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大日本帝国とは?

大日本帝国
日本国、大日本帝國など
 | 紀元前660年2月11日(明治5年太政官布告第342号) - | 

(国旗) | (国章に準じる紋章)
国の標語: 五箇条の御誓文など
国歌: 君が代

最大行政統治・軍事勢力圏
深緑:領土
黄緑:国際連盟による委任統治領(破線)、満州事変前後を含む租界租借地、進駐、軍事占領地・勢力圏
公用語 日本語(事実上)
朝鮮語台湾語など
首都 平安京→(東京奠都)→
東京府東京都(事実上)
天皇
1846年 - 1867年 孝明天皇
1867年 - 1912年 明治天皇
1912年 - 1926年 大正天皇
1926年 - 1989年 昭和天皇
内閣総理大臣
1885年 - 1888年 伊藤博文
1946年 - 1947年 吉田茂
面積
【昭和初期の領土】
675,400km²
1933年(昭和8年) 675,114km²
人口
1933年(昭和8年) 90,396,034人
1935年(昭和10年)国勢調査 97,700,000人
変遷
日米和親条約 1854年(嘉永7年)
日米修好通商条約
1858年(安政5年)
明治維新
1868年(明治元年)
大日本帝国憲法(明治憲法)発布 1889年(明治22年)
太平洋戦争終戦 1945年(昭和20年)
日本国憲法施行 1947年(昭和22年)

通貨
日本円
台湾銀行券
朝鮮銀行券
時間帯
UTC +9(日本標準時)
  1. ^ 紀元は神話の伝承による。明治5年太政官布告第342号。なおこの布告の現在における効力については議論がある。
  2. ^ 「大日本帝国」の国号が用いられたのは遅くとも1935年の外務省決定から1947年まで。

大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、大日本帝國)は、日本国国号の一つ。江戸時代末期(幕末)に外交文書に使用され始め、1946年頃まで公式に使用された。なお「大日本帝国」と定めた法律は存在しないため、日本の通称または大日本帝国憲法下の日本の通称の一つとして扱われる。

一般には1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時に憲法典の名称として使用されたことから権威づけられ、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつとされる。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太千島列島朝鮮半島台湾澎湖列島新南群島などを領有していた他、北東アジア太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。

以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。

目次

  • 1 国名
    • 1.1 経緯
    • 1.2 通称
  • 2 国土
    • 2.1 首都
    • 2.2 領土
    • 2.3 租借地
    • 2.4 委任統治区域
    • 2.5 一部統治区域
  • 3 住民
    • 3.1 国民
    • 3.2 国民以外
  • 4 統治機構
    • 4.1 内閣と宮中
    • 4.2 帝国議会と枢密院
    • 4.3 裁判所
    • 4.4 陸海軍
    • 4.5 外地統治
  • 5 国際連盟常任理事国
  • 6 軍事史
    • 6.1 ロシア内戦期の占領地
    • 6.2 第二次世界大戦での占領地
      • 6.2.1 占領地での政権樹立
  • 7 その他
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目

国名

憲法原本での国名

経緯

ヤマト王権成立後、漢字文化が取り入れられると初め中国朝鮮側の呼称である「」を自国の表記として使用することが多かったが、やがて自国を「日本」、あるいは「倭」を「和」と表記することが増え、701年(大宝元年)の大宝律令では日本の国号が使用された。「倭」や「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの美称として存在するが、対外文書においては江戸時代末期(幕末)まで見られなかった。「帝國」という文字そのものは代『文中子・問易』や日本書紀など古典にも散見される表現であったが、いずれも「徳をもって治める国」あるいは天皇の所在を意味する語であり、近代国家の語義としての国家の政体を表示するものではなかった。後者の語義としての「帝国」の語は江戸時代後期にオランダ語Keizerdomの翻訳のために採用された、いわば鋳造語であり、それ以前の時代に漢語として定着した言葉ではなかった。国学系統では「皇国」という語が比較的早期から使われているものの「帝国」という語は幕末まで見られなかった。

なお、軍記物語平家物語』(鎌倉時代)の『木曽の最期』では「日本国」という言葉が登場する。

対外的な国号に「大」を冠したり「帝國」を使用するようになったのはいずれも幕末のことであり、1854年(嘉永7年)にアメリカ合衆国と批准し、開国の皮切りとなった日米和親条約では、前文において「帝國日本」(英文では"Empire of Japan")の国号が初めて使われた(各条文では「日本國 Japan」表記)。そして1858年(安政5年)米国と調印した日米修好通商条約では、本文に「帝國大日本」の国号が使われたほか、脇坂中務大輔は肩書きを「大日本帝國外國事務老中」とした。万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順1860年(万延元年)、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書上で、日本側を「大日本帝國 大君の全権」と記した。

このように、江戸幕府は開国後に「大日本帝國」の国号を使い始めたが、国号表記は条約によってまちまちであり、「日本」「日本國」「帝國日本」「帝國大日本」「日本帝國」などの表記も使用され、一定しなかった。

明治天皇1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1871年(明治4年)に鋳造された国璽には「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳ですでに「大日本帝国天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス」と記述され、1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(明治憲法、帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に日本とあるので文体を統一するために憲法も日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により日本帝國に決められた。

大日本という表記は「オオヤマト」としては古来から用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。一方、「帝國」は代の『文中子・問易』を初出とし、「徳を以て治める国」とされた。『日本書紀』にも「帝國」に「みかど」の訓を当てた用例があるが、天皇の所在を意味する用語であり、今日の「帝国」とは必ずしも一致しなかった。一方で、天皇が統治する国という意味で「皇国」、「スメラミクニ」(皇御国)が使われていた。これらは政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは本来一線を画していたが、幕末以降に欧米列強の影響を受け、日本側も"Empire"の訳語としての「帝国」を意識するようになった。

帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「Empire of Japan」と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國大日本國と表記し、外交文書では日本日本國とも称しており、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対するこだわりが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定した。国号を参照。

第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では国名について「大日本帝國」と記載していたが、2月13日、GHQ/SCAP民政局長コートニー・ホイットニーにより憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣及び松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳以降は国名は日本國と記載されるようになり、のち国号に関して1946年7月23日時点における第1次吉田内閣の公式見解として「従来現行憲法(当時は大日本帝国憲法下)においても特に我が国の国号を一定する意味で「大日本帝国」といふ名称が用ゐられたものとは考えていない」ものとされた。

その後1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法により日本は憲法上「日本國」の名称を用いることとなるが、現在においてなお日本の正式な名称を規定する法令等は存在せず、国号の呼称については慣習によるものとされている。

通称

日本水準原点標庫上部。エンタブラチュアフリーズ部分に菊紋と共に右から「大日本帝國」と刻まれている。

通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名。日本や日本国は通称としてだけでなく公文書にも使用された。

現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル帝国書院、帝国制帽(現:テイボー)、帝国石油のように、「帝国」を使用しているものもある。

2004年(平成16年)に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も社名変更前は「京王帝都電鉄」(大東急解体の際に旧京王電気軌道と旧小田急電鉄帝都線(帝都電鉄)だった路線を引き継ぎ設立したことによる名称)、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」、帝人が「帝国人造絹糸」などと、それぞれ「帝国」を冠していた。

東京大学京都大学などの帝国大学令に基づいて設立された大学は、現在においても旧帝大と呼ばれる。また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある(例: 大日本印刷大日本除虫菊)。

国土

大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。このほか、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。

首都

憲法や法令に首都の規定はないが、関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日詔書)で「東京ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、宮城(きゅうじょう、皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。

東京以外の「みやこ」としては、維新初期の政情を背景に天皇の東行を遷都ではなく奠都として公表した経緯から、京都は旧都としての地位は否定されず高御座京都御所に安置され即位の礼大嘗祭が行われていた。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、大東亜戦争(太平洋戦争)で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕(松代大本営)に移す予定であったが、当初は天皇自身が反対した事も有り、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。

領土

大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島

大日本帝国憲法(明治憲法)の形質の観点では、明治憲法には領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案の段階で領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定が立ち消えたのであるが、実際にはロエスエルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで、露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた。

比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年プロイセン憲法、1871年ドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする。

領土は完全な領有権を有する区域であり、内地樺太(後に内地に編入)、台湾朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記の通り。領土面積は最大675,000km。各領土の概要は下記の通り。

内地
日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下の通り。
このほか以下の島々を内地に編入した。
  • 北大東島南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。
  • 硫黄島北硫黄島南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。
  • 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。
  • 魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。
  • 沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。
  • 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。
  • 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。
  • 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。
樺太
日持上人が訪れるなど、古くは鎌倉時代から日本との関わり(参照:蝦夷管領安東氏)があり、江戸時代松前藩陣屋アイヌなどとの交易場所(参照:場所請負制#運上屋)なども設けられていたが、幕末の混乱期に樺太島仮規則などの不平等条約ロシアとの雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争(樺太作戦)で占領し、同年のポーツマス条約(日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁を参照。
第四代台湾総督:児玉源太郎
台湾
台湾本島と澎湖島日清戦争で占領し、1895年、下関条約(日清講和条約、明治28年勅令号外)により、清国に割譲させて獲得。1938年、新南群島(現在の南沙諸島)を台湾高雄市に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。日本統治時代の台湾の項を参照。
遼東半島(奉天半島)
日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、三国干渉を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約(明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。
朝鮮
1910年、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第3号)により領土に加え、韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。日本統治時代の朝鮮の項を参照。

租借地

租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借した。

関東州
遼東半島先端の大連旅順近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年に中華民国との南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長された。1932年の満洲国の成立に伴い、満洲国の一部を租借する形式に改定した(ポツダム宣言受諾により1945年に失効)。
膠州
山東半島南岸の青島近辺。ドイツ帝国の租借地だったが、第一次世界大戦で占領。1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の山東懸案解決ニ関スル条約(大正11年条約第3号)により中華民国に返還。

委任統治区域

南洋群島
西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟委任に基づき統治する委任統治区域とした。日本が国際連盟を脱退すると、連盟との関係における委任統治の根拠は薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。

一部統治区域

南満洲鉄道初代総裁・後藤新平
南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)
南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃した(昭和12年条約第15号)。
租界
専管租界を1897年杭州蘇州に、1898年天津漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設した。また、上海共同租界に参加していた。北京には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した公使館区域があった。このほか沙市福州厦門に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。

住民

大日本帝国憲法下の日本で大日本帝国の国籍を有する者を日本人日本国民日本臣民といった。大日本帝国憲法では日本臣民の名称が使用されている。国籍の要件は国籍法(明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。

国民

内地人
内地人とは戸籍法(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には華族士族平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。
樺太人
樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人と呼ばれた。また樺太土人ともいう。樺太人は大日本帝国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では大日本帝国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌであり、他にニヴフウィルタ(当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。
台湾人
台湾人台湾の在来住民である。本島人ともいう。1895年台湾割譲の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢民族、1割が高砂族である。行政上は日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失したとされている(平和条約国籍離脱者)。
朝鮮人
朝鮮人は朝鮮の在来住民である。1910年の韓国併合の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国の皇族は王公族、一部の両班や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族に封じられた。これらの人々は1947年、外国人登録令により、外国人扱いの朝鮮籍に組み込まれ、1952年、日本国との平和条約の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失した(平和条約国籍離脱者)。

法令等では、台湾戸籍令(1905年)、民籍法(1909年、大韓帝国)のち朝鮮戸籍令(1923年)などにもとづく台湾戸籍や朝鮮戸籍に所属する「帝国臣民」であり、内地人を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」と称したのに対して、内地人以外の日本国民を総称して「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者」などと言った(例: 兵役法23条、同52条)。なお、公式文書でも、「内地人」、「台湾人」、「朝鮮人」などと表記された。

国民以外

正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、大日本帝国籍が与えられず、国民として扱われなかった。

国際連盟からの委任統治区域であった南洋群島の在来住民を島民といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分はカナカ族であり、他にチャモロ族がいた。

租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初清国籍、後に中華民国籍を経て、1932年に満洲国が建国された後には暫行民籍法(1940年、満洲国籍に準じるもの)が導入された。内国や台湾・朝鮮からの移住者は内国戸籍や台湾・朝鮮の民籍と二重登録されるなどした。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は漢民族である。

統治機構

大日本帝國の統
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出典:wikipedia
2019/06/18 14:16

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