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始皇帝とは?

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【始皇帝 嬴政】


初代皇帝

【王朝】

【在位期間】
前247年五月丙午 - 前210年七月丙寅
【都城】
咸陽
【姓・諱】
嬴政
【生年】
前259年2月18日(冬12月28日)
【没年】
前210年9月10日(秋7月22日(丙寅) )
【父】
荘襄王
【母】
趙姫
【陵墓】
始皇帝陵
『史記・秦始皇本紀』

始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年)は、古代中国の戦国時代の第31代 (在位:紀元前247年 - 紀元前221年)、初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)。名は嬴政または趙政((えい)、(ちょう)、(せい))。現代中国語では、秦始皇帝( 拼音: Qín Shǐ Huángdì、チンシーフアンディー)、または秦始皇( 拼音: Qín Shǐ Huáng、チンシーフアン)と呼称される。

秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初の全国統一を成し遂げ、初めて「皇帝」と名乗った。統一後は、重臣李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。(法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒でも知られる 。

目次

  • 1 「始皇帝」の称号
    • 1.1 意味
    • 1.2 『史記』における表記
  • 2 生誕と幼少期
    • 2.1 人質の子
    • 2.2 血筋に対する議論
    • 2.3 死と隣り合わせの少年
  • 3 即位
    • 3.1 若年王の誕生
  • 4 専制
    • 4.1 李斯と韓非
    • 4.2 韓・趙の滅亡
    • 4.3 暗殺未遂と燕の滅亡
    • 4.4 魏・楚・斉の滅亡
  • 5 始皇帝王朝
    • 5.1 皇帝
    • 5.2 五徳終始
    • 5.3 政治
    • 5.4 経済その他
  • 6 大土木工事
    • 6.1 咸陽と阿房宮
    • 6.2 始皇帝陵 (驪山)
    • 6.3 万里の長城
    • 6.4 霊渠
  • 7 天下巡遊
    • 7.1 封禅
    • 7.2 神仙への傾倒
    • 7.3 刻石
    • 7.4 逸話
  • 8 暗殺未遂
    • 8.1 高漸離の暗殺未遂
    • 8.2 張良の暗殺未遂
    • 8.3 咸陽での襲撃
  • 9 「真人」の希求
    • 9.1 『録図書』と胡の討伐
  • 10 焚書坑儒
    • 10.1 焚書
    • 10.2 坑儒
  • 11 祖龍の死
    • 11.1 不吉な暗示
    • 11.2 最後の巡遊
  • 12 その後
    • 12.1 隠された死
    • 12.2 二世皇帝
  • 13 人物
    • 13.1 后妃と子女
  • 14 評価
    • 14.1 暴虐なる始皇帝
    • 14.2 封建制か郡県制か
    • 14.3 近代以降の評価
  • 15 文化への影響
    • 15.1 エッセー
    • 15.2 小説
    • 15.3 映画
    • 15.4 TVドラマ
    • 15.5 漫画・テレビアニメ
    • 15.6 TV番組
    • 15.7 音楽
    • 15.8 ゲーム
  • 16 注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 注
    • 16.3 注2
  • 17 参考文献
  • 18 読書案内
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

「始皇帝」の称号

始皇帝
Shǐ Huángdì
小篆体で書かれた「始皇帝」

意味

の時代及びその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った嬴政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される。

『史記』における表記

司馬遷が著した『史記』において、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記を見ることができる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にてや6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題で使われる。嬴政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を作ったため、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる。

生誕と幼少期

秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。

人質の子

詳細は「奇貨居くべし」を参照

秦の公子であった父・「異人」は休戦協定人質としてへ送られていた。ただ父・異人は公子とはいえ、秦の太子である祖父・安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父・昭襄王の次子)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、またであった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。

そこでの裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾 (趙姫) を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」とを名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた。後に始皇帝となる。

血筋に対する議論

時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。

始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた。

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している。

  1. 『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
  2. 『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、春申君幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
  3. 『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姬」(邯鄲の歌姫)と「趙豪家女」(趙の富豪の娘)の異なる説明がある。政は「大期」(10ヵ月または12ヵ月)を経過して生まれたとあり、事前に妊娠していたとすればおかしい。

陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した。

死と隣り合わせの少年

政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め紀元前258年には王陵、翌紀元前257年には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している。

邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。そして紀元前251年に昭襄王が没し、1年の喪を経て紀元前250年11月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。

即位

若年王の誕生

荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし前247年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した(蕞の戦い)。呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、『呂氏春秋』編纂なども行った。

呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた。

このことは秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があったと言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った。

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。 — 史記「呂不韋列伝」14

流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測したが、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した。

専制

詳細は「秦六国の戦い」を参照

紀元前234年桓齮に命じてを攻めさせた(肥の戦い)。

李斯と韓非

秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公の大夫であった百里奚蹇叔らを登用し、孝公公族だった商鞅から、恵文王出身の張儀から、昭襄王は魏の范雎からそれぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた。

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)であるという箇所にも共感を得た。

韓・趙の滅亡

秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった。

韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(秦韓の戦い)。次の標的になった趙には、幽繆王の臣・郭開への買収工作がすでに完了していた。との連合も情報が漏れ、旱魃地震災害につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた(秦趙の戦い)。趙王は捕らえられたが、兄の公子嘉代郡(河北省)に逃れた。王は捕虜となり国は秦に併合された。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。

暗殺未遂と燕の滅亡

詳細は「荊軻」を参照

は弱小な国であった。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという。実際は脱走したと思われる丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった。

逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。

両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた。秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった。秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた。二人のいつわりの使者は処刑された。

秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた(秦燕の戦い)。暗殺未遂の翌年には首都・を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。

魏・楚・斉の滅亡

次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3か月は耐えたが、秦王政22年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ(秦魏の戦い)。

そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った(秦楚の戦い)。秦王政は若い李信蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(秦斉の戦い)。秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。。

始皇帝王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像

皇帝

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」はの時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。

五徳終始

始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。史記の伝説では秦の始祖、大(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「」、季節の「」、数字の「6」でも象徴された。

政治

始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36のが置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招くと強硬に主張した李斯の意見が採られた。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった。

経済その他

始皇帝と李斯は、度量衡通貨荷車幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている。

廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。 — 青銅詔版

大土木工事

阿房宮図。清代の袁耀作。

咸陽と阿房宮

始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ巨大な宮殿であった。

名称「阿房」とは仮の名称である。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言う。

始皇帝陵 (驪山)

秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒 / 北緯34.3813194度 東経109.2536278度 / 34.3813194; 109.2536278)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた。

1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された。

なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた。

秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。
現代に残る霊渠

万里の長城

詳細は「万里の長城」を参照

中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴東胡月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた。そして巨大な防衛壁建設に着手した。逮捕された不正役人を動員して建造したこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。

霊渠

詳細は「霊渠」を参照

中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた。これは、万里の長城・四川省都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる。

天下巡遊

中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にあるが各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央にはの木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。

始皇帝の天下巡遊路

順路は以下の通りである。

これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である。

封禅

第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、この儀式を遂行した。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による

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出典:wikipedia
2020/01/19 16:22

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