このキーワード
友達に教える
URLをコピー

大日本帝国憲法とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年4月)

【大日本帝国憲法】


日本の法令
【通称・略称】
明治憲法、帝国憲法、旧憲法など
法令番号
なし
【効力】
第73条により全部改正
または事実上の失効
【種類】
憲法
【主な内容】
天皇の大権事項、臣民の権利義務、帝国議会、国務大臣の輔弼、司法
【関連法令】
日本国憲法
旧皇室典範
議院法
内閣官制
裁判所構成法
ウィキソース原文
憲法発布略図
1889年(明治22年)、楊洲周延
新皇居於テ正殿憲法発布式之図
1889年(明治22年)、安達吟光

大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日公布1890年(明治23年)11月29日施行された、外見的立憲主義に基づく日本憲法

明治憲法(めいじけんぽう)、あるいは単に帝国憲法(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。

短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けば実質上のアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、1946年(昭和21年)11月3日第73条の憲法改正手続による公布を経て、翌1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法が施行された。

目次

  • 1 沿革
    • 1.1 明治維新による国制の変化
    • 1.2 明治の変革
    • 1.3 私擬憲法
    • 1.4 国憲起草への動き
    • 1.5 制定までの経緯
    • 1.6 制定後の出来事
    • 1.7 日本国憲法への移行
  • 2 大日本帝国憲法の問題点
    • 2.1 内閣と総理大臣についての規定の欠落
    • 2.2 議員資格審査の秘密性
    • 2.3 憲法改正有限界説との矛盾
    • 2.4 現行法制度との関係
  • 3 特徴
    • 3.1 構成
    • 3.2 立憲主義の要素
      • 3.2.1 言論の自由
      • 3.2.2 議会制
      • 3.2.3 大臣責任制・大臣助言制
      • 3.2.4 司法権の独立
    • 3.3 国体の要素
      • 3.3.1 万世一系
      • 3.3.2 総攬者
      • 3.3.3 天皇大権
      • 3.3.4 立法権
      • 3.3.5 統帥権
      • 3.3.6 皇室自律主義
    • 3.4 分立主義
  • 4 起草前後の政情
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

沿革

大日本帝国憲法「上諭」1頁目
大日本帝国憲法「上諭」2頁目
大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目
大日本帝国憲法「本文」4頁目

明治維新による国制の変化

日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、「版籍奉還」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(三権分立立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には「廃藩置県」が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。

版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。

新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家諸侯華族といった爵位が授与された特権階級)に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を「大日本帝国臣民(日本国民)」として平民に改組した。明治4年(1871年)には士族の公務を解いて農業工業商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事職業の独占は破られた。このようにして武士の階級的な特権は廃止された。大日本帝国憲法第19条は人民の等しい公務就任権を規定し、同第20条兵役の義務を規定した。帝国議会(下院:「衆議院」と上院:「貴族院」の両院制)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「華族令」を定めて華族を「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の5爵の爵位に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の貴族院列席特権を規定した。

明治の変革

王政復古の大号令」によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正福岡孝弟木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。

一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ — 「五箇条の御誓文」

政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。

明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

1874年(明治7年)、前年の明治六年政変征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣板垣退助後藤象二郎江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。

立憲政体の詔書(国立公文書館収蔵)

1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。

……茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立汝衆庶ト倶ニソノ慶ノ賴ラント欲ス…… — 「立憲政体の詔書」(抄)

すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。

私擬憲法

1874年(明治7年)からの「自由民権運動」において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律新聞紙条例1880年(明治13年)の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。

国憲起草への動き

1876年(明治9年)9月6日明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた。

朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす — 国憲起草を命ずるの勅語

元老院はこの諮問に応え、憲法取調局を設置し、同時に明法寮司法省法学校ボアソナードらを中心に、治罪法(刑事訴訟法)や民法共通法などの構築作業がフランスやベルギーの大陸法を基盤に置いて展開された。

これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に日本赤十字社前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使青木周蔵は1878年10月、ドイツ人ヘルマン・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込むという動きを見せた。

1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提出した。しかし日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(1850年)の影響を強く受けていたことから岩倉具視伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。

独逸学協会名誉会員の一覧(PDF)
国会開設の勅諭

1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関独逸学協会(Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、ドイツ帝国式立憲主義推進の立場を強めた。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者レーマンなども参加していた。

その結果、10月12日に次のような「国会開設の勅諭」が発された。この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、ドイツ勢力は政局の主導権を取った。

制定までの経緯

1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員であり参議伊藤博文らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学ロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史伝統文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、ドイツ帝国(プロイセン)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。また明治維新とドイツの独立戦争は性質も異なる)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。

1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣(首相)となり、同じく独逸学協会の司法大臣山田顕義も再任され、ゲオルグ・ミハエリスパウル・マイエットも来日した。

1886年には大審院玉乃世履の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問となったロエスレルやアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。

この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢(現:神奈川県横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが司法大臣山田顕義の下で受け入れられた。

1889年(明治22年)2月11日明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回衆議院議員総選挙実施後の第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。

国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。

他方、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。

制定後の出来事

1880年当初の憲法草案と同時期に成立した1880年治罪法は、帝国憲法施行の1890年に刑事訴訟法と置き換えられて消滅した。またボアソナード民法は、帝国憲法と同時に一旦公布はされたものの、井上馨の転回や山田の政策と相まって民法典論争が生じ、施行されないまま廃止された。ここで人権保護的な法規は非常に減じたことになる。

1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。

1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党海軍軍令部右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。1935年(昭和10年)、貴族院議員で陸軍中将菊池武夫が、当時、通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説国体に反するものと非難。機関説の主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は反論の演説をするも、攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。ちなみに、昭和天皇はこのとき、「機関説でよいではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押し潰されたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治はその実質を失ったことを示す。

日本国憲法への移行

1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。

政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。

2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。「憲法改正草案」をみると、改め文方式ではなく、新法制定形式を採用しているようである。新法を制定し、旧法を廃止する場合には、附則において「○○法は、廃止する。」と記述しなければならないが、本草案中には「大日本帝国憲法は、廃止する。」という文言はない。

この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には第22回衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

大日本帝国憲法の問題点

内閣と総理大臣についての規定の欠落

大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法(ビスマルク憲法、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走するという災いをもたらすことになった。

こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。

ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も、事実上の大臣解任権を持つ議会(国会)や、独立の大臣等罷免審査の機関(憲法裁判所)が存在しない。

立憲主義#外見的立憲主義」も参照

議員資格審査の秘密性

伊藤博文議会制民主主義に付随する議院法については英国人顧問フランシス・テイラー・ピゴットの助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した。

憲法改正有限界説との矛盾

詳細は「八月革命説」を参照

前述するとおり、憲法の改正は大日本帝国憲法第73条の規定によって行われた。この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は…憲法の改正を裁可し…」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は…この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされた。

憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。

このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。したがって、明治憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」、両者の間の法的連続性は「実質的にはなし」という解釈が取られている。

ちなみに、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。

なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものも存在する。

現行法制度との関係

大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は19

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/11/18 18:59

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「大日本帝国憲法」の意味を投稿しよう
「大日本帝国憲法」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

大日本帝国憲法スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「大日本帝国憲法」のスレッドを作成する
大日本帝国憲法の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail