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姫路城とは?

姫路城
(兵庫県)
天守(連立天守群・国宝)

【別名】
白鷺城
【城郭構造】
渦郭式平山城
【天守構造】
連立式望楼型
5重6階地下1階
【築城主】
赤松貞範
【築城年】
1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
【主な改修者】
黒田重隆羽柴秀吉池田輝政
【主な城主】
小寺氏黒田氏池田氏本多氏松平氏榊原氏酒井氏
【廃城年】
1871年(明治4年)
【遺構】
現存天守・門・塀
石垣土塁・庭園
【指定文化財】
国宝(大小天守と渡櫓等8棟)
重要文化財
(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)
特別史跡
ユネスコ世界遺産
【位置】
北緯34度50分21.76秒
東経134度41分38.75秒
座標: 北緯34度50分21.76秒 東経134度41分38.75秒
【地図】
姫路城

地理院地図 Googleマップ 姫路城

代表紋章:揚羽蝶

姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城江戸時代初期に建てられた天守等の主要建築物が現存し、国宝重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコ世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称の由来と別名
  • 3 歴史・沿革
    • 3.1 南北朝時代・戦国時代
    • 3.2 安土桃山時代
    • 3.3 江戸時代
    • 3.4 明治時代
    • 3.5 大正時代
    • 3.6 昭和時代
    • 3.7 平成時代
  • 4 構造
    • 4.1 縄張
      • 4.1.1 石垣
      • 4.1.2 屋根瓦・鯱
      • 4.1.3 防御設備
      • 4.1.4 城主の居館
    • 4.2 内曲輪
      • 4.2.1 本丸
        • 4.2.1.1 大天守
        • 4.2.1.2 小天守・渡櫓
      • 4.2.2 二の丸
      • 4.2.3 三の丸
      • 4.2.4 西の丸
      • 4.2.5 勢隠曲輪
    • 4.3 中曲輪
      • 4.3.1 中曲輪の門
    • 4.4 外曲輪
      • 4.4.1 外曲輪の門
    • 4.5 野里・船場・外縁
  • 5 修理の歴史
    • 5.1 江戸時代の修理
    • 5.2 明治の大修理
      • 5.2.1 第一期工事
      • 5.2.2 第二期工事
    • 5.3 昭和の大修理
      • 5.3.1 第一期工事
      • 5.3.2 第二期工事
    • 5.4 平成の修理
      • 5.4.1 天空の白鷺
        • 5.4.1.1 施設概要
        • 5.4.1.2 施設沿革
        • 5.4.1.3 その他
  • 6 世界遺産登録・文化財指定
    • 6.1 世界遺産
      • 6.1.1 登録基準
      • 6.1.2 影響
    • 6.2 国宝
    • 6.3 重要文化財
    • 6.4 特別史跡
    • 6.5 受賞歴・選出歴
      • 6.5.1 姫路城が選ばれている百選
  • 7 その他の城内施設
  • 8 伝承
  • 9 姫路市本町68番地
    • 9.1 周囲の文化施設・観光名所
      • 9.1.1 姫路城十景
  • 10 整備計画
  • 11 管理上の諸問題
  • 12 現地情報
    • 12.1 交通アクセス
    • 12.2 開城時間・料金
    • 12.3 登城
    • 12.4 観光和船
    • 12.5 イベント
      • 12.5.1 過去のイベント
    • 12.6 入城者数
  • 13 作品
    • 13.1 小説
    • 13.2 漫画
    • 13.3 絵画・写真・その他
    • 13.4 楽曲
    • 13.5 映像作品
      • 13.5.1 映画
      • 13.5.2 テレビ番組
  • 14 その他
    • 14.1 姉妹・友好提携
    • 14.2 ミニチュア姫路城
    • 14.3 イメージキャラクター
    • 14.4 小惑星への命名
  • 15 発行物
  • 16 注釈
  • 17 出典・参照
  • 18 参考文献
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

概要

池田輝政

姫路城は播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした。その後陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた。

昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。

名称の由来と別名

姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。

橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。

白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』(三訂版、旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。日本放送協会(NHK)の番組でも「しらさぎじょう」と紹介されることがあるため、一般的には「しらさぎじょう」と認識されていることが多いと思われる。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)小中学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。

他にも以下のような別名がある。

出世城
羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる。同様の例として浜松城も出世城と呼ばれる。
不戦の城
幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。

歴史・沿革

江戸幕府成立以前の歴代城主
【代】
【城主】
【入城年】
【代】
【城主】
入城年
1 | 赤松貞範 | 1346年(貞和2年) | 10 | 小寺則職 | 1519年(永正16年)
2 | 小寺頼季 | 1349年(貞和5年) | 11 | 八代道慶 | 1531年(享禄4年)
3 | 小寺景治 | 1352年(文和元年) | 12 | 黒田重隆 | 1545年(天文14年)
4 | 小寺景重 | 1357年(延文2年) | 13 | 黒田職隆 | 1564年(永禄7年)
5 | 小寺職治 | 1403年(応永10年) | 14 | 黒田孝高 | 1567年(永禄10年)
6 | 山名持豊 | 1441年(嘉吉元年) | 15 | 羽柴秀吉 | 1580年(天正8年)
7 | 赤松政則 | 1467年(応仁元年) | 16 | 羽柴秀長 | 1583年(天正11年)
8 | 小寺豊職 | 1469年(文明元年) | 17 | 木下家定 | 1585年(天正13年)
9 | 小寺政隆 | 1491年(延徳3年) | 18 | 池田輝政 | 1600年(慶長5年)

南北朝時代・戦国時代

播磨国#歴史」も参照

1333年(元弘3年)、元弘の乱護良親王令旨を奉じて播磨国守護赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。南北朝の争乱足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。

1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱赤松満祐教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。

1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。

1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。

1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦い赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年(天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。

安土桃山時代

真柴久吉公播州姫路城郭築之図

1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。

1580年(天正8年)、三木城英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。

1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。

1600年(慶長5年)、池田輝政関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城三木城利神城龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。

江戸時代

姫路城鳥瞰図(明治初期)

姫路藩の歴史も参照。

1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した。1618年(元和4年)には千姫本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

城内の武士階級の人口は次の通り。

藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家越前松平家榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。

幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。

明治時代

歩兵第10連隊跡の石碑

1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下になった。さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。

姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。落札の際、酒井忠邦城主より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の雪見灯籠を購得し、これを1892年(明治25年)に歩兵第10連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄またはを売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。その後1927年(昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている。

城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、姫路城でも1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失した。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は第10師団兵器庫(1905年(明治38年)-1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社が置かれた。

1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。

城内にある中村大佐顕彰碑

一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。明治10年12月、陸軍少佐の飛鳥井雅古(飛鳥井家)が陸軍中将の西郷従道に宛てて「姫路城天守修繕之義ニ付伺」を提出し承認されている。また、陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、1908年(明治41年)には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。

工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。

大正時代

明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた。1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった歩兵第10連隊は後に岡山市へ移転し、歩兵第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた(現在の国道2号)。

昭和時代

1936年(昭和11年)の姫路城周辺。陸軍の施設や練兵場が見える。
空襲から守るために黒い網(偽装網)を掛けられた姫路城
青丸内は黒い網(偽装網)を掛けた鉤金具

1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

1933年(昭和8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、1957年(昭和32年)に拡幅した。1944年(昭和19年)、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。

太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避

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出典:wikipedia
2018/12/14 07:38

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