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山本昌とは?

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山本昌 (山本 昌広)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
神奈川県茅ヶ崎市
【生年月日】
(1965-08-11) 1965年8月11日(52歳)
身長
体重 186 cm
87 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1983年 ドラフト5位
【初出場】
1986年10月16日
【最終出場】
2015年10月7日 (公式戦最後)2016年3月5日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)、1965年8月11日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者野球評論家スポーツコメンテーター。茅ヶ崎市の市民栄誉賞を受賞している。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 出生から中学卒業まで
    • 1.2 高校入学からプロ入りまで
    • 1.3 プロ入り後
      • 1.3.1 1980年代
      • 1.3.2 1990年代前半
      • 1.3.3 1990年代後半
      • 1.3.4 2000年代
      • 1.3.5 2010年代
    • 1.4 50歳で現役を引退
    • 1.5 現役引退後
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 投球
    • 2.2 打撃
  • 3 人物
    • 3.1 試合前の調整方法
    • 3.2 野球論
    • 3.3 登録名の事情
    • 3.4 背番号34
    • 3.5 日本シリーズ
    • 3.6 趣味
    • 3.7 山本昌広杯
    • 3.8 家族
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別投手成績
    • 4.2 タイトル
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
    • 4.6 登録名
    • 4.7 登場曲
  • 5 関連情報
    • 5.1 出演
      • 5.1.1 テレビ番組
      • 5.1.2 ラジオ番組
      • 5.1.3 CM
    • 5.2 著書
      • 5.2.1 単著
      • 5.2.2 共著
    • 5.3 関連書籍
    • 5.4 関連映像作品
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

経歴

出生から中学卒業まで

生まれた時には体重が4200gあった。出生当初の山本を見た看護師は「この子は相撲取りにするしかない」と言ったと母から山本は聞いている。1歳の頃、当時東京都大田区にあった自宅アパートから転落して死にかけ、頭蓋骨陥没骨折により1ヶ月の入院を余儀なくされた。その後も左の額の上から右の後頭部にかけて骨折の痕跡が残ったというほどの重症であり、事故が起こった際に医者は「今夜がヤマだ」と言ったが見事に回復を果たし、小学校入学前に脳波検査を受けた際には「異状なし」であった。1歳の頃から牛乳をジュース代わりに飲んで体を作ったと豪語するほどで、1日2リットル飲むこともざらであったといい、小学生になると牛乳が嫌いな友達はみな山本の元へ給食の牛乳を持って行ったという。山本の幼少期はサッカーのJリーグなどまだ影も形もなく、スイミングスクールなどの気の利いた習い事もなく、野球で遊ぶのが当たり前の環境で育った。中学校に進学すると昼食は弁当持参で牛乳のみが配られるが、山本は牛乳が好きであったのでご飯との組み合わせでも平気で口にできたといい、このような牛乳好きが体作りに大きく貢献したという見方もある野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時。初めて試合を行ったのは4年生の時であるが、当時所属していた「緑ヶ丘グリーンタイガース」は『がんばれ!ベアーズ』に例えられるほどの弱小チームであり、ゴロは弾くわフライは落とすわで、結局0-36という大敗に終わった。山本はこの時を「それでも楽しかった」と振り返っており、同時に「ほかに楽しみがなかったからと言えばそうかもしれない」とも付け加えている。因みにその次の試合は0-10と失点数が大幅に減少しており、著書で「へたでもうまくなれる。そこが野球の楽しさでもあるのだから」と解説している。小学校6年生になると横浜市から茅ヶ崎市へ転居したが、そこで見つけた「ブラックサニーズ」では挫折し、エースにはなれなかった。中学時代は軟式野球部に所属しており、2年生の時にエースを張っていた同級生が腰を患ったため自身がエースナンバーを託された。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し、日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する。山本はこの活躍があってやっといくつかの高校からの勧誘を受けたと後に述懐しており、これがなければ普通に受験をして学力に見合った県立高校に進学していたという。

高校入学からプロ入りまで

日大藤沢高時代は推薦入部だけでも姓が「ヤマモト」の部員が3人おり、山本は出身中学が「松林中学」であったことから「ショーリン」と呼ばれていた。高校2年夏、高校3年夏共に、神奈川大会準々決勝敗退。特に前者の敗戦は2009年の時点では山本が「野球人生で最も泣いた試合」であった。2013年第95回全国高等学校野球選手権大会優勝校・前橋育英監督の荒井直樹は1年先輩で、当時ともに8キロのロードワークをこなすようになってから力が付いたと感謝している。当時の日大藤沢高の野球部監督、香椎瑞穂に関して山本は「雑誌や本で突出した実績を調べたが、不思議と怖さはなかった。難しいことも言われなかった」という趣旨の人物評を出している。

香椎は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学経済学部に進学し教師を目指すつもりでいた。しかし神奈川県高校選抜チームの一員として韓国高校選抜チーム相手に好投した事などが評価されて1983年のドラフト中日ドラゴンズに5位指名を受ける。香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこと、父親が長野県出身の中日ファンだったことが最終的に大きな決め手となり「おやじが喜ぶ」と入団を決意した。

プロ入り後

1980年代

入団当時、野球解説者だった星野仙一(1987年より監督)は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。。大柄なだけで野球の才能に恵まれていないことは当の山本も自覚しており、自身がプロ入りできたのは左投げ投手であるところが大きいと後に振り返っている。

1986年シーズン終盤の消化試合で一軍初登板を果たした。翌1987年には開幕一軍入りしたが、4月14日の対広島東洋カープ戦でのナゴヤ球場一軍初登板でを痛め(のちに疲労骨折と判明)、その後登板機会がないままシーズンを終了する。1年目の防御率は27.00、2年目は16.20と、この数字から判断するに当時は山本が1軍の戦力になることを自分自身を含めてだれも思っていなかった。

1988年2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる。しかし、実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために、その年の戦力にならない選手を選んで派遣する必要があり、山本については「手足は長いし、体も大きい。巨体揃いの本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一縷の期待を掛けられてのものだった。

この年のオープン戦第1戦ではノックアウトされており、星野からは「死ぬまで走っておけ!」と命じられ、その日は2、3時間は走った。それからしばらくして、ドジャース傘下のマイナーリーグ(1A)のベロビーチ・ドジャースに所属することになり、チームメートと帯同してフロリダ・ステートリーグ(1A)で試合を行うことになる。事実上の戦力外通告であり、留学生という立場上頑張ったところで2Aへの昇格もあるはずもないためふてくされていたが、現地の選手たちが1Aで優勝するという目標を宣言していたことからふてくされていた自分を反省。そして、そこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。

3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられる訳がない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00。同じ3月、現地の歯医者で全身麻酔を打たれて丸1日眠り、それから2日間の安静を余儀なくされた。合計3日間ランニングすらしておらず体調も最悪な中で投手が底を尽きたため止む無く登板したが、延長12回から4イニングを投げて勝ち投手になったというエピソードを残した。

帰国直後、当時の中日の投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、スクリューや精度の高いコントロールを駆使して一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献した。その西武ライオンズ日本シリーズでは第3戦の先発に抜擢され工藤公康と投げ合ったが、敗戦投手となった。

1989年、シーズン14登板目の5月27日の対読売ジャイアンツ戦で完封でプロ5年目にしてシーズン初勝利。この勝利に山本は試合終了直後から涙を流し、後年最も思い出深い1勝に挙げている。しかし、9勝目以降なかなか勝ち星を得られず、星野から同シーズンオフにおいてのアメリカへの教育リーグ再留学を言い渡される。名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして9月23日の対阪神タイガース戦に登板するも、味方の失策などが重なり、終盤に逆転負けを喫してシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。ただ既に2桁勝利するしないに関係なく、球団側は留学させることを決定済で、航空機のチケット(エコノミークラス)は用意されていたといい、山本は渡航の際に差額を払ってビジネスクラスに変更した、と語っている。このオフの留学で、アイクと共にスローカーブを習得に励む。

1990年代前半

1990年は前年の雪辱をバネに初のシーズン10勝を挙げた。この年同じ左腕の今中慎二も10勝を挙げ、90年代共に左の二枚看板・Wエースとして中日投手陣を支えた。

1991年、開幕からローテーションを守ったものの、中々勝ち星に恵まれず9月を最後に先発からも外れてしまう。ローテーション投手の中で一人負け越してしまい、チームも終盤広島に逆転され優勝を逃す。

1992年、恩師のアイク生原が永眠。精神的ショックは大きく、葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた長嶋一茂らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めた。最終的にチームは最下位に沈んだもののシーズン13勝を記録した。

1993年、ヤクルトとの首位争いの終盤に右鎖骨を骨折しリタイアしたものの、シーズンは今中と並び17勝を挙げ最多勝を獲得した。更に最優秀防御率のタイトルも獲得した。オフ契約更改では初めて年俸1億円の大台に乗った。

1994年、シーズンを自己最多の19勝を挙げ2年連続となる最多勝と初の沢村賞を受賞した。思い出に残る試合として10月8日の巨人との26回戦(いわゆる10.8決戦)を経験している。

1995年、長年の勤続疲労から左肘、左膝を痛め4月末に一軍登録を抹消。6月半ばに復帰したが約一ヶ月間勝てずこの年は終始不調で6年続いていた規定投球回をクリアもできず、わずか2勝に終わる。

1990年代後半

1996年、前年の故障の影響で4月末まで1軍復帰できなかったが、復帰後はシーズン最後まで先発ローテーションを守り、勝ち星こそ恵まれず二年連続で一桁勝利な上に負け越したが、2年ぶりに規定投球回をクリアした。

1997年、初の開幕投手を任され、開幕戦の対横浜ベイスターズでは8回2/3を自責点2で勝利(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録)。チームは最下位だったものの抑えの宣銅烈とともに奮闘し18勝を挙げ、3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振を獲得。同年オフ2年契約、「2年間で合計20勝出来なかった場合は2000年度の年俸はダウン」の条項を組み込んだ契約を結ぶ。

1998年、2年連続開幕投手を務めたが、42歳の相手先発大野豊との投げ合いに敗北、シーズン9勝9敗の成績で終わる。

1999年、4月には月間MVPを獲得しての開幕11連勝や11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、勝ち星に恵まれず8勝6敗。しかし防御率2.96はこの年20勝を挙げた巨人の新人上原浩治や、19勝を挙げシーズンMVPになった同僚野口茂樹に次ぐリーグ3位だった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦に先発したが城島健司に2ラン本塁打を打たれ敗戦投手になった。先述の1997年オフの契約どおり、累計20勝を超えず17勝に終わったことにより優勝チームの中で数少ない年俸ダウンとなったが、チームへの貢献度により少額のダウンで済んだ。

2000年代

2000年、左の勝ち頭として3年ぶりの二桁勝利となる11勝を挙げる。防御率ではチーム全日程を終えた段階ではリーグトップに立っていたが、リーグ最終戦でヤクルトスワローズ石井一久に抜かれ、わずか0.004点差でタイトルを逃す。

2001年、3年ぶりに連続開幕投手に抜擢されたが、援護に恵まれない試合が多く、なんとか2年連続二桁勝利は挙げたものの、プロ入り初の二桁敗戦及びリーグ最多敗戦を記録する。

2002年、2年連続開幕投手になったが4月末まで0勝4敗、防御率も7点近くと調子を落としていたが、7月28日の3勝目以降、5勝2敗と復調している。しかし、開幕から中盤まで複数二軍落ちをしたこともあり、自身二度目の6年連続続いていた規定投球回をクリアできなかった。

2003年、15年続いていたシーズン完投試合は途切れたものの、2年ぶりに規定投球回をクリアし左腕では野口と並んでチームトップタイの9勝を挙げる。

2004年川上憲伸と左右のエースとしてチームを引っ張り、7年ぶりの11勝以上を挙げる13勝を挙げリーグ制覇に貢献した。西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と第6戦に先発し、西武も松坂大輔が第2戦と第6戦に先発して投げ合った。第2戦は5回途中5失点でKO、日本一に王手をかけた第6戦は6回に和田一浩に逆転2ランホームランを浴びこの回途中で降板。6回途中3失点で敗戦投手となり、日本シリーズでは結果を残せなかった。チームもそのまま日本一を逃した。オフの契約更改では初の2億円超えを達成。

2005年、シーズン通して調子の好不調が激しく、100イニング以上投げた年では初めて防御率が4点台に終わる。二軍落ちも経験するなど、不本意なシーズンとなった。

2006年、9月9日の対広島戦で、新井貴浩から通算2000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成、41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録である。許したランナーは4回の森野将彦失策による1人のみのNPB史上2人目となる無四死球ノーヒットノーランであった。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言している。また、試合中に森コーチに対して「ランナーをひとりでも出したら、岩瀬に代えて下さい」と山本は訴えたという。9月30日の対阪神戦で40歳代としては若林忠志村田兆治工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の対横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりで当時のセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。

2007年、4月17日の対阪神戦で完封勝利を挙げ、200勝へ残り8勝と迫る。41歳8か月での完封勝利はセ・リーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。この完封は、チームでは1人で達成したものとしてはこの年唯一のものでもあった。5月13日の対巨人戦でシーズン2勝目を挙げたが、これがこの年最後の勝利だった。5月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦では史上80人目の500試合登板を達成したものの結果を残せず、一軍登録と抹消を繰り返す。9月25日の対巨人戦では自身のエラーも絡み5失点でKO、二軍落ち、そのままシーズンを終える(2勝10敗・防御率5.07)こととなる。日本ハムとの日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となったものの、自身の登板機会はなかった。本人いわく、このシーズンはどこにも故障が無いので成績的にも言い訳ができず、普通なら球団から年齢を理由に引退を勧められてもおかしくない状況であったが、200勝という目標に球団が理解を示してくれたため現役続投が許されたと後に回顧している。同時に、2008年も未勝利であれば引退しようと心に決めていた。

2008年、4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在工藤公康の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対東京ヤクルトスワローズ戦で史上26人目となる通算3000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも1年目が未勝利なのは史上6人目であり、5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の日本プロ野球名球会入会(昭和生まれではない杉下は入会資格は無い。なお、後に岩瀬仁紀も250セーブを達成して入会を達成している)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。この年は43歳ながらチームトップの11勝を挙げる。10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。自著では後に「加山雄三さんや桑田佳祐さんといった超大物の芸能人を輩出した湘南の街で、おふたりともまだ受賞されてないというのに…」と謙遜するコメントを発表している。

2009年、開幕から二軍での調整が続き、ウエスタン・リーグ公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍降格。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日の対ヤクルト戦でシーズン初勝利。大野豊が持つセ・リーグ記録を更新する22年連続勝利を記録した。しかし勝利はこの1勝だけで1軍定着後自己最低の成績で終える。また、6年周期100イニング未満で終わるシーズンを3回経験する事となった。

2010年代

2010年、春季キャンプ中に左肩肩甲骨付近を痛めて(肉離れとの報道もあり)二軍で開幕を迎える。6月に二軍戦で実戦に復帰するが、13日の試合で左足首を痛めて1球投げただけで降板する。その後は調整を続け、8月7日の対阪神戦で同年初登板。6回1失点で勝ち投手となり、実働25年と自身の持つ記録を更新するセ・リーグ23年連続勝利を達成した。さらに9月4日の対巨人戦で完封勝利し、1950年毎日オリオンズ若林忠志が達成した史上最年長完封勝利の日本記録(42歳8か月)と、2008年に自身が記録した最年長完投勝利記録を更新(45歳0か月)した。結局、この年は5勝を挙げ、中日の逆転リーグ優勝に貢献した。

巨人とのクライマックス・シリーズファイナルステージの第4戦に先発。5安打無失点ながら4回1/3で降板。45歳2か月でのポストシーズン登板は自身の最年長登板記録(43歳2か月)を更新すると共に、1972年のダリル・スペンサーが持つ最年長出場記録(43歳3か月)も更新した。

2011年工藤公康が西武を退団し引退はしなかったものの未所属で、山本昌がNPB現役最年長選手となる。キャンプ中に右足首を痛め、一軍、二軍ともに登板はなかった。9月23日、右足首の手術を受ける予定である事が報道された。同年12月7日の契約更改で同球団の減俸記録を超える60%減の提示にサインし、現役続行と9月下旬に手術が成された事、順調に回復し、既に練習を再開していることが報道された。

2012年、監督の高木守道が山本昌を復活させると明言し、自主トレ中に高木から開幕投手を告げられる。実際は吉見一起でほぼ確定していたが、山本の復活を奮起するためのものだった。この言葉で山本はハイペースで調整をするようになり、オープン戦で好投した。3月2日の広島とのオープン戦で2回を投げ終えて降板すると高木は握手で迎え、「昌、(開幕)3戦目な」と告げられた。開幕ローテーションに入っていることがモチベーションになったという。4月1日の開幕3戦目の対広島戦(ナゴヤドーム)で先発し5回を3安打に抑えた。46歳7か月の登板で、セ・リーグ最年長登板記録を達成。4月15日の対阪神戦でのシーズン初勝利は自身通算211勝目となり、この勝利で杉下の持つ中日球団の投手通算勝利記録に並び、同時に工藤の持っていたセ・リーグ最年長勝利記録・プロ野球史上最年長先発勝利記録を更新した。4月22日の対広島戦では、打者として一塁ゴロによる1打点を挙げ、打点のセ・リーグ最年長記録を46歳7か月で更新した(従来の記録は金本知憲の44歳0か月)。4月30日の横浜DeNAベイスターズ戦では7回を2安打無失点で勝利投手となり、杉下を抜いて球団最多勝となる通算212勝目を挙げた。杉下からは「ずいぶんかかったな」と言われ、「ここまでかかってすいませんでした」と報告した。 その後は調子を落とし二軍で調整を続けたが終盤に復帰し、10月3日の対阪神戦では中継ぎとして3回を投げ、勝利投手となり、工藤の持っていたプロ野球最年長ホールドポイント記録を更新した(47歳1か月)。山本は「高木監督の開幕投手という言葉がなければもう少しゆっくり調整していた。本当に感謝しています」と振り返った。

巨人とのクライマックス・シリーズファイナルステージ第3戦で先発登板するが、5回2失点で勝利投手の権利を持ったまま降板するも直後に同点に追いつかれ勝利投手にはなれなかった。

2013年、プロ入り30年目を迎えてのシーズンでは、3月にインフルエンザを発症したが、調整を間に合わせ、開幕一軍入りを果たす。チーム開幕2カード目となる4月9日の対ヤクルト戦に先発し、6回を1安打に抑える好投で、同年の初勝利を挙げる。なお、この登板で実働27年となり野村克也中嶋聡を抜き歴代記録の単独2位となる(同年中嶋も9月28日にシーズン初出場を果たして2位タイに並ぶ)。その後、8月28日の対ヤクルト戦で5勝目を挙げ、自身のプロ野球最年長先発登板とセ・リーグ最年長登板・最年長勝利記録を48歳0か月に更新し、打者としても5年ぶりの安打を放ち、セ・リーグ最年長安打・打点記録も更新した(従来の安打記録は山﨑武司の44歳8か月、打点は自身の記録を更新)。

2014年、開幕前からツーシームカットボールの習得に努めるものの、その影響でスピンの効いた速球が投げられなくなり二軍戦でも打ち込まれるようになり、前述の2球種を使わない方向で再調整する事となった。49歳0か月で迎えた9月5日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で先発で今季初登板、5回無失点で勝利投手となり、浜崎真二のNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)とNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新した。

2015年、二軍春季キャンプでの調整を経て、3月3日に、教育リーグの対ソフトバンク戦(ナゴヤ球場)で救援投手としてシーズン初の実戦登板。先頭打者・上林誠知への1球目に、踏み込んだ右足をマウンドの土に取られたことから、右膝に異変を訴えて急遽降板した。さらに、降板後の診察で右膝蓋の靱帯に炎症が生じていることが判明したため、調整が大幅に遅れた。8月9日の対東京ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では、先発投手として、およそ1年振りに一軍公式戦で登板。NPBの実働年数(一軍公式戦出場年数)で工藤・中嶋に並ぶ最長記録(29年)を達成したほか、この日が49歳11ヶ月29日に当たることから、自身の持つNPBの最年長記録(登板・出場・先発)も更新した。しかし、登板中に左手の人差し指を自分のスパイクにぶつけたことから、左手人差し指の靭帯を損傷。結局、22球を投げただけで、2回表の途中に降板した。なお、この時の損傷は、シーズン終了までに完治しなかった。

50歳で現役を引退

2015年9月25日に、自身の公式サイト上で現役引退を発表。(ナゴヤドームでのレギュラーシーズン最終戦であった)前日(24日)の阪神戦を観戦した際に、若返りを推進しているチームの現状を目の当たりにしたことを理由に挙げた。

2015年9月30日に、名古屋市内での記者会見で、引退を正式に発表。50歳1ヶ月26日で迎えた10月7日の対広島戦(マツダスタジアム)でNPB史上初の50歳出場・登板を果たしたことによって、現役生活を締めくくった。この試合では、「打者1人」という条件で先発。先頭打者・丸佳浩に対して、3球続けてスクリューボールを投げた末に、二塁へのゴロに打ち取った。同年12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。

ちなみに、2015年には日本ハムの一軍バッテリーコーチ兼捕手だった中嶋聡(1986年のドラフト会議阪急ブレーブスへ入団)も現役を引退した。これにより昭和時代にNPBの加盟球団へ入団し、また後楽園球場の公式戦でのプレーを経験した現役選手が投手・野手共に姿を消すこととなった。

また、現役時代に一貫して着用してきた背番号「34」は、2016年入団の左腕投手・福敬登に引き継がれた。「(服部受弘が着用していた)『10』と(西沢道夫が着用していた)『15』以外の背番号を永久欠番とみなさない」という中日球団の方針と、「永久欠番にはこだわっていない。できれば、自分と同じ左投手に着用して欲しい」という山本自身の意向による。

中日球団では、2016年3月5日に、ナゴヤドームでのオープン戦(対ヤクルト戦)を山本の「引退試合」として開催。試合前日(4日)には、1日限定で山本と選手契約を結ぶことが、球団およびNPBから発表された。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2014年の山﨑武司以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのも山﨑以来である。登録上の背番号は「0」であったが、試合には「打者1人限定」という条件の下に、背番号「34」のユニフォーム姿で先発。元・チームメイトの森岡良介から、3球で三振を奪った。

現役引退後

引退記者会見の際に、引退後の進路に言及。当面は野球解説者として活動する予定であることや、「投げることは32年間精いっぱい勉強したが、ほかは素人。またユニホームを着るチャンスをもらえるように勉強したい」として、野球指導者を志すことを明かした。

2016年からは、ニッポン放送東海テレビ東海ラジオの野球解説者や、中日新聞の野球評論家として活動。「日本経済新聞」でコラムを連載するほか、日本テレビMBSラジオなどが制作するプロ野球中継でも解説を担当する。

さらに、2016年1月29日からは、『NEWS ZERO』(日本テレビ制作・NNN全国ネット番組)のスポーツコメンテーターを務めている。山本は、引退後初めてのレギュラー番組を同番組に決めたことについて、「昨年(2015年)のクライマックスシリーズ日本シリーズ期間中にゲスト解説者として出演した際に、番組スタッフによる情熱や協力体制に素晴らしさを感じた。『来年(2016年)もここでやりたい』と思ったので、自分で出演を申し入れた」と語っている。また、『スポーツサンデー』(テレビ朝日)などの番組にも、ゲストで随時出演している。

選手としての特徴

投球

投球フォームはスリークォーター。持ち球は最速143km/hのストレートスクリューカーブスライダーである。スクリューやカーブのキレが良かったのは股関節や膝関節が外に割れている骨格をしておりボールが上手く抜けてくれたからである、と山本本人が自著で分析している。入団時から山本を知る三木安司トレーニングコーチを始めとして当時の中日のトレーニング部門に携わった全員の意見として「野球選手としてはとても大成しないと思った」と言われるほどの骨格であったが、山本はそのデメリットをメリットに変えたのである。ワインドアップ時は両手でグラブを突き上げるように大きく振りかぶり、背を一杯に伸ばしてから投げる。指を舐めてから投げる癖がしばしば見られるが、スピットボールと見なされないようにユニフォームで拭いてから投げている。他に舌を出しながら投げるという癖もあり、これは高校時代に荒木大輔の投球時の表情を真似していたらいつの間にかついた癖だと話している(荒木自身は舌を出していない)。ストレートのスピードは常時130km/h台で、40歳を越えてなお、年齢を重ねるにつれて球速が上がってきており、43歳の時に東京ドームで出した143km/hが自己最速。ただ、「球速が出過ぎる時はストレートを投げたがって狙われ、打たれやすい」と周囲から指摘されている。 直球の球速は遅いが軟投派ではなく、BS-i(現:BS-TBS)『超・人』において、「僕は速球派です」と語っている。同番組によると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、松坂大輔の46%とほぼ同じであった(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)。

同番組で山本昌の直球の回転数を計測した結果、1秒間に52回転していた。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂が41回転、藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは極めて高く、その結果、球の落差が小さく、初速と終速の差も小さい。 元巨人清水隆行は、「日本で一番どころか日米野球で対戦したどのメジャーリーガーよりも速く感じる速球を投げていた」「左打者にとっては特に球の出所が見づらくなるフォームであるためより速く感じるのでは」と話している。。

2009年の時点で日本球界ではノーワインドアップモーションが主流となっていたが、山本は「かっこいいから」とワインドアップモーションを好んで使用した。

独特のセットポジションである。最近では主流なグローブを顔から離して胸の位置で構えるスタイルは「日本で私が始まりではないか」と本人が語っている。ベルト付近にセットすると投げる時に胸までグローブを挙げる作業を行う分モーションが遅くなるという考えから、予め胸まで腕を上げる構えを行っていた。これは、モーションが速くなるという利点だけでなく、顔から離して構える分つま先に重心が移るという利点もある。

打撃

通算153犠打は日本プロ野球の投手史上最多。2007年にはセントラル・リーグ公式サイトで「隠れた犠打王」として紹介されている。中学時代の野球部監督角田明との対談で山本は「バント職人と呼ばれた ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/01/21 13:46

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