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尾張国とは?

【尾張国】


-尾張国
-東海道
【別称】
尾州(びしゅう)
所属
東海道
【相当領域】
愛知県西部
【諸元】

国力
上国
距離
近国
数 8郡69郷
【国内主要施設】

尾張国府
愛知県稲沢市
尾張国分寺
愛知県稲沢市(尾張国分寺跡)
尾張国分尼寺
(推定)愛知県稲沢市
一宮
真清田神社(愛知県一宮市)

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

「尾張」の名称と由来

六十余州名所図会津嶋天王祭り

7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる。平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される。

『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、 『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。

なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は東山道に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある。

歴史

古代から平安時代まで

熱田神宮(名古屋市)
洞本業窯(瀬戸市)

天火明命を祖神とする尾張氏が本拠を置き、ヤマト王権の天皇家と婚姻関係で結びつき支配を確立した。景行天皇の時代には、三種の神器の一つ草薙剣(天叢雲剣)を祀る熱田神宮を創建した。また、4世紀頃から7世紀頃まで、断夫山古墳を始め多くの古墳が造営されている。 7世紀朝廷によって律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。7世紀中葉には、国とによる地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部郡中嶋郡葉栗郡丹羽郡春部郡(かすがべぐん)・山田郡愛智郡知多郡の八郡であった。

易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から須恵器土師器などの焼き物生産が盛んであった。 その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支える律令国として成長した。

平安末期になると熱田大宮司であった藤原季範源氏に接近し、娘の由良御前源義朝に嫁いで源頼朝を産んでいる。また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。 治承5年(1181年)、「治承・寿永の乱」における「墨俣川の戦い」が尾張国と美濃国の国境にある墨俣川(現在の長良川)で行われた。

南北朝時代から室町時代まで

清洲城(清須市)

室町時代初期には美濃国の守護であった土岐氏などが守護を務めていたが、1400年頃に斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。斯波義重の父斯波義将は越前(福井県)・越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られる。その後、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)の守護となる。越前時代からの被官である甲斐氏織田氏・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。1405年、義重によって清洲城が築城された。

以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三管領斯波氏の領国となった。

なお、1391年には知多郡が、1395年には海東郡の分郡守護に一色氏が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は1430年一色義貫足利義教と対立して没収され、知多郡も応仁の乱一色義直が西軍に着いた際に室町幕府に没収されている。

戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期まで

桶狭間古戦場伝説地(豊明市)
小牧山城(小牧市)
犬山城(犬山市)
長久手古戦場公園(長久手市)

斯波氏守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家(清洲織田氏)」と西軍についた「伊勢守家(岩倉織田氏)」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたがやがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし織田信秀の代で躍進。信秀は那古野城今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げる。信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。また1560年(永禄3年)6月12日、信長討伐を目的として尾張に侵攻した今川義元桶狭間の戦いにて破る。これ以後、尾張国はその全域を織田弾正忠家が二代に渡って支配する。

1582年(天正10年)、本能寺の変が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。山崎の戦い明智光秀を倒した羽柴秀吉と、織田家重臣の柴田勝家が世に言う清洲会議で対立。信長の後継者として信長の三男・神戸信孝を推す勝家と信忠の嫡子三法師を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、まもなく清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男・北畠信雄を主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで滅ぼした。

ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国徳川家康と同盟を結び、1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いを引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。池田恒興森長可が戦死する事態に陥るが様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功、大義名分を喪った家康も撤兵する。

豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。信雄は長島城を本拠としていたが1586年1月18日(天正13年)の天正地震により長島城が倒壊したことで清洲城を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は後北条氏滅亡後の関東への転封を拒んだため、1590年(天正18年)秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は福島正則(24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが発生。挙兵した石田三成の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は清洲城を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され安芸広島に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。

1586年(天正14年)の木曽川の「天正の大洪水」により、美濃国との境に流れていた木曽川葉栗郡内のほぼ中央を流れるようになった。この為、豊臣秀吉の命により、1589年(天正17年)に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。

尾張国は源頼朝・織田信長・豊臣秀吉という三人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家丹羽長秀前田利家池田輝政山内一豊加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝佐久間信盛佐久間盛政佐々成政堀尾吉晴浅野長政などが有名。

江戸時代

名古屋城
有松町(名古屋市緑区)
陶栄窯(常滑市)
亀崎潮干祭(半田市)

徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。1609年、大御所家康の意向により廃城となっていた那古野城址に新城として名古屋城の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。(天下普請)天守台石垣については加藤清正が普請助役となった。築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という将軍家に次ぐ格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は三都に次ぐ都市となった。

7代藩主に徳川宗春が就くと、祭りを奨励し、芝居小屋や遊郭を作ることを認めて能楽歌舞伎茶道華道など様々な文化が盛んになった。当時は徳川吉宗享保の改革の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の"芸どころ"名古屋の基礎が築かれていった。

産業面では、徳川家康から義直へ婚礼祝いとして木曽の山々が与えられたことにより、木曽川を下って良質で大量の木材が名古屋に集積され、名古屋桐箪笥・名古屋仏壇・木桶など、木工産業が盛んになった。また、家康の機械式時計を修理した津田助左衛門が尾張藩お抱え時計師となり、その技術は和時計からくり人形に生かされた。こうした木工・時計技術は後に鉄道車両飛行機自動車などに利用され、名古屋のものづくり産業の原点となっている。

その他尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた瀬戸は陶磁器の街として復興している。

知多半島では醸造業がさかんになり、灘に次ぐ酒の生産地であったという。同時に海運業も発展し、尾州廻船が活躍した。酒や味噌、常滑焼などを運ぶほか、遠隔地で仕入れた荷物を売買する「買積」方式で莫大な利益を稼いだ。文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な山車をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている。

現在に到る食文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる岡崎から職人を招いて八丁味噌を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、味噌煮込みうどん味噌カツ味噌おでんといった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋できしめんとして人々に愛され、現代に到っている。

尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩である。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。ところが相次ぐ天災により赤字体質となっていく。

幕末から明治維新、現在まで

名古屋市役所愛知県庁舎
名古屋市中区
戦災で焼失した名古屋城天守の金鯱
長久手市

10代藩主徳川斉朝から13代藩主徳川慶臧まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。そうした中1849年(嘉永2年)、支藩・高須藩から14代藩主徳川慶恕(改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、尊皇攘夷を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、水戸藩主・徳川斉昭らと共に独断で日米通商修好条約を締結した大老井伊直弼の専横に抗議したため、1858年(安政5年)の安政の大獄にて隠居謹慎を命じられ、実弟の徳川茂徳に藩主の座を譲る。井伊が桜田門外の変で横死すると慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子徳川義宜が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。公武合体派の重鎮となった慶勝は一橋家当主・徳川慶喜、前福井藩主・松平慶永(春嶽)、前土佐藩主・山内豊信(容堂)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城会津藩主・松平容保薩摩藩主・島津久光雄藩連合から成る参預会議の一員に選ばれるも辞退。第一次長州征伐では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・西郷吉之助)を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次長州征伐には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還が成ると慶勝は新政府議定に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として大阪城を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。(青松葉事件)1871年(明治3年)、初代名古屋藩知事となるが翌年の廃藩置県で免職となる。1875年(明治8年)に義宜病死により尾張徳川家を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の徳川慶勝が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は戊辰戦争の惨禍に遭うこともなかった。

明治維新中央集権国家が形成されると、名古屋市明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。

なお名古屋城は慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。しかし1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。1893年(明治26年)、本丸陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋大空襲焼夷弾の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

尾張国衙址碑(稲沢市松下)
尾張国衙推定地。
尾張大国霊神社(稲沢市)

国府は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。

現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある。

なお『節用集』易林本では海部郡に「府」と記載されている。

国分寺・国分尼寺

尾張国分寺跡(稲沢市矢合町)

そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺(一宮市千秋町)、尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)、東畑廃寺(稲沢市東畑)、大山廃寺跡(小牧市野口)が知られる。

神社

真清田神社(一宮市)

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社8座8社・小社113座113社の計121座121社が記載されている(「尾張国の式内社一覧」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。
出典:wikipedia
2020/05/26 01:19

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