また、その風貌から讃岐の鈍牛とも呼ばれた。このため鈍重な印象が強かったが、実際は頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあった。発言も論理的で、早口であり、「あーうー」を除けば全く乱れがなかった。田中角栄は「アーウーを省けばみごとな文語文になっているんだぜ。君ら(=記者)の話を文章にしてみろ。話があちこち飛んで火星人のように何をしゃべっているのか分からんぞ」と、大平を擁護した。

自身は「大平さんはあーうーである、あーうーの大平さんということで、この頃、声帯模写でも随分有名になっておるようです」「私は長い間戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコーも耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません」と発言している。

この「あーうー」は当時流行語にもなり、物まねする子供も多かった。

人物像

敬虔なクリスチャン(聖公会)で、しばしば聖書を好んで引用した。葬儀も立教学院諸聖徒礼拝堂で行われている。一方、妻は静岡の新興宗教に帰依しており、顧問の伊藤昌哉(金光教信徒)からは金光教の観点からの政局への処し方を度々訊いている。

池田、前尾、宮澤と酒豪の多い宏池会にあって、大平だけはまったく酒が飲めなかった。猪口1杯で気分を悪くしてしまうほどで、酒の席ではキリンレモン饅頭をつまむのが恒例だったという。盟友の田中角栄は「オヤジ」と呼ばれたが大平は「おとうちゃん」と呼ばれていた。

読書家として知られ、郷里の記念館には約8千冊に及ぶ蔵書が収められていた(前記の通り、旧記念館閉館後は香川県立図書館に移管された)。また、文章を能くし、『財政つれづれ草』、『春風秋雨』、『旦暮芥考』、『風塵雑租』などといった政治経済論と随想を合わせた本を折に触れて出版した。なお、大平の著作のすべてと、研究者・政界関係者による大平についての論稿『大平正芳 人と思想』、『大平正芳 政治的遺産』、『在素知贅 大平正芳発言集』、『去華就實 聞き書き大平正芳』などが大平正芳記念財団でまとめられたが、下

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出典:wikipedia
2018/08/17 19:02

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