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山崎武司とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
愛知県知多市
【生年月日】
(1968-11-07) 1968年11月7日(50歳)
【身長
体重】
182 cm
100 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
一塁手左翼手捕手指名打者
【プロ入り】
1986年 ドラフト2位
【初出場】
1989年9月7日
【最終出場】
2013年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


山﨑 武司(やまさき たけし=現在の登録名、1968年11月7日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手外野手捕手指名打者。右投右打)。

旧登録名及び本名は、山崎 武司(読み方は現在の登録名と同じ。#表記名について#登録名も参照)。愛称は「ジャイアン」。現役引退後の2014年からは、野球解説者として活動するかたわら、カーレーサーとして四輪車レースへの参戦している。血液型A型。

現役時代は主に中日ドラゴンズ東北楽天ゴールデンイーグルスで通算27年間にわたり活躍。通算403本塁打を記録した強打者であり、本塁打王に2回(1996年、2007年)、打点王に1回(2007年)輝いており、史上3人目のセ・パ両リーグでの本塁打王の達成者である。野球選手現役引退後は、プロ野球解説者として活動している。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 中日時代
    • 1.3 オリックス時代
    • 1.4 楽天時代
    • 1.5 中日復帰後
    • 1.6 現役引退後
      • 1.6.1 モータースポーツ活動
  • 2 選手としての特徴
  • 3 人物
    • 3.1 表記名について
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 タイトル
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
    • 4.6 登録名
  • 5 関連情報
    • 5.1 著書
    • 5.2 関連書籍
    • 5.3 出演
      • 5.3.1 テレビ番組
      • 5.3.2 ラジオ番組
      • 5.3.3 CM
      • 5.3.4 PV
  • 6 脚注・参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

愛知県知多市で誕生。小学校の4年の時に外野手として野球を始め、主に左翼手を守る。中学校の入学と同時に捕手になる。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校時代は無名の存在だったが、兄が愛知工業大学名電高等学校へ教育実習生として出入りしており、その口利きでテストを受けさせてもらい、同校に合格した。1年の秋から4番・捕手に定着。2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で東邦高等学校に敗れた。2年の時の秋から3年の時の夏までは主将を務める。3年間で全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。

1986年のドラフト会議中日ドラゴンズが2位指名で交渉権を獲得し、契約金4000万円、年俸400万円(金額は推定)で入団。背番号は「22」。

中日時代

1987年

プロ1年目の沖縄キャンプで落合博満と相部屋になった。その後アメリカ合衆国へ野球留学。MLBロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグ球団であるガルフ・コーストリーグ・ドジャースで三塁手としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。この年は一軍出場がなかった。

1988年

同年も一軍出場はなく、1年間を通して二軍でプレーした。

1989年

9月7日の対広島東洋カープ戦では9回表に代打として一軍で初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ戦では9回裏、内藤尚行から初安打となる左前安打を放つ。10月15日の対広島戦で捕手として先発出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5盗塁を許す。正田はこの試合で中村武志から1盗塁を決めて、1試合6盗塁の日本プロ野球タイ記録を樹立。この試合の後、外野手に転向。一軍では、20試合に出場した。二軍では本塁打王と打点王を獲得する。

1990年

前年に引き続いて二軍の本塁打王と打点王を獲得するが、一軍では5試合の出場に終わった。12月19日、実家近く(愛知県知多市内の名鉄常滑線新舞子駅付近)のちゃんこ鍋屋を訪れた帰りに近隣の精肉店火災に遭遇、元力士でちゃんこ鍋屋の店長である知人たちと協力して、乳幼児含めた子供たち5人を助け出し、地元の消防署から表彰を受け、セントラル・リーグからも特別表彰を受けた。

1991年

5月9日の対横浜大洋ホエールズ戦では田辺学から一軍での初本塁打(場外ソロ本塁打)を放つ。26試合に出場したが、打率.140と低調だった。

1992年

監督が高木守道に交代し、高木は山﨑を重宝していたこともあり、前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打と向上した。8月19日広島戦で川口和久からサヨナラ本塁打。

1993年

一軍では大幅に出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点の成績を残した。

1994年

前年シーズンオフに一塁手のレギュラーだった落合博満フリーエージェントで巨人へ移籍する。更に、大豊泰昭が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きが出来たが、彦野利勝の故障からの復帰などもあって、出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。

1995年

開幕前のキャンプではプロボクサー(WBC世界バンタム級チャンピオン)の薬師寺保栄に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。山崎と同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。この年はレギュラー外野陣およびロッテから移籍のメル・ホールの不調や、主軸の大豊も不調であったことから出場機会が増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った。

1996年

1995年のシーズン終了後、翌シーズンから再び監督に就任する事になっていた星野仙一からオフの間に20kg減量してくる事を命じられ、110kgあった体重を90kgまで落として春季キャンプを迎えた。打順こそ下位であったが、開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発する。

6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて、本塁打を放つ。山崎の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。松井秀喜、大豊とタイトルを争った本塁打部門では39本の山崎が38本の松井と大豊を抑えて本塁打王を獲得した。打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録しベストナインに選ばれた。

1997年

中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。チームもリーグ最下位に沈んだ。

1998年

トレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。8月18日の対ヤクルト戦では2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井、江藤智に次ぐリーグ3位。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセントラル・リーグ東西対抗戦では3ランホームランを放ち、MVPとなった。

1999年

打順は主に6番を任される。5月9日の対広島戦で3打席連続本塁打を放つ。一時期は不調に陥りスタメンを外れることもあったが、9月26日の対阪神戦では福原忍から逆転サヨナラ3ラン本塁打を放っている。著書には、この年から内野守備走塁コーチに就任した高代延博と確執があり、高代の進言によりスタメンを外れることが多くなったため、高代について「監督に媚を売る指導者は必要ない」と記している。この年、中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山崎は先発出場せず、当日も本塁打を放つまでは無安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山崎は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の星野仙一に向かって、「おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!」と言い放った。9月30日、11年振りのリーグ優勝を決めた対ヤクルト戦で一塁手の守備の途中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折し、ビールかけを見守ることしかできず、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することもできなかった。

2000年

オープン戦でスパイクシューズを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年はスパイクを履かないで打席に立った。7月12日の対阪神戦で7回裏に吉田豊彦から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。オールスターゲームにも監督推薦で出場し、松坂大輔から2点適時打を打つなどの活躍でMVPとなる。この年は上記のスタイルで出場を続けた結果踏ん張りが効かず、また前年の手首の骨折もあり流し打ちのスタイルになり、最終的にリーグ7位の打率.311という高打率を記録するが、契約更改で球団事務所から「18本塁打はとても少ない」と指摘された。

2001年

10月6日の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改では「打率.238、51打点が最低だ。」と指摘される。この評価に納得せず、フリーエージェント宣言し、一時は金銭面で好条件を提示した横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、シーズン後に新しく監督となった山田久志の慰留もあり、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。

2002年

オープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格となる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山崎って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた。この後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった。結局26試合の出場に終わり、打率1割台と不本意なシーズンで終わった。レギュラーシーズン終了後、自ら球団にトレードを直訴し平井正史との交換トレードオリックス・ブルーウェーブへ移籍。移籍後の背番号は「5」。

オリックス時代

2003年

8月19日のダイエー戦で2回表に倉野信次から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。110試合に出場したものの規定打席には到達せず低打率に苦しんだが、チームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。

2004年

4月27日からの西武ライオンズの3連戦(ナゴヤドーム)で監督の伊原春樹は地元出身選手として先発出場を約束。初日は4番・指名打者として先発出場して3打数、2安打と活躍した。ところがこの試合中に負傷した谷佳知が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山崎は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの中村勝広に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている。これ以降、2軍落ちを何度も経験し、9月には自身の実家に戻った。レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている。

最終的には62試合の出場にとどまり、4本塁打、打率.245と前年より調子を落とした。この時に中日・オリックスで人間関係のトラブルにより野球がまともにできず、嫌気がさし戦力外通告も受けていたので一度は引退を考えたが、団野村や高校の先輩・工藤公康の説得と長男からの応援により、現役続行を決意した。同時期に新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・田尾安志に評価され入団オファーを受けたが、山崎は「野球はもう、結構です」と一度は断ったものの、団の「それでは俺は困るんだ」との説得や、田尾からも熱烈な誘いも有り承諾した。12月11日、正式に契約。背番号は長女の名前にちなんで「7」を選んでいる。

楽天時代

2005年

3月26日、チーム史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズ開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて二軍で治療に専念するなど、レギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦より徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月には4試合連続の5本塁打を放ち、交流戦後は4番・指名打者に定着する。7月2日日本ハム戦では3回裏に江尻慎太郎から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目の年での達成であった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問し、子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。当時、右バッターのバッティングの基本である「右足重心」という言葉さえも知らなかった状態で、監督の田尾により基本を徹底的に指導された。田尾の指導によるフォームの改造が、この年の118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打や後年の好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている。

2006年

新しく監督として野村克也が就任し、4番の座は西武から移籍してきたホセ・フェルナンデスに譲る。6月17日の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打を、7月29日の対西武戦では涌井秀章から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成出来て嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したものの打率.241、19本塁打と前年を下回った。

2007年

開幕当初こそ不調が続いたが、徐々に調子を上げた。4月1日の対オリックス戦の3回裏には吉井理人からホセ・フェルナンデスとともに満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初。開幕後1ヶ月間は安打の半分が本塁打という状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対ソフトバンク戦で先発投手は山崎が苦手としている和田毅だったが、「どうせ打てないなら、ダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったら、和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身は「こんにゃく打法」と呼んでいた。5月17日の対日本ハム戦で自身2度目となる1試合3本塁打、5月27日の対横浜戦では那須野巧から場外本塁打を放ち、両リーグ最速で20号に到達するなど5月は打率.342、12本塁打、27打点でチーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11ヶ月振りで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目。同月以降はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。6月14日、史上152人目となる通算1500試合出場を達成する。その後もセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。レギュラーシーズン前半の好調は、配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。また、「相手の配球を読んで打て」とのアドバイスも受けた。

指名打者として選出されたオールスターゲームの第1戦の代打出場の活躍の他に、第2戦の第1打席の先制の2ラン本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。

8月27日にはこの日誕生日を迎えた長女の前で39号と40号の本塁打を放つ。9月15日には11年振りとなる100打点を記録し、最終的に43本、108打点の自己最高記録でタフィ・ローズを上回り、初の打点王と、11年振りとなる本塁打王とベストナイン(指名打者部門)に輝いた。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山崎は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は王貞治門田博光に並び、100打点、打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。

この年、フェラーリ・F512M楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車のランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。

2008年

野村の指示によって、この年から3年間、主将とチームリーダーを務める。同年に発生した岩手・宮城内陸地震には復興支援金として、レギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を宮城県栗原市に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「山崎武司球場」とした。レギュラーシーズンでは4月3日の対ロッテ戦で久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。7月31日の第1戦では9回裏に久保田智之からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。賞金300万円の使い道について、「どぉれ、(スポンサーである)マツダの特注ミニカーでも作るかぁ!」と冗談半分で話した。最終成績は打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップであった。

2009年

6月14日の対横浜戦で松家卓弘から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。7月8日の対ロッテ戦では史上102人目の通算1500安打を達成したものの、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に8月16日の対ロッテ戦では8回まで6点ビハインドの状況で唐川侑己から史上23人目の通算350号3ラン本塁打を放つと、9回裏二死の2点ビハインドの場面ではブライアン・シコースキーから同点2ラン本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に小坂誠がサヨナラ打を放ち、6点差をひっくり返す逆転勝利を収めた。この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率は.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引しベストナインの指名打者部門に2年振りに選出、またチーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、金本知憲の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。

2010年

5月14日の対広島戦ではエリック・スタルツから自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成した。オールスターゲームでは、第1戦では中日時代の元チームメイトの岩瀬仁紀から本塁打を放ちベストプレー賞を獲得、第2戦では東野峻から本塁打を放ち、40代での現役選手では史上初の2本塁打で存在感を示した。前半は大不振で、交流戦で12チームトップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。後半では復調し、チームトップの28本塁打93打点を挙げたが、打率は.239と前半の不調が響き、チームも4年ぶりのリーグ最下位に沈んだ。

フルスイングを披露する山崎(2011年)

2011年

中日時代にも監督だった星野仙一が監督に就任した。前年に加入したランディ・ルイーズの一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山崎と一塁手のルイーズの役割が入れ替えとなった。3月11日に発生した東日本大震災の被害を受けた被災地球団(本拠地Kスタ宮城も影響を受ける)の4番打者として開幕を迎える。6月11日の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を中田賢一から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる。1ヶ月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦で菊池雄星から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の対西武戦でも菊池から3ラン本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成した。この年は東日本大震災を経験して、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら、地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度ゴールデンスピリット賞を受賞した。しかし、若返りを図るチーム方針により、この年限りで戦力外通告を受け10月10日に退団が発表された。山崎本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。前述の離脱もあり102試合の出場で打率こそ.229になったものの、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は松井稼頭央とトップタイ)だった。山崎によると、星野から直接「来年の構想に入っていない。」と言われたという。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと。星野とぶつかることはなかったが、星野が就任した時から終わりを覚悟していたという。その後、退団を自ら申し出て最後は中日でしたいと考えていたことを後のインタビューで明かしている。12月8日、中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たし、背番号は楽天時代と同じ「7」に決まった。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円、出来高は最大1億円という契約となった。

中日復帰後

2012年

この年に山﨑と同じく中日復帰を果たした監督の高木が、第1次高木監督時代と同様に山﨑を積極的に起用した。トニ・ブランコとの競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、3月30日の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11カ月を上回る43歳4カ月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場したものの、4月25日野本圭と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。7月14日の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打をD.J.ホールトンから放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、1年を通して90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。また、レギュラーシーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は引退を考えていたが、チームは来年も山崎を戦力の1人として考えていたため、現役続行を決断した。12月5日の契約更改交渉で300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、来年の現役続行が決定した。

2013年

開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と不振に陥り、4月8日に出場選手登録を抹消された。交流戦開始の5月14日に再登録され、同日の日本ハム戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録し、金本の44歳3ヶ月を抜く、44歳6ヶ月で記録を更新した。試合は中日が勝利し、決勝の犠飛を放ったマット・クラークと共にお立ち台に上がった。5月17日の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受けて、現役引退を決め、同月29日に正式に今季限りでの引退を表明した。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から森野将彦に交代したため、二塁手を守ることはなかった。山﨑をここ一番という場面で試合に使っていた監督の高木もこのシーズンを持って退団した。

現役引退後

2014年からは、フジテレビニッポン放送東海テレビ東海ラジオテレビ愛知の野球解説者、FOX SPORTSBASEBALL CENTER』のアナリスト、夕刊フジ野球評論家を務める。

2014年3月18日、中日より同21日の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山﨑武司引退試合」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表、3月20日に支配下選手登録された。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の立浪和義以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山崎が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされたが、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった大野雄大の了承を得た上で使用し、4番指名打者で出場。初回1死一、二塁で迎えた打席では、則本昂大から二ゴロ併殺打に終わった。24日に再び任意引退公示がなされた。

2017年7月27日、楽天OBによる試合「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」にレジェンドイーグルスのメンバーとして参加し、4番打者として出場。4回に対戦相手のTFUクラブの木村謙吾から左中間への適時二塁打を放ち、この試合のMVP賞を獲得した。

モータースポーツ活動

現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとしてProject μINGINGのサポートを受けてトヨタ主催の「GAZOO Racing 86/BRZ Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けてモータースポーツライセンスを新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした。その後7月26日、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/06/25 01:06

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