このキーワード
友達に教える
URLをコピー

大正とは?

日本の歴史

関東大震災

旧石器時代 | – 紀元前14000年頃
縄文時代 | 前14000年頃 – 前4世紀
弥生時代 | 前4世紀(前10世紀) – 後3世紀中頃
古墳時代 | 3世紀中頃 – 7世紀頃
大和時代 | 前660年? – 710年
飛鳥時代 | 0592年 – 0710年
奈良時代 | 0710年 – 0794年
平安時代 | 0794年 – 1185年
鎌倉時代 | 1185年 – 1333年
建武の新政 | 1333年 – 1336年
室町時代 | 1336年 – 1573年
南北朝時代 | 1336年 – 1392年
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 | 1573年 – 1603年
江戸時代 | 1603年 – 1868年
幕末 | 1853年 – 1868年
明治時代 | 1868年 – 1912年
大正時代 | 1912年 – 1926年
昭和時代 | 1926年 – 1989年
連合国軍占領下 | 1945年 – 1952年
平成時代 | 1989年 – 2019年(予定)

Category:日本のテーマ史

大正(たいしょう)は日本元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

目次

  • 1 改元
  • 2 出典
  • 3 特徴
  • 4 護憲運動と政治
  • 5 第一次世界大戦と景気
  • 6 震災復興
  • 7 文化
    • 7.1 芸能文化
    • 7.2 都市文化
    • 7.3 スポーツの開始
    • 7.4 マスコミの発達
    • 7.5 自動車の登場
    • 7.6 食文化
    • 7.7 ファッション
    • 7.8 文化学術史
  • 8 社会問題
    • 8.1 社会事業
    • 8.2 教化総動員運動
    • 8.3 労働運動
    • 8.4 部落解放運動
    • 8.5 女性解放運動
    • 8.6 朝鮮併合問題
  • 9 年表
  • 10 西暦との対照表
  • 11 大正時代の評価
  • 12 大正を冠するもの
    • 12.1 企業
    • 12.2 地名(公共施設)
    • 12.3 テーマパーク
    • 12.4 文化作品名
    • 12.5 商品
    • 12.6 学校
  • 13 脚注
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目

改元

大正改元の詔書(1912年(明治45年)7月30日)

朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)

大正改元を朝日新聞が政府発表前にスクープした。

出典

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

特徴

大正天皇

大正時代は大正天皇の治世を指している。日本の歴史の時代区分は通常、飛鳥奈良平安鎌倉室町安土・桃山江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年1926年の14年間)で日本史で一番短い時代区分である。

平成時代(大正時代を超える期間の1989年(平成元年)〜2019年(平成31年))と安土桃山時代(1573年(天正元年)〜1603年(慶長8年))の30年間が次に短い時代区分である。

1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。また金日成が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。

大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄犬養毅らがその指導層となった。

大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民原敬(平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織した。

しかし、1921年に原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり教育制度の改善、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進したが普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された。(原敬暗殺事件)

この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。

1925年(大正14年)には、加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造民本主義美濃部達吉の明治時代の政治家の暗黙の了解だった憲法解釈を文字にして後に禍文民統制を失わせることに繋がる天皇機関説などが現れた。

1921年(大正10年)11月25日皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に亡くなって8日後に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。

その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。第一次世界大戦後には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。

大正時代は、藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。

国外では第一次世界大戦の結果としてドイツオーストリアロシアなどで君主制が廃止されていき、共和制国家が多数成立しはじめた。これらはデモクラシーの勝利とされたうえ、ロシア革命で普及し始めた共産主義思想も日本のインテリ層の思想に影響を与えた。大正期の知識人は、改造革新革命維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。大正デモクラシーの政治運動の中で、資本主義を批判する社会主義共産主義の影響力が強まった。

モガ。1923年

文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い、都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、女子事務員や電話交換手など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、デパート店員、バスガール、カフェの女給、映画女優といった新しい職業も人気となり、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した。

大正年間を通じて都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。

護憲運動と政治

1913年(大正2年)2月5日、尾崎行雄桂内閣弾劾演説(大正政変)
1913年(大正2年)2月5日、桂太郎首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は、桂首相を激しく糾弾した。
1920年(大正9年)、赤軍の攻撃により燃え落ちた日本領事館(尼港事件)
ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。

1911年(明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。

1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。

立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。

桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが、1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。

これを見た山県ら元老は、庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスドイツに宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島山東省南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。

続く寺内正毅内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。

寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。

政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。

原敬

民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。

続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、経済不況に対応して積極政策を試みたが、そのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行った。さらに山梨半造陸軍大臣よって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して、選挙権拡大の検討に入った。

加藤病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが、政友会の協力が得られず、虎の門事件により総辞職に追い込まれた。つづいて貴族院を母体とした清浦奎吾内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会革新倶楽部政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相になるのが慣習化した(憲政の常道)。

加藤内閣は宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団豊橋陸軍師団岡山陸軍師団久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の首を切る陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車自動車航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校以上の男子学校に軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず成人男子すべてに選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように革命の発火点になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮台湾樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では日ソ基本条約を結んでソ連と国交を行った。

同年12月25日に大正天皇が崩御し、大正時代は終わり、昭和の時代へと突入した。

第一次世界大戦と景気

新渡戸稲造

1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業造船業製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

パリ講和会議では、人種差別撤廃案を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得たが、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランスイタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟常任理事国となる。国際連盟事務次長には新渡戸稲造が就任している。しかしドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土領海の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争(大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなった。

震災復興

後藤新平

1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立した。新内閣の内務大臣(山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラストラクチャーが整備され、大変革を遂げた。

この際、江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、東京は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設に繋がる。

一方、この震災に乗じて、警視庁官房主事の正力松太郎らが、首都に暴動が生じるというデマを振り撒き、混乱した民衆による朝鮮人などの殺害事件が多数起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。

文化

芸能文化

日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。実はジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語講談文楽歌舞伎新派劇新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動が盛んになり、昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優女優歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した。

都市文化

小林一三
大正時代の洋風住宅(兵庫県芦屋市旧山邑家住宅)

日露戦争頃から、当時の経済文化の中心地であった大阪神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。

道路交通機関が整備されて、路面電車青バス(東京乗合自動車)円太郎バスなどの乗合バスが市内を走行して、大正後期から〜昭和初期までの大大阪時代大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。一方、日清戦争(1894年1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災<

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/07/21 20:11

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「大正」の意味を投稿しよう
「大正」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

大正スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「大正」のスレッドを作成する
大正の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail