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宋_(王朝)とは?



 | 960年 - 1279年 | 

11世紀の北宋
首都 汴京 (現在の開封市)
(960年1127年)
臨安 (現在の杭州市)
(1127年1276年)
皇帝
960年 - 976年 太祖
【1022年 - 1063年】
仁宗
【1278年 - 1279年】
祥興帝
変遷
不明 xxxx年xx月xx日

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(そう、拼音 Sòng960年 - 1279年)は、中国王朝の一つ。趙匡胤五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号はであるが、春秋時代南北朝時代などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝、祖宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。

北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。

歴史

詳細は「北宋」および「南宋」を参照

北宋

後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤が後周最後の皇帝から禅譲を受けて建国した。趙匡胤は中国の分裂状態の終止を目指すが、志半ばで急死。弟の趙匡義(太宗・趙光義)が跡を襲って中国の統一を果たし、科挙制度の充実を図った。科挙制度は太宗の子真宗の代で完成したといわれる。

1004年、北方のが南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西の西夏が宋に反旗を翻していたが、こちらも1044年、財貨を贈ることで和睦した(慶暦の和約)。

しかし大商人・大地主の囲い込みや水利山沢の利の破壊と脱税に対する改革が求められ、六代皇帝神宗王安石を登用して国政改革にあたらせた。この動きは王安石の新法などと呼ばれ、農民や坑戸・畦戸などの保護と大商人・大地主の抑制を目的とした施策であったが、新法は富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)の激しい妨害を受ける。

その頃、満州から南下して来た女真族1115年を建国していたが、宋は金と共同で遼を攻撃する協定(海上の盟)を結び、1121年に遼を滅ぼした。その後、金を牽制するため遼の残党との協力を画策して金の怒りを招き、1127年、金の攻撃を受けて開封は陥落した。皇帝欽宗太上皇徽宗以下多数の皇族が北方へ拉致された(靖康の変)。たまたま開封を離れていた欽宗の弟趙構は、南遷して杭州で皇帝即位を宣言した。これ以降は南宋と呼ばれる。

南宋

趙構は1127年即位して高宗となり、宋を再興した。はじめ岳飛らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺された。秦檜の死後に金の4代皇帝海陵王が侵攻を始めたが、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺され、完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結んだ。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎が即位して孝宗となった。

孝宗時代には宋金関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は戦乱の痛手から復興した。

しかし、1189年に孝宗が退位して上皇、趙惇が即位して光宗となった後、1194年に孝宗が崩御すると韓侂冑らにより光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こった(慶元の党禁)。 韓侂冑は金がタタールなどの侵入に悩まされている様子を見、北伐の軍を起こすが失敗。1207年、金の要求で韓侂冑を殺して塩漬けの首を送り和睦した。1233年モンゴル帝国は金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰め、1234年に金は滅びた。

1235年、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、クビライ襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤン臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。

なお、元代末期に現れた韓林児(小明王)が、北宋皇帝徽宗後裔(僭称の可能性も高い)を名乗って宋(大宋)を再興するが短命に終わり、後にを建国する朱元璋に取って替わられた。

経済・金融

宋代経済の概況

宋代において

  1. 生産力の大幅な向上と地域的偏差、および商品経済の確立
  2. 各地方における市場の成熟と市場間の流通の活発化
  3. それによる全国的な市場形成と市場における分業化

などが進み、宋代の経済状態を形作っていた。以下、順に説明する。

なお、順に説明しているが単に記述上の都合であり、これらは地域的偏差を持ちながら並行的・複合的に進行した。

生産力の大幅向上と品目の多様化

宋代に至り、各種生産力が大幅に向上した事は異論を挟む余地が無い。中でも重要なのが農業、特に米作の発展である。その他にも精銅・製鉄・窯業の技術的発展など宋代の発展は枚挙に暇が無い(各産業の詳細については#産業にて後述。)

また因地制宜により、各地域の特性にあった物を生産するに至る。沿岸部では漁業や塩業を山間部では林業をといった具合にである。その結果「特産物」と呼び得る各地域の特産物が成立・流通するに至った。

ただ、南高北低・東高西低を基調とする地域毎の経済力格差が拡大したのも宋代の特徴である。

地方市場の成熟と地域間流通の活発化

中唐までの市場は基本的に都市の特定の場所と決まった時間帯に定められ、それ以外の場所で行う場合には事前報告が必要だった、また市場で商売を行う者は法律上は市籍登録を必要とした。

農業生産や手工業生産の増大により、市場となる草市や鎮市が発生した。また市場間の連結を促したのが、全国的に整備された運河網である。

閘門の構造

水位の違う運河を往来するため互いの水位を調節する閘門が設けられ、運河により宋全土の4分の3に行けた。首都・開封は運河使用を前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。またそれまでイスラム商人の独擅場であった海洋航路にも宋商人が進出する。

宋代の船の大きさは米の積載量である石(ないし料)で表される。外洋船では大型船が積載量5000~10000石・乗組員50~600人、中型船が1000~2000石・20~300人、小型船は数十人から十数人規模まである。河川を航行する船は、航行する河川や役割によって大きな差異があり、20000石を積める大船もあれば200石規模の小船もあった。

数百人規模の船では、船長を網手といい、その下に上級船員として雑事(事務・会計の長)・直庫(武器庫の長)・三老(水夫の取りまとめ)・火長(方位測定・櫓櫂を扱う水夫の監督)などがいる。

市場形成と分業化

宋市場の構造

北宋における大経済圏は大まかに言えば、首都・開封を中心とする華北平原の北部、豊かな江南と西南に位置する嶺南の南部、独特の構造や習慣を持つ四川と関中の西部、の三つの経済圏である。三地域の間には長江と山脈という地理上の大きな障害があり、各商業圏の間では物の値段や商慣習が異なった。

商業圏の間をつなぐ存在が「客商」である。客商は「他の地域の商人」の意で、対して地元の商人は「座商」という。商業圏の間で商品の値が違うので、客商はこれを利用して利益を上げた。しかし前述の通り商慣習が異なり、また伝手の無い状態では売手・買手の確保も難しい。これを補うのが邸店および牙人である。

邸店は元は旅館を指す言葉だが、旅人の荷物を預かる事から派生して倉庫の役割を担うに至った。宋代の邸店は自ら客商の商品を買取って舗戸(小売商)に売る仲買問屋となった。さらに邸店の下で周旋・仲買に動いたのが牙人である。

牙人は、初め売手と買手の間を取持ち、牙銭という手数料を得る周旋業者であった。次第に客商や生産者から買付け、仲買業を営むようになった。市易法により邸店が立ち行かなくなった後は、政府の市易務の下で買付けを務めるようになった。

以上のような形で市場が形成され分業化が進んだが、地方に行くほど分業が未成熟になり、生産者たる農民が直接客商に販売したり、邸店が牙人の役割を果たすといった事例が見られる。

貨幣

貨幣政策は経済に対して強い影響を及ぼすが、宋政府は歴代王朝の伝統を継承せず銅などの生産を厳格に把握・監理し貨幣鋳造を行った。宋の通貨は基本的に銅銭鉄銭で、次いで銀錠や大型決済用の金が用いられ、紙幣の交子も登場する。

北宋代には銅銭や鉄銭の鋳造量が格段に増え、太宗の至道年間(995年-997年)80万貫(八億銭)から、真宗の景徳年間(1004年-1007年)には183万貫となり、神宗の元豊元年(1078年)には506万貫と最高点に達する。元豊年間の増産により一応の安定を見たため、その後は6割程度の鋳造量で推移した。

しかし、銅銭を鋳潰して銅器を作製する利益は10倍以上になったため、刑死する者が続出しても鋳潰す者は後を絶たず、士大夫や官吏までもが鎔銭に手を染めたため、政府は市場の需要に見合わない多量の銅銭を発行し続けた。北宋末期に蔡京集団による交子の野放図な発行や極めて質の悪い私鋳銭の大量濫造が行われ、また遼・金地域でも広く銅銭が使用されたため銅銭が流出し、南宋では銅銭のみを主軸貨幣とする事を止めた。

南宋に入ると、華北失陥による石炭の不足と戦乱による荒廃で銅の産出量が減り、また北宋代の倍以上の税を課された事で鉱山経営の意欲が低下したため、南宋政府は紙幣の発行量を増やし、銅銭の年間発行高は南宋を通じた平均で約15万貫にまで激減する。

当初、銅銭・銀との兌換が前提だった紙幣は次第に不換紙幣へと変化。更に交子の発行に抑制的だった孝宗が崩御し韓侂冑が政権を握ると、15年で総発行額が2400万貫から1億4000万貫へと5倍以上に増加し、南宋末期の1246年には総発行額が6億5千万貫(6500億銭)に上った。これによりインフレが起こり、北宋末と比較して物価水準は約2倍、紙幣の価値は銅銭の1/3~1/4まで低下した。

通貨

北宋銭

多くの地域では銅銭が流通したが、四川や陝西・河東・河北路では鉄銭が流通した。

紙幣・為替・証券

銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子関子)と呼ばれる預り証を発行していた。

四川や陝西・河東では鉄銭が使われたが、鉄銭は銅銭と比べても重く不評であった。そこで成都の商人が集って鉄銭を預かり交子を発行していた。交子は使い勝手が良く、四川や陝西では広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は、商人の経営が傾くと商人に代わって交子を発行した。交子は世界最初の紙幣とされる。交子は始め四川や陝西でのみ流通していたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと替わった。交子には界と呼ばれる期限があり、その間に使用ないし兌換しなければ紙切れとなった。

専売の引換券である交引もまた一種の有価証券として扱われ、取引された。詳しくは#専売を参照のこと。

南宋に入ると銅銭本位制を破棄し、紙幣の発行高も大きく増える。南宋では紙幣として臨安周辺で流通する行在会子・四川銭引湖広の湖広会子・淮南の淮南交子の四種類があった。南宋初には400万貫だった総発行額は財政赤字の穴埋めの為に増加し、乾道4年(1168年)には2000万貫となった。

1159年に出された規定では、1万貫以上の銅銭を保有する者は2年以内に会子や商品へ換える事が義務付けられ、銅銭は経過後に例外無く没収された。1168年までは、前述の界の期限内に銅銭又は銀又は新紙幣と交換出来たが、以降は新紙幣との交換のみになり不換紙幣へと変わった。

貿易

宋代は北方諸国の台頭により、内陸、西アジアとの陸路による交易を阻まれたこともあり、海からの交易が盛んになった。東南アジア、インド、西アジア諸国との交易が多く、これらの国々の特産品が、アラビア海、インド洋、南シナ海、つまり南海を媒介として中国に運ばれ、中国の特産品が南海を通じて各国に運ばれていった。

財政

宋代は常に遼・西夏・金などの敵国と対峙していたため、財政支出の多くが軍事費で占められ、両税法や和糴などは軍事物資の円滑な調達を目的としていた。それを象徴するのが複合単位と呼ばれる「*石*疋」「*貫*両」などの単位である。

政府と官吏大商人と民間市場の関係には、各種税・和糴和買(後述)・貨幣の発行などがある。

宋の財政収入は両税専売制商税の三つを柱とし、新法実施期には青苗銭などの新法による収入がこれに加わる。

また税では無いが、軍隊の食料を用意するための政府による大量の穀物・絹などの買い付けがあり、これを和糴和買(米の場合が和糴・他は和買)という。

両税法

税制は宋代を通じて唐・五代から引き継いで両税法が行なわれ、営む業種によってそれぞれ夏と秋に穀物や専売品・銭・銀・絹・各種金属などを定められた品目毎に折納した。

全国の戸を生産資産を持ち納税能力のある主戸、経営資産を持たず納税能力の無い客戸、に分類し(主戸客戸制)主戸は所有する資産に応じて課税された。また職役にて詳述するが、官戸を除く三等以上の資産のある農家(形勢戸)には、様々な役務が課せられ、しばしば、形勢戸の没落や資産隠匿(四等以下に見せかける)などの原因となった。その為、1070年、王安石は募役法を提案し、銭での代納の許可を試みた。

専売

宋代の専売の品目は塩・茶・酒・染色用の明礬・外国産の香や薬物で、中でも高い利益を上げたのが塩,酒である。塩は必要不可欠な必需品であるし、酒は都市人口の増加や生活水準の向上もあって消費量が増え、茶も宋代には貧民でも毎日の茶が必須な物となり、契丹など諸外国にも飲茶の風習が広まるなど茶の需要は高かった。

塩の専売は特に南宋時代に於いて財政の重要な部分を占め、収入は1500~2000万貫で財政収入の4割前後に上った。酒の専売による収入は、宋初に300~500万貫、真宗代以降は北宋代を通じて1200~1800万貫を推移した。南宋時代は纏められた記録が無く不明。茶の専売による収入は、大中祥符2年(1009年)の時点で709万貫余に上ったが、度重なる法改変により北宋後期には100~150万貫にまで下降。北宋末~南宋時代は200~300万貫を推移する。

最大の塩の生産地は両淮地方で生産量の約35%を占め、次いで両浙の25%、以下解州・福建・広東・四川・河東と続き、生産量は宋初が約300万石・北宋後期の生産量は凡そ750~800万石である。

解州では周辺の州に毎年交代制で畦戸や畦夫と呼ばれる壮丁を徴発、塩地の近隣に移住させ労働に当たらせたが、食事のみ支給され何の見返りも無かった。他の地域では特定の戸が塩の生産に専門的に従事し、両淮や両浙ではこれを亭戸(竈戸)、四川では井戸と呼んだ。亭戸は法律で一切の改業・従軍・移住を禁止されるなど、宋代では異質な存在である。

亭戸には生産施設1丁につき35正石(105石)の塩の納付義務があり、残る全量も1正石につき500銭を給銭され引き取られた。また1正石につき1斗が損料として、また100銭毎に折納分の相殺により23銭が引かれ、正味の買取額は1石125銭であり、これを専売制度のもと1石1690銭で販売して巨額の収益を上げた。

塩場を監督する塩監と官塩の販売する塩商を兼ねる士大夫と亭戸の関係は大地主‐佃戸や茶商‐茶農の存在と類似するが、中でも塩商は突出した巨利を地域に於いて壟断し、士大夫や高利貸と共に宋代以降の中国歴代王朝の発展を妨げた三悪とされる。

実際の生産を行なう亭戸は、富戸の多い酒戸と比べ亭戸に富戸は居ないと記される。この状況に対して、范祥蔡京により塩を定量の袋単位で扱う事とする制度改革が行われ、事態の悪化は抑制された。

茶の生産は、極少数の官園を除くとほぼ全てが民営で、生産世帯を園戸、個人経営の所は茶農、広大な土地で営む所は茶園主と呼ばれ、茶摘の時期には数百戸:数千人の茶雇を雇い入れた(北宋後期の賃金は1日3食60文ほど)。生産量の観点からは、両江・淮北・両浙・福建・両荊湖が最も茶産の盛んな地方であるが、生産自体は乾燥地を除き全土で広く行われた。

北方の戦線維持のために糧秣が大量に必要とされ、最初は輸送の労力に賦役を当てたが林特の奏上で負担が重いとの理由で専売制を利用した三説法が採られた。茶や塩を商う商人は北方へ運送した糧秣の量に応じて茶引(引換券)の交付を受け、交引を生産者に持ち込んで茶や塩と交換した。

しかし10年を経ずして茶引の濫発と地域市場の在庫均衡の破綻により、茶引の価値は約4割まで暴落。交引を得た商人は遠方の産地へ赴く資金も無いため、近辺で暴落した交引を売り払い現金に代えたが、資本を持つ大商人は安価で大量に買占めた茶引を江南へ持ち込み6倍の価格で売り払って暴利を貪った。当然ながら官の確茶には質の悪い茶が集まり、東南地域の茶の価格も暴落、生産者の廃業や茶の溜め込みが起きるなど、流通環境は劣悪な状態に陥る。

李諮による天聖3年(1025年)の帖射法実施により、茶引の交換場所を官の置茶場に限定すると、官の支出減少と収益の持ち直しが見られ、園戸や中小商戸の収支も改善するなど三説法による弊害は収まったが、慶暦2年(1042年)に三説法が復活。再び茶商は巨利を壟断する。

その後も数度変法したが、茶の集積に携わる士大夫の腐敗が酷く園戸の廃業や密売により茶租や買上量は大幅に減少。また低い供給価格(1斤130文で塩の大きな価格差とは雲泥の差)もあって政府の利益も乏しく、供給する官茶の価格が品質に無関係なため、官僚に賄賂を贈り大量売買が可能な大商人のみが巨利を得た。嘉祐2年(1057年)になると茶引の価格は額面の約3割、塩引の価格も約6割に暴落、政府の収入が86万貫に減少する一方、交引の発行額は275万貫に上った。

茶の専売制は失敗に終わり、通商法が成立して専売制は廃止される。以降、販売許可の為の浄利銭300万貫強と茶租・茶商税の収入50~120万貫を合わせ年間400万貫と、茶専売の意義は乏しかった。政和年間に至ると再び専売制が採られ北宋末期~南宋代を通じて200~300万貫の収入を確保したが、茶商や園戸が武装して私売買の取締りに当たる巡検を殺害する事件の発生が常態化する。

酒を扱う制度は地域によって大きく3つに分かれる。専売制や許可制を布かない州や軍では単に販売分の酒税を納めるのみで、この様な地方では多数の酒戸や酒坊が在ると記録に残る。

専売地域内の都市では、首都の都曲院や県城の都酒務、都市の酒務が経営する官府酒坊に於いて、酒店の酒匠・酒工や廂軍兵士に課された労役により醸造が行われ、私造も持込も一切許されなかった。酒曲法の規定は何度か改定されたが、緩い時期では郷村なら100斤(50kg)・都市なら50斤(25kg)、厳しい時期には15斤以上生産すれば死刑に処され、それ以下でも懲役が課された。

許可制の地方や都市の郊外・郷村・鎮市では官は直接経営せず、酒坊(醸造所)から販売範囲に基づく販売権(浄利銭)を取り、酒利の10~15%を占めた。

専売地域の酒店は都酒務へ購入申請した量を1斤(時代により150~240文)で供給され、都市内の酒店において数倍の価格で販売した。

商税

商税の割合は北宋代を通じて銭収入の2割弱を占める、南宋時代は纏まった史料が残っていない。

また州を移動する際に、奢侈品では品目によって1~最高2.5%の税が、家畜や建築資材などの一般品には~0.1%の税が課されたが、日常品は無税とされた。

その他、田や生産設備の売買には宋初4%~次第に上昇して10%前後の課税が、家畜の売買は一頭ごとの定額(種類ごとに異なり、羊は500文、時代によっても増減)が課され、年や品目によっても税率は上下した。

宋では公拠や官券と呼ばれる許可証を持つ船戸のみが越境交易を営む権利を持ち、特に海外貿易は許可を受けた海船戸だけに許され私貿易は厳罰に処された。出港と入港の際に登記を課して積荷は厳重な検査が行われ、貴重品は1/10を一般品は1/15を現物で徴収、香料と希少な薬物や宝石は官の専売品として買上げた。銅銭や専売品の持ち出しを禁止したがあまり効果は無かったようである。

海船戸は保甲制の下で20戸毎に甲が置かれて私貿易や海賊行為に対して連座制が適用され、賦役も相応の負担を負った。交易先も管理され、申告した地方や国以外との貿易は認められていない。

商税収入は1045年に1975万貫(197億5000文)とピークを迎えた後、その6年後の1051年には785万貫と急落するが、これは西夏との戦争の為に課された様々な臨時増税が解除されたためで、宋代を通じて商税収入は増加している。

職役・和買・その他

職役は一種の労働税である。基本として五等戸のうち三等戸までがその義務を負った。職役の種類としては、

がある。この中で衙前が最も負担が重く、かつ関係する官吏の接待も衙前の役割であった。そのため財産があっても家を壊れたままにするなど、資産を低く見せかけて免れようとした者も多かった。またこうした職役の形勢戸への負担の軽減を意図して、その銭での代納を認める新法を王安石は提案し、後の新法・旧法の争いの端緒の一つを開いた。

宋が軍糧を調達するのに大きな役割を為したのが和糴和買である。和糴・和買とは政府による買い付けのことで、米の買い付けが和糴・それ以外が和買という。

その他の宋政府の収入として、新法期に登場した青苗銭市易息銭などがある。

産業

農業

主要穀物

唐宋変革期に起こった生産力向上の中でも顕著なのが江南における米生産の向上である。この進展を示す言葉として「蘇湖熟れば天下足る」「蘇常熟れば天下足る」という当時の諺がある。

江南が開発され始めた後漢末から現在に至るまで北はコムギ食、南はイネ食が基本である。南北朝時代から宋にかけて江南の米生産は大きく向上した。南北朝末期に江南・北部がほぼ同数となった戸数も、宋初には北部の120%、北宋末には140%まで増加した。

江南での増産を齎したのは、新種農具の普及、集約農業、新品種の開発や導入、治水灌漑・農業技術の発達などであり、1戸当たりの農地が狭くなると共に精耕細作が進展している。

商品作物

米以外の農産物として、油脂類・甘蔗・野菜・果物類などを挙げる。

食用・燃料として油の需要は非常に高く、貧民であっても油は不可欠とされていた。ゴマタイマエゴマナタネ・など多種が栽培された。特にゴマ油は全国的に栽培がされており、流通量も多い。

甘蔗は長江流域を中心として江南各地で栽培されたが、一般民の間でも砂糖や氷糖の需要は非常に多く、製糖されたものが全土で大量に流通した。

野菜は農民が自家消費する分に加え、都市郊外の菜園で商品作物として栽培したものを都市の菜市で売り、野菜の栽培は穀物に比べ倍以上の収益が上がった。また生産・交通の有利な地域では集中的・大規模な生産も見られる。中には特産物として流通するものもあり、ウリ・スイカ・ショウガなどが他地域に運ばれたとある。

果物は古代以来、各地方で栗・棗・柑橘類などの特産物となる果物が記され、域内での生産と消費が豊富だった様子は窺えるが、田地の一部や非耕地に植えられる程度で、果実の専門栽培が産業として行われ始めたのは、北宋代の柑橘類・ライチからとされる。ライチ柑橘類は人気が高く全国的に流通し、開封などの都市や海外へ奢侈品として輸出された。

柑橘類は主に流通した朱橘・緑橘・荊南・荊州皮などの14種を始めとした多様な種類が栽培され、両浙・荊州・福建・広南・江東・江西・四川など湿潤で船着の便のよい場所で栽培が行われた。ライチは楊貴妃が好み南方から運ばせたことで有名であるが、主に四川と嶺南の福建路で栽培された。

漁業

魚介類の需要は旺盛で、漁業は食料生産の中で重要な位置を占めた。

農業や商業・塩業の合間に漁業や養殖業を行って補助収入とする兼業漁家は各地の農村に散在し、専業漁家は南東沿岸部および湖沼周辺部に見られ、数十から数百戸が集まって漁村を形成した。

漁法は釣漁法網漁法に加え延縄漁が主流である。またテグス浮きも既に存在している。網漁法としては抄網(投げ網)・刺網(仕掛け網)・曳網の三種に分類される。

養殖業は主として淮河以南で行われ、特に両江・両浙で盛んに営まれた。コイの養殖は既に戦国時代から行われ養魚経などが記されたが、記録は乏しく唐代より前の実態は不鮮明である。宋代の養殖は記録が豊富に残り、実態も比較的詳しく解っている。アオウオ・鱅(コクレン)・鰱(ハクレン)・鯇(ソウギョ)の四種が新たに養殖された。この四種は現代でも養殖が容易な種として四大家魚とされる。

はっきりとは判らないが養殖に使う稚魚は、専門に捕獲・孵化・販売する漁家がおり、一括購入した多様な魚種から小魚を食う害漁を除き池や水田に放して飼育された。また、水田には草食の鯇の稚魚や幼魚を放ち、養殖と併せ雑草の除去や施肥が図られた。池や水田面積当たりの魚の数や餌の量などに慎重に配慮しており、この五種に関する限り養殖技術は既に現代の水準に達していたと考えられる。

鉱業

宋代の鉱業は総ての主要鉱物において、民営鉱山は東部と四川の各府州での生産量が全体の9割を超え、河川や運河などの水利に恵まれない西部地域は輸送費用が嵩んだためか、操業した鉱山の数が少ない。宋初は定額の課税で、後に生産量の2割を官納する制度へ変更された。

南宋代に入ると、銀が官納6割、

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出典:wikipedia
2020/08/08 01:00

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