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小久保裕紀とは?

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小久保 裕紀
引退セレモニーでの小久保
(2012年10月8日、福岡Yahoo! JAPANドーム)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
和歌山県和歌山市
【生年月日】
(1971-10-08) 1971年10月8日(48歳)
【身長
体重】
182 cm
87 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
内野手外野手
【プロ入り】
1993年 ドラフト2位(逆指名)
【初出場】
1994年4月9日
【最終出場】
2012年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


【国際大会】

【代表チーム】
日本代表
五輪
1992年
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 1992 | 野球

小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・野球指導者、野球解説者評論家

現役時代は福岡ダイエーホークス・福岡ソフトバンクホークス読売ジャイアンツに所属し、両球団で主将を務めた。2005年から2009年まで社団法人日本プロ野球選手会の第10代理事長を務めていた。

2013年からはNHKの野球解説者を務める一方、同年より2017年までは日本代表(侍ジャパン)の初代常設監督を務めた。

2015年に開催された第1回プレミア12で、日本代表を3位銅メダルに導いた。

経歴

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プロ入り前

1971年に和歌山市で生まれる。和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し、野球部に所属。中学校卒業後は和歌山県立星林高等学校に進学し、1990年に青山学院大学へ進学。東都大学野球リーグでは通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録する。ベストナイン3回。1993年には小久保が主将となり、青山学院大学史上初の大学野球日本一に貢献した。

1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラジェイソン・ジアンビを擁するアメリカ合衆国との試合で、小久保は先制打を含む2本のタイムリー二塁打で勝利に貢献し、銅メダルを獲得した。

ダイエー時代

読売ジャイアンツと福岡ダイエーホークスの競合の末、ダイエーを逆指名し、1993年のドラフト会議で2位で指名され、入団。背番号は9年俸は1,200万円、契約金は最高額の1億6,000万円であった(以下、金額は推定)。

1994年の春季キャンプから高畠康真の指導を受け、オープン戦はまずまずの成績を残し、同年4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)に6番・右翼手として初出場を果たす。チームは17得点で大勝するも小久保は6打数0安打であった。4月10日のオリックス戦(神戸)で野田浩司からプロ初安打を放ち、同年7月5日の対千葉ロッテマリーンズ戦(北九州市民球場)で、34試合目・67打席目で園川一美からプロ初本塁打を放った。最終的には打率.215・6本塁打と不本意なルーキーイヤーとなったため、この現状を打破すべく「ハワイ・ウインター・ベースボール」に参加し、首位打者とMVPに輝いた。そして、本人曰く「ものすごく緊張した」という、翌年からダイエーの監督に就任する王貞治の目の前で本塁打を放ち、優勝へ導いた。

1995年二塁手のレギュラーに定着すると全試合出場を達成し、28本塁打を放ってパシフィック・リーグ本塁打王に輝いたほか、リーグ1位の9三塁打と長打率.548を記録した。1995年のオールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、第2戦目に古溝克之から広島市民球場の右翼へ本塁打を含む3安打を放った。シーズンの打順に関しては、4月は1試合を除く全試合で8番を打っていた。初めて4番を任されたのは、5月26日の対近鉄バファローズ戦である。

1996年津野広志(ロッテ)からプロ初の満塁本塁打や、2年連続の20本塁打以上を記録するが、前年の活躍からマークが厳しくなり打率.247に終わった。チームも3年ぶりに最下位となる。

1997年になると、8月末から一塁手を、最後の9試合で三塁手を守るようになる。2年ぶりに全試合に出場し、打率.302・36本塁打・114打点の好成績を挙げ、ドミンゴ・マルティネス(西武)との争いに勝利して打点王を獲得。二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録し、野球体育博物館では、「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。

同年オフにプロ野球脱税事件が発覚し、主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡され、コミッショナーからは1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受けた。

1998年浜名千広井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、前年ベストナインに選出されたものの二塁から三塁手にコンバートされた。出場停止期間から復帰した5月30日に4番・三塁手で2安打を放ったが、1ヶ月も経たずに右肩関節唇損傷の重傷で離脱し、わずか17試合の出場、2本塁打・打率.225に終わる。

1999年、前年に痛めた肩の影響もあり、打撃不振に陥るも王監督に1年を通して4番を任される。ポジションは三塁と一塁の併用だった。優勝を決めた日本ハムファイターズ戦では、7回裏に金村暁から推定飛距離140メートルの同点本塁打を放つなど、福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。最終的には打率.234、24本塁打、77打点と不本意な成績に終わるが、本塁打と打点はチーム内トップであった。日本シリーズでも中日ドラゴンズ相手に4番・三塁手で全試合に出場。序盤はヒットすら打てなかったが、第3戦にようやく初ヒットを打つと、ナゴヤドームでの第4戦では、前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなど、日本一に貢献した。

2000年から本格的に三塁手として固定され、同時にチームの選手会長に就任した。開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切り、同年6月20日のオリックス戦から同年7月4日のロッテ戦にかけての10試合連続打点や、21試合連続安打などで打率.390を記録し、6月は初の月間MVPを獲得した。同年8月30日の試合後時点で首位の西武に3.5ゲーム差を付けられていたが、チームの選手会長として試合前や試合後に選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなど、チームが一丸になるよう努めた。チームは勝ち星を重ねて9月5日に首位を奪い返すと、マジック1で迎えた同年10月7日のオリックス戦(福岡ドーム)で金田政彦から決勝本塁打を放ち、リーグ連覇に貢献した。巨人との日本シリーズ(対巨人)では第4戦以降離脱したが、契約更改では31本塁打(リーグ5位)・105打点(リーグ3位)とV2貢献を高く評価され、満30歳にして初めての1億円プレイヤーとなった。

2001年も好調を維持し、44本塁打(リーグ4位、40本以上は自身初)・123打点(リーグ4位)を記録。福岡ドームを本拠地とするダイエー選手として初の40本塁打に乗せた選手となった。この年は松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、城島健司が31本塁打(リーグ9位)、井口が30本塁打(リーグ12位)で、パシフィック・リーグで初めて同一球団から4名の30本塁打以上の打者を輩出した。30本カルテットが全員日本人選手である事象はプロ野球史上初だった。

2002年は背筋痛や肉離れと戦いながら、3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つ。通算1,000本安打を通算1,000試合出場と同時に達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わった。守備ではオールスターで右翼手を、日米野球で二塁手を守ったりと過去の守備位置に就いた。シーズン最終戦となった同年10月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で大塚晶文から9回に同点に追い付く32号本塁打を放ったが、この翌年の試合中に重傷を負ったことでシーズンを全休したため、この試合が自身の「福岡ダイエーホークス」での公式戦最後の出場となる。

2003年は選手会長を松中に譲り、自身の練習に専念してキャンプを消化していたが、同年3月6日の西武とのオープン戦(福岡ドーム)で、ホーム生還時にスライディングの体勢で椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷外側半月板損傷脛骨大腿骨挫傷という重傷を負う。そのまま退場し、完治まで最低6ヶ月と診断されたことで、アリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。自身は同年の試合には一、二軍とも全く出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成し、優勝決定戦では自身も胴上げに参加した。その後もリハビリを継続し、キャッチボールや屋内での打撃練習を再開していた。

巨人時代

2003年のシーズン終了後、多くのファンから来季の復活を期待されていたが、11月3日に突如巨人へ無償トレードで移籍することが発表された。移籍の理由は、当時の球団社長である高塚猛と意見が合わなかったことや、アメリカでの治療費である約2,000万円が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、小久保自身が一時帰国した2003年6月中旬に、球団に対して契約解除(自由契約)の希望を伝えていた。無償トレードとなったのは、当時のオーナーである中内正が、金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側へ伝えたからとされる。小久保はのちに、「トレードを訴えたのは僕自身」「ホークス以外ならどこでもよかった」「無償トレードになった理由は知らない」と語った。この一件はチームメイトやダイエーファンのみならず、球界全体に大きな衝撃を与え、ダイエー選手(選手会)は優勝旅行をボイコットした。

松中信彦中日新聞の取材に対して「球団にふざけるな、と言いたい。どうして小久保さんをタダで巨人に出さなきゃいけないんですか。あんなにチームのために一生懸命やった人が簡単に放出されるなら、ぼくらだって同じ目に遭う。この球団は勝ちたくないんでしょうね。終わりですよ。ファンには申し訳ないけれど、来年連覇したいという気が急激に薄れています」、柴原洋は「チームをまとめていたのは小久保さんだったんでチームにとっても大打撃」、斉藤和巳は「今、頭の中が真っ白で何も考えられません。恥ずかしいです。とても日本一の球団がやることじゃない。選手としては侮辱されているとしか思えない」。、城島健司は「普通じゃない」、和田毅は「シーズン中何度も励ましてくれた。来年いないなんて信じられない」監督である王も「チームが崩壊する」と、その他各選手らが怒りを露にした。11月6日、中内オーナーが球場を訪れた際、すれ違う選手がいる中、挨拶をした選手は0という異例中の異例な出来事が起こった。

巨人は、松井秀喜がメジャーリーグに移籍して以来、長距離打者に恵まれていなかったことから、右打者の松井と評されるほどに期待しており、2004年、故障箇所にサポート器具を装具し、膝関節も曲がりきらない状態でシーズンを迎える。それまでの一本足打法から、膝への負担軽減を図るべくすり足打法に変えて、3番・三塁手で阪神との開幕戦からスタメンで出場し、翌試合に福原忍から東京ドームのライトスタンド中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。その後はなかなか成績が上がらない中、徐々に膝への不安が減り、5月には一本足打法に戻し、本塁打を量産する。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活躍し、7月度の月間MVPに輝いた。シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄原辰徳落合博満清原和博らも達成できなかった、巨人の右打者として史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成。

2005年セ・パ交流戦初年度に12本を放ち、交流戦初代本塁打王になる(タイで4人受賞)。5月3日から1試合を除く全試合に4番で出場。横浜ベイスターズ土肥義弘からプロ入り初の3打席連続本塁打を放つなど、シーズンでは34本塁打を記録し、低迷するチームの中で孤軍奮闘の活躍をみせた。FA権を取得したが、移籍時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。

2006年、巨人代表・清武英利から巨人軍第17代目の主将を依頼される。主将制度は1998年の吉村禎章以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた。年俸は3億円に達した。

6番・三塁手で開幕戦出場すると、4月には3試合連続を含む9本塁打を記録し、チームは首位を独走。その後、調子を落としたがチャンスになると送りバントを積極的に行うなど首位を守り、6月1日の日本ハム戦では札幌ドームで延長12回に武田勝から決勝本塁打を放った。しかし、その翌日の6月2日、西武戦で和田一浩の打球を処理する際、古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期離脱となる。チームも極度の不振に陥った。8月18日の中日戦にてようやく一軍復帰したが、最終的に4番での出場は9月3日対中日戦の1試合のみで、チームは2年連続Bクラスに終わった。

11月11日にFAにより福岡ソフトバンクホークスに復帰が決定した。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。

尚、逆指名制度で入団した選手としては初めて、FA権を行使し国内移籍した選手となった。

ソフトバンク時代

2007年には、恩師である王を胴上げすべく並々ならぬ思いでキャンプを迎え、同時に禁酒も決意した。2003年に重傷を負った右足の状態も改善したことから、サポート用具を外し、開幕戦に5番・三塁手で先発出場。9本塁打・26打点、得点圏打率.375で同年3・4月の月間MVPを受賞する。交流戦では逆転満塁本塁打を放つなど好調を維持したが、夏場に疲労から調子を下げ、8月末には死球により肋骨を骨折したため離脱した。最終的にチームトップの25本塁打・82打点を挙げたが、チーム自体は2年連続の3位に終わり、クライマックスシリーズでも4度目となる敗退に終わった。

2008年からは3年目の松田宣浩が頭角を現したこともあり、守備の負担が少ない一塁手に転向した。前年オフに三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術した影響から二軍での調整を経て、同年4月8日に5番・一塁手で一軍初出場。交流戦では吉見祐治(横浜)から北九州市民球場での場外本塁打を放ち、球団初の交流戦優勝のウイニングボールを掴むなど、同年限りで監督を勇退する王貞治のために貢献したが、終盤に大失速し、チームは12年ぶりの最下位に終わった。自身も2年連続20本塁打を記録するが、打率.253・56打点、得点圏打率.260の成績に終わった。

2009年は前年後半の大不振を受けて、肉体改造を決意した。過食で体重を激増させてウエイトトレーニングを再開、そして新たに就任した秋山幸二監督の新体制の下、キャプテンに任命された。故障者の多いチーム事情の中で唯一の全試合中軸として先発出場し、そのうち138試合を一塁手として出場した。交流戦では史上最速で優勝を成し遂げ、レギュラーシーズンでも一度も同一カード3連敗を受けることなく3位にまで躍進、打撃でも4番に定着してチームを支えた。100試合以上出場して初めて20本塁打を割ったが、チャンスでは右方向への軽打を見せるなど得点圏打率は.336を記録、チームトップの81打点を挙げた。しかし、2年ぶりに出場したクライマックスシリーズでは打棒が振るわず、チームも東北楽天ゴールデンイーグルスに2連敗して5度目の敗退を喫する。

2010年には8年ぶりに開幕4番で出場すると、同年4月2日から11試合連続安打を記録した。その後は首痛・肩痛によって数字を落とし、1ヶ月の離脱を余儀なくされた。離脱中のチームは6連敗など首位と最長の5.5ゲーム差に広がるなど窮地に陥ったが、前倒しで同年7月10日に復帰し、一気に9連勝と波に乗った。チーム内ではホセ・オーティズに次ぐ勝利打点9、殊勲打もリーグ2位の25、併殺打も僅か4だった。チームは7年ぶりの優勝を決めた。勝負所の8・9月の全試合は4番で出場し、打率.303、併殺打は0だった。チーム長年の課題であるクライマックスシリーズでは、最終ステージで打率1割台・0本塁打・3打点と大不振で、第6戦の最終回の最後の打者となり、チームも敗退した。シーズン終了後には2度目のゴールデングラブ賞を一塁手として受賞し、初受賞より15年ぶりの史上最長ブランクとなった。

2011年は開幕戦(オリックス戦)で木佐貫洋から死球を受け、右手第一末節骨剥離骨折。僅か10日間で一軍復帰し、初安打が自身3年連続10度目のサヨナラ打となった。同年5月12日には史上16人目(大卒選手では史上5人目)の通算400本塁打を達成した。シーズンでも8年連続の二桁本塁打を記録したが、同年8月4日のオリックス戦で高宮和也から死球を受け、左第9肋骨を骨折し、9月17日にも首痛で出場選手登録を抹消される。日本シリーズでは全試合に出場し、打率.320、第4戦と5戦の2試合連続先制打、守備でも無失策とチームとして8年ぶりの日本一に貢献し、シリーズMVPを獲得した。40歳1ヶ月での日本シリーズMVPは、2011年現在で最年長記録である。

2012年は、長年悩まされていた首の痛みを取る手術を受けたものの開幕には間に合わせ、5番・一塁手で出場。しかし、通算2,000安打まであと1安打とした後の5月25日午前中に受けた検査で腰椎の椎間板ヘルニアが判明し、出場選手登録を抹消された。同年6月24日に復帰すると、同日の日本ハム戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)において、ブライアン・ウルフから中前安打を放って、史上41人目の2,000安打を達成した。同年8月14日のロッテ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)の試合後に記者会見を開き、同年限りでの現役引退を表明した。引退表明後も出場を続け、同年9月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦では、10年ぶりとなる二打席連続本塁打を放った。41歳の誕生日を迎えた同年10月8日、シーズン最終戦のオリックス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)に4番・一塁手で先発出場した。この前日、小久保は「直球だけ(で勝負する)とかは止めてほしい」とコメントしていたが、オリックスの先発だった西勇輝は真剣勝負で挑み、この試合でノーヒットノーランを達成した。そのため小久保も無安打で終わり、最終打席は遊撃ゴロに抑えられた。試合後には引退セレモニーが行われた。クライマックスシリーズにはファイナルステージ第2試合を除いて先発出場するが、最終出場となった10月19日の日本ハム戦(ファイナルステージ第3戦)の9回2死ランナー一塁で小久保に打席が回り、遊飛に倒れて試合終了。ソフトバンクの敗退が決まり、これが小久保の現役最後の打席となった。試合後には両チームの選手による胴上げが行われた。同年11月29日、任意引退選手公示が行われた。その功績により、背番号9番は2015年柳田悠岐が継承するまで欠番となった。

解説者

現役引退直後の2013年からはNHKの野球解説者を務める。2013年のみ西日本新聞社スポーツアドバイザーおよび西日本スポーツ評論家も兼任した。公式サイトも開設し、全て自身の手で書き綴った自叙伝が1月30日発売された。

日本代表監督時代

2013年10月9日、過去の成績やリーダーシップを評価され、常設化された野球日本代表侍ジャパン」の初代監督に任命された。オリンピック正式競技後としては初の日本代表選手経験者の監督就任となった。

11月に行われた2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイで初采配。2015年11月のWBSCプレミア12では準決勝で韓国に逆転負けを喫し、3位に終わった。その試合の采配を2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシック開幕直前まで強く批判され、戦前から苦戦が予想されたが、下馬評を覆し準決勝まで進出、アメリカと対戦の末敗戦した。

試合後の最後のミーティングでは「負けた全責任は俺にある。おまえたちはよくやった。胸を張って帰国しよう」と選手を鼓舞した。全試合4番を務めた筒香嘉智は「小久保監督のためなら頑張ろうと思えるような素晴らしい監督だった。国を背負って戦うことができて光栄だった」とコメントし、全試合マスクを被った小林誠司からも「選手の気持ちを理解してくれた」と感謝の言葉を口にしていた。この試合をもって日本代表監督を退任した。

プレースタイル

小久保の打撃フォーム

打撃

通算413本の本塁打を量産した一本足打法の長距離砲で、独特の大きな弧を描く本塁打が特徴でもあった。アッパースイングで打球を高く上げてホームランを放つ。

自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では34勝5敗で勝率8割7分2厘と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。

満塁に強く、13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。珍しいエピソードとしては、1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。2011年は満塁本塁打は0だったが、満塁打率は.429を記録した。

日本プロ野球において、大卒で400本塁打と2,000安打を両方達成したのは、長嶋茂雄山本浩二金本知憲に次いで史上4人目である。

守備・走塁

守備では捕球・スローイング共に比較的安定していたが、ヒザを故障して以降は反応がやや鈍くなった。試合中は積極的に投手に声をかける。

大学時代のポジションは三塁手で、プロ1年目は主に右翼手として出場し、1995年から1997年シーズン途中までは二塁手を務めた。当時より一塁での出場経験もあり、ゴールデングラブ賞を二塁手、一塁手でも受賞した。

プロ入り当初は2桁盗塁やリーグ最多三塁打を記録したこともあった。しかし膝の故障を発症してからは脚力の衰えが顕著となり、一塁到達タイムは4.62秒と平均を下回ったが、全力疾走は怠らなかった。

人物

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幼少の頃に両親が離婚。幼少期は柔道部であったが、小学1年生からは母親の勧めで野球を始める。加入したボーイズリーグのチームは非常に厳しかったため、小久保は辞めることを決意していたが、甘えさせてはいけないと、母は嫌がる小久保を無理やりグラウンドに連れて行ったという。プロを目指したのは小学2年生で、そこからその目標はぶれなかった。高校卒業後は社会人野球を目指していたが、母の強い勧めがあり、大学進学に急きょ変更した。その地元への恩返しに、2005年オフから和歌山市民球場で軟式少年野球大会を行い、トーナメントで優勝を決める、いわゆる「小久保裕紀杯」を開催している。表彰式でメダルを渡すのはもちろん、試合前ノックや、始球式にも打者として出るなどサービスも行っている。

学生時代は文武両道で、授業中寝たことも宿題を忘れたこともなく、常に成績はクラスで5番以内だったという。青山学院大学時代も3年時までに卒業に必要な単位を取得し、4年生では野球に完全集中できるほどだった。野球教室でも野球だけではなく、勉強もするように勧める。その成果か非常に話が上手く、遠藤久美子と番組で共演した際には絶賛されていた。芸能界にも親友は多く、2007年シーズン中に森田一義アワー 笑っていいとも!の人気コーナー、テレフォンショッキングに友達紹介として、中村橋之助から出演のオファーがあったが、出演日が試合と重なったため実現しなかった。

歌が好きで、歌唱力も高い。主に、大学の先輩でもあるサザンオールスターズや、コブクロEXILEなどを好む。nobodyknows+とも親交があり、特にcrystalboyとは名古屋遠征の際、よく食事を共にする。ソフトバンク復帰後の打席に入る際のBGMはSMAPの『ありがとう』。2007年交流戦で仲が良い高橋尚成に抑えられ、試合終了後電話がかかってきて、皮肉たっぷりに歌われたという。2011年のみ東日本大震災の影響もあり『がんばりましょう』に変更した。巨人時代の入場曲は『希望の轍』(桑田佳祐が自身の母校青学大の先輩ということから)。

読書家としても知られ、1996年に「プロ2年目でたまたまタイトルを取れて有頂天になっていた」と絶不調に陥っていた際に船井幸雄の本を目にし、船井の著作物を読みあさって以降、20代から30代にかけて貪るように自己啓発本を読み、40代となった現在は歴史小説に傾倒しているという。もっとも尊敬しているのは稲盛和夫で、その中にある「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」は小久保を支える言葉となっている。ちなみに愛読書は北方謙三の「水滸伝」。印象深い言葉にはメモをつけている。小説すばる8月号では北方と初対談を果たした。

エコロジーにも関心があり、2009年からいわゆる「My箸」を持参している。2011年4月15日から自身の折れたバットを箸に加工し、限定400膳を販売している。ネット利用にも積極的である。2009年に球団から配布された自身の全打席を見ることができるiPhoneを有効に使った。

ダイエーでの若手時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督の王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている。

巨人に移籍した際にも王は、「プロ野球人としての手本になる選手だからジャイアンツにとってもいい刺激になる」と語っている。また、2012年6月24日に2000本安打を達成し、7月14日のセレモニーで「名球会ブレザー」が贈呈された際、ブレザーを直々に贈呈したのはホークス監督として小久保とプロ野球人生を歩み、小久保を見守り続けた王貞治(名球会会長)であった。その際には、「自分が必ず着せる。責任感の強い男。武士道というか気質として古い日本的なものを持っている」と評した。

座右の銘は「一瞬に生きる」。2002年に内観でこの言葉と出会う。内観は、2002年から4年に1度、栃木県の山奥で行っている。一畳も満たないところに一日15時間座り、感謝や謝罪、してもらったこと、してかえしたことを延々と思い浮かべるという。3日間の断食ありの1週間、修行をおこなっている。この年からメンタルトレーニングを行うようになり、2003年の大怪我など、8度の手術を行いながらも第一線で活躍した。この座右の銘を題材に2010年オフに福岡の小学校で先生として授業を行った。トレーニングには非常に積極的で、30歳過ぎたころからは目のトレーニングも行っている。

ファンとの交流を大事にしていたため、福岡で試合がある日は、試合直前までサインをしていた。さらに自身の公式ファンサイト「K'Project」で2004年から毎年オフに、100人以上のファンと間近でふれあった。主にトークと歌のディナーショー形式で、なかには様々なサプライズがあり、諸事情で参加できないと言いながら、本当は隠れて待っていたり、和服姿やドラキュラ姿で参加したりした。2010年はリーグ優勝を果たしたこともあり、ファンと炭酸ファイトを行った。イベント内ではオークションなどを行い、ポケットマネーと合わせて24時間テレビ 「愛は地球を救う」、宮崎の口蹄疫に義援金を送った。2011年東北地方太平洋沖地震もK'Projectを通して2011年3月26日にトークショーを行い、急きょだったにも関わらず、ホークスの1軍選手ほぼ全員、被災地東北の球団である楽天の選手も、嶋基宏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/06 22:03

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