このキーワード
友達に教える
URLをコピー

岡田克也とは?

移動先: 案内検索
日本政治家
岡田 克也
おかだ かつや


【生年月日】
(1953-07-14) 1953年7月14日(64歳)
【出生地】
日本 三重県四日市市
【出身校】
東京大学法学部卒業
【前職】
通商産業省大臣官房
総務課企画調査官
【現職】
常任顧問
【所属政党】
(自由民主党→)
(新生党→)
(新進党→)
(国民の声→)
(民政党→)
(民主党→)
民進党
【称号】
法学士(東京大学・1976年)
【配偶者】
岡田多津子
【親族】
美濃部貞亮(高祖父)
村上紋四郎(義曾祖父)
村上信二郎(岳父)
村上孝太郎(義伯父)
村上誠一郎(義兄)
【サイン】

【公式サイト】
岡田かつや ホームページ
副総理
内閣府特命担当大臣(行政刷新)

【内閣】
野田第1次改造内閣
野田第2次改造内閣
野田第3次改造内閣
【在任期間】
2012年1月13日 - 2012年12月26日
内閣府特命担当大臣
(少子化対策「新しい公共」男女共同参画)

【内閣】
野田第1次改造内閣
【在任期間】
2012年1月13日 - 2012年2月10日
第143-144代 外務大臣

【内閣】
鳩山由紀夫内閣
菅内閣
【在任期間】
2009年9月16日 - 2010年9月17日
衆議院議員

【選挙区】
(旧三重1区→)
三重3区
【当選回数】
10回
【在任期間】
1990年2月19日 - 現職

岡田 克也(おかだ かつや、1953年(昭和28年)7月14日 - )は、日本政治家衆議院議員(10期)、会派「無所属の会」代表、民進党常任顧問。

民主党代表(第4代・第11代)、民主党幹事長(第4代・第8代・第11代)、民主党代表代行、民主党政策調査会長民進党代表(初代)、外務大臣(第143代・第144代)、副総理(野田改造内閣)、内閣府特命担当大臣(行政刷新)などを歴任した。

ジャスコ創業者岡田卓也は父。イオン取締役兼代表執行役社長の岡田元也は実兄。2010年より東京新聞政治部部長を務め、現在は編集局次長を務めている高田昌也は実弟。

目次

  • 1 略歴
    • 1.1 生い立ち、官僚時代
    • 1.2 政界入り
    • 1.3 民主党時代
      • 1.3.1 野党時代
      • 1.3.2 鳩山政権
      • 1.3.3 菅政権
      • 1.3.4 野田政権
    • 1.4 野党転落後
    • 1.5 民進党
    • 1.6 無所属の会
  • 2 政策・主張
    • 2.1 外交・国際問題
    • 2.2 外国人参政権推進
    • 2.3 経済・財政
    • 2.4 行政改革・社会保障
    • 2.5 選択的夫婦別姓
  • 3 政策・主張(外務大臣として)
    • 3.1 「核」について
      • 3.1.1 「アジア非核地帯構想」を提唱
      • 3.1.2 イランの核開発疑惑
      • 3.1.3 非核三原則
    • 3.2 東シナ海ガス田問題
    • 3.3 領土問題
      • 3.3.1 竹島問題
      • 3.3.2 尖閣諸島問題
    • 3.4 普天間基地代替施設移設問題について
      • 3.4.1 「嘉手納基地統合案」から「現行案」へ
  • 4 人物像
    • 4.1 個人として
    • 4.2 政治家として
    • 4.3 エピソード
  • 5 主な発言
  • 6 その他
  • 7 所属団体・議員連盟
  • 8 家族 親族
  • 9 系譜
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

略歴

生い立ち、官僚時代

三重県四日市市の岡田屋呉服店を前身とする四日市岡田家(本籍地は四日市市中部地区の諏訪栄町商店街で結婚後は近鉄名古屋線の西側の四日市市堀木に自宅を購入した)の7代目当主でスーパー「岡田屋」(後のイオン)を経営していた岡田卓也の次男として生まれる。男3人兄弟であった。4歳年下の弟(中日新聞政治部長の高田昌也)は母方である高田家の養子となった。小さい頃はおばあちゃん子であったと自身のブログで述べている。おばあちゃんとは母方(高田家)の祖母のことであり、麻雀が好きだったという(ブログによると2009年(平成21年)1月31日に100歳という長寿で老衰により死去したとのこと)。

公立小学校公立中学校に通い、四日市市立中部西小学校四日市市立中部中学校を卒業した。小学校時代は児童会会長を務めて、中学校ではテニス部に所属していた。平成13年(2001年)8月1日朝日新聞社の取材を受けて、「育った町の四日市市についてどう思うか」との質問に「公害の町」であると回答した。「自分は四日市公害の体験者であり、中部西小学校の児童だった頃に第2四日市コンビナート(近隣の午起地区に中部電力四日市火力発電所などの石油系企業が増設された事と、塩浜地区の第1コンビナートの高煙突化対策が原因で汚染物質が中部地区まで拡散されて公害被害地域が拡大した)が建設された事から公害問題が顕在化して、中部地区にも大気汚染による被害が拡大した。同級生(昭和28年度生まれ)で四日市ぜんそくの症状で悩んでいた人もいたし、自分が卒業した後に、中部西小学校の後輩になる9歳年下(昭和37年度生まれ)の女の子が4年生(9歳)で死亡したなど公害で亡くなった四日市地域の人もいた」と発言した。

父の経営するスーパーが、三重県四日市市を拠点とする「岡田屋」から、他社である兵庫県姫路市を拠点とする「フタギ」と大阪府吹田市を拠点とする「シロ」の3社が提携を行い合併して「ジャスコ」となり事業が拡大すると共に、四日市市中心から全国的な経営をする必要から父子で大阪府に移住して、大阪教育大学附属高等学校池田校舎を経て東京大学法学部を卒業する。学位法学士

国家や社会など、公的な仕事に就くという幼少時からの夢のため、国家公務員を目指した。厚生省(現在の厚生労働省)への就職も考え、迷ったあげく、1976年(昭和51年)通商産業省(現在の経済産業省)に入省する。同期には高橋はるみ北海道知事らがいた。

通産省では中小企業対策や石油問題などを手がけて、中小企業庁総務課→産業政策局調査課→石油計画課→工業技術院総務課に配属された。町村信孝の直属の部下だったこともある。1985年(昭和60年)に米国のハーバード大学の国際問題研究所に派遣された。研究員として1年間滞在して、ハーバード大学のケネディスクール(ジョン・F・ケネディアメリカ大統領を冠して設立された行政学を専攻するコース)で学び、ロナルド・ドーアエズラ・ヴォーゲルの講義を受けた。この頃から政治への問題意識を抱き始め、同時に官僚として出来ることの限界に気付くようになる。

政界入り

桑名市四日市市を地盤としていた竹下派所属の山本幸雄の後継者として出馬をした。竹下登と財界との関係で繋がりが深かった父の岡田卓也を通じて打診、克也が「やってもいい」と意欲を見せたことで自由民主党竹下派の新人候補として出馬に至った。1988年(昭和63年)7月に大臣官房総務課の企画調査官を務めたのを最後に通産省を退官した。36歳で中選挙区三重1区から1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に出馬した。滑り込みの4位であったが当選した。選挙結果である当選順位は、同じ自民党所属の北川正恭(三塚派所属で2位の110384票)と川崎二郎(宮沢派所属で3位の105183票)より得票数が少ない97290票で、自民党候補では最下位であった。中選挙区制度では他の自民党候補との競争や労組出身の伊藤忠治に勝てずに自分が選挙に強くない事を実感した。自民党離党後に新生党から出馬して、新党ブームで無党派層の支持を得た。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙ではトップ当選をした。新進党民主党で一貫して唱えた二大政党制を推進する小選挙区制が有利に働いて、強力な地盤が形成されて、三重3区で大差で連続当選している。

自民党時代は、当初経世会(竹下派)に所属していたが、東京佐川急便事件で竹下派が分裂すると羽田派(改革フォーラム21)に所属した。羽田孜後藤田正晴伊東正義らと共に政治改革を訴え、若手国会議員の代表格として頭角を現していく。

一連の政争を重ねる中で「一国の総理大臣が、金集めがうまいかどうかで決まる」(本人談)という当時の自民党の派閥政治を目の当たりにし、愕然とする。1993年(平成5年)、宮澤改造内閣不信任案に賛成して自民党を羽田派の議員ともに集団離党した。この際に「岡田に暴力をふられた」と叫んだ浜田幸一議員との乱闘があり、3年半の自民党生活に終止符を打った。

その後は、羽田孜や小沢一郎に従って新生党結党に参加した。翌年の1994年(平成6年)に新進党に合流した。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に敗北した後の新進党内の抗争激化を受けて、翌年の1997年(平成9年)に小沢一郎が新進党解党を宣言する。議員総会で「新進党解党を了承するように」と発言した小沢一郎に対して「新進党と書いてくださった有権者に対する裏切りだ」として岡田は解党に強く反対するが、決定は覆らなかった。以後、小沢とは民主党自由党の合併(民由合併)まで袂を分かつこととなる。

民主党時代

野党時代

新進党の解党後、国民の声民政党を経て新民主党に参加する。政策調査会長代理に就任する。以後、衆議院安全保障委員長政策調査会長、幹事長代理を歴任する。2002年(平成14年)の民主党代表選に立候補するが菅直人に敗れて、幹事長に就任する。

2004年(平成16年)、菅が年金未納問題で代表を辞任して、有力後継候補と目されていた小沢一郎も同様に国民年金未払が発覚して、代表選出馬を辞退する。この事態により、岡田が同年5月18日より代表を務めた。代表就任後、岡田自身も小沢と同じく任意加入時期の国民年金未払い問題を抱えていたことを明らかにし、任意加入時期なので未払いには当たらないとの考えを示した。

代表就任以降、「野党」ではなく「政権準備党」を名乗るなどして衆議院選挙での政権交代をアピールした。2004年(平成16年)7月11日第20回参議院議員通常選挙では自民党を1議席上回る50議席を獲得した。

2004年(平成16年)9月13日の代表選挙で無投票再選を果たす。役員人事で幹事長に川端達夫、代表代行に藤井裕久を任命する。

2005年(平成17年)8月の郵政民営化問題を契機とする衆議院解散(郵政解散)で自民党が分裂選挙となったことから、当初は「政権獲得千載一遇のチャンス」などといわれたが、小泉劇場の前に民主党は埋没し、9月11日総選挙では公示前勢力を64議席下回る113議席に終わり大敗をする。岡田は9月12日に代表を引責辞任した。

2006年(平成18年)9月、民主党の改造人事で民主党副代表に就任する。

2007年(平成19年)、政治改革推進本部長、衆議院予算委員会筆頭理事、党地球温暖化対策本部長に就任する。

2009年(平成21年)3月、小沢一郎公設秘書西松建設事件逮捕され、5月に小沢が代表を辞任すると、党若手議員からの支持を受けて5月16日の代表選挙に出馬した。事前の世論調査では優位に立っていたが、対立候補の鳩山由紀夫に僅差で敗れる。翌17日、党幹事長に就任。

鳩山政権

2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区制導入以来の自身最多得票数で再選する。民主党がこの選挙で第1党となったことから与党議員となった。

2009年(平成21年)9月に発足した鳩山由紀夫内閣外務大臣に就任する。菅直人副総理兼国家戦略担当相(後に財務相)と並びポスト鳩山の有力候補とも目されたが後任の党代表選では菅の推薦人に名を連ねた。菅内閣で再任された。

菅政権

2010年(平成22年)9月17日に、民主党代表選挙で再任された菅直人の要請を受けて、3度目の民主党幹事長に就任する。民主王国である地元三重県知事を決める2011年三重県知事選挙にて自身も現地入りしたが、党の推薦をだして応援した候補が敗北する 。

野田政権

2011年(平成23年)8月の民主党代表選で選出された野田佳彦による組閣で財務大臣就任を要請されたが固辞した。新執行部の発足に伴い幹事長を退任した。公務をする充電期間として閣僚を退き、複数のベテラン議員と共に民主党最高顧問となった。12月に民主党行政改革調査会会長に就任。

2012年(平成24年)1月13日に、野田政権内閣改造(野田改造内閣)により入閣し、内閣府特命担当大臣(行政刷新少子化対策「新しい公共」男女共同参画)の4ポストを兼任することとなった。また、国務大臣としての所管事項として「行財政の抜本的見直しを推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整(行政改革担当大臣)」や「社会保障及び税に関する改革を一体的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整(社会保障・税一体改革担当大臣)」と「公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整(公務員制度改革担当大臣)」をそれぞれ担当することになった。また、内閣総理大臣臨時代理への就任順位は、内閣官房長官藤村修を抑えて筆頭となったため、いわゆる副総理となる。

2012年(平成24年)2月10日に、復興庁が発足した事に伴い、復興大臣等の人事が行われ、内閣府特命担当大臣(少子化対策、「新しい公共」、男女共同参画)の3ポストを退任する(後任は、中川正春前文部科学大臣)。

2012年(平成24年)4月、「公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整(公務員制度改革担当大臣)」及び「独立行政法人制度の抜本改革関連法案」の担当も中川正春に引き継いだが、10月に発足した野田第3次改造内閣で再び担当となった。

2012年(平成24年)12月26日に、副総理を退任する。

野党転落後

2016年6月3日、岡崎市イオンモール岡崎での街頭演説にて

2012年12月14日に行われた第46回衆議院議員総選挙で自民党新人の桜井宏を破り再選(桜井は比例復活)。

2013年(平成25年)7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙において三重県選挙区選出の現職高橋千秋の選対本部長を務めるが落選、地元三重県において自身の影響力の退潮を暗示する結果となった 。

しかし、2014年(平成26年)の党役員人事の刷新により、代表代行(国政選挙担当)に就任。その後の第47回衆議院議員総選挙で自民党新人候補を比例復活を許さないほどの得票を得て再選を果たした(前回出馬した桜井は比例単独候補となるが落選)。しかし岡田を代表代行に任命した代表海江田万里が、小選挙区で敗れ比例復活もならず落選し辞意を表明したため、新しい代表が決まるまでは党暫定代表に就任する内閣総理大臣指名選挙では枝野幸男幹事長郡司彰参議院議員会長が党代表代行である岡田を首班候補とし、特別国会において投票された。

その後2015年1月民主党代表選挙に出馬。保守系・野党再編派の細野豪志リベラル系の長妻昭との3つ巴となる。1回目の投票では1位の細野と僅差だったが、決選投票では長妻陣営のうち赤松広隆らのグループを中心に取り込みを図り、1位の細野を逆転したことで、9年ぶりに代表に返り咲くこととなった。第18回統一地方選挙三重県議会選挙では民主系会派の新政三重が第1党を維持し(逆に自民党は2議席減らす)、民主党王国の威厳を見せた。一方、知事選では対立候補を擁立できず自民党の現職に不戦敗を喫している。

民進党

2016年(平成28年)3月27日、民主党と維新の党の合同によって民進党が結成、初代の党代表に就任した。

7月11日、党結成後に初めて行われた国政選挙である第24回参議院議員通常選挙後の7月30日に「新しい人に担ってもらうことが、政権交代可能な政治のために良い」として9月末の任期満了に伴う党代表選挙への不出馬を表明。9月15日代表選での蓮舫の2代目代表就任をもって退任。

11月28日、「岡田王国」とし20年間も民主党・民進党市政を継続していた地元の四日市市長選挙において民進党系県議の稲垣昭義を支援したが、自民党市議団支持の森智広に敗れた。三重県の選挙でも2011年(平成23年)の三重県知事選挙での敗北(民主党推薦候補の松田直久が自民党推薦候補の鈴木英敬に敗れた)と 2013年(平成25年)の参議院選挙(民主党現職の高橋千秋が自民党新人候補の吉川有美に敗れた)での敗北 、2015年(平成27年)の三重県知事選挙の不戦敗と自身の影響力に陰りを見せているまた2016年(平成28年)の参議院選挙では民進党の現職芝博一が再選しているがこれは日本共産党が候補を取り下げ統一候補としたことがあり、2010年と2013年、過去二回の選挙における同選挙区での共産党の票数を引くと自民党候補より少ない。

2017年(平成29年)7月21日、蓮舫代表から野田幹事長の後任を打診され固辞したことが複数のメディアで報じられたが、岡田は7月28日付のブログで、事実無根であり確認の取材すら受けていないとしたうえで、「フェイクニュース」と言われても仕方がないと批判した。2017年民進党代表選挙では菅直人有田芳生らとともに枝野幸男の推薦人となった。

10月22日に実施された第48回衆議院議員総選挙では無所属で立候補。応援演説のため選挙区を離れることが多かったが、自民党候補の比例復活を許さないほどの得票差で圧勝し10選を果たした。

無所属の会

10月26日、民進党系無所属議員12人と共に無所属の会の結成を衆院事務局に届け出た。岡田は会派の代表を務める。10月30日に開催された全国幹事会では「民進党がしっかりと真ん中に立って、立憲民主党・希望の党と連携を深めていくことが重要だ」と述べた。

11月8日、無所属の会代表のまま、新たに民進党代表に就任した大塚耕平の元で、前原体制に引き続き常任顧問に就任した。

無所属で孤立無援かというと、さにあらず。「世間が分からないのをいいことに」「実は民進党籍があって、カネをもらっているとは、普通なら口が裂けても言えない」は、元同僚鷲尾英一郎の弁。

政策・主張

外交・国際問題

2010Happy Mail