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大相撲とは?

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大相撲(おおずもう)は、

  1. 日本相撲協会が主催する相撲興行
  2. がっぷりと四つに組んだ力士同士の力が拮抗する取組。取り組みがおおよそ4分を超えると「水入り」になる場合がある。

公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、日本国内外における相撲興行のなかで最も有名な競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館国技#日本の国技を参照)。 土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる(見た目が男性であるゲイトランスジェンダー、あるいは半陰陽に関する規定は無い)。

相撲絵(歌川国貞、1860年代)
相撲競技場全体図
大相撲の力士を応援する

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 江戸時代
    • 1.2 明治・大正
    • 1.3 昭和戦前から戦後初期
    • 1.4 昭和戦後
    • 1.5 平成
  • 2 興行
    • 2.1 本場所
    • 2.2 地方巡業
    • 2.3 花相撲
    • 2.4 海外公演
    • 2.5 海外巡業
  • 3 横綱
  • 4 番付
    • 4.1 昇進と降格
  • 5 取組
  • 6 優勝制度
    • 6.1 優勝制度の不公平
  • 7 力士の条件と待遇
    • 7.1 力士の条件
    • 7.2 力士の報酬
      • 7.2.1 給与
      • 7.2.2 賞与
      • 7.2.3 本場所特別手当
      • 7.2.4 出張手当
      • 7.2.5 力士補助金
      • 7.2.6 力士褒賞金
    • 7.3 力士養成員の報酬
    • 7.4 副業の制約など
    • 7.5 懸賞金
    • 7.6 力士の退職金
      • 7.6.1 養老金
      • 7.6.2 勤続加算金
      • 7.6.3 特別功労金
    • 7.7 力士の待遇
      • 7.7.1 待遇の歴史
    • 7.8 退職
  • 8 伝統とそれによる問題点
    • 8.1 閉鎖性
    • 8.2 出身地による参加機会の不均等
    • 8.3 女人禁制
    • 8.4 志願者の減少と意識の変容
    • 8.5 その他
  • 9 他国からの表彰
  • 10 大相撲を主題とした作品
    • 10.1 テレビゲーム
    • 10.2 モバイルゲーム
    • 10.3 落語
    • 10.4 雑誌
      • 10.4.1 現在刊行中
      • 10.4.2 かつて刊行していた雑誌
    • 10.5 小説
    • 10.6 漫画作品
    • 10.7 映画作品
    • 10.8 テレビドラマ
    • 10.9 その他
  • 11 大相撲ファンの著名人
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 関連書
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

歴史

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現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。

大小のを佩刀し武士と同じ待遇であった力士

江戸時代

興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた。

ところが、1657年明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社蔵前八幡芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである。

『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。

江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。

しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。

各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。

1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。

幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍マシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。

1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。

明治・大正

明治中頃
訪米中の常陸山

明治維新文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。

東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。

この頃から映像が映され出し、小錦大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。

20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。

1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。

1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制導入などの制度や規則が導入されて相撲の近代スポーツ化がすすめられた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。

1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでのから烏帽子直垂となった。

1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。

興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。

1925年皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。

昭和戦前から戦後初期

1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。

この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。

1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。

1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。

69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。

第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。

戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。

昭和戦後

1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。

1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間行われた(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。

横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。

栃錦初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。

国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。

1971年に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。

1972年1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。

1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。

1985年1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。

平成

平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が師匠貴ノ花健士の息子である若乃花勝貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。

2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀エストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。

2000年後半から不祥事が相次ぎ、2008年には力士による大麻取締法違反事件の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。一旦は収束したかに見えたが、2017年以降、巡業中に横綱による力士への酒席での暴行など部屋内外での暴力行為の続出、立行司によるセクシャルハラスメント行為の発覚、十両力士による道路交通法違反(無免許運転)行為等、当事者の進退に直結する不祥事が続出。さらに地方巡業中に挨拶に立った政治家が土俵上で倒れた際に救護に駆け付けた女性看護師に対し、土俵から降りるよう行司により複数回アナウンスされるなど、巡業における救命体制や「女人禁制」との問題点が日本国内はもとより海外にも記事が配信され、国際的に批判を浴びている。

2014年1月30日公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける。

土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)


興行

大相撲の興行としては、本場所と巡業が大きなウェイトを占める。

本場所

詳細は「本場所」を参照

本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2018年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。本場所#概要を参照)。

【開催月】
【正式名称】
【通称】
開催場所
1月 | 一月場所 | 初場所 | 両国国技館
3月 | 三月場所 | 春場所 | エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)
5月 | 五月場所 | 夏場所 | 両国国技館
7月 | 七月場所 | 名古屋場所 | ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)
9月 | 九月場所 | 秋場所 | 両国国技館
11月 | 十一月場所 | 九州場所 | 福岡国際センター

地方巡業

本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを巡業という。かつては各部屋や一門別に巡業を行っていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。

地方巡業は、各地の興行の希望者(「勧進元」)が協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形で長年行われてきた(売り興行)。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。

地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。

花相撲

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記事の体系性を保持するため、リンクされている記事の要約をこの節に執筆・加筆してください。(使い方)

詳細は「花相撲」を参照

海外公演

海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。

【回数】
【開催年月】
【名 称】
【都 市】
備 考
第1回 | 1965年7月-8月 | ソ連公演 | モスクワハバロフスク | 日ソ復交調印10周年記念
第2回 | 1973年4月 | 中国公演 | 北京上海 | 日中国交正常化記念
第3回 | 1981年6月 | メキシコ公演 | メキシコシティ | 
第4回 | 1985年6月 | アメリカ公演 | ニューヨーク | 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念
第5回 | 1986年10月 |  パリ公演 | パリ | 東京パリ友好都市提携5周年記念
第6回 | 1990年6月 | ブラジル公演 | サンパウロ | 
第7回 | 1991年10月 |  ロンドン公演 | ロンドン | ロンドン日本協会設立100周年記念
第8回 | 1995年10月 |  ヨーロッパ公演 | ウィーン、パリ | 
第9回 | 1997年6月 | オーストラリア公演 | メルボルンシドニー | 日豪外交100周年記念
第10回 | 1998年6月 | カナダ公演 | バンクーバー | 
第11回 | 2004年2月 | 韓国公演 | ソウル釜山 | 日韓共同未来プロジェクト
第12回 | 2004年6月 | 中国公演 | 北京、上海 | 日中定期航空路線開設30周年記念
第13回 | 2005年10月 |  ラスベガス公演 | ラスベガス | ラスベガス市制100周年記念
第14回 | 2009年10月(中止) |  ロンドン公演 | ロンドン | 世界的な不況により中止
第15回 | 2013年6月(延期) |  モスクワ公演 | モスクワ | 

海外巡業

協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。

国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、高見山大五郎もここでスカウトされた。

【回数】
【開催年月】
【名称】
【都市】
備考
第1回 | 1962年6月 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 
第2回 | 1964年2月 |  ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | 角界拳銃密輸事件が起こる
第3回 | 1966年 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 
第4回 | 1970年6月 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 
第5回 | 1972年2月 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 
第6回 | 1974年6月 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 
第7回 | 1976年6月 |  ハワイ、ロサンゼルス巡業 | ホノルル、ロサンゼルス | 
第8回 | 1981年6月 |  アメリカ巡業 | サンノゼ、ロサンゼルス | 
第9回 | 1992年6月 |  スペイン ドイツ巡業 | マドリードデュッセルドルフ | 
第10回 | 1993年2月 |  香港巡業 | 香港 | 
第11回 | 1993年6月 |  アメリカ巡業 | ホノルル、サンノゼ | 
第12回 | 2006年8月 |  台湾巡業 | 台北 | 13年ぶりに海外巡業が復活
第13回 | 2007年6月 |  ハワイ巡業 | ホノルル | 14年ぶりのハワイ巡業
第14回 | 2008年6月 |  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/12/01 03:56

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