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大正天皇とは?

第123代天皇

在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
明治45年/大正元年7月30日午前0時43分 - 大正15年/昭和元年12月25日午前1時25分

即位礼
即位礼紫宸殿の儀
1915年(大正4年)11月10日
京都御所
大嘗祭
1915年(大正4年)11月14日15日
於 仙洞御所大嘗宮
【元号】
大正: 1912年7月30日 - 1926年12月25日
摂政
長男:皇太子裕仁親王
内閣総理大臣
一覧参照

【先代】
明治天皇
【次代】
昭和天皇
【】

【誕生】
1879年(明治12年)8月31日
午前8時20分
日本東京府赤坂区(現・東京都港区元赤坂)、青山御所
【崩御】
1926年(大正15年)12月25日
午前1時25分(宝算47)
日本神奈川県三浦郡葉山町葉山御用邸
大喪儀
1927年(昭和2年)2月8日
新宿御苑
【陵所】
多摩陵(東京都八王子市長房町)
【追号】
大正天皇
1927年(昭和2年)1月19日追号勅定
【諱】
嘉仁(よしひと)
称号
明宮(はるのみや)
【印】
壽(ことぶき)
【父親】
明治天皇
【母親】
柳原愛子
【皇后】
貞明皇后
1900年(明治33年)5月10日 結婚
【子女】
昭和天皇(迪宮裕仁親王)
秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)
高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)
三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)
【皇居】
宮城
【栄典】
大勲位
【学歴】
学習院中途退学
【親署】

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年明治12年〉8月31日 - 1926年大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。嘉仁(よしひと)、称号明宮(はるのみや)。お印(じゅ)。

大日本帝国憲法及び旧皇室典範に基づき憲政史上初めて即位した。また、生涯を通じて関東(東京府)で過ごした(ただし即位の礼などは京都出身である父・明治天皇と同様、京都御所で挙行している)。


生涯

誕生

1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子(皇男子)として東京市青山御所(現在の東京都港区赤坂御用地敷地内の赤坂迎賓館)で誕生した。生母は複数人いた側室(日本独自であった一夫多妻制)の一人である典侍柳原愛子明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患った。浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。

このような状態ではあったが、明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王内親王ら4人も、第三皇子である明宮(嘉仁親王)の出生以前に相次いで薨去していたこともあり、嘉仁親王が皇太子となった。

少年時代

1892年(明治25年)、13歳当時の皇太子・嘉仁親王
1890年(明治23年)、皇太子嘉仁親王、飛鳥山公園

誕生の翌年、中山忠能の屋敷に里子に出された。1885年(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に帰宅したが、明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、嘉仁親王は家族と接する機会があまりなかった。

1887年(明治20年)8月31日、嘉仁親王は8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があったので)。東宮侍従小笠原長育より礼法教育を受ける。「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、成人後に「生母が柳原愛子(幼少時からお側でお使えしていた)」と言われてもなかなかそれを信じなかった。

同年9月学習院に入学。しかし、健康に優れず、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことから、学業に集中できず留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。

1889年(明治22年)11月3日、旧皇室典範の制定により嘉仁親王は皇太子となり、立太子の礼を挙行し、同時に大日本帝国陸軍歩兵少尉に任じられて大勲位菊花大綬章に叙された。

他方、学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があったが、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして学習院を中退し、その後は赤坂離宮で個人指導を受けた。この時に帝王学の一環として重視された教科は、フランス語国学漢文であり、特に漢文を教授した川田甕江からは大きな影響を受け、漢詩作成を趣味としたという。

父帝・明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に委任しきりであった皇太子嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に施すため、新たに東宮輔導の職を設け、皇族の有栖川宮威仁親王を親任した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、自身の第三皇子(第3子)である宣仁親王高松宮の称号を授与することで、有栖川宮の祭祀を継承させている。

成婚・巡啓の日々

1897年(明治30年)8月31日、皇太子嘉仁親王は満18歳となり、貴族院皇族議員となった。祖母・英照皇太后の喪中のため、成年式は翌年の1898年(明治31年)に延期された。

1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九条節子(くじょう さだこ)と成婚した。このとき妻の節子は15歳であった。この早い成婚については、「病弱の皇太子に早めの成婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記述しているが、両親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、成婚は非常に嬉しい出来事だったようである。成婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室制度自体を事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

  • 明治33年(1900年)、結婚の儀に親臨する皇太子嘉仁親王

  • 明治33年(1900年)、結婚の儀に親臨する九条節子

健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。明治天皇や昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である(#人物像の節に詳述)。

1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王(李垠)、皇太子嘉仁親王、韓国皇帝・純宗、有栖川宮威仁親王、後列最左は伊藤博文
1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従

1907年(明治40年)、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、皇帝・純宗や皇太子・李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。

また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行っており、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行を歓迎する報道がなされたが、父・明治天皇の反対により洋行は実現されなかったという。次代の第1皇男子・皇太子裕仁親王(摂政宮、後の昭和天皇)は1921年(大正10年)にヨーロッパ訪問を行っている。

明治の末期頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している。また、エルヴィン・フォン・ベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している。

践祚・即位

貞明皇后(旧名:九条節子)

1912年(明治45年/大正元年)7月30日、父である明治天皇崩御を受けて皇位継承、第123代天皇に践祚し「明治」から「大正(たいしょう)」へと改元した。践祚直後に起こった大正政変では、天皇の詔勅を利用して反対勢力を押さえ込もうとする桂太郎(大日本帝国憲法下で最長期政権を記録した内閣総理大臣、歴代首相で通算在職日数は日本国憲法下も含めると安倍晋三に次ぐ第2位)の言われるがままに詔勅を次々と渙発し、立憲君主制とはいえ、「父の明治天皇と異なり、政治的な判断が不得手である」ということが国民の目からも明らかとなった。

践祚後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々を送ることとなる。しかし、1913年(大正2年)5月には肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要した。その後は葉山御用邸および日光田母沢御用邸で静養に務めた。葉山に滞在中はヨット「初加勢」で城ケ島へクルーズし、随員が船酔いにかかる中で天皇だけが壮健な様子を示し、周囲を感激させている。この夏を境に、定期的に御用邸での静養が取り入れられた。

旧皇室典範および登極令に基づく即位の礼大嘗祭など一連の儀式は1914年(大正3年)に行われる予定であったが、昭憲皇太后の崩御に伴う服喪のため1年延期となり、1915年(大正4年)11月に京都御所で即位の礼が、仙洞御所内に造営された大嘗宮で大嘗祭が、大饗が二条離宮(二条城)でそれぞれ執り行われた。なお、皇后節子は第4子(四男:澄宮崇仁親王)懐妊中のため、皇太子裕仁親王は未成年のため、いずれもこれらの儀式に参加していない。

またこの間の1914年(大正3年)8月23日に、イギリス帝国との日英同盟を締結していた日本はドイツ帝国に宣戦布告を行い(大隈重信首相、第2次大隈内閣)、第一次世界大戦に参戦した(→第一次世界大戦下の日本)。従って、即位の礼等の儀式に中央同盟国の外交使節団は参加していない。

1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、初代朝鮮総督寺内正毅首相率いる寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。

御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、ただでさえ僅かばかりである天皇の自由をさらに奪われていくことになった。

皇太子裕仁親王への摂政任命

大正天皇の4人の皇子
左から迪宮裕仁親王、澄宮崇仁親王、淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王。
1921年(大正10年)撮影

1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を病欠することが多くなる。1919年(大正8年)の年末には食事を摂ることも勅語を音読することもできなくなるほど病状は悪化していた。1920年(大正9年)3月26日東京帝国大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した。これを受けて松方正義内大臣原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした。

またこの間、1918年(大正7年)11月11日第一次世界大戦が終結し、連合国の一国「五大国」として戦勝国の一員となった日本は、その後のパリ講和会議にも参加し、国際連盟常任理事国の地位を得るなど、アジア・太平洋地域での自国の権益を拡大していった。

摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ばからである。5月から8月末日までに、原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まった。10月4日に宮内省(現在の宮内庁)から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、各宮家から了解を取り、10月11日には妻・貞明皇后の了解を得、10月27日には松方内大臣が大正天皇と当時20歳だった第1皇男子の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の承諾を得た。

原首相暗殺事件を挟み、11月20日には「宮中重要会議」が近いことが新聞報道され、22日には議題が皇室典範の摂政に関する条項に関連すること、24日には議題が「皇太子殿下の重大御任務」であることなど、間接的表現で皇太子の摂政就任が近いことが報道された。そして11月25日午前11時に皇族会議が皇太子を議長として開かれ、摂政設置案を満場一致で可決。午後1時には枢密院会議が開かれ、皇族会議の発議に対して満場一致で同意する。枢密院会議が午後2時に終了した直後の午後2時30分に、天皇は詔書を発し、皇太子裕仁親王を摂政に任命した。

同時に宮内省から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。

晩年、崩御

1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪儀
大正天皇の葬儀、東京市内。

1922年(大正11年)4月にイギリスエドワード王太子(後の国王エドワード8世、現在のエリザベス2世女王の伯父)が訪日し1か月近く滞在した際、大正天皇の病状を憚った日本側は天皇とイギリス王太子(皇太子)の面会を設定しなかった。一方、6月20日には第1皇男子の摂政宮皇太子裕仁親王と久邇宮家の良子女王(香淳皇后)の婚姻の勅許を下している。

1925年(大正14年)5月10日には成婚満25年の節目を迎え、摂政宮皇太子裕仁親王らから賀詞を受けた他、貞明皇后とともに夫妻で久々に謁見所に出御、皇族総代、加藤高明内閣総理大臣、濱尾新枢密院議長から奉祝を受けている。同年12月19日に重度の脳貧血の発作を起こし、貞明皇后も驚愕、翌日未明まで看病を続けたがこの心労で皇后も体調を崩し、半月ほど寝込むほどであった。これ以降、大正天皇は4ヶ月に渡りほぼ寝たきりとなった。

1926年(大正15年)5月8日には病床を離れ、歩行も可能となったが同月11日には再度脳貧血の発作が見られ、病床に就いた。8月10日、大正天皇は帯で縛りつけられるようにして車に乗せられ、原宿駅から葉山へ向かった。その後、大正天皇の病状悪化はとどまらず言語障害、記憶障害、歩行困難に加えて神経痛も進み、仕人(つこうど)の小川金男によれば「手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手の平にリンゴをおのせして、それから一本一本指を曲げてさし上げ」るような状態となった。

その後、大正天皇は日光・沼津の各御用邸で転地療養を続けた後、1926年(大正15年)8月10日に葉山の御用邸に転地して以来、しばらくは病状が落ち着いていたが、9月11日に脳貧血の発作を再発、10月下旬には食欲が減退、気管支炎の症状もみせ、日中でも寝ていることが増えてきた。

11月に病状悪化が進み、同月下旬以降には体温が上昇、やがて流動食しか喉を通せなくなった。12月8日に再び気管支炎が悪化、体温上昇も著しくなり、翌日以降も症状は改善せず、大正天皇は病床で療養する日々が続いた。

このようななか、宮内省から『天皇陛下御異例』と言う見出しで病状経過の発表があったのが12月15日であった。同時の9月11日に「脳貧血の御症状」を再発、10月27日から「御睡眠勝ちにして御食気減少」し、11月14日以降は「軽微なる御せきおよび少量の御かく痰あらせら」れ、12月に入ると「御体温昇騰し御脈拍御呼吸数とも増進」したことが明かされた。その翌日12月16日には「天皇御病状頗る重篤」に陥り、各皇族、王族、元帥、閣僚らが続々と参邸する事態となった。

東京日日新聞など新聞各紙は16日以降、連日、号外を出して一進一退する大正天皇の病状を伝えた。しかし24日、冬の陽光に包まれていた葉山御用邸は午後から厚い雲に覆われ、いつしか雪も舞い始め、雷鳴も響いた。同日の東京朝日第1号外には「今朝の御容体 暫次不良に拝す」、第2号外には「聖上陛下御容体 御険悪に向はせ給ふ」、第3号外には「益々御危険」、第4号外には「全く御絶望」、25日、同第1号外には「聖上御危篤」と発表された。

同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母の柳原愛子(二位局)の手を握ったまま心臓麻痺により崩御。宝算47。

臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后の配慮だったという。

これに伴い、「大正」から「昭和」に改元、摂政宮皇太子裕仁親王が皇位継承し、第124代天皇として践祚する(昭和天皇)。

崩御後の1927年(昭和2年)1月19日、父の明治天皇の先例に倣って、在位中の元号が用いられ「大正天皇(たいしょうてんのう)」と追号される(昭和天皇勅定)。

1927年(昭和2年)2月8日新宿御苑にて大喪儀が執り行われる。これは、大日本帝国憲法及び旧皇室典範下での最後の(天皇の)大喪となる。同日、天皇として史上初めて関東の地にある多摩陵(東京都八王子市長房町)に葬られた。毎年12月25日には大正天皇例祭が行われている。

大正天皇には皇兄が二人(稚瑞照彦尊建宮敬仁親王)いるが共に自身の誕生前に薨去している。2019年(令和元年)現在、天皇の次男(第二皇子)以後の続柄にあたる親王(皇子/皇男子)が皇太子となり(立太子)皇位を継承した最後の事例であり、次代以降の昭和天皇(長男)、上皇(孫)、今上天皇(曾孫)の続柄はいずれも父帝たる天皇から見て長男(第一皇子/皇男子)にあたり、いわゆる男系(父系)男子の長子相続によって皇位が継承されている。

皇子

妻の貞明皇后との間に、(女子はなく)4人の皇男子をもうけた。

連合国軍占領下の日本1947年(昭和22年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令によって、11宮家に属した伏見宮系の皇族51人皇籍離脱した際、大正天皇の皇子すなわち昭和天皇の弟宮たる秩父宮家、高松宮家、三笠宮家の直宮3家皇室に留まった。

御称号及び身位 読み 生年月日 没年月日 続柄 備考
 | 迪宮裕仁親王 | みちのみや ひろひと | 1901年〈明治34年〉
4月29日 | 1989年〈昭和64年〉
1月7日(満87歳没) | 第一皇男子
(第1子) | 良子女王(久邇宮家)と結婚(→香淳皇后)。
摂政:1921年(大正10年)11月25日
1926年(大正15年)12月25日
昭和天皇(第124代天皇)
子女:2男5女(7人)
 | 淳宮雍仁親王 | あつのみや やすひと | 1902年〈明治35年〉
6月25日 | 1953年〈昭和28年〉
1月4日(満50歳没) | 第二皇男子
(第2子) | 松平節子と結婚(→雍仁親王妃勢津子)。
秩父宮雍仁親王(宮号:秩父宮家)
子女:無し。
 | 光宮宣仁親王 | てるのみや のぶひと | 1905年〈明治38年〉
1月3日 | 1987年〈昭和62年〉
2月3日(満82歳没) | 第三皇男子
(第3子) | 徳川喜久子と結婚(→宣仁親王妃喜久子)。
高松宮宣仁親王(宮号:高松宮家)
断絶した有栖川宮家の祭祀を継承。
子女:無し。
 | 澄宮崇仁親王 | すみのみや たかひと | 1915年〈大正4年〉
12月2日 | 2016年〈平成28年〉
10月27日(満100歳没) | 第四皇男子
(第4子) | 高木百合子と結婚(→崇仁親王妃百合子)。
三笠宮崇仁親王(宮号:三笠宮家)
子女:3男2女(5人)

系譜

大正天皇の系譜
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 | 16.第119代 光格天皇

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 | 8.第120代 仁孝天皇 | 


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 | 17.勧修寺婧子

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 | 4.第121代 孝明天皇 | 


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 | 18.正親町実光

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 | 9.正親町雅子 | 


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 | 19.四辻千栄子

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 | 2.第122代 明治天皇 | 


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出典:wikipedia
2020/04/07 16:32

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