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山縣有朋とは?

山縣 有朋
やまがた ありとも

【生年月日】
1838年6月14日
(天保9年4月22日)
【出生地】
日本 長門国阿武郡川島村
(現:山口県萩市川島)
【没年月日】
(1922-02-01) 1922年2月1日(83歳没)
【死没地】
日本 神奈川県小田原市
【出身校】
松下村塾
【前職】
武士(長州藩士)
陸軍軍人
【所属政党】
無所属
【称号】
元帥陸軍大将
従一位
大勲位菊花章頸飾
功一級金鵄勲章
公爵
【配偶者】
山縣友子
山縣貞子(未入籍)
【子女】
船越松子(次女)
【親族】
山縣有稔(父)
船越光之丞(娘婿)
山縣伊三郎(養子・甥)
山縣有道(養孫・大甥)
山縣有光(養孫・外孫)
山縣有信(養曾孫・曾姪孫)
【サイン】

第9代 内閣総理大臣

【内閣】
第2次山縣内閣
【在任期間】
1898年11月8日 - 1900年10月19日
【天皇】
明治天皇
第3代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次山縣内閣
【在任期間】
1889年12月24日 - 1891年5月6日
【天皇】
明治天皇
第11代 枢密院議長

【在任期間】
1909年11月17日 - 1922年2月1日
第9代 枢密院議長

【在任期間】
1905年12月21日 - 1909年6月14日
第5代 枢密院議長

【在任期間】
1893年3月11日 - 1894年12月18日
その他の職歴

第4代 司法大臣
(1892年8月8日 - 1893年3月11日)
初代 内務大臣
(1885年12月22日 - 1890年5月17日)
第9代 内務卿
(1883年12月12日 - 1885年12月22日)
第2代 陸軍卿
(1874年6月30日 - 1878年11月8日)
初代 陸軍卿
(1873年6月8日 - 1873年7月2日)
貴族院議員
(1895年8月 - 1922年2月1日)

山県 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本武士(長州藩士)、陸軍軍人政治家階級元帥陸軍大将位階勲等功級爵位従一位大勲位功一級公爵内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。

長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名辰之助通称小助、後に小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋のを称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に副官である奇兵隊の軍監となる。

明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。

晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。

自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国メリット勲章など、勲章を多数受章している。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 幕末
    • 1.2 長州防衛戦
    • 1.3 戊辰戦争
    • 1.4 明治維新後
    • 1.5 西南戦争
    • 1.6 陸軍の権力闘争から派閥結成まで
    • 1.7 地方自治の発達に尽力
    • 1.8 最初の組閣と対外遠征
    • 1.9 山県閥の拡大と結集
    • 1.10 2度目の組閣、政党との妥協と対立
    • 1.11 陸軍・官僚の大御所
  • 2 人物
    • 2.1 人物像
    • 2.2 風雅の道と普請道楽
    • 2.3 嗜好
    • 2.4 逸話
  • 3 評価
    • 3.1 軍内部に与えた影響
    • 3.2 周囲の評価
    • 3.3 後年の評価
  • 4 栄典
  • 5 系譜
  • 6 邸宅・記念館
    • 6.1 主な邸宅と庭
    • 6.2 記念館
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献・関連文献
  • 9 関連作品
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

生涯

幕末

天保9年(1838年)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩中間・山縣有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。また父から勉強を教えられ、藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ。しかし幼少期から青年期に両親を相次いで失い、親代わりに育ててくれた祖母も元治2年(1865年)3月に謎の入水自殺を遂げ、家族に先立たれ寂しい青春を過ごしたことが山県の性格に大きな影響を与え、真面目だが猜疑心が強く簡単に人を信用しない人物に成長していった。この頃、友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。

安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人として、松下村塾から選ばれた杉山と伊藤俊輔(後の伊藤博文)らと共に上京し、尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化を受け10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松陰門下となったことは出自の低い山県や伊藤らが世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下り刑死することになったため、山県の在塾期間は極めて短かったと考えられる。しかし彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。

文久3年(1863年)2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなる。高杉の6月の奇兵隊創設と共にこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山県などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山県のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている。12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には3代目総管・赤禰武人と共に副官に当たる奇兵隊軍監に就任し、しばしば病気で身を持ち崩しながらも兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ。

長州防衛戦

元治元年(1864年)、長州藩の運命が大きく動く重大事が4つも起こった。1つ目と2つ目は7月の禁門の変とそれに先立つ6月の池田屋事件が京都で発生、杉山が池田屋で、久坂と入江九一ら同門の友人達が禁門の変で次々と犠牲になった。3つ目は8月の下関戦争で、山県は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。4つ目は江戸幕府が禁門の変の報復として発令した第一次長州征討で、この時は家老らの切腹で戦争は回避されたが、高杉は幕府に恭順した椋梨藤太ら俗論派に反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。赤禰や山県は当初高杉が無謀な反乱に踏み切ることに危うさを感じ支持しなかったが、翌元治2年(慶応元年、1865年)1月に赤禰が出奔した後は山県が事実上奇兵隊を掌握、高杉支持に転向し俗論派を野戦で撃破、長州正義派の勝利に導いた。

慶応2年(1866年)の第二次長州征討では軍監のまま名目上は奇兵隊4代目総管である山内梅三郎の下についていたが、高杉と共に実権を握り北九州の小倉藩を占領する活躍を見せ、7月27日赤坂・鳥越の戦いなど小倉藩兵の抵抗に苦しめられたが、戦局は長州藩有利のまま12月に和睦を迎えた。以後は木戸孝允の配下になり、慶応3年(1867年)4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、薩摩藩西郷隆盛大久保利通黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会、天下の行く末や倒幕による挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩。

充実した京都とは対照的に、長州藩に戻ってからは面白くない出来事が続き、山県の体調にも悪影響を与えた。合流を約束した薩摩勢がなかなか来ない焦りから病気になり、一時軍監を免じられている。11月にようやく薩摩勢が長州勢と合流した後京都へ向かったが、山県は人選から外れ同門の山田顕義が上洛勢に加わり翌慶応4年(明治元年・1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで長州勢の指揮を執る、山県は奇兵隊を率いたまま長州に残るなど憤懣やるかたない日々を過ごした。なお、上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている。

戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従え3月に出発し大坂・次いで江戸へ下向、再会した西郷と意気投合し江戸に滞在、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。また北陸地方越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった(ただし、福田は木戸と西国へ行き離脱)。

戊辰戦争(北越戦争会津戦争)では黒田と共に北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。閏4月19日高田で軍を集結させると二手に分け北上、山県と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日鯨波戦争桑名藩兵に勝利、翌28日柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領し、順調に戦線を進めたかに見えた。

だが越後口では長岡藩家老河井継之助と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられ、5月13日朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山県は衝撃のあまり涙を流したと伝えられる。膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山県はなす術も無く西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)共々城外へ逃げ出す羽目になった。

それでも城外で体勢を立て直し、奇襲の際河井が重傷を負い敵の勢いが衰え、山田と黒田が別動隊として海軍に乗り込み日本海を北上、長岡城陥落と同日に北の太夫浜へ上陸、新潟港を落とし新発田藩を寝返らせたこともあり、4日後の29日に長岡城を再度落とし、越後諸藩も降伏させ8月中に何とか越後を平定した(河井は傷が元で死去)。それから東へ進軍し9月18日から会津城籠城戦で包囲軍に加わり、4日後の22日会津藩降伏に立ち会った後江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携が上手く行かず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。

明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。

明治維新後

明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟西郷従道と共に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日横浜港に到着、帰国直後の8月28日兵部少輔に任命された。しかし兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで実際は岩倉具視ら文官への業務報告が行われる仕組みであった。内部の軍隊も長州・薩摩に分かれ、それぞれ木戸と大久保利通が実権を握っていた。兵部省がシビリアン・コントロールで弱体化する中で人事異動が行われ、山県の友人の兵部大輔前原一誠は山県の就任前後に辞任、山田は山県の下である兵部大丞だがそりが合わないため、山県は様々な不安を抱えながら、兵部省の実質的なトップとして木戸の意向に沿いながら軍制改革を進めていった。

各藩に分かれている軍事力を中央に纏めるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩入り、西郷を説得し翌明治4年(1871年)2月に一行は上京した。山県は一行に加わり西郷説得にも一役買い、薩摩・長州・土佐藩の兵力を集結させた御親兵編成と鎮台設置に繋がった。また友人で入江九一の弟野村靖、部下の鳥尾小弥太らと相談し兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議、有力者間の根回しを行った。前後して同年6月に熾仁親王が兵部卿を解任され山県は留任、7月14日の廃藩置県実施と同時に兵部大輔に昇進した。

とはいえ山田との関係が微妙で木戸ら文官が山県の頭越しに兵部省を動かす状態が続く中、改革途中で暗殺された大村益次郎の実質的な後継者として西郷の協力を得ることで軍制改革を断行、11月に山田も参加した岩倉使節団の外遊により留守政府の下で徴兵制を取り入れ、明治6年(1873年)1月の6鎮台設置と同時に開始された(徴兵令)。前年の明治5年(1872年)2月に肥大化した兵部省を廃止し陸軍省海軍省を置き陸軍大輔になり、3月に御親兵が改編された近衛都督も兼任、陸軍中将にも任じられ軍の中心人物になった。

しかし明治5年、陸軍出入りの政商山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の自殺と証拠隠滅工作により山県に司法の追及は及ばなかったが、近衛局から山県に反抗的な薩摩系将校達が辞職を迫り、西郷の慰留はあったが責任を取る形で7月に近衛都督を辞任、明治6年4月に陸軍大輔も辞任し陸軍中将の階級だけが残った。しかし山県に代わりうる人材がなく、6月に陸軍卿で復職し参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。

山県

9月に使節団が帰国、征韓論と10月の明治六年政変には各鎮台巡視中のため不在だったが、西郷と木戸の間で板挟みになり煮え切らない態度を取ったため木戸の怒りを買い、政変後は卿の1人にも係わらず木戸の反対で参議になれなかった(他の卿は参議兼任)。病気がちの木戸に代わり台頭した伊藤と大久保の支持で辛うじて現状維持出来たが、文官の軍統制、陸軍の内部対立(山田は木戸の介入で軍から遠ざけられるが、彼の支持層が山県との対立を継続)など従来の問題を解決出来ないまま明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、代わりに近衛都督に復帰し参謀局長も兼ね、6月に陸軍卿も再任された。8月に大久保と伊藤の引き立てでようやく参議も兼任したが、立場不安定なため佐賀の乱台湾出兵に関与出来なかった。ただ、参議兼任後は大久保らと江華島事件の対応に当たり、木戸との関係を修復して軍の立場も回復している。

西南戦争

明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため(名目上の指揮官は征討総督の熾仁親王、他の参軍は黒田と川村純義が任命された)、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。薩軍挙兵前の1月に、鹿児島が不穏なため熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を命じ、他の鎮台から兵隊を動員した時点で薩軍が挙兵、海路博多港に上陸し薩軍に包囲されている熊本城の北から救援のため南下した。熊本城を攻めあぐねた薩軍も一部を残して北上、両軍は田原坂など周辺で激突した。

3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破出来ず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。こうした中で高島鞆之助が進言した別働隊編成案を承諾、黒田を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。それにより植木の薩軍は撤退、山県の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山県が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山県の下に属し従軍を続けた。

撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山県は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、他の戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後山県は軍の指揮を執り南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、他の戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている。

態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った。内容は大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮った上で、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった。

政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した山県は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだと後に回想している。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘椿山荘を購入し作庭に取り掛かった。

陸軍の権力闘争から派閥結成まで

ところが翌明治11年(1878年)8月23日、西南戦争の恩賞が与えられなかった怒りで近衛歩兵大隊の暴動(竹橋事件)が発生した。直ちに鎮圧されたが、戦争で財政が枯渇し軍の経費を節減したため、兵士の待遇を悪くしたり恩賞を下級兵士に与えなかったことが原因で、かつ山県が恩賞配分の責任者だったためその地位が危ぶまれた。政府首班の伊藤や井上馨・岩倉具視・三条実美らの配慮でどうにか名誉は保たれたが、12月に陸軍卿を辞任、代わりに陸軍省の参謀局を廃止して新しく参謀本部を創設、陸軍省から独立した参謀本部の初代本部長として軍に留まり、次長の大山巌と腹心の桂太郎らと共に参謀本部の拡充に努めた。

この頃から軍人の秩序を乱す行為や政治関与、特に自由民権運動の軍への浸透を恐れ、10月12日西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布し軍紀の引き締めを図った。しかし皮肉にも参謀局長だった部下の鳥尾小弥太は参謀局廃止で非職になった後、山県と対立するようになるが、彼と協力して山県と敵対した3人の有力軍人(谷干城・曾我祐準三浦梧楼)は四将軍派と呼ばれ、現役軍人でありながら政治介入して山県・大山らと紛争を巻き起こしていくことになった。また参謀本部を充実させる一方で、桂をへ派遣し軍事調査を行い、軍編成を鎮台から師団変更の検討など軍の整備も進め、明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭を制定している。

同年3月、伊藤が憲法調査のため外国へ旅立ち、自分のポストである参事院議長を辞任すると、山県が参謀本部長を辞任して後任の参事院議長に就任、翌明治16年(1883年)8月に伊藤が帰国するまで在任した。参事院議長も辞めた後は内務卿に転任、明治17年(1884年)の華族令制定で伯爵を授与、翌明治18年(1885年)の内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣内務大臣として内務省を拠点に地方自治を担当する傍ら、陸軍大臣(陸軍卿から改名)になった大山と共に引き続き軍拡に邁進した。

一方、四将軍派とは軍拡と朝鮮外交を巡って対立、桂と川上操六が山県と大山の支持で軍拡を推し進めることに反対した三浦が山県ら薩長藩閥を批判し、四将軍派と結びついた月曜会も藩閥批判に回ることで軍は内紛に陥る恐れがあった。桂と川上が提案した軍拡案に伊藤ら政府は難色を示し、三浦は小規模な軍隊だけ日本に置き防衛を重視、兵役を3年から1年に短縮する軍縮案を主張、財政難で軍事費に懸念を示し、軍拡に伴う積極的な外征で朝鮮の後ろ盾である清との戦争を起こしたくない伊藤と井上の関心を得たことで、軍の主導権は四将軍派に移るかに見えた。四将軍派支持の明治天皇がしばしば軍の人事に口出しして彼等の起用を提案したこと、明治19年(1886年)3月に参謀本部が改編され海軍も含めた統合参謀本部が設置、四将軍派の1人曾我が陸軍部次長になった点や、軍拡案が大山・井上・伊藤らとの話し合いの末、明治18年から明治21年(1888年)度までの期限が明治26年(1893年)度まで延期に決まったことも大山ら主流派の不利になった。

だが、やがて三浦案は月曜会の支持を得られず、逆に桂らが招聘したドイツ帝国軍人クレメンス・メッケルが紹介したドイツの軍事知識に衝撃を受けた月曜会は桂に切り崩されていった。一方、大山は薩派を中心に反撃を行い、明治19年に拠点とする陸軍省を強化する目的で四将軍派が拠点にしようとしていた監軍部の廃止、武官進級令の制定を提案したことで四将軍派との更なる対立を起こした(陸軍紛議)。7月に大山ら薩派が一斉辞職を盾に伊藤に制定を迫り、妥協した伊藤との話し合いの結果、両方認められる一方監軍部は後に再設置することで話は纏まった。こうして紛議は主流派の勝利に終わり、伊藤らに見放され孤立した四将軍派は軍から排除され、月曜会も大山の命令で明治22年(1889年)に解散した。一連の対立に際して大山と桂が主に動き、山県は表立って動いていないが、裏で大山らを支持し四将軍派の排除に一役買った。

反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山県を中心とする派閥が形成されていった。山県は積極的に人材登用を行い、桂を始め児玉源太郎岡沢精など同郷人や中村雄次郎木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、後に同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり参謀本部は完全に陸軍省から独立したとはいえなかった。

地方自治の発達に尽力

内務大臣としての活動は地方自治の形成に尽力、市制町村制府県制郡制を制定した。内相就任前から地方制度に関する意見を政府に提出していた山県は市町村制の公布に際し、明治20年(1887年)1月から開かれた地方制度編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めた。地方が財政難の中各地方長官が急激な制度改革に反対、元老院大蔵省も反対したが山県は制度実現に向け、明治21年2月までに立案・審議を終わらせ、4月25日にまず市制町村制が公布され明治22年4月1日以降に各地で順次施行、明治23年(1890年)5月17日に府県郡制も公布された(施行は様々な要因で明治32年(1899年)3月16日まで遅れた)。また、地方財政の対応策として明治の大合併を推進、明治21年末から明治22年末までに約7万から約1万5000と町村の数が激減する程の合併を実行したが、こちらは地方に妥協し実情に合わせて配慮したため、旧町村と新町村の財政が一本化されない、新町村に吸収されたはずの旧町村の区域が名前を変えて残り、実際の町村は分離されたままという中途半端な結果に終わっている。

山県が地方自治に熱心に取り組んだ理由は、日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させること、および急進派や過激思想(特に自由民権運動)を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れる意図があった。府県と郡の政治機関は官選の知事(郡長)と補佐する執行機関の府県参事会(郡参事会)、地方議会に当たる府県会(郡会)で構成され、市町村も同じ構造で市長・市参事会・市会が政治機関で、町村もそれぞれ町長(村長)・助役・町会(村会)を置き、等級選挙と複選制(間接選挙)を導入して富裕層の政治参加を図った。山県の狙いは普通選挙を導入して混乱を招くより、等級選挙で地方の有力者の政治参加を望み、地方議会政治を通して彼等を行政事務に慣れさせ、政治家として成長した地方議員達がやがて中央へ進出、将来帝国議会で堅実に政治を行うことを考えていた。

この山県の意図はあまりうまくいかず、府県会選挙を巡り市町村会員選挙が混乱、明治32年に帝国議会との妥協で府県郡制施行の際に府県郡会の複選制と大地主参加を廃止、府県会は直接国税3円以上の納税者による直接選挙に変更され、府県も官選の知事に対して府県会の権力が弱いなど(代わりに府県参事会はある程度知事に制限をかけられた)、地方自治の発達に繋がらず当初の目的から後退した例が多かった。それでも府県会と知事が相互牽制して両者の関係を成り立たせ、郡には町村が難題を抱えた時に代議決権を持たせるなど、工夫を凝らして自治育成の方針を残そうと努力した。また、自治を促しつつ国から地方へのコントロールも行える仕組みにも取り組み、国から地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化で、中央と地方の関係を構築させようと試みた。ただし、後に山県は方針を変え、府県郡制施行で知事と郡長の権限を拡大、山県系官僚が郡を通して町村を統制したため、軍と並んで地方も山県の派閥の根拠地となっていった。

明治21年12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。外国の地方自治制度と軍事を調査すること、および国会と地方議会の関係がどうなっているかを知ることが目的だった。フランスでは軍人政治家ジョルジュ・ブーランジェが大衆の人気を背景に打倒政府の首領に担がれたクーデター未遂事件( ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/11/21 10:40

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