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岡田彰布とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府大阪市中央区
【生年月日】
(1957-11-25) 1957年11月25日(61歳)
【身長
体重】
175 cm
77 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
二塁手三塁手一塁手外野手
【プロ入り】
1979年 ドラフト1位
【初出場】
1980年4月11日
【最終出場】
1995年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • オリックス・ブルーウェーブ (1996 - 1997)
  • 阪神タイガース (1998 - 2008)
  • オリックス・バファローズ (2010 - 2012)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手(内野手外野手、右投右打)・監督コーチ。現在は野球解説者野球評論家阪神タイガース第30代監督を務めた。

1980年に阪神へ入団。1995年オリックス・ブルーウェーブで現役を引退。その後、オリックス・阪神の二軍監督・コーチ・監督を歴任した。オリックス監督退任後の2013年からはデイリースポーツの野球評論家を務める。また読売テレビ朝日放送東日本放送(本数契約として)の野球解説者も務めている。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 アマチュア時代
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 阪神時代
    • 1.4 オリックス時代
    • 1.5 コーチ時代
    • 1.6 阪神監督時代
    • 1.7 阪神監督退任後
    • 1.8 オリックス監督時代
    • 1.9 オリックス監督退任後
  • 2 監督として
    • 2.1 野球関係者からの評価
  • 3 人物・交友関係
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別監督成績
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 出演番組
    • 5.2 歌
    • 5.3 著書
    • 5.4 CM
  • 6 脚注
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

アマチュア時代

大阪市中央区玉造で町工場を経営していた父親は、阪神の有力後援者で、村山実藤本勝巳ら選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった。また父の会社では草野球チームを結成し、岡田自身も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った。岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという。また岡田は少年時代からタイガースの試合を見に阪神甲子園球場へ出かけることが多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった。

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める。

1973年に北陽高校に進学。1年生時には3年生エース有田二三男を擁し左翼手として活躍。同年夏の甲子園府予選決勝でPL学園から先制2点本塁打を放ち、夏の甲子園に出場を決める。大会では有田が3回戦で高鍋高からノーヒット・ノーランを達成するなど勝ち進む。しかし準々決勝で今治西高に敗退。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。有田以外のチームメートに慶元秀彦がいた。同年の秋季近畿大会では新チームのエースとして準決勝に進み、向陽高に0-1で敗退するが春の選抜出場を決める。しかし不祥事によって出場辞退を余儀なくされた。3年生時の1975年夏もエース、四番打者として府予選決勝に進むが、興國高に惜敗し甲子園出場は果たせなかった。

早稲田大学野球部セレクションを受け、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがオーバーフェンスだったという)という驚異的な打撃をみせて合格した。東京六大学野球リーグでは1年生の1975年秋季リーグから左翼手、七番打者としてレギュラーに抜擢され、法大江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは三塁手に回り五番打者として主軸に定着。3年生時の1978年秋季リーグでは三冠王に輝き、4年振りのリーグ優勝を果たす。1979年春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献した。同年の全日本大学野球選手権でも決勝に進むが中大に敗れ、準優勝に終わる。1978年、1979年の第7.8回日米大学野球選手権大会に出場、四番打者を全試合任されている。大学同期に島貫省一有賀佳弘らがいた。

大学時代の成績と記録は以下の通り。

(打点と打率は東京六大学野球リーグ記録)

なお、大学は4年間で指定取得単位数不足で卒業していないため、正しくは、早稲田大学中退である。 東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は過熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。10月29日のプロ入り表明時に「阪神だったら最高ですが、阪急などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名されたときに考えてみる。しかし、フロントがしっかりし、優勝を争える球団なら行きたい」「巨人西武は優勝も狙えるし、いいですね」 と述べた。もっとも、後年のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている。ドラフトでは在阪4球団を含む6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。契約金6000万円、年俸420万円(推定)。

現役時代

阪神時代

入団1年目の1980年、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えの下、岡田に二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している。当時は三塁に掛布雅之遊撃手真弓明信二塁手中村勝広榊原良行ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという。

1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは、シーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に小津正次郎球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たにブルース・ボウクレア外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している。

この年、オールスターゲームの第1戦において22歳7カ月で代打本塁打を放ったが [2]、これは2015年の第2戦で19歳11カ月だった森友哉が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった。

ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、掛布雅之が故障したことで3塁が最も多く、2塁、1塁でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。

1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を残す。ポジションは2塁に固定された。

1982年安藤統男監督が就任し、初の打率3割を記録した。

1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。岡田が離脱した2塁に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。

1984年、5月19日からスタメンに復帰した。当初2塁を中心にランディ・バースの帰国時などに時折一塁も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手で起用された。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。

1985年吉田義男監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁に戻る。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、「ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏2死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。

1986年は前年と同じく5番2塁で開幕スタメンを迎えるが、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場してホームランを放った。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。

1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。

1988年村山実監督が就任し、開幕時は5番2塁で、5月以降は4番2塁で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。

1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏2死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。

1990年からは八木裕の台頭により、二塁に戻った。1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた。

1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になる。

オリックス時代

1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていたことが明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている。

1994年の春のキャンプ中、オリックスに89年1位で入団しながら伸び悩んだパンチ佐藤フジテレビプロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で、今年復活にかける、と言いましょう!」と力強く誘ったが、岡田は引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がり「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返した。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが、一流選手としてのプライドが高いことで有名な岡田が呆れ返り「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」とあくまで拒否。パンチにとって吉兆とはいえない現役最後のシーズンの始まりであった。オープン戦では打席に立ったときに阪神ファンからも応援される光景が観られた。

1995年、出場機会も減り、10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退した。日本シリーズでの出場機会はなかった。翌1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合となり、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。

現役中はスポーツ用品メーカーであるSSKのアドバイザリースタッフを務めた。

コーチ時代

1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)。2000年にはファーム日本選手権で優勝し、2年連続日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。

2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。走塁コーチとしての状況判断は正確無比であった。

阪神監督時代

2003年オフ、星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ!打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった。久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。

この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。

しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった。

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピック野球日本代表に主力である新井貴浩矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

阪神監督退任後

2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送虎バン」で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。

4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。

評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から「調査委員会」の委員として任命された。通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。

オリックス監督時代

オリックス監督時代
(2011年8月6日 QVCマリンフィールドにて

2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ時代の球団OBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。阪急・オリックス球団におけるOB監督は1980年シーズンの梶本隆夫以来実に30年ぶりである。

2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。

2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちをおさめ、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊アーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた。

2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表。事実上の「解任」となった。

オリックス監督退任後

2013年からは、デイリースポーツの野球評論家に復帰。同紙では1月から、球界の旬の話題などを独特の見解で定義付けるコラム「岡田辞典」の連載を開始した。また、朝日放送読売テレビTigers-aiを中心にプロ野球中継での解説も再開している。また、2017年からは、東日本放送では大学の後輩にあたる江尻慎太郎と共に楽天のホーム&ビジターやスポーツ番組で解説を務めている。

監督として

監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している。

メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている。

阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのか」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった。

選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった。これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。

ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負

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出典:wikipedia
2019/09/22 21:05

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