◆ この
キーワード を
友達に教える
URLをコピー
山下達郎とは?
ラジオ番組・中継内での各種情報 (終了した番組・中継を含みます)は、
CDなど での販売や公式なアーカイブなど常に参照可能な状態の
ネット配信 、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、
出典として用いないで下さい 。
検証可能性 に基づき除去される場合があります。
|
| この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論は
ノート を参照してください。(
2020年3月 )
【山下 達郎 】
【出生名】
山下 達郎
【生誕】
【出身地】
日本 東京都文京区 本郷
【学歴】
明治大学法学部 中退
【ジャンル】
【職業】
【担当楽器】
【活動期間】
1973年 -
【レーベル】
【事務所】
【共同作業者】
【公式サイト】
山下達郎 OFFICIAL SITE
【著名使用楽器】
フェンダー・テレキャスター
山下 達郎 (やました たつろう、1953年 〈昭和 28年〉2月4日 - )は、日本 のシンガーソングライター で、ミュージシャン 。日本における旧来の愛称 はヤマタツ 。外国語のクレジット では Tatsuro を Tatsu もしくは Tats と綴ることがある。東京都 豊島区 池袋 生まれ。妻 は竹内まりや (シンガーソングライター)。
現在所属するレコード会社 はワーナーミュージック・ジャパン 。現在所属する芸能事務所 はスマイルカンパニー 、および、妻と共同経営する個人事務所(著作権管理用)のテンダベリー&ハーヴェスト(山下側の企業は株式会社テンダベリーミュージック)。
人物、音楽性
| この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。
ビーチ・ボーイズ マニアとまで言われる程ビーチボーイズに詳しく、山下達郎が影響を受けたのは、多くがブライアン・ウィルソン とビーチ・ボーイズのようなアメリカン・ポップス ・ロック のミュージシャンからであった。自分のアルバムにもビーチ・ボーイズのカバーをしている。また、日本におけるドゥーワップ の熱心なファンの一人であり、知識も豊富である。自分自身のヴォーカルを多重録音 する「1人ア・カペラ」という手法を用いることでも知られている。彼は他にソフト・ロック、ブルーアイド・ソウル、コーラス・グループ、スウィート・ソウルなどのファンでもある。ジェームス・ブラウン やガレージ・ロックも好むなど、音楽の趣味は幅広い。なお、山下達郎と萩原健太 は、日本におけるビーチ・ボーイズ・ファンの代表格である。
音楽作りに対する拘りと独自の制作姿勢から「音の職人 」とも称される。レコーディングではボーカル・バックコーラス のほか、編曲からギター 、コンピューターの打ち込み 、シンセサイザー 、パーカッション まで1人で手掛けている 。全ての演奏を1人で行っている楽曲もある。特にギターのリズムカッティング を得意としている。アコースティック感の強い作風を持ち味とするが、最新技術を活用する方針のため、アナログからデジタルまでカバーする幅広いノウハウを持つ。
大貫妙子 らと共にシュガー・ベイブ を結成し、アルバム『SONGS 』(1975年)でデビューした。プロデュースを手掛けた大瀧詠一 のナイアガラ・レーベル では、日本コロムビア 時代の作品に、コーラスやストリングス・アレンジで参加。特に大瀧のソロ・アルバム『NIAGARA MOON 』(1975年)や『NIAGARA CALENDAR 』(1977年)に深く関わっている。また、自身の作品制作の傍ら、1975年頃から、他のシンガー 、ミュージシャンへ楽曲提供を始めた。小杉理宇造 を通じてジャニーズ事務所 との繋がりもあり、近藤真彦 の「ハイティーン・ブギ 」(1982年)、KinKi Kids のデビュー・シングル「硝子の少年 」(1997年)や「ジェットコースター・ロマンス 」(1998年)などのヒット曲を出しているほか、ジャニーズ所属タレント出演作品の主題歌も多く手がけている。
大瀧同様、レコード・CDコレクター、オーディオ マニアであり、特にロック・R&B ・ポップスについて造詣が深く、アナログ盤はオリジナルを中心に収集しており、所蔵総数は6万枚を超える。
海外では作品リリースを行っていなかったが、2010年代 のヴェイパーウェイヴ のブームで作品が発掘され広まった。ちなみに、山下達郎がバックトラックを作成した竹内まりや 作の「プラスティック・ラブ 」は、2021年現在、海外のリスナーを中心にYouTube で合計8000万回以上再生されている(詳細は「プラスティック・ラブ#「ジャパニーズ・シティ・ポップ」 」参照)。
使用機材
経歴
| 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません 。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2020年10月 )
1950年代
1953年
2月4日、達郎は、池袋駅 西口界隈で居酒屋 を経営していた両親の間に生まれ、一人っ子 として育った。飲食業 を嫌がる母親の希望もあって、長男の誕生を機に父親は転業を決意し、もともと電気職工 であった祖父が経営していて倒産した工場を引き継ぐ形で再興を図った。 1957年
父親の転業は1954年から続いていた神武景気 を当て込んでのことであったが、この年の7月、景気は急速に冷え込み、なべ底不況 (57年不況)が到来すると、山下家の工場はその煽りを受けて倒産してしまった。不況は1958年(昭和33年)6月まで続くので、倒産したのはこの間と思われる。それからというもの、達郎は池袋のアパート で暮らす共働き夫婦の下でカギっ子 として生活することになった。 1959年
4月1日、豊島区立池袋第五小学校(現・豊島区立池袋小学校)に入学。
小学生時代の達郎は、宇宙と読書が大好きな、まじめに塾通いする典型的優等生タイプで、児童会役員にも選出された。
1960年代
1964年
小学6年生の時、合奏クラブとマーチングバンド に所属し、小太鼓 を担当する。これをきっかけに楽器への興味が芽生えたものの、音楽そのものに関しては、映画好きであった両親の影響で耳にする映画音楽や、テレビ・ラジオの歌番組から流れてくる歌謡曲を楽しむ程度に留まっていた。当時のお気に入りは三波春夫 の歌謡浪曲 であった。 1965年
4月1日、豊島区立高田中学校(現・豊島区立千登世橋中学校 )へ進学する。ここではブラスバンド 部に入部し、やはり小太鼓を担当する。以来、中学・高校の6年間をブラスバンド部員として過ごし、打楽器 を担当し続けた。また、同じ時期、ウクレレ を買ってもらったことをきっかけにギター にも興味を持ち、独学 で練習し始めている。友人の影響を受けてベンチャーズ をきっかけに洋楽を聴くようになったのもこの頃で、熱心なトップ40リスナーになった。ベンチャーズのコンサート・プログラムに載っていた曲目リストを見て、自分の好きな曲が特定の作家の作品であったことを知り、それからはポップスを系統立てて聴くようになった。 1966年
1月末、一家は練馬区 平和台 へ転居し、どうしても商売がしたいという父親の意向で菓子屋を開いた。達郎は転校せず、越境通学 することになった。
中学2年生のこの年、友人らとアマチュア・バンド「ディー・バウエルン」を結成する。ドラムス、ベース、ギター2本という編成で、のちにキーボードも加わるが、達郎はドラムス を担当した。当時としては珍しかった、全員がボーカルというコーラス・グループ。
1968年
4月1日、東京都立竹早高等学校 へ進学する。前年から始まった都立高校入試への学校群制度 採用により、竹早高校へ進学することになったという経緯から、達郎は別の高校に入っていたら自分の人生は大きく変わっていただろうと振り返っている。
都立の進学校に入学できた褒美として、以前から欲しかったドラムセットを親に買ってもらう。その後は子供の頃から興味のあった宇宙物理学者 ・天文学者 を目指すも、音楽に傾倒してゆく。加えて、進学校特有の管理体制への違和感と、国立一期校 (当時)受験一辺倒のクラスメートの中にあって孤立感に悩み、教員からは長髪を理由に恫喝を受ける学校生活が続いた。
1969年
成績が下降して留年も危ぶまれた達郎は、なんとか進級を果たすも、この時点で目指していた学問の道には挫折した。
5月、学内で教員らによる学校ぐるみの収賄 が発覚 すると、70年安保 という社会情勢を背景に全校集会が連日続き、学校の機能は一時完全に停止する。混乱の中、2学期に入ると、校舎改築工事のため、東京都立新宿高等学校 旧校舎が、1年間、仮校舎とされた。当時、学生集会が盛んであった新宿 で自らも学生運動 や学生サークルに関わるようになり、高校生活から完全にドロップアウト した。「音楽、バイト、学生サークル、ジャズ喫茶 に名画座 」という毎日を過ごす。
高校の時にドロップアウトしたトラウマ は、のちに、「学校という社会の中から逸脱していく絶望感は、この年になっても高校を出られない夢を見る」と語るほど大きく影響を与えている。
この時期、松井道夫 (のちの松井証券 社長)や金子辰也(のちの、プロモデラー で、ジオラマ 作家 )らと交友を持った。
1970年代前半
1971年
3月、学内の混乱の収束が進む中、出席日数が足りなかった達郎は卒業が危ぶまれたが、追い出されるように高校を卒業した。その後は、音楽にのめり込む日々が始まる。そうは言っても、「裏方 ぐらいにしかなれないだろうし、ならば、せめて音楽著作権 でも学んで音楽出版社 にでも入ろうか」と考えた達郎は、法学部 受験を目指して予備校 に入学し、1年間の浪人 生活を送る事になった。しかし実際にはほとんど通っていなかった。 1972年
1973年
春、『ADD SOME〜』がきっかけで知り合った仲間(大貫妙子 、野口明彦 )に、村松、鰐川を加え、シュガー・ベイブを結成。
9月21日、文京公会堂 でのはっぴいえんど ラスト・コンサート“CITY -Last Time Around-”に大滝詠一 &ココナツ・バンクのステージに、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がバック・コーラスで参加。
12月17日、シュガー・ベイブのデビューコンサート“Hello! We are SUGAR BABE”を青山タワーホールにて開催。
1974年
1月、音楽事務所と契約するも、給料をもらえず、経済的に困窮する。しかし、この頃から始めたCM音楽の仕事や、スタジオでのコーラス・ワークの活動を通じて、達郎の声は少しずつ認知されていく。シュガーベイブも学園祭やライブハウス等の場で、次第に知名度を増していく。
10月、シュガー・ベイブの所属レコード会社が大瀧のナイアガラ・レーベル に決定し、レコーディングを開始する。
10月5日、シュガー・ベイブ(山下・大貫・村松)がコーラスで参加した荒井由実 のアルバム『MISSLIM 』をリリースする。達郎はコーラスの他、一部の曲ではギタリストとして参加。荒井(松任谷)の作品にはソロになって以降も、『OLIVE 』(1979年)まで関わっている。
1970年代後半
1975年
4月25日、シュガー・ベイブ、アルバム『SONGS 』とシングル「DOWN TOWN 」を、ナイアガラ・レーベルから同時リリース。
アルバム・リリースと前後してメンバーに変動があり、野口・鰐川に替わって上原裕 ・伊藤銀次 ・寺尾次郎 が加入することで、6人組となった。
6月、伊藤が抜け、再び5人組となる。
11月、黒木真由美 がアルバム『12のらくがき 』をリリースする。この作品には、山下が初めて他のシンガーに書き下ろした「恋人と呼ばれて」と「北極回り」の2曲を収録。
1976年
1月8日、ニッポン放送 『オールナイトニッポン 』水曜2部(木曜深夜3時〜5時)レギュラー開始(3月25日まで)。3月27日は臨時で金曜1部のパーソナリティーを務めた。
3月25日、ナイアガラ・トライアングル(山下・伊藤銀次・大滝詠一 )によるオムニバス・アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1 』リリース。同日、吉田美奈子、アルバム『FLAPPER 』リリース。後に『CIRCUS TOWN 』でセルフ・カバー する「永遠に」、「LAST STEP」の2曲を収録。
3月31日・4月1日、荻窪ロフト にてシュガー・ベイブ解散コンサートを行う。
4月1日、ナイアガラ・トライアングル、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』からのリカット・シングル 「幸せにさよなら 」リリース。
4月6日、ニッポン放送『オールナイトニッポン』月曜2部(火曜深夜3時〜5時)へ移動。レギュラー開始(9月28日まで)。
8月16日、アルバム『CIRCUS TOWN』レコーディングのために渡米(8月17-26日:ニューヨーク 、30日-9月3日:ロサンゼルス 、5日帰国)。ソロ・シンガーとしてのデビュー・アルバムは、アメリカ でレコーディングを行うという破格の待遇であったが、実現にはディレクター小杉理宇造 の2年間のアメリカ留学経験と、その後日音 でミュージシャンの招聘や洋楽の版権管理に携わる中で培った人脈が背景にあった。
12月25日、全曲アメリカ・レコーディングによるアルバム『CIRCUS TOWN 』でRCA ⁄ RVC よりソロ・デビュー。
1977年
3月25日、吉田美奈子のアルバム『TWILIGHT ZONE 』を、吉田との共同プロデュースでリリース。同日、アルバムからのリカット・シングル「恋は流星Part I・II 」をリリース。
5月25日、アルバム『SPACY 』リリース。前作『CIRCUS TOWN』での海外レコーディング経験に大きな音楽的刺激を受け、以後、自分が書いたスコアでスタジオ・ミュージシャンと共にレコードを制作する数年間が始まる。その結果、『SPACY』は実験的かつ内省的なアルバムとなり、売り上げは芳しくなかったが、後のセールス・ポイントとなる一人多重録音によるコーラスが登場。古くからのファンには本作がベストと評する人も少なくない。
11月20日、山下編曲・プロデュースによるマザー・グース のシングル「貿易風にさらされて / マリン・ブルー 」リリース。他のシンガーを手掛けた初プロデュース作品。
1978年
5月25日、六本木 PIT INNでのライブを収録したライブ・アルバム 『IT'S A POPPIN' TIME 』リリース。
12月、コンサート・イベンター、ソーゴー東京の資金援助を受け、自身の所属事務所「ワイルド・ハニー」を渋谷区 神宮前の和合ハイツ2階302号室に設立。社名はビーチ・ボーイズ の同名アルバム (1967年)から。ソロ・デビュー時の所属事務所であったアワ・ハウスは山下・大貫のソロ・デビュー後、資金難に陥り倒産。その後山下は、自身の事務所設立まで音楽出版社のパシフィック音楽出版 (PMP) に在籍。
12月20日、アルバム『GO AHEAD! 』リリース。ソロ・アルバムを作れるのもこれで最後かもしれないとの思いから、好きなことをやって終わりにしようと、様々な曲調の作品をあれこれ詰め込んだごった煮サウンドの一枚となった。
1979年
1月25日、ファースト・ソロ・シングル「LET'S DANCE BABY 」リリース。アルバム4枚目にして初のシングル・カット。
春、1月リリースのシングル「LET'S DANCE BABY」のB面「BOMBER 」が大阪のディスコを中心にスマッシュ・ヒット。それを受けて、大阪ではシングル盤のAB面を逆にして臨時発売された。ここまでのライブを含む3枚のアルバムの売り上げがレコード会社の期待に及ばず、この先作曲家で生きて行こうと考えていたところであったが、次第に状況が好転し始める。
3月25日、山下編曲・プロデュースによるCOOLS ROCKABILLY CLUB のアルバム『NEW YORK CITY, N.Y.』リリース。メンバーたっての希望でニューヨーク録音を敢行したが、コーディネーターの不手際から事前に何も準備されておらず、山下は録音1週間前に単身渡米。スタジオやミュージシャンの手配などすべてを一人で行い、その後現地で急遽行われたライブではローディー までこなした。最初で最後のオール・プロデュース作品。アルバムには“SOUND CREATIVE PRODUCER”としてクレジットされている。
4月5日、初のタイアップとなるセカンド・シングル「愛を描いて -LET'S KISS THE SUN- 」(JAL 「沖縄キャンペーン“Let's Kiss The Sun”」イメージソング)リリース。
6月2日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-1 』スタート。全4公演。自身初の全国ツアー。
6月27日、「BOMBER」のスマッシュ・ヒット以後初の大阪公演を、大阪サンケイホールにて開催。客席が今までの客層とは明らかに異なる人々で埋め尽くされ、大阪での直接的な反応が新鮮でうれしいものであったことから、もっと時代の空気に近い作品を作ってみようという意欲が湧くことになった。
8月5日、山下プロデュースによるアン・ルイス のアルバム『PINK PUSSYCAT』リリース。後にアルバム『POCKET MUSIC 』でセルフ・カバーする「シャンプー」を収録。
9月1日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-2』スタート。全6公演。
10月21日、担当ディレクター小杉理宇造がRVC内に設立した独立レーベル “AIR”にプロデューサー兼ミュージシャンとして参加、その第一弾としてアルバム『MOONGLOW 』とシングル「永遠のFULL MOON 」を同日リリース。アルバム・セールスの現場を知るため、地方のラジオ局や有線放送回り、大手販売店との販促会議やディーラー コンベンションへの参加など、積極的なプロモート活動を行った。
12月20日、山下作・編曲、プロデュースによるアン・ルイスのシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」リリース。
12月26日、コンサート・ツアー『FLYING TOUR '79 PART-3』スタート。全4公演。
1980年代前半
1980年
1月14日、コンサート・ツアー『CONCERT '80 』スタート。全5公演。
3月19日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80』スタート。全15公演。
3月21日、79年夏にプロモート用で制作されたLPが評判となり、『COME ALONG 』のタイトルでリリース(カセット のみ)。DJ 入りコンピレーション・アルバム の先駆けとなる作品。
5月1日、シングル「RIDE ON TIME 」リリース。自らも出演したmaxell カセットテープのCMソングとして初のトップ10ヒットを記録。
5月21日、山下プロデュースによる、水口晴幸 『BLACK or WHITE』リリース。COOLS ROCKABILLY CLUBから独立後、初のソロ・アルバム。
7月27日、『80's JAM OVER JAPAN』(西武球場 )に出演。
8月2日、神奈川県 の葉山マリーナ・エメラルドプールで『RIDE ON TIME CONCERT in HAYAMA』開催。この年の冷夏の影響を受け、寒さと豪雨という最悪のコンディションの中、約4時間決行されたため、山下にとって最も印象深いコンサートの一つになっている。
9月17日、コンサート・ツアー『RIDE ON TIME CONCERT '80-'81』スタート。全38公演。
9月19日、アルバム『RIDE ON TIME 』リリース。アルバム・チャート1位を記録、ソロ・デビュー4年目にしてブレイクを果たす。
10月21日、アルバム『RIDE ON TIME』の収録曲「MY SUGAR BABE 」が日本テレビ 系ドラマ『警視-K 』主題歌に使用され、リカット・シングルとしてリリース。楽曲を気に入った番組プロデューサー兼主演の勝新太郎 が山下に電話で直接交渉し、ほぼ強引に使用を決めた。後に行われた番組の制作発表会見では他の出演者と共に同席させられ、後日の芸能紙やスポーツ新聞には、会見で憮然とした表情の山下の写真が掲載された。
12月5日、一人ア・カペラ ・アルバム『ON THE STREET CORNER 』を10万枚限定でリリース。一人多重録音のア・カペラによるドゥーワップ 作品。これ以降、山下の一人ア・カペラはその認知度を増していく。
12月31日、前年10月リリースのアルバム『MOONGLOW』が第22回日本レコード大賞 のベストアルバム賞を受賞。
1981年
3月13日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81』スタート。全27公演。
3月17日、初の自社スタジオ「スマイルガレージ」がオープン。港区 芝浦 にある倉庫(横浜倉庫 株式会社芝浦事業所)を一部改装したもので、ガレージ・スタジオの草分け的存在。ただし、改修に時間がかかり、自身の作品では1986年のアルバム『POCKET MUSIC 』レコーディングから使用開始。
9月7日、コンサート・ツアー『PERFORMANCE '81-'82』スタート。全17公演。
1982年