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小久保裕紀とは?

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小久保 裕紀
引退セレモニーでの小久保
(2012年10月8日、福岡Yahoo!JAPANドーム)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
和歌山県和歌山市
【生年月日】
(1971-10-08) 1971年10月8日(46歳)
身長
体重 182 cm
87 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手一塁手二塁手外野手
【プロ入り】
1993年 ドラフト2位(逆指名)
【初出場】
1994年4月9日
【最終出場】
2012年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

【国際大会】

【代表チーム】
日本代表
五輪
1992年
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック

男子 野球

 | 1992 | 野球

小久保 裕紀(こくぼ ひろき、1971年10月8日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・野球指導者、野球解説者評論家

現役時代は福岡ソフトバンクホークス(福岡ダイエーホークス)読売ジャイアンツに所属し、両球団で主将を務めた。2005年から2009年まで社団法人日本プロ野球選手会の第10代理事長を務めていた。

2013年からはNHKの野球解説者を務める一方、同年より2017年までは野球日本代表(侍ジャパン)の監督を務めた。学生社会人プロ野球でのコーチ監督の経験無しで日本代表の監督を務めるのは史上初であった。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 ダイエー時代
    • 1.3 巨人時代
    • 1.4 ソフトバンク時代
    • 1.5 解説者
    • 1.6 日本代表
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備・走塁
  • 3 人物
    • 3.1 主将として
    • 3.2 ホークス復帰
    • 3.3 采配について
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別守備成績
    • 4.3 タイトル
    • 4.4 表彰
    • 4.5 記録
    • 4.6 背番号
      • 4.6.1 選手時代
      • 4.6.2 監督・コーチ時代
    • 4.7 代表歴
  • 5 脚注
  • 6 関連項目
  • 7 外部リンク

経歴

プロ入り前

1971年に和歌山市で生まれる。和歌山市立砂山小学校から和歌山市立西和中学校へ進学し、野球部に所属。中学校卒業後は和歌山県立星林高等学校に進学し、1989年青山学院大学へ進学。東都大学リーグでは通算40試合に出場して打率.291、8本塁打、23打点を記録する。1993年には小久保が主将となり、青山学院大学史上初の大学野球日本一に貢献した。

1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に大学生で唯一選出され、予選リーグで2本塁打を放つ。のちにメジャーリーグベースボールでプレーするノマー・ガルシアパーラジェイソン・ジアンビを擁するアメリカ合衆国との試合で、小久保は先制打を含む2本のタイムリー二塁打で勝利に貢献し、銅メダルを獲得した。

ダイエー時代

読売ジャイアンツ福岡ダイエーホークスとの競合の末、ダイエーを逆指名し、1993年のドラフト会議で2位で指名され、入団。背番号は9年俸は1200万円、契約金は最高額の1億6000万円であった(以下、金額は推定)。

1994年には春季キャンプから高畠康真の指導を受け、オープン戦はまずまずの成績を残し、同年4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)に6番・右翼手として初出場を果たす。チームは17得点で大勝するも小久保は6打数0安打であった。4月10日のオリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)で野田浩司からプロ初安打を放ち、同年7月5日の対千葉ロッテマリーンズ戦(北九州市民球場)で、34試合目・67打席目で園川一美からプロ初本塁打を放った。最終的には打率.215・6本塁打と不本意なルーキーイヤーとなったため、この現状を打破すべく「ハワイ・ウインター・ベースボール」に参加し、首位打者とMVPに輝いた。そして、本人曰く「ものすごく緊張した」という、翌年から福岡ダイエーホークスの監督に就任する王貞治の目の前で本塁打を放ち、優勝へ導いた。

1995年には二塁手のレギュラーに定着すると全試合出場を達成、28本塁打を放ってパシフィック・リーグ本塁打王に輝いたほか、リーグ1位の9三塁打と長打率.548を記録した。1995年のオールスターゲームにもファン投票トップで初選出され、第2戦目に古溝克之から広島市民球場の右翼へ本塁打を含む3安打を放った。シーズンの打順に関しては、4月は1試合を除く全試合で8番を打っていた。初めて4番を任されたのは、5月26日の対近鉄バファローズ戦である。

1996年津野広志(ロッテ)からプロ初の満塁本塁打や、2年連続の20本塁打以上を記録するが、打率.247に終わった。チームも3年ぶりに最下位となる。

1997年になると、8月末から一塁手を、最後の9試合で三塁手を守るようになる。2年ぶりに全試合に出場し、打率.302・36本塁打・114打点の好成績を挙げ、ドミンゴ・マルティネス(西武)との争いに勝利して打点王を獲得。二塁打37本、長打率.588、塁打310はそれぞれリーグ1位を記録し、野球体育博物館では、「セの松井秀喜、パの小久保」としてポスターのモデルにもなった。しかし、オフにプロ野球脱税事件が発覚、自身も主犯格の1人として懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決が言い渡され、コミッショナーからは1998年の開幕戦から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受ける。

1998年浜名千広井口忠仁を二遊間としてレギュラーで固定するため、前年ベストナインに選出されたものの二塁を守らなくなる。出場停止期間から復帰した5月30日に4番・三塁手で2安打を放ったが、1ヶ月も経たずに右肩関節唇損傷の重傷で離脱し、わずか17試合の出場、2本塁打・打率.225に終わる。

1999年、前年に痛めた肩の影響もあり、打撃不振に陥るも王監督に1年を通して4番を任される。優勝を決めた日本ハム戦では、7回裏に金村暁から推定飛距離140メートルの同点本塁打を放つなど、福岡移転後初のリーグ優勝に貢献した。最終的には打率.234、24本塁打、77打点、本塁打と打点はチーム内トップであった。日本シリーズでも中日ドラゴンズ相手に4番・三塁手て全試合に出場。序盤はヒットすら打てなかったが、第3戦にようやく初ヒットを打つと、ナゴヤドームでの第4戦では、前年までダイエーに所属していた武田一浩から本塁打を放つなど、日本一に貢献した。

2000年から本格的に三塁手として固定され、同時にチームの選手会長に就任するなど、チームに欠かせない存在となる。開幕から6試合で6本塁打と順調な滑り出しを切り、同年6月20日の対オリックス・ブルーウェーブ戦から同年7月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦にかけての10試合連続打点や、21試合連続安打などで打率.390を記録し、6月は初の月間MVPを獲得した。同年8月30日の試合後時点で首位の西武ライオンズに3.5ゲーム差を付けられていたが、チームの選手会長として試合前や試合後に選手だけを集めてミーティングや決起集会を招集するなど、チームが一丸になるよう努めた。その結果チームは勝ち星を重ねて9月5日に首位を奪い返すと、マジック1で迎えた同年10月7日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)で金田政彦から決勝本塁打を放ち、リーグ連覇に貢献した。2000年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では故障もあり途中離脱となった。それでも契約更改では31本塁打(リーグ5位)・105打点(リーグ3位)とシーズン連覇貢献を高く評価され、満30歳にして初めての1億円プレイヤーとなった。

2001年も好調を維持し、44本塁打(リーグ4位、40本以上は自身初)・123打点(リーグ4位)を記録。福岡ドームを本拠地にしての選手としては初の大台となった。この年は松中信彦が36本塁打(リーグ6位)、城島健司が31本塁打(リーグ9位)、井口資仁が30本塁打(リーグ12位)で、パシフィック・リーグで初めて同一球団から4名のシーズン30本塁打以上となる打者を輩出した。全員日本人なのはプロ野球史上初だった。

2002年は背筋痛や肉離れと戦いながら、3年連続の30本超えとなる32本塁打を放つ。自身の通算1000本安打を通算1000試合出場と同時に達成するなど活躍したが、チームは2年連続の2位に終わった。守備ではオールスターで右翼手を、日米野球で二塁手を守ったりと過去の守備位置に就いた。シーズン最終戦となった同年10月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で大塚晶文から9回に同点に追い付く32号本塁打を放ったが、この翌年の試合中に重傷を負ったことでシーズンを全休したため、この試合が自身の「福岡ダイエーホークス」での公式戦最後の出場となる。

2003年は選手会長を松中に譲り、打撃に専念してキャンプを消化していたが、同年3月6日のオープン戦(対西武ライオンズ戦)でホーム生還時スライディングの体勢で椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷外側半月板損傷脛骨大腿骨挫傷という重傷を負う。そのまま退場し、完治まで最低6ヶ月と診断されたことでアリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。自身は同年の試合には一、二軍とも全く出場できなかったが、チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成、優勝決定戦では自身も一時帰国し、胴上げに参加した。その後もリハビリ生活を耐え、キャッチボールや屋内での打撃練習は再開していた。

巨人時代

2003年のシーズン終了後、多くのファンから来季の復活を期待されていたが、11月3日に突如読売ジャイアンツ無償トレードで移籍することが発表された。移籍の理由は、当時の球団社長である高塚猛と意見が合わなかったことや、アメリカでの治療費・渡航費である約2000万円が球団から一切支払われなかったことが挙げられ、小久保はアメリカから一時帰国した2003年6月中旬に球団に対して契約解除(自由契約)の希望を伝えていた。無償トレードとなったのは、当時のオーナーである中内正が、金銭トレードの分を小久保の年俸に上乗せするよう巨人側へ伝えたからとされる。小久保はのちに、「トレードを訴えたのは僕自身」「ホークス以外ならどこでもよかった」「無償トレードになった理由は知らない」と語った。この一件はチームメイトやダイエーファンのみならず、球界全体に大きな衝撃を与え、前年優勝していたチームは優勝旅行をボイコットした。この事件について小久保を慕う松中は、中日新聞の取材に対して「球団にふざけるな、と言いたい。どうして小久保さんをタダで巨人に出さなきゃいけないんですか。あんなにチームのために一生懸命やった人が簡単に放出されるなら、ぼくらだって同じ目に遭う。この球団は勝ちたくないんでしょうね。終わりですよ。ファンには申し訳ないけれど、来年連覇したいという気が急激に薄れています」と怒りをぶちまけ、小久保と自主トレを行ってきた斉藤和巳は「今、頭の中が真っ白で何も考えられません。恥ずかしいです。とても日本一の球団がやることじゃない。選手としては侮辱されているとしか思えない」と大きなショックを隠さなかった。

一方、巨人としては、松井秀喜がメジャーリーグに移籍して以来、長距離打者に恵まれていなかったことから、右打者の松井と評されるほどに期待されており、2004年、故障箇所にサポート器具を装具、膝関節も曲がりきらないというシーズンを迎えるが、3番・三塁手で阪神との開幕戦に出場すると、翌試合に福原忍から東京ドームのライトスタンド中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。その後はなかなか成績が上がらない中、徐々に膝への不安が減り、5月には負担の少ないすり足打法から元の一本足打法に戻して本塁打を量産する。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活躍し、7月度の月間MVPに輝いた。シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄原辰徳落合博満清原和博らも達成できなかった巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成。アレックス・ラミレスが後に記録するも2014年終了時点で、いまだに日本人での巨人右打者40本塁打以上は小久保のみである。打率は自己最高の.314を記録した。

2005年交流戦初年度に12本を放ち、交流戦本塁打王になる(タイで4人受賞)。レギュラーシーズンでは不調期間が長く安定感には欠けたが、5月3日から、1試合を除く全試合に4番で出場。横浜土肥義弘からプロ入り初の3打席連続本塁打を放つなど、シーズンでは34本塁打を記録し、低迷するチームの中で孤軍奮闘の活躍をみせた。FA権を取得したが、入団時に2年+1年(球団側に選択権がある)オプションの最高3年契約を結んでおり、球団がこのオプションを行使し、巨人に残留した。

2006年、巨人代表清武英利に巨人軍第17代目の主将を依頼される。主将制度は1998年の吉村禎章以来8年ぶりに復活されたが、移籍選手の主将指名は初。小久保のユニフォームの右袖には15×80mmのキャプテンマークが縫い付けられていた。年俸は3億円に達した。

6番・三塁手で開幕戦出場すると、4月に打棒を爆発。3試合連続を含む9本塁打を記録し、チームは首位を独走。その後、調子を落としたがチャンスになると送りバントを積極的に行うなど、何とか首位を守り、6月1日の日本ハム戦では札幌ドームで延長12回に武田勝から決勝本塁打を放った。しかし、その翌日の6月2日、対西武戦で和田一浩の打球を処理する際、古傷の右手親指内側側副靭帯を剥離骨折し、長期にわたり登録抹消となる。チームもそこから極度の不振に陥った。リハビリも思うようにいかず、8月18日の中日戦にてようやく一軍復帰。打撃面でも怪我前に比べて精彩を欠いてしまう。最終的に4番での出場は9月3日対中日戦の1試合のみ、打率は.256、二塁打数はわずか5本。そして結局チームは2年連続Bクラスに終わってしまう。

11月11日にFAにより福岡ソフトバンクホークスに復帰が決定した(詳細は#ホークス復帰参照)。12月10日、小久保の人的補償として吉武真太郎が巨人に移籍した。

ソフトバンク時代

2007年には、恩師である王貞治を胴上げすべく並々ならぬ思いでキャンプを迎え、同時に禁酒も決意した。さらに右足の状態も改善したことからサポート用具を外し、開幕戦に5番・三塁手で先発出場。キャンプ中に決意したことを早速開幕で示し、9本塁打・26打点、得点圏打率.375で同年3・4月の月間MVPを受賞する。交流戦では逆転満塁本塁打を放つなど好調を維持したが、夏場に疲労から調子を一気に下げ、8月末には死球により肋骨を骨折したため離脱した。それでも自身は最終的にチームトップの25本塁打・82打点を挙げ、後半戦には犠牲バントを2度決めるなど、チームに貢献した。しかしチーム自体は思うように成績が伸びず、2年連続の3位に終わり、2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでも4度目となる敗退に終わった。

2008年からは3年目の松田宣浩が頭角を現したこともあり、守備の負担が少ない一塁手に転向した。前年オフには三角線維軟骨複合体の治療のため左手首を手術し、キャンプ・オープン戦に全く出られず、ウエスタン・リーグでの調整を経て、同年4月8日にようやく自身の開幕戦を5番・一塁手で迎える。この試合では2安打を放つと、交流戦でも対横浜ベイスターズ戦(北九州市民球場)では吉見祐治から場外本塁打を放ち、球団初の交流戦優勝のウイニングボールを掴むなど、同年限りで勇退する王貞治監督のために貢献したが、終盤にチームごと大失速し、12年ぶりの最下位に終わった。自身も2年連続20本塁打を記録するが、打率.253・56打点、得点圏打率.260の成績に終わった。

2009年は前年後半の大不振を受けて、肉体改造を決意した。過食で体重を激増させてウエイトトレーニングを再開、そして新たに就任した秋山幸二監督の新体制の下、キャプテンに任命された。故障者の多いチーム事情の中で唯一の全試合中軸として先発出場(12年ぶりは前田智徳と並んで史上最長記録)し、そのうち138試合を一塁手として出場した。交流戦では史上最速で優勝(連覇)を成し遂げ、レギュラーシーズンでも一度も同一カード3連敗を受けることなく3位にまで躍進、打撃でも4番に定着してチームを支えた。100試合以上出場して初めて20本塁打を割ったが、チャンスでは右方向への軽打を見せるなど得点圏打率は.336を記録、チームトップの81打点を挙げた。しかし、2年ぶりに出場した2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは打棒が振るわず、チームも東北楽天ゴールデンイーグルスに2連敗して5度目の敗退を喫する。

2010年には8年ぶりに開幕4番で出場すると、同年4月2日から11試合連続安打を記録した。その後は首痛・肩痛によって一気に数字を落とし、さらに1ヶ月の離脱を余儀なくされた。離脱中のチームは6連敗など首位と最長の5.5ゲーム差に広がるなど窮地に陥ったが、前倒しで同年7月10日に復帰した際には3試合目で早くも4番に戻ると、一気に9連勝と波に乗った。チーム内ではホセ・オーティズに次ぐ勝利打点9、殊勲打もリーグ2位の25、併殺打も僅か4だった。同年9月18日の対埼玉西武ライオンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)では自ら犠牲バントを決めるなど優勝への執念を見せ、最後はブライアン・シコースキーから通算399号となるサヨナラ本塁打を放った。その後もチームは5連勝で7年ぶりの優勝を決めた。勝負所の8・9月の全試合は4番で出場し、打率.303、併殺打は0だった。チーム長年の課題である2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズでは、最終ステージで打率1割台・0本塁打・3打点と大不振で、第6戦の最終回の最後の打者となり、チームも敗退した。シーズン終了後には2度目のゴールデングラブ賞を一塁手として受賞し、初受賞より15年ぶりの史上最長ブランクとなった。

2011年は開幕戦(対オリックス・バファローズ戦)で木佐貫洋から死球を受け、右手第一末節骨剥離骨折。それでも僅か10日間で一軍復帰し、初安打が自身3年連続10度目のサヨナラ打となった。同年5月12日には史上16人目(大卒選手では史上5人目)の通算400本塁打を達成した。シーズンでも8年連続の二桁本塁打を記録したが、後半は度重なる故障や年齢もあり、6月までは.298を記録した打率は7月 - 9月間では.228と急降下、同年8月4日の対オリックス・バファローズ戦では高宮和也から死球を受け、左第9肋骨を骨折、同年9月17日にも持病の首痛で出場選手登録を抹消される。2011年の日本シリーズでは全試合に出場し、打率.320、第4戦と5戦の2試合連続先制打、守備でも無失策とチームとして8年ぶりの日本一に貢献し、日本シリーズMVPを獲得した。40歳1ヶ月での日本シリーズMVPも2011年現在で最年長記録である(それまでの最年長記録は1999年の秋山)。

2012年は長年悩まされていた首の痛みを取る手術を受けたものの開幕には間に合わせ、5番・一塁手で出場。しかし、通算2000安打まであと1安打とした後の5月25日午前中に受けた検査で腰椎の椎間板ヘルニアが判明し、出場選手登録を抹消された。同年6月24日に復帰すると、同日の対北海道日本ハムファイターズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)において、ブライアン・ウルフから中前安打を放って、史上41人目の2000安打を達成した。同年8月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)の試合後に記者会見を開き、同年限りでの現役引退を表明した。引退表明後も出場を続け、同年9月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦では、10年ぶりとなる二打席連続本塁打を放った。これで大怪我から復帰した2004年以降続いている1試合2本塁打を9年連続達成した。41歳の誕生日を迎えた同年10月8日、シーズン最終戦の対オリックス・バファローズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)に4番・一塁手で先発出場した。この前日、小久保は「直球だけ(で勝負する)とかは止めてほしい」とコメントしていたが、オリックスの先発だった西勇輝は真剣勝負で挑み、この試合でノーヒットノーランを達成した。そのため小久保も無安打で終わり、最終打席は遊撃ゴロに抑えられた。試合後には引退セレモニーが行われた。2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズにはファイナルステージ第2試合を除いて先発出場するが、最終出場となった10月19日の対北海道日本ハムファイターズ戦(ファイナルステージ第3戦)の9回2死ランナー一塁で小久保に打席が回るが、遊飛に倒れて試合終了。ソフトバンクの敗退が決まり、これが小久保の現役最後の打席となった。試合後には両チームの選手による胴上げが行われた。同年11月29日、任意引退選手公示が行われた。その功績により、背番号9番は2015年柳田悠岐が継承するまで欠番となった。

  • 2000本安打達成(2012年6月24日)

  • 10年ぶりの2打席本塁打を放つ(2012年9月30日)

解説者

2013年からはNHKの野球解説者を務める(2013年のみ西日本新聞社スポーツアドバイザーおよび西日本スポーツ評論家も兼任)。公式サイトも開設し、全て自身の手で書き綴った自叙伝が1月30日発売された。

日本代表

2013年10月9日に、過去の成績やリーダーシップを評価され、常設化された野球日本代表(侍ジャパン)の監督に任命され、就任した。11月に行われた2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイで初采配。2015年11月のWBSCプレミア12では準決勝で韓国に逆転負けを喫し、3位に終わった。2017年の第4回ワールド・ベースボール・クラシックでは戦前から苦戦が予想されたが、下馬評を覆し準決勝まで進出、アメリカと対戦の末敗戦した。この試合をもって日本代表監督を退任した。

プレースタイル

小久保の打撃フォーム

打撃

通算413本の本塁打を量産した一本足打法の長距離砲。独特的な大きな弧を描く本塁打が特徴でもあった。アッパースイングで打球を高く上げてホームランを放つ。自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では34勝5敗で勝率8割7分2厘と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。

満塁に強く、13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。珍しいエピソードとしては、1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山幸二がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。2011年は満塁の本塁打は0だったが満塁打率は.429を記録した。

日本のプロ野球において大卒で400本塁打と2000本安打を共に達成したのは長嶋茂雄山本浩二金本知憲に次いで史上4人目である。

守備・走塁

守備では捕球・スローイング共に比較的安定していたが、ヒザを故障して以降は反応がやや鈍くなっている。試合中は積極的に投手に声をかける。

大学時代のポジションは三塁手で、プロ1年目は主に右翼手として出場し、1995年から1997年シーズン途中までは二塁手を務めた。当時より一塁での出場経験もあり、ゴールデングラブ賞を二塁手、一塁手でも受賞した。

プロ入り当初は2桁盗塁やリーグ最多三塁打を記録したこともあった。しかし膝の故障を発症してからは脚力の衰えが顕著となり、一塁到達タイムは4.62秒と平均を下回るようになったが、全力疾走は怠らない。

人物

 | この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年8月)

幼少の頃に両親が離婚。幼少期は柔道部であったが、母親がきっかけになり野球を始める。小学1年生で野球部に入部したものの、非常に厳しい野球部で辞めることを決意していたが、甘えさせてはいけないと、母は嫌がる小久保を無理やりグラウンドに連れて行ったという。プロを目指したのは小学2年生で、そこからその目標はぶれなかった。高校卒業後は社会人野球を目指していたが、大学進学に急きょ変更した。これも母の強い勧めである。その地元への恩返しに、2005年オフから和歌山市民球場で軟式少年野球大会を行い、トーナメントで優勝を決める、いわゆる「小久保裕紀杯」を開催している。表彰式でメダルを渡すのはもちろん、試合前ノックや、始球式にも打者として出るなどサービスも行っている。

学生時代は文武両道で、授業中寝たことも宿題を忘れたこともなく、常に成績はクラスで5番以内だったという。青山学院大学時代も3年時で単位を取得。4年生では野球に完全集中できるほどだった。野球教室でも野球だけではなく、勉強もするように勧める。その成果か非常に話が上手く、遠藤久美子と番組で共演した際には絶賛されていた。芸能界にも親友は多く、2007年シーズン中に森田一義アワー 笑っていいとも!の人気コーナー、テレフォンショッキングに友達紹介として、中村橋之助から出演のオファーがあったが、出演日が試合と重なったため実現しなかった。

歌が好きで、歌唱力も高い。主に、大学の先輩でもあるサザンオールスターズや、コブクロEXILEなどを好む。nobodyknows+とも親交があり、特にcrystalboyとは名古屋遠征の際、よく食事を共にする。ソフトバンク復帰後の打席に入る際のBGMはSMAPの『ありがとう』。2007年交流戦で仲が良い高橋尚成に抑えられ、試合終了後電話がかかってきて、皮肉たっぷりに歌われたという。2011年のみ東日本大震災の影響もあり『がんばりましょう』に変更した。巨人時代の入場曲は『希望の轍』(桑田佳祐が自身の母校青学大の先輩ということから)。

読書家としても知られ、1996年に「プロ2年目でたまたまタイトルを取れて有頂天になっていた」と絶不調に陥っていた際に船井幸雄の本を目にし、船井の著作物を読みあさって以降、20代から30代にかけて貪るように自己啓発本を読み、40代となった現在は歴史小説に傾倒しているという。もっとも尊敬しているのは稲盛和夫で、その中にある「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」は小久保を支える言葉となっている。ちなみに愛読書は北方謙三 水滸伝である。印象深い言葉にはメモをつけている。小説すばる8月号で北方謙三と初対談を果たした。

エコロジーにも関心があり、2009年からいわゆる「My箸」を持参している。2011年4月15日から自身の折れたバットを箸に加工し、限定400膳を販売している。ネット利用にも積極的である。2009年に球団から配布された自身の全打席を見ることができるiPhoneを有効に使った。

ダイエー若手時代、小久保のエラーが一因となり敗れた試合後、エラーの場面について幾度も質問してきた記者に辟易した小久保は「私にはこれが精一杯ですから」と発言し、それがそのまま翌日の新聞に掲載された。記事を見た監督の王はすぐに小久保を呼び出し、「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見る事ができなくなる。今後2度とこのような発言はするな」と叱責した。後日、小久保本人がこのエピソードに関して、王貞治という人間を師匠として尊敬する要因になった一番の出来事だと語っている。

巨人に移籍した際にも、「プロ野球人としての手本になる選手だからジャイア

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出典:wikipedia
2018/02/26 06:29

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