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小沢一郎とは?

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  • 中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2010年7月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2010年7月)
  • 正確性に疑問が呈されています。(2010年7月)

日本政治家
小沢 一郎
おざわ いちろう

2001年7月18日北海道での
第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて(59歳)

【生年月日】
(1942-05-24) 1942年5月24日(77歳)
【出生地】
日本 東京府東京市
【出身校】
慶應義塾大学経済学部経済学科卒業
日本大学大学院法学研究科中途退学
【所属政党】
(自由民主党→)
(新生党→)
(新進党→)
(自由党→)
(民主党→)
(国民の生活が第一→)
(日本未来の党→)
(生活の党→)
(生活の党と山本太郎となかまたち→)
(自由党→)
(国民民主党)
【称号】
経済学士
(慶應義塾大学・1967年)
名誉政治学博士
(国民大学校2014年)
【親族】
荒木儀助(祖父)
小沢佐重喜()
【公式サイト】
■小沢一郎ウェブサイト■
第34代 自治大臣
第44代 国家公安委員会委員長

【内閣】
第2次中曾根第2次改造内閣
【在任期間】
1985年12月28日 - 1986年7月22日
衆議院議員

【選挙区】
(旧岩手2区→)
(岩手4区→)
岩手3区
【当選回数】
17回
【在任期間】
1969年12月28日 - 現職

小沢 一郎(おざわ いちろう、1942年昭和17年〉5月24日 - )は、日本政治家国民民主党所属の衆議院議員(17期)。

自治大臣国家公安委員会委員長内閣官房副長官自由民主党幹事長新生党代表幹事新進党幹事長、新進党党首自由党党首、民主党代表代行、民主党代表民主党幹事長国民の生活が第一代表、生活の党代表、自由党共同代表などを歴任した。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 学生時代
    • 1.3 自由民主党時代
      • 1.3.1 若手・中堅議員時代
      • 1.3.2 竹下派時代
      • 1.3.3 竹下派分裂、羽田派結成
    • 1.4 非自民連立政権成立
    • 1.5 新進党時代
    • 1.6 自由党時代
      • 1.6.1 結党・与党復帰
      • 1.6.2 分裂
    • 1.7 民主党時代
      • 1.7.1 民由合併
      • 1.7.2 党代表
        • 1.7.2.1 統一地方選、参院選での躍進
        • 1.7.2.2 ねじれ国会
      • 1.7.3 党代表代行から幹事長へ
      • 1.7.4 党代表選再立候補
      • 1.7.5 党員資格停止と離党
    • 1.8 民主党離党後
  • 2 主張
    • 2.1 国会・選挙対策
    • 2.2 改憲論(創憲論)
    • 2.3 皇室
    • 2.4 憲法解釈
    • 2.5 外交、防衛政策
    • 2.6 法務
    • 2.7 選挙制度
    • 2.8 経済、財政政策
      • 2.8.1 税制
      • 2.8.2 貿易・通商
    • 2.9 行政改革
    • 2.10 福祉・労働政策
    • 2.11 原発・エネルギー政策
    • 2.12 教育政策
    • 2.13 農業政策
    • 2.14 他党、支持母体との関係
    • 2.15 小沢が導入したシステム
  • 3 小沢グループ
  • 4 人物
    • 4.1 人物評
    • 4.2 健康
    • 4.3 信条
    • 4.4 自民党離党
    • 4.5 宗教観・文明観
    • 4.6 囲碁
    • 4.7 インターネット
    • 4.8 報道番組
    • 4.9 バラエティ番組
    • 4.10 西田敏行
  • 5 エピソード
    • 5.1 田中角栄
    • 5.2 愛犬
    • 5.3 韓国をめぐるエピソード
    • 5.4 米国、中国との国際交流
    • 5.5 語録
    • 5.6 拉致問題に関する発言
    • 5.7 アメリカ人・英国人に対する発言
    • 5.8 その他の発言
  • 6 政治資金
    • 6.1 2009年から2013年の小沢関連の刑事訴訟
    • 6.2 労働保険未加入
  • 7 所属議員連盟
  • 8 役職
  • 9 政歴
  • 10 選挙歴
  • 11 栄典
  • 12 家族・親族
    • 12.1 小沢家
    • 12.2 親戚
  • 13 著作
    • 13.1 単著
    • 13.2 共著
    • 13.3 論文
  • 14 注釈
  • 15 出典
  • 16 参考文献
  • 17 関連文献
  • 18 関連項目
    • 18.1 人物
  • 19 外部リンク

来歴

生い立ち

岩手県出身の弁護士・政治家である小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。父・佐重喜は当時、東京府会議員をしていた。母・みちは元千葉県議会議員荒木儀助の四女である。父は44歳、母は42歳と、両親が高齢になってから生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという。本籍地岩手県奥州市(旧水沢市)。

3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢疎開した。

学生時代

水沢市立水沢小学校(現・奥州市立水沢小学校)を経て、水沢市立常盤中学校(現・奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。

東京都立小石川高等学校卒業後、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学する。大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。身体が大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこのニックネームがつけられたという。在学中は気賀健三のゼミに所属。入学当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという。

1967年(昭和42年)春に、大学を卒業する。弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科で法律を学ぶ。

1968年(昭和43年)5月8日、父・佐重喜が心不全で急逝、これをきっかけに弁護士になることを断念した。

自由民主党時代

若手・中堅議員時代

田中角栄(左)と

1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆議院選挙旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた。なお小沢は田中角栄内閣において1期生ながらも「田中の秘蔵っ子」として力を振るった。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。

衆院議員2期目だった1973年に田中角栄の後援をしていた新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女である和子と結婚した。 1982年(昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する。1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通した。その後行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は 2人擁立論を主張、谷垣禎一野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割りで2人とも当選。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された。

その後衆議院議院運営委員長を務めるが、当時の慣例に従わずに退任後に入閣できず齟齬をきたす。これは田中が中曽根に入閣しないよう働きかけたものと見られている。騒動の後1985年(昭和60年)に第2次中曽根再改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長として初入閣した。当時43歳だったが、初当選から16年を経ており、同期当選者の中では比較的遅い入閣だった。同年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成し、2年後の1987年(昭和62年)に経世会として独立した。

竹下派時代

竹下派内では先輩の小渕恵三橋本龍太郎らとともに竹下派七奉行の一人に数えられ、竹下の総裁就任に奔走した。同年発足した竹下内閣では内閣官房副長官に就任した。消費税導入など税制改革を巡る国会審議の目処がたたない中、「事実上の国対委員長」と呼ばれるほどに野党対策に尽力し、民社党を審議・採決に応じさせることに成功した。こうして党内での評価を高めるとともに、この時期は竹下内閣における日米間の建設市場開放協議や、宇野内閣における電気通信協議といった困難な交渉を取りまとめたことで、米政府関係者にも「タフ・ネゴシエーター」として名を知られるようになった。なお、宇野内閣期に経世会の事務総長に就任している。

竹下派、特に金丸の意向によって1989年8月に第1次海部内閣が成立した際、金丸の推薦により47歳の若さで党幹事長に就任した。金丸・竹下とともに、政権の実質的な実力者となり、ねじれ国会下で公明党など野党とのパイプを駆使して国会対策にあたった。リクルート事件後初の総選挙で苦戦が予想された1990年(平成2年)の第39回衆議院選挙を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集めて勝利した。同年8月、湾岸戦争が勃発すると、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省や、ハト派である海部俊樹首相の慎重論を抑え、法案を提出させた(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立する)。

この頃は「ミスター外圧」などと呼ばれたマイケル・アマコスト駐日大使が、首相である海部を飛び越えて小沢(や金丸)と直接協議することが常態化しており、アマコストは海部より小沢と会った回数のほうが多いとも言われた。日米構造協議でも大蔵省の強い反対にもかかわらず、公共投資を10年間で430兆円とすることで妥結したが、これも金丸・小沢・アマコストの3者が政府に先立って金額に到るまで協議し、すでに話をつけていたという。同年9月、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。また大韓民国盧泰愚大統領が来日した際には、党役員会で戦争責任問題における共同声明や天皇談話の内容に関し「これ以上何を謝ればいいんだ。」と謝罪を明文化することを拒絶したとも取れる発言したと報道された。

自衛隊海外派遣のような懸案を抱える中、ねじれ国会のもとで政権運営を行うためには野党の協力が必要であるため、国対族の金丸のつてで小沢は公明党民社党に接近する。両党との協力の一環として、第12回統一地方選挙における東京都知事選挙で、自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立する。しかし粕谷茂をはじめ、当時の自民党都連幹部が鈴木を支援したこともあり、90万票近い大差で敗北した。なお、この都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談して出馬を断念させたが、多額の金銭が動いたと一部メディアに報じられた。小沢が指揮した統一地方選挙全体では自民党の勝利であったものの、小沢は海部に自ら申し出て、都知事選の責任を取り党幹事長を辞任した。この辞任は公明党・民社党に義理を立てた形にもなり、自公民路線の維持に寄与し、また後の非自民連立政権におけるワン・ワン・ライスの伏線ともなった。

幹事長辞任の直後、経世会会長代行に就任した。会長の金丸、派閥オーナーの竹下とともに「金竹小」体制で最大派閥の経世会をリードし、引き続き海部政権の実力者であり続けた。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、首相再登板を狙う竹下との確執を深める。この年の6月、狭心症で倒れて日本医科大学付属病院に入院、40日余りの療養生活を送った。

同年、首相の海部は政治改革法案が国会で審議未了で廃案となったことを受け、マスコミに対して「重大な決意で臨む」と発言。これは衆議院の解散を示唆する発言であることが明らかだったため、党内反主流派の反発を招いた。加えて党内主流派として海部を支えていた竹下派の小沢も、マスコミの前で「(海部は)何を言うちょるの」と発言した。海部は党内基盤が脆弱だったが支持率は高かったため、解散権行使をめぐる神経戦をマスコミを媒介して行うことで世論の支持を得ようとしたとみられるが、これが裏目に出てほどなく首相職の辞任を表明することとなった(「海部おろし」参照)。この際、金丸が小沢に対し総裁選に出馬して首相後継を狙うよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症、心筋梗塞のため日本医大病院に入院した。)を理由にこれを固辞したとされる。のちに小沢は「首相になりたいのであれば、この時になっていた」とたびたび発言している。

最大派閥の経世会が独自の総裁候補を立てた場合には宮沢派三塚派渡辺派は「三派連合」で対抗する構えを見せていたが、独自候補を立てないことが明らかになると一転し、三派がそれぞれ経世会の支持を求めて争うようになった。10月10日、経世会が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄三塚博らと自身の個人事務所でそれぞれ面談した(いわゆる「小沢面接」)。当時は竹下派の支持が事実上次の総裁を決定する状況にあり、当選回数あるいは年齢で上回る派閥の領袖たる総裁候補を自分の事務所に呼びつけ、次期首相を品定めするかのような振る舞いは傲慢であると批判されるとともに、当時の竹下派の権勢を物語るものと捉えられ、今日に至るまで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられている(平野貞夫によれば、当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、推薦する側の小沢の側から訪問するのも筋が違うため、小沢の事務所で面談することになったという)。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した。1991年(平成3年)の青森県知事選挙では六ヶ所再処理工場誘致を巡り、激しい反対運動の中で行われ、劣勢と言われていた北村正哉候補の支援を党幹事長として頭越しに行い、関係者への締め付けにあたり、北村当選に大きく貢献した。

竹下派分裂、羽田派結成

1992年(平成4年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年(平成5年)2月17日証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は、金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す竹下、橋本、梶山静六らと対立した。衆議院は数が拮抗していたが、参議院は竹下自らが関与して小渕支持を決定した。この結果として後継会長は小渕に内定した。小沢はこれを受け入れず、羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。

宮沢改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には、派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は、主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。

こうした中で小沢は、5月20日に著書『日本改造計画』を発表した(店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめたものであるが、ここで提示された軍事面も含めた積極的な国際貢献、新自由主義的な経済改革、政権交代可能な二大政党制を可能とする政治改革といった主張は、1990年代以降の政治課題の多くを先取りしたものだった。

非自民連立政権成立

1993年(平成5年)6月18日野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会やぶら下がり取材を断り、記者クラブに属さない国外メディアや週刊誌記者も含めた記者会見を報道機関との接点とする。その後、事実でないとする記事を書いた報道機関記者会見から締め出したため、公党の指導者は無条件で取材に応じるべきとするジャーナリズムからの批判を招いた。

7月18日第40回衆院議選挙において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出された)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。

細川政権下で小沢は、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官武村正義と激しく対立した。

1994年(平成6年)、小沢と大蔵事務次官斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、武村外しを目的とした内閣改造を目論むも頓挫、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、突然辞意を表明した。

細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫した。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年(平成6年)4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。

羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念、6月25日内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年(平成6年)6月29日、自民党は内閣総理大臣指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、高志会・「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために小沢の剛腕が必要とされ、大きな動きにはならなかった。

新進党時代

1994年(平成6年)9月28日日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。

1995年(平成7年)7月、第17回参議院選挙で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。羽田との決裂は決定的となり、党内に更なる亀裂を生じた。

1996年(平成8年)10月20日第41回衆議院選挙が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため、選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選した。

総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。

1997年(平成9年)、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。

12月18日の党首選挙で、小沢は鹿野を破り再選した。この党首選に先立ち、公明が次期参議院選挙を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求した。12月27日に小沢は旧公明党の参議院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。

自由党時代

結党・与党復帰

1998年(平成10年)1月6日自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆議院議員42名、参議院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。

同年7月12日第18回参議院選挙では苦戦必至と思われていたが、小沢人気もあり、比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参議院選挙後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参議院では自民党の小渕恵三を抑え、菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより、野党共闘はほころびを見せた。

1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始した。小沢は党としては国政選挙を遥かに上回る広告宣伝費を使って、自身の顔写真を用いたポスター数十万枚を全国の街頭に貼り張り巡らし、テレビでも自身の顔写真を全面に押し出したモノクロ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/07/13 18:46

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