大阪市(おおさかし)は、大阪府中部に位置する市。大阪府の府庁所在地であり、政令指定都市である。
大阪市は、近畿地方および西日本の行政・経済・文化・交通の中心都市である。
市域を中心(首位都市)として、大阪都市圏および京阪神大都市圏が形成されている。大阪市の2016年度の市内総生産は約20兆円で、政令指定都市中最大であり、2倍から3倍の人口を擁する北海道や千葉県、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回る。また、市町村最大の約370万人の人口を誇る横浜市の約1.5倍の市内総生産を誇る。さらに京阪神大都市圏の圏内総生産は、国内では首都圏に次ぎ、世界的にも上位にある。
夜間人口は横浜市に次いで全国2位の約275万人、人口密度は全国の市で5位(政令指定都市中で1位)、昼間人口は市外から多くの通勤・通学者が流入するため約354万人であり、昼間人口が約340万人の横浜市を上回り全国第1位。
面積は、全国に20市ある政令指定都市の中でも川崎市、堺市、さいたま市に次ぎ4番目に小さく、横浜市のおよそ半分、名古屋市のおよそ3分の2程度であるが政令指定都市の中では行政区が24区と最多であるため面積が10kmに満たない行政区がほとんどである。
近年では都心回帰が顕著で、大阪都心9区(北区、中央区、西区、天王寺区、浪速区、福島区、都島区、淀川区、阿倍野区)を中心に人口が増加傾向にある。
古代より瀬戸内海・大阪湾に面した立地から、住吉津や難波津などの港を持ち、港湾都市、国内流通の中心として栄えて水の都と称された。
中世には、渡辺津や浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として商工業が発展。
近世初期には、古代から生国魂神社や難波宮が存在した上町台地の先端付近に豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。
江戸時代には天領となり、経済・交通・金融・商業の中心地として発展。堂島米市場が置かれ、当時の経済の中心であった米の中央市場として機能した。大坂は天下の台所と称され、商業の町で豊かな町人文化を育んだ。
明治時代に入ると、繊維工業(船場の繊維街なども有名)を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。
1925年に第2次市域拡大を行い、その結果人口は211万人に到達し、1923年の関東大震災で被害を受けた当時の東京市を上回り、面積・人口・工業出荷額において日本一位、人口世界6位の大都市へと成長し、この当時を「大大阪時代」と呼ぶ。都市計画学者である関一が第7代大阪市長を務め、現在におけるメインストリートである御堂筋の拡張やその地下に日本初の公営地下鉄である旧大阪市営地下鉄(現在の大阪市高速電気軌道)御堂筋線の一部(梅田駅-心斎橋駅)が建設されるなど、現在につながる大阪の基礎を作り上げた。
他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。
Osaka Metro(大阪市高速電気軌道)の御堂筋線が市内における最重要路線として機能しており、新大阪駅-梅田駅-難波駅-天王寺駅といった重要な駅を南北に直線的に結んでいる。また、在阪の大手私鉄5社の主要路線のターミナル駅は全て御堂筋線の駅と接続している。梅田を中心としたキタや心斎橋・難波を中心としたミナミが2大繁華街として発展。商業の中心地として機能している。他にも天王寺や新世界、京橋といった繁華街を擁する。中之島・淀屋橋や北浜界隈の大阪市の伝統的なオフィス街には、金融街が形成されている。また、梅田界隈や大阪ビジネスパーク(OBP)はオフィスビルが林立し、超高層ビル群を形成している。市役所の所在する中之島から難波宮、大阪城にかけては、官公庁や公的機関が数多く立地。大阪府の面積は47都道府県で2番目に狭く、元々は大阪市にあった大阪大学や関西大学、近畿大学なども土地が広い市外に大部分の拠点を置いている大学が多いため、人口規模に対して市内の大学の数は少ない。
日本の民間研究所が2019年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界29位と評価された。また、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングにおいて、世界50位の都市と評価された。イギリスのシンクタンクが発表した2020年の報告書によると、世界59位の金融センターと評価されている。
2020年11月1日、大阪都構想の投票結果で反対多数が賛成派より上回ったため、大阪市が存続された。
大阪市は自然動態が減少する一方で社会動態がそれを上回る増加数を記録しているため、2020年3月1日における推計人口は2,744,379人であり、前年同月の人口と比べると17,454人増加している。
また都心部では近年、目抜き通りのオフィスビルの容積率が緩和してきたため新築のオフィスビルが増え、老朽化したオフィスビルの跡地に高層マンションが建てられるようになったその結果人口が急増し、都心部の小学校などでは教室の数が足りず増築工事などを行なっている小学校もある
近年、比較的単身赴任などでの転入が多いため大阪市は一世帯当たりの人員が約1.91人と政令指定都市内では最も少なくなっている
梅田、難波といった繁華街を有する北区や中央区、浪速区、淀川区などでは人口が増加傾向にあるが、西成区では歯止めのかからない人口減少に悩まされており、南部と南東部の区を中心に人口が減少している。
大阪市の人口はドーナツ化現象の影響で1965年の3,156,222人をピークに減少を始めたが、その後は都心回帰の傾向が強まり減少幅が緩やかになり再び増加に転じた。最近では自然減少を上回る社会増加が続いているため2017、2018年共に大阪市が全国2位(市町村別)の人口増となっている。
2020年の人口移動報告(外国人を含む)によると、大阪市は16,802人の転入超過(転入者が転出者を上回る)となっている。これは同年の東京23区(13,034人の転入超過)より多く、市町村別で全国最多である。
大阪市は、淀川の河口に開けた古くからの港湾都市で、瀬戸内海と京を繋ぐ水運の要を担い、西日本の物流の中心として栄えてきた。 市内の地形は全体的に平地であるが一部標高が20メートル以上になる地点もある。
また、近畿地方最大の都市として、近隣の神戸市・京都市とあわせて京阪神と称する。市域の西部は大阪湾に面し、沿岸北西部にかけて阪神工業地帯が広がる。市内経済総生産は約22兆円に達し、近畿経済圏の中心地である。
大阪市を含め府内全域が瀬戸内海式気候に属し、年間を通して温暖である。夏は非常に蒸し暑く、全国有数の酷暑地帯である。特に夜が寝苦しく、年平均熱帯夜日数は本土の官署では鹿児島市(51.6日)・神戸市(43.1日)に次いで3番目に多い37.4日で、7月から8月にかけての一か月以上は平年値でも熱帯夜である。8月の平均気温は28.8℃であり、那覇市を含め全国の都道府県庁所在地の中では一番高い平均気温となっている。近年は都市化によるヒートアイランド現象の影響で、郊外に比べ夜間の気温が低下しにくく、熱帯夜の増加、冬日の減少が顕著である。
大阪府
上町台地は約12万年前の間氷期(リス・ウルム間氷期)に海底に堆積した地層である。そこには河内湾より一回り大きな上町海が存在した。気候が涼しくなり始めた約11万年前に陸地が現れ始めた。このできたばかりの陸地にはナウマンゾウやヤベオオツノジカやムカシニホンジカの群れがやってきていた。氷期に移り変わる約7万年前には、上町海が退いて古大阪平野が広がり、そこには針葉樹と広葉樹が混じる林が繁り、その木々の間を川が丘陵から低地へと網目状になって流れ下っていた。この川を渡るゾウやシカの群れの足跡の化石として残っている。ゾウの遺体としては臼歯が1個であるが、足跡化石は千個以上見つかっている。 大阪で最も古い旧石器は、大阪市平野区の長原遺跡から出土した石器群110数点で、約3万数千年前の後期旧石器時代の初期と考えられる。それは、これらの石器の出土層より上位層の火山灰層が姶良Tn火山灰であったことから年代の推定ができる。石器群はサヌカイト製の2 - 3センチメートルの小石器と削器・掻器などの加工具であった。
縄文海進により大阪湾が発生、南部から突き出た上町台地を砂嘴とする半島ができ、東部は河内湾となる。縄文時代中期には既に人が集住し、漁撈・採集などの生活を営んでいたことが、森之宮付近の遺跡から明らかになっている。弥生時代になると半島は砂州となり河内湾は淡水化、やがて河内湖となる。河内湖周辺は自然環境に恵まれており、農耕の発展により大規模集落が出現し、海運や大陸との交易の拠点となる。
大阪湾の奥、淀川・大和川の河口に突き出た上町台地が大阪市の町の原点である。天忍日命を始祖とする大伴氏や天忍人命を始祖とする津守氏が本拠を置いた場所であり、神武天皇は即位前、難波埼 (なにわさき) に生国魂神社を創建。古墳時代、応神天皇の難波大隅宮 (なにわのおおすみのみや) や仁徳天皇は難波に都を定め宮居を難波高津宮 (なにわのたかつのみや) とし、以後、上町台地には欽明天皇の難波祝津宮 (なにわのはふりつのみや) 、孝徳天皇や聖武天皇の難波宮 (なにわのみや) などが営まれた。難波高津宮は単に高津宮とも。現在の高津宮(高津神社)はこの宮の遺跡を探索しその地に社殿を築き祭祀を行ったことに始まるとされ、元々は生國魂神社、大阪城辺りにあった。)。飛鳥時代には難波宮で大化の改新が行なわれ、以後、日本という国号の使用と共に元号の使用が始まったとされる。大化は日本で最初の元号となり政治の中心も置かれ、後には難波京が置かれ、住吉津や難波津、中世には渡辺津と大阪平野や奈良盆地の政治勢力の瀬戸内海における港湾都市、国内流通の中心であり、首都や副都が置かれた。律令国では摂津国の範囲。
中世には京都に政治の拠点が移動した為、その瀬戸内海の外港の地位も大輪田泊や神崎などに移ったが、その間も四天王寺や住吉大社周辺は宗教的な要地として、また渡辺津は熊野や住吉巡礼の拠点・淀川河口の拠点としてある程度栄えていた。 南北朝時代には後村上天皇の皇宮(住吉行宮)が約10年間、住吉大社宮司の津守氏の住之江館(正印殿)に置かれ、次の長慶天皇もここで即位。 その後蓮如により上町台地突端に石山本願寺が開かれ、全国の浄土真宗の本山となった。その寺内町では商工が発展した。
織田信長によって破壊された石山本願寺の跡地に、豊臣秀吉が大坂城を築いて再び政治の中心となり、同時に大規模な城普請で人と物資が集まって再び経済の中心地 (本格的に日本経済の中心になったのは江戸時代になり100年程経過してからである) となった。しかし、1615年の大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏も滅ぼされた。1619年、大坂城下は江戸幕府の天領となり復興、幕府の派遣した大坂町奉行が支配するところとなる。江戸はまだ出来たばかりで商品生産力がない上、参勤交代で大名・家来などによって大消費地となった。大坂城以前から自治都市を形成し、朱印船貿易で活躍した豪商末吉孫左衛門などを輩出した平野郷の平野商人の平野や、京都伏見商人の伏見はその後、平野町、伏見町として大坂の町名に残るものとなる。江戸へは当時の工業都市である京などから大坂を経由して菱垣廻船・樽廻船で物資が運ばれた。淀屋などが活躍した中之島周辺にはさらに各藩の蔵屋敷が集積し、北前船も入港して、大坂は「天下の台所」として経済・商業の中心的役割を担った。付随して、裕福になった町人により、文楽を始めとした様々な文化が生み出された。また河川・運河とそれに架かる橋の多さから、江戸の「八百八町」