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大阪近鉄バファローズとは?

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出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2009年10月)

大阪近鉄バファローズ
会社名 株式会社大阪バファローズ
創設年度 1949年
解散年度 2004年
ロゴデザイン

所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

近鉄パールス(1949年 - 1958年)
近鉄バファロー(1959年 - 1961年)
近鉄バファローズ(1962年 - 1998年)
大阪近鉄バファローズ(1999年 - 2004年)
オリックス・バファローズによる吸収合併によって球団消滅


本拠地
大阪ドーム(解散時)

収容人員 36,477人(大阪ドーム)
フランチャイズの遍歴

大阪府(1952年 - 2004年)


永久欠番

1:鈴木啓示



獲得タイトル
日本一(0回)

なし


リーグ優勝(4回)



成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(4回)(太字は勝利した年)


プレーオフ(前後期制)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

2勝1敗




球団組織
オーナー 田代和(解散時)
運営母体 近畿日本鉄道(解散時)
監督 梨田昌孝(解散時)

株式会社大阪バファローズ
Osaka Buffaloes
種類
株式会社
【本社所在地】
大阪府大阪市天王寺区上本町6-1-55(登記上本店)
大阪府大阪市中央区難波2-2-3 御堂筋グランドビル7階
(球団解散時の事務所)
【設立】
1999年9月
(株式会社大阪近鉄バファローズとして設立)
業種
サービス業
【事業内容】
プロ野球興行事業など
【代表者】
オーナー 田代和
代表取締役社長 小林哲也
【主要株主】
近畿日本鉄道 100%
【関係する人物】
佐伯勇(球団創設者)
特記事項:2005年3月31日解散、同年6月20日清算終了。

大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本プロ野球球団で、パシフィック・リーグに加盟していた。

目次

  • 1 概要
  • 2 球団の歴史
    • 2.1 近鉄パールス時代
    • 2.2 近鉄バファロー時代
    • 2.3 近鉄バファローズ時代
      • 2.3.1 別当監督時代
      • 2.3.2 岩本監督時代
      • 2.3.3 小玉監督時代
      • 2.3.4 三原監督時代
      • 2.3.5 岩本監督時代
      • 2.3.6 西本監督時代
        • 2.3.6.1 10.7決戦
      • 2.3.7 関口、岡本監督時代
      • 2.3.8 仰木監督時代
      • 2.3.9 鈴木、佐々木監督時代
    • 2.4 大阪ドーム時代
      • 2.4.1 佐々木監督時代
      • 2.4.2 梨田監督時代
        • 2.4.2.1 2004年プロ野球再編問題
    • 2.5 2005年以降
  • 3 球団愛称
  • 4 在籍選手
  • 5 タイトル獲得選手
    • 5.1 総合
    • 5.2 打撃部門
    • 5.3 投手部門
    • 5.4 ベストナイン
    • 5.5 ゴールデングラブ賞
    • 5.6 正力松太郎賞
  • 6 選手記録
    • 6.1 通算最多記録
  • 7 その他のチーム記録
  • 8 歴代監督
  • 9 歴代オーナー
  • 10 歴代本拠地
  • 11 永久欠番
  • 12 チームの特徴
  • 13 ユニフォームの変遷
  • 14 球団旗の変遷
  • 15 シンボルマーク・マスコット
  • 16 応援スタイル
  • 17 主な球団歌・応援歌
  • 18 エピソード
    • 18.1 三軍構想
    • 18.2 ミケンズルール
    • 18.3 「巨人はロッテより弱い」
    • 18.4 ネーミングライツ問題
    • 18.5 過去の合併計画
    • 18.6 幻の移転計画
  • 19 脚注
    • 19.1 注釈
    • 19.2 出典
  • 20 参考文献
  • 21 関連項目

概要

一軍は大阪府保護地域とし、大阪市西区にある大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)を、二軍(ウエスタン・リーグ所属)はかつて一軍の本拠地だった藤井寺球場を本拠地にしていた。

球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。

1999年3月末までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。

2004年、球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。

オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。このような、球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ以来の出来事となる。

合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。

1944年6月から1947年5月まで南海鉄道関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリングとの球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。

球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中では、4回出場した日本シリーズで優勝していない唯一の球団であった。

球団の歴史

近鉄パールス時代

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」とも揶揄(やゆ)された。

1949年近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社)が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。「パール(真珠)」は近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなことから命名された。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現:近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かったため、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明(東急フライヤーズ)、森下重好田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。

1950年

開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し2対6で敗戦。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる(その2選手も翌年には退団)。

1951年

この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。

1952年

8月に13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に30勝78敗、3割に満たない勝率で3年連続最下位に終わる。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 小玉明利鈴木武ら後に中心となる新人補強に加え、独特の練習スタイルで結果を出す。

1953年

開幕直後には9連勝するなど、5月8日に一時期ながら首位に立つが、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える。

1954年

8月7日に新人の山下登が対高橋ユニオンズ戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成している。74勝63敗5分で、創立以来初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄最多勝鈴木武盗塁王を獲得しており、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった。

1955年

序盤から投手陣が大不振。6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる。

1956年

4月から開幕10連勝と勢いをつけたが、終盤に失速し5位。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった。

1957年

この年パリーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「世間はそれは近鉄だろうと思っていた」と述べ、大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだと述べている。6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている。加藤春雄はオフに監督就任。

1958年

開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久の33勝を下回り、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤春雄が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。

近鉄バファロー時代

1959年

5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。

1960年

43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。

1961年

日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった。新人の徳久利明が15勝を挙げ球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている。シーズン終了後、千葉茂が監督を辞任し、別当薫が就任。

後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている。

近鉄バファローズ時代

「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。

別当監督時代

1962年

チーム名を近鉄バファローズに改名。ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を、28勝を挙げた久保征弘最多勝を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。

1963年

5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。

1964年

この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。選手だった関根潤三に対して球団の中には「監督をやれ」と言ってくれる人もいたが、関根は「選手兼任にしても、現役を引退するにしても、監督になる気はなかった青春を棒に振りたくなかった」と巨人から移籍の話が来て巨人へ移籍し近鉄を退団した。

岩本監督時代

1965年

優勝した南海と42.5ゲーム差で2年連続の最下位。この年第1回プロ野球ドラフト会議が行われ、2位指名で鈴木啓示が入団している。

1966年

48勝82敗で3年連続最下位。シーズン終了後、岩本義行が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利選手を兼任のまま監督就任。

小玉監督時代

1967年

4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社(2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり4年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。

三原監督時代

1968年

西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。

1969年

5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。

1970年

5月14日黒い霧事件に関連し球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆吉沢岳男高木喬の4名に山崎が八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まった。しかし、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任を鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭が監督に昇格した。

岩本監督時代

1971年

3位。

1972年

序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている。

1973年

パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井がで唯一打率ベスト10入り(3位)になっただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し島田光二が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている。二軍がウエスタンリーグ初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄が監督就任。

西本監督時代

藤井寺球場(一軍は1983年まで準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。二軍は創設当初から本拠地だった)
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
1997-2004年の本拠地・大阪ドーム

西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った。

1974年

監督に就任した西本は羽田耕一栗橋茂佐々木恭介平野光泰梨田昌崇ら若手選手を鍛えてチーム力の強化を図ったが1年目は5位に終わり、オフにチームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。

1975年

初めて「優勝」(ペナント2期制度での後期優勝)を果たすが、プレーオフで前期優勝の阪急に1勝3敗で敗れる。

1977年

4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が球団初の通算200勝を達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。南海と日本ハムファイターズに勝ち越し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝以上あげているが、首位の阪急に6勝18敗2分と大きく負け越し前期は3位としたものの、後期は最下位でシーズン通しては4位に終わる。チーム盗塁数120はリーグトップだったが、チーム打率は5位、チーム本塁打92本はリーグ最下位に終わっている。

1978年

前期は阪急に次いで2位、後期は8月まで阪急が首位を独走していたものの、9月に近鉄が猛追し一時は首位に立つなど両チームのマッチレースとなり、後期最終戦となる9月23日に阪急との後期優勝をかけた直接対決を迎えた。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。近鉄はこの年25勝で最多勝の鈴木啓示を先発に立てたが、山田久志とのエース対決に敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決め、近鉄は2位に終わっている。この年近鉄は全球団に勝ち越したものの、阪急は近鉄以外の4球団に大きく勝ち越していたのが差となった。

1979年

前期は5月までに2位阪急に5ゲーム差をつけ独走していたが、6月9日の対ロッテ戦でチャーリー・マニエルがアゴに死球を受け、戦線離脱、阪急の追い上げもあり、一時は阪急にマジックが点灯するが、最終戦の対南海戦に引き分け前期優勝を決めた。後期は2位となり、後期優勝の阪急とのプレーオフとなるが、この年防御率1位の山口哲治の3連投の活躍で3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を遂げる。74勝45敗11分、勝率.622は球団記録。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、無死満塁の一打逆転サヨナラの好機をつかむが、江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退(江夏の21球参照)。

1980年

反発力を高めた飛ぶボールの効果もあり、この年本塁打・打点の二冠のマニエルをはじめチームから二桁本塁打10人を出す日本プロ野球新記録のシーズンチーム本塁打239本し、前年5月19日から9月29日まで日本プロ野球記録を更新する215試合連続で得点を記録する。チームは前期2位、後期は残り3節の時点で5位と追い込まれるがそこから巻き返し、10月7日には後楽園球場で、マジック1で引き分けでも優勝決定という日本ハムとの直接対決を6-5で勝利し、続く8日、11日の対西武ライオンズ2連戦にも勝利し逆転で後期優勝、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝0敗で制し2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたしても広島に3勝4敗で敗退。オフにマニエルが契約更改で球団と決裂し退団。

10.7決戦

1980年10月7日に行われた後楽園球場における日本ハムと近鉄の後期最終戦。この試合は開始30分前に満員札止めとなった。日本ハムはこの試合で引き分けでも後期優勝が決まるが、近鉄が優勝するにはこの試合に勝ち、対西武戦も連勝する必要があるという日本ハムに非常に有利な試合であった。両チームの先発投手は近鉄は鈴木啓示、日本ハムは高橋一三のベテラン左腕。2回裏に日本ハムが1点を先取。打たれながらも何とか抑えていた高橋が3回表に無死二塁とすると、早くも木田勇リリーフした。しかし佐々木恭介に打たれて同点とされる。4回表には3本の安打を連ねられて3点を失った。木田はカーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。5回裏に日本ハムが1点を返せば、近鉄もクリス・アーノルドがソロ本塁打を放つ。しかし7回裏に日本ハムは代打富田勝二塁打を皮切りに4連打を浴びせて2点を返し、1点差にまで迫る。8回表に有田修三がソロ本塁打を放った後に木田はマウンドに座り込んでしまい、ついに降板した。その裏に日本ハムも一死三塁から富田が近鉄2人目の投手の井本隆の頭をワンバウンドで越えるゴロを放ち、これを遊撃手吹石徳一がギリギリ追い付いて捕球。三塁走者の大宮龍男はこの場面で生還することができなかった。二死から高代延博の安打でようやく生還して1点差に迫った。日本ハムは9回表の近鉄の攻撃を間柴茂有宇田東植のリレーで凌いだ。9回裏の日本ハムはクリーンナップの好打順。一番手の柏原純一の右翼への痛烈なライナーがフェンス一杯で捕球された。近鉄はこの後に3番手の村田辰美に替えた。トミー・クルーズも右翼正面へのライナーで二死。トニー・ソレイタ三振に終わり、5-6と近鉄の勝利で試合終了。自力優勝の機を逸した日本ハムを尻目に、近鉄は西武にも連勝して逆転優勝を果たした。監督の西本は「あそこまで鍛えに鍛えて、全員が全力を尽くして戦えば、お客さんの期待に応える、あれだけのゲームが出来るのです」とのちに振り返り、当日に新聞紙記者の一人は「かつてプロ野球は巨人一辺倒だったが、時代は変わった」と書いた。

1981年

マニエルの抜けた穴はあまりにも大きく、前年4人いた3割打者が1人も出ず、本塁打もビクター・ハリスの22本がチーム最高であるなど打線が低下。また鈴木啓示も5勝しかできず負け越すなど投手陣が振るわず前期6位、後期4位の最下位に終わる。シーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、後任に関口清治が就任。

関口、岡本監督時代

1982年

序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。

1983年

4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督が辞任、後任は岡本伊三美

1984年

5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。

1985年

7月10日に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、二桁投手もストッパーの石本貴昭だけであったが、この時期は1979年、1980年の優勝メンバーと、後の1989年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎、投手では石本の他に小野和義吉井理人佐々木修山崎慎太郎などの獲得や台頭が見られる。

1986年

後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する展開となる。9月終了時で西武と1ゲーム差の2位だが、直接対決は全て終わり、残り10試合でマジック10とした。10月5日のロッテ戦で九回裏に2点差を追い付き、引分で同率首位に並ぶと、翌日はロッテに勝って単独首位に立った。その翌日は西武と共に引き分け、両チームそれぞれ残り3試合ずつでマジック3とした。しかし翌日から藤井寺球場で阪急に2連敗し、逆にロッテにホームで2連勝した西武が逆転優勝を果たした。最終戦も西宮球場で阪急に敗れ、西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している。

1987年

新井宏昌が首位打者、ルーキー阿波野秀幸が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越したこともあり、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、仰木彬が就任。

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出典:wikipedia
2018/10/10 16:46

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