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大隈重信とは?

日本政治家
大隈 重信
おおくま しげのぶ


【生年月日】
1838年3月11日
(天保9年2月16日)
【出生地】
日本 肥前国佐賀城下会所小路
(現・佐賀県佐賀市水ヶ江)
【没年月日】
(1922-01-10) 1922年1月10日(83歳没)
【死没地】
日本 東京府東京市牛込区早稲田
【出身校】
弘道館(佐賀藩校)
【前職】
公務員(佐賀藩士)
【所属政党】
(立憲改進党→)
(無所属→)
(立憲改進党→)
(進歩党→)
(憲政党→)
憲政本党
【称号】
従一位
大勲位菊花章頸飾
侯爵
【配偶者】
大隈美登
大隈綾子
【子女】
大隈熊子(長女)
【親族】
大隈彦兵衛(五世祖父)
大隈嘉一郎(高祖父)
大隈政辰(曾祖父)
大隈満辰(祖父)
大隈信保(父)
大隈信常(養子・養嗣子)
大隈英麿(婿養子・養嗣子)
三枝七四郎(義父)
三枝守富(義兄)
大隈信幸(養孫)
【サイン】

第17代 内閣総理大臣

【内閣】
第2次大隈内閣
【在任期間】
1914年4月16日 - 1916年10月9日
【天皇】
大正天皇
第8代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次大隈内閣
【在任期間】
1898年6月30日 - 1898年11月8日
【天皇】
明治天皇
第29代 外務大臣

【内閣】
第2次大隈内閣
【在任期間】
1915年8月10日 - 1915年10月13日
第32代 内務大臣

【内閣】
第2次大隈内閣
【在任期間】
1915年7月30日 - 1915年8月10日
第30代 内務大臣

【内閣】
第2次大隈内閣
【在任期間】
1914年4月16日 - 1915年1月17日
その他の職歴

第14代 外務大臣
(1898年6月30日 - 1898年11月8日)
第11代 外務大臣
(1896年9月22日 - 1897年11月6日)
第13代 農商務大臣
(1897年3月29日 - 1897年11月6日)
第3-4代 外務大臣
(1888年2月1日 - 1889年12月24日)
第4代 大蔵卿
(1873年10月25日 - 1880年2月28日)
貴族院議員
(1916年7月14日 - 1922年1月10日)

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本武士(佐賀藩士)、政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位侯爵菅原姓。参議大蔵卿内閣総理大臣(第817代)、外務大臣(第34101328代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第3032代)、枢密顧問官貴族院議員。

佐賀藩の上士の家に生まれ、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで、中央政府に抜擢され、参議大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、対華21カ条要求などに関与した。また早稲田大学の創設者であり、初代総長を勤めた。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 明治維新時の活躍
    • 1.3 新政府での活動
    • 1.4 大久保政権下の活動
    • 1.5 伊藤政権下の大隈
    • 1.6 明治十四年政変
    • 1.7 立憲改進党の設立
    • 1.8 外務大臣
    • 1.9 松隈内閣
    • 1.10 隈板内閣
    • 1.11 憲政本党総理
    • 1.12 在野活動
    • 1.13 第二次大隈内閣
      • 1.13.1 対華21カ条要求
      • 1.13.2 改造内閣
      • 1.13.3 後継首相をめぐる暗闘
    • 1.14 「準元老」
    • 1.15 死去と「国民葬」
  • 2 人物
    • 2.1 政策
    • 2.2 人物像
    • 2.3 人間関係
      • 2.3.1 伊藤博文との関係
      • 2.3.2 元勲との関係
      • 2.3.3 福沢諭吉との関係
      • 2.3.4 その他の人物との関係
    • 2.4 逸話
    • 2.5 後世
  • 3 評価
    • 3.1 評論
    • 3.2 同時代人物の人物評
  • 4 栄典・授章・授賞
  • 5 系譜
  • 6 大隈重信像
  • 7 著作
    • 7.1 単著
    • 7.2 選集
      • 7.2.1 大隈文書
      • 7.2.2 大隈重信叢書
    • 7.3 共著
    • 7.4 編著
    • 7.5 序文
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
  • 11 関連作品
  • 12 外部リンク

生涯

生い立ち

佐賀県佐賀市に現存する大隈重信の生家(国の史跡に指定)
佐賀藩士時代の大隈

天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。安政3年(1856年)、枝吉の推挙で佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている。

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応元年(1865年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。またフルベッキに英学を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった。この頃、下級武士の江副杢之進の長女美登を見初め、長女熊子を儲けた。しかし大隈はこの最初の結婚に関して、公の場で言及することは生涯なかった。

明治維新時の活躍

慶応4年(1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。ここで大隈は辣腕を発揮して数年来滞っていた案件を解決している。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させた。これにより明治政府有力者にとっても大隈の存在は大きな物となった。閏4月にはフランスの抵当に入っていた横須賀造船所を買い戻す交渉のため、大坂の商人を「強迫」して得た25万両を持参して江戸に向かったが、25万両では買い戻す資金に足りなかったため、江戸治安の解決が先決だとして彰義隊鎮定の費用として使用させた。また横須賀造船所についても、パークスの仲介でオリエンタル・バンクから50万両の融資を受けて買い戻すことに成功した。これらの功績により、7月には佐賀藩の准国老(准家老)に任ぜられている。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任している。

新政府での活動

大隈財政」も参照

明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している。

3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。この頃から木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった。またこの頃から「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。明治3年(1870年)に大久保は大蔵・民部の分離を行うよう運動するが、大隈は大久保に謝罪して信用させ、この動きを止めさせている。6月には三条実美右大臣が大隈を参議とし、大蔵・民部の権限はそのまま保持させようと提案したが、大久保らや岩倉具視の反発にあい、この案をひきさげた。しかし大隈の参議就任と大蔵・民部の権限を巡って木戸と大久保らは激しく対立し、一時は政府分裂も危ぶまれる状態となった。7月9日、大蔵省と民部省は再び分離されて大隈は大蔵大輔専任となり、9月2日には木戸の要請で大隈は大蔵大輔を兼ねたまま参議となった。

しかし木戸が次第に改革のスピードを緩めるべきと考えるようになると、急進的な大隈との関係は少しずつ悪化していくこととなる。木戸派は大隈ではなく伊藤を中心として動く体制へと移行しつつあった。明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる。1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた。

一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった。

明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。

大久保政権下の活動

明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された。

明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を及びやかすこととなる。この頃から大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる。

伊藤政権下の大隈

明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている。

大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。

明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた。またこの頃から伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している。

明治十四年政変

明治十四年の政変」も参照

その頃自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった。3月、大隈は意見書を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた。この意見書の内容を知った岩倉は、大隈と伊藤の関係が壊れることを危惧して、大隈に忠告したが、大隈はなんの対応も取らなかった。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる。

7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった。伊藤は大隈への不信感を強めて排除の意思を固め、また大隈の旧友であった五代も福沢らと大隈が共謀していると考えるようになった。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された。

立憲改進党の設立

野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄犬養毅矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている。

外務大臣

遭難事件で右脚を失った大隈が使用した義足(佐賀市・大隈記念館)
ブラックタイを着用した大隈
和服を着用した大隈
アカデミックドレスを着用した大隈

明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反するという指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた。

明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた。

その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている。

明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8ヶ月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している。

松隈内閣

詳細は「第2次松方内閣」を参照

6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えるつもりであった。板垣は反対したたが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している。

二十六世紀事件」も参照

10月25日、小雑誌『二十六世紀』が伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった。

明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に法務大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。

隈板内閣

詳細は「第1次大隈内閣」を参照

明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹法務大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる。

このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。アメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた

星は文相・尾崎行雄の共和演説事件を執拗に攻撃し、板垣内相も明治天皇に上奏して尾崎の罷免を求めた。10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた。後任の文部大臣を巡っては進歩党系と自由党系の協議がまとまらず、大隈は首相の職権を使って犬養毅を後継に選んだ。自由党系は大隈に反発し、星を中心として自由党系の三閣僚を辞任させることで倒閣に追い込む工作を開始した。10月29日、自由党系は一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成し、進歩党系の三閣僚は辞表を提出した。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した。

憲政本党総理

憲政本党」も参照

11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった。

議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった。この動きには大隈の側近であった大石正巳も加わっていた。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された。改革派は児玉源太郎清浦奎吾大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した。ただし完全に憲政本党との関係を絶ったわけではなく、明治42年(1906年)には大石派と犬養派の仲裁を求められている。

在野活動

憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)11月22日に戸塚

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出典:wikipedia
2019/10/18 00:14

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